【矛盾】その”誹謗中傷”は真っ当か?映画『万引き家族』から、日本社会の「善悪の判断基準」を考える

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:リリー・フランキー, 出演:安藤サクラ, 出演:松岡茉優, 出演:樹木希林, 出演:城桧吏, 出演:佐々木みゆ, 出演:池松壮亮, 出演:高良健吾, 出演:池脇千鶴, 監督:是枝裕和, プロデュース:松崎薫, プロデュース:代情明彦, プロデュース:田口聖, Writer:是枝裕和

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 日本の場合、「謝罪」は「もう追及しないで」という意味になる
  • 本当に重要なのは、真相を究明し、再発防止を防ぐことだが、「謝ったからいい」という空気になりがち
  • 善悪の判断を保留し、「0か100か」で物事を捉えない

「善悪」の境界を徹底的に曖昧にして描き出すことで、「善とは?」「悪とは?」を問い直す作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

日本では「善悪」を「国民の気分」が決める。映画『万引き家族』がリアルに突きつけるそんな世界はとても恐ろしい

「謝罪」に意味があると、あなたは感じるだろうか?

以前テレビで、外国のメディアに関わる人たちが日本のメディアのおかしな点を議論する、という内容の番組を見たことがある。そこで取り上げられた「疑問」はどれも、日本人の私にも「奇妙さ」が伝わるものだったが、その中で最も共感したのが「謝罪」に関するものだ。

その番組に出ていた、かつて日本の特派員を務めたというアメリカの記者が、諸外国での「謝罪」の線引きについて語っていた。政治家や企業トップ、著名人などが、「公に向けて謝罪するかどうか」の基準のことだ。その記者は、「被害者が誰なのかで決まる」と言っていた。

例えば、ドイツの自動車会社が行った不正は、「環境」や「不特定多数の人々」が被害者であり、だから当然、「公の謝罪は必要」という判断になる。つまり、「特定の個人」への影響のみなら「公の謝罪は不要」というわけだ。

しかし日本では、不倫の場合も「公の謝罪」を求められる。不倫は、被害者が「特定の個人」なのだから、世間ではなくその個人に謝れば充分だと、番組に出ていた他の外国人記者も皆口にしていた。

私も、その意見に賛同だ。同じような感覚を抱く人はきっと多いだろう。不倫についての謝罪会見をテレビで見る度、一体これにどんな意味があるのだろうかと感じてしまう

しかし、「不倫の場合も公の謝罪をするのが当たり前」の日本では、多数派の人たちがそれを望んでいる、ということなのだろうと思う。

その番組では、なるほどという指摘もなされていた。諸外国における「謝罪」は、「今後も追及を受けること」を意味するという。しかし日本の場合は、「今後は追及しないでくれ」という意味になるという指摘だ。となれば、「謝罪」を望んでいるのは世間ではなく、謝罪する本人なのだろうか。

しかし、仮に当事者が世間に対する謝罪を望んでいたとしても、世間がそんなものを望んでいなければ成立するはずがない。だから世間もやはり、謝罪を望んでいると考えるしかないのだろう。

善悪は「国民の気分」次第

「謝罪」が持つ意味について、もう少し考えてみよう。

諸外国での「謝罪」は、「今後も追及を受けること」を意味すると先述した。つまりこれは、「『悪』であると確定させるプロセスが謝罪である」と捉えられるだろう。

しかし日本の場合、なんとなくだが、「謝罪したんだからいいよね」という雰囲気が生まれやすい。謝罪が火に油を注ぎ炎上を引き起こすこともあるが、日本では「謝罪をしたという事実」を「善悪の判断」に含める傾向にあると思う。つまり、「確かに悪いが、謝ったんだからもういいじゃないか」と判断するという意味で、「『善』であると確定させるプロセスが謝罪である」と捉えてもいいのかもしれない。

そして私は、このような考え方をとても怖いと感じる。日本における「善悪」は、「国民が『謝罪』を受け入れるかどうかの気分」でその大部分が決まってしまうというわけだ。

不倫の話などどうでもいいが、この「『善』であると確定させるプロセスが謝罪である」という日本の雰囲気は、政治や企業の問題にも現れると私は思っている。

本来であれば、原因を究明し、責任の所在をはっきりさせ、二度と同じことを起こさないための対策を行って初めて「善」と判断されるべきだろう。諸外国の「今後も追及を受けること」というスタンスはまさにそのような背景あってのことだと思う。

しかし日本では、「同じ過ちを繰り返さない」ための議論よりもまず「謝罪したかどうか」が問われ、さらに、「謝罪したという事実」によって、「同じ過ちを繰り返さない」ための議論が置き去りにされてしまうことになる。

つまり、「国民の気分」によって「善悪」が決することで問題が改善されないまま放置されてしまい、また同じことが繰り返される可能性が残り続けることになるのだ。

もちろん、日本人は概ね真面目で、謝罪や国民の気分などには関係なく、問題をすぐに改善しようとする人の方が多いだろう。そういう国民性だからこそ、「謝罪」の持つ意味がおかしくても、社会はなんとなく成り立っていくのだと思う。しかしすべての人が誠実なわけではない。原理的には、「謝ればいいんだろ」と開き直ってしまえばなんだって押し通せてしまう仕組みなのだ。

真相究明を求める気分が薄い社会は、とても怖い

私は、オウム真理教の事件をリアルタイムで経験した。しかもオウム真理教の拠点の1つだった上九一色村の結構近くに住んでいたことも無関係ではないだろう、あの当時の報道の異様さは今でも覚えている。それ以降では、9.11同時多発テロか東日本大震災ぐらいでしか感じたことがないくらい、連日マスコミのトップニュースで扱われる大事件だった。

しかし結局、事件の詳細は不明なままだ。オウム真理教が何故あれほどの事件を計画・実行し、誰がどのような役割・指示で動いていたのかなど、詳しいことは明らかにされないまま、麻原彰晃とその幹部らが死刑に処されてしまった。

もちろん、麻原彰晃が何も語らなかったのだから、真相究明は不可能だったと言えばその通りである。しかし、上の記事を読んでもらえれば分かるが、麻原彰晃の裁判は「異常な形」で進行した。「真相究明」を望んでいるとはとても思えない裁判だったのだ。しかもその事実はマスコミでは報じられなかったので、そんな状態であることを私たちはまったく知らずにいる。「真相究明はともかく謝罪を、そして死刑を」という形での社会の「無関心」が背景にあるのだろうし、そのために真相究明に至らなかったと言っていいかもしれない。

「謝罪があればいい」という気分は、必然的に真相究明への意識を薄れさせるだろう。そして、そういう意識を普段から持たなくなることで、謝罪があるかどうかに関係なく、真相究明を望む雰囲気は消えていってしまう。

私はこんな風に、「国民の気分」が「善悪」を決する社会を”怖い”と感じるのだ。

本来的には諸外国と同様、「謝罪」は「真相究明を目指すという決意表明」でなければならないと思う。しかし日本では、「真相究明はしないかもしれないけれど、謝るんだから許して」というメッセージとしてしか機能しない。そして、そんな状態のまま社会は進んでいくというわけだ。

そういう社会は、すこぶる気持ち悪いと感じてしまう

『万引き家族』の”家族”を、「国民の気分」はどう判断するか?

『万引き家族』では、ある”家族”が登場する。この”家族”の秘密については、一応触れないでおこう。有名な作品なので、観ていない人でも設定ぐらいは知っているかもしれないが、この記事では伏せることにする。

とりあえずここでは、「この”家族”は『法に抵触する行為』をしている」とだけ書いておこう。

さて、誤解されたくないので先に書いておくが、私は、どんな理由があるとしても、法を犯した者は法の定める通りに処罰されるべきだ、と考えている。これは善悪の判断とは関係がない。例えば、「人助けのためにやむを得ず法を犯した者」を私は「善」と判断するが、しかし一方で、処罰は受けなければならないとも考える。そうでなければ「法治国家」は成り立たないからだ。これが私の大前提である。

だから、この”家族”は処罰されなければならない

しかし同時に、「善」だとも思う。そう思いたい。彼らは、生きるために仕方なく、あるいは、誰かを助けるためにやむを得ず法を犯す。彼らは確かに法を破っているのだが、しかしその行為によって、確実に救われる人がいるというわけだ。

社会は、弱者には優しくない。そして、そんな優しくない社会でどうにか生き延びるために、日々ギリギリの決断を迫られる人がいるのである。

さて、そんな”家族”の振る舞いは、「国民の気分」によってどんな風に判断されてしまうのか。この点は映画の見どころの1つだ。

一方、この映画にはある”夫婦”が登場する。この”夫婦”についても詳しい記述は避けるが、観客目線は彼らは「悪」でしかない。しかしそれは世間には知られておらず、逆に世間はこの”夫婦”を「被害者」だと考えている

この”夫婦”の「悪」は恐らく、何らかの法に触れるものではない。しかしこの”夫婦”の振る舞いは自分勝手でしかなく、誰かを救うようなものではない。詳しく描かれないので憶測でしかないが、「生き延びるためのギリギリの判断」でもないだろう。

恐らくだが、この映画を観た者の多くは、法に触れている”家族”より、法に触れていない”夫婦”の方が「悪」だと判断するのではないかと思う。

しかし、この”家族”と”夫婦”を取り巻く状況を報道だけで知った場合、捉え方は一変するはずだ。間違いなく、”夫婦”より”家族”の方が「悪」だと判断される。もちろん法に触れているのだから、”家族”は処罰されなければならない。しかし、「善悪」を決めるとすれば、明らかに”夫婦”の方が「悪」のはずだ。

登場人物たちは、観客と同等の情報を得られない。だから仕方ないことだとはいえ、「国民の気分」が”家族”を判断する現実には憤りを感じてしまう

「善悪の判断を保留する勇気」を持つべき

勝手な印象だが、世の中の多くの人は、「0か100か」「白か黒か」など物事の決着をはっきりと付けたがるように思う。そして、世の中の大体の事柄でその区別が容易にできると考えているようにも感じられる。例えば、何かの安全性について「100%安全だと言えるんですか?」と詰め寄る人を目にすると驚いてしまう。「100%安全」なんて状態、存在するはずがないのに、何を言っているのだろう、としか感じない。

私が怖いなと感じるのは、「100でないなら0」「白でないなら黒」みたいな判断だ。どうして、その中間は存在しないと考えるのだろう。「100ではない」としても、「40」や「90」かもしれない。しかし「100ではない」イコール「0」であるかのようなスタンスには驚かされてしまう。

善悪の判断にしても同じだ。

この映画は、善悪の境界を徹底的に曖昧にする。「善でなければ悪」という判断しかできない人には、この作品の「善悪」の捉え方に悩むだろう。

この映画から、「報道で接すれば明らかに『悪』としか判断できない事柄も、『善』と判断しうる可能性」が示唆される。つまり、「私たちが普段報道などで知る『悪』にも、『善』的な傾向があるのかもしれない」という見方を獲得できるということだ。そんな視点を持つことで、「善悪の判断」の仕方は変わっていくだろう

大事なことは、「善悪の判断を保留する勇気を持つこと」だと思う。

私たちは普段、条件反射的に善悪を判断してしまう。目立つ分かりやすい情報だけで、物事の善し悪しを捉えてしまう機会は多いはずだ。

しかし『万引き家族』は、「悪」にしか見えないものが「善」でありうる可能性を示している。だからこそ私たちは、「判断を保留する勇気」を持たなければならないのだと思う。

どんな出来事にも、そういう事態に至った理由・理屈が存在する。そしてそれらは、簡単には理解できないものが多いはずだ。多くの人が「判断を保留する」ことで、見えにくいそれら理由・理屈が可視化されやすくなるかもしれないし、それらが見えることで法を犯す必然性に迫られる人が減るかもしれない。

そういう社会になってほしいと、私は願っている

映画『万引き家族』の内容紹介

”父”・治と”息子”・祥太はいつも、協力して万引きをしている。ある日いつもの”仕事”を終えて家路につく途中、団地の廊下で震えている女の子を発見した。「コロッケ食べる?」と尋ねてから、彼らはその子を家まで連れて帰る。”母”・信代に、「それ食べさせたら返してきなよ」と言われ、ゆりと名乗る5歳の少女を団地まで送り届けようとした。しかし、その子の家と思しき部屋から、「私だって産みたくて産んだんじゃない」と大喧嘩しているのが聞こえてきたのだ。

彼らはそのまま、ゆりを連れて帰った

”祖母”・初枝は年金暮らしで、そんな初枝を慕っている”孫娘”の亜紀は風俗店で働いている。治は日雇いで建設現場の作業員として働き、信代は工場でアイロンがけの仕事をしてなんとか生計を立てていた。学校に通えない祥太と、あの日から一緒に暮らしているゆりは、日中はずっと外で遊んでいる。

彼らはこれからも、それまでと変わらない生活が続くと疑いもしていなかった。しかし、テレビであるニュースが流れることで状況が変わる。ゆりが行方不明だと報じられていたのだ。しかし、ゆりに「家に帰るか?」と聞いても、うんと言わない。そこで彼らはゆりの名前を「りん」に変え、髪を短く切って分からないようにした。

そうやって彼らは、穏やかな生活を続けていくはずだった……。

映画『万引き家族』の感想

是枝裕和の作品は、好きだなと感じるものが多い。すべてを観ているわけではないが、ストーリーらしいストーリーがあるようには思えない、役者が演技をしているんだかしていないんだかよく分からない、どこかの誰かの日常をカメラで切り取っているかのような雰囲気が素敵だと感じる。

『万引き家族』も、冒頭でゆりを”誘拐”する場面を除けば、物語らしい展開はほとんどないと言っていい。それなのに、ずっと観させられてしまう作品だ。その理由はやはり、家族であって家族ではない、彼らの奇妙な関係性にあるのだろう。その関係性は物語の展開に合わせて少しずつ明らかになっていく。しかし状況が把握できない段階からもじわじわと違和感が染み出すので、「なんだか分からない雰囲気」と「圧倒的な日常感」のミスマッチに惹きつけられるのだろうと思う。

私は元々、「家族」というものに強い思い入れがないし、「血が繋がっているかどうか」なんて本当にどうでもいいと思っている。一般的に割と共有されているだろう「家族に対する幻想」もほとんど持っていない。だから、この映画で描かれる“家族”にもそもそも違和感がないし、むしろ、血が繋がらないけど一緒にいられる関係性がもっと当たり前になっていってもいいんじゃないかとさえ思っている。

もちろん冒頭で書いた通り、彼らは明らかに法を犯しているわけで、処罰は免れない。しかし、彼らはそんな風にしか生きられないのだ。さらに言えば、「そんな風にしか生きられない社会をみんなで作り出している」わけで、「法を犯しているから悪い」と一方的に断罪していいのかは疑問に感じる。

この映画を観て、それでもこの”家族”を「悪」だと断罪できるという人は、きっと幸せに生きてこられた人なのだろうと思う。その幸せを噛み締めつつ、辛く厳しい生き方しかできない人も出てきてしまう社会なのだという事実に、少し思いを馳せてくれたら嬉しい。

出演:リリー・フランキー, 出演:安藤サクラ, 出演:松岡茉優, 出演:樹木希林, 出演:城桧吏, 出演:佐々木みゆ, 出演:池松壮亮, 出演:高良健吾, 出演:池脇千鶴, 監督:是枝裕和, プロデュース:松崎薫, プロデュース:代情明彦, プロデュース:田口聖, Writer:是枝裕和

最後に

世の中をどう捉えるか、善悪をどう判断するか、全員が幸福にはなれない社会でどう生きていくか。一筋縄ではいかない様々な問いをぶつけられる、曖昧で複雑で穏やかな物語だと感じた。

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