【想像力】「知らなかったから仕方ない」で済ませていいのか?第二の「光州事件」は今もどこかで起きている:『タクシー運転手 約束は海を越えて』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ソン・ガンホ, 出演:トーマス・クレッチマン, 出演:ユ・ヘジン, 出演:リュ・ジュンヨル, Writer:オム・ユナ, 監督:チャン・フン

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 「知りたくないことは知らないままでいよう」が通用してしまう世の中
  • 「情報が発信される可能性」は格段に高まったが、「情報が受信される可能性」は著しく低下した
  • 知らなければ、想像することもできない

実話を元にした映画であり、この映画をきっかけに「モデルとなったタクシー運転手の素性」が判明したというエピソードも興味深い

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

今もたぶん、世界のどこかで、私たちが知らない「光州事件」が起きている

意識しなければ、私たちは何も知ることができない世界に生きている

僕たちは、大変ありがたい世界に生きている。いつどこにいても、自分の手元にある小さな機械から様々な情報を入手できるのだ。行ったことがない国にも友人を作れるし、誰でも自分の伝えたいことを発信することができる。そして私たちは、そんな膨大な情報に溢れた社会を生きているわけだ。

素晴らしいではないか

しかし当たり前だが、どれだけ情報が指数関数的に増加しようとも、人間の脳の処理速度が同じ用に上がるわけではない。「情報の深さ」や「理解度」などは一旦無視して、単純に「触れた情報の量」だけを比較すれば、間違いなく一昔前よりいだろう。しかしそれは決して、情報の急激な増大に対応できるくらいに人間の脳が進化したことを意味するわけではない。

情報が多すぎる社会を生きる私たちは、「何か理由をつけて、自分が触れる情報を制約しなければならない」のである。

もちろん、一昔前だって、その当時存在していたすべての情報に触れられるほど時間と能力があったわけがない。どの時代であっても、人間は何らかの基準で情報を取捨選択しているはずだ

しかし、今ほど情報が多くなかった時代にはまだ、「興味がある情報」だけでなく「人として知っておくべき情報」に触れるというスタンスが残っていたように思う。いわゆる「教養」というやつだ。しかし現代では、とてもそんな余裕などない。自分が興味を持っている情報だけでも、溢れんばかりに存在するのだ。

では、「興味がある」というフィルターですら情報を選別しきれなくなった私たちは、どんな風に情報と接するようになったのか

たぶん多くの人が、「心地いいかどうか」で判断しているではないかと思う。つまり、「興味がある情報」の中からさらに「心地いい情報」だけを選んで取り入れているというわけだ。

もう少し平たく言えば、「知りたくない情報は知らないままでいよう」というスタンスが当たり前になってしまったということだと思う。

さらに現代に特有な点は、「誰もがまったく違う情報に触れている」と皆が諒解しているがゆえに、「『知らないこと』を恥ずかしいと思う機会がない」ということだ。今の時代、学校で習うことを除けば、「これぐらい知ってて当然」と言える知識はほとんど存在しないと言っていいと思う。これはジェネレーションギャップの問題ではなく、同世代間でも起こる。だから、私たちが生きる社会では、「そんなことも知らないの」という言葉が、未知の情報に触れる動機として機能しないのだ。

そしてそんな社会だからこそ、「知りたくない情報は知らないままでいよう」というスタンスはより強固になってしまうだろう。「知らなかったら恥ずかしい」という感覚がなければ、頑張って知ろうとは思わない

私たちはこのような世界に生きている、つまり、情報を排除しようと強く意識していなくても、結果的に自分の元に届く情報はかなり制約されているという現実を、まず理解しなければならないだろうと思う。

世界で何が起こっているのかを、私たちはどうやって知ればいいのだろうか?

私は、紙でも電子でも新聞を読まない。読んだ方がいいよな、という気持ちは頭の片隅にずっとあるのだが、やはりなかなか読む気になれないでいる。私はノンフィクションやドキュメンタリーが好きなので、新聞に書かれている内容もきっと興味深く読めるはずなのだが、どうにも手が伸びないままだ。

テレビのニュースは見る。ワイドショーから報道番組まで色々だが、基本的に世の中で起こっている出来事はテレビのニュースで得ていると言っていい。「何が起こっているのか」という表層の事実を追う分にはテレビが一番情報を掴みやすいと思うし、ネットとは違い、ある程度「多数派」に向けた放送をせざるを得ないからこそ、「これぐらいは知っておくべき」という情報がざっと得られる、という感覚もある。

ただもちろん、それでいいとは思っていない。テレビでは、CMを流している企業の悪い話題にはなかなか触れにくいだろうし、「多数派」が興味を持たないだろうと判断される情報も流れないからだ。また最近の日本のマスコミは、政権の顔色を伺う姿勢が強くなっているという話も聞く。テレビのニュースには様々な「忖度」があると理解しているつもりだ。

しかしこれは、新聞でもネットでも実は同じだ。個人や独立系の組織であれば、スポンサーやどこかからの圧力などに関係なく事実を追えるかもしれないが、一方で小規模にならざるを得ず、それ故にできないことも多いだろう。そして組織が大きくなればなるほど、やはりスポンサーとの関係や忖度などと無縁ではいられなくなる。

また問題は報じる側だけにあるわけでもない

数年前、当時25歳ぐらいの友人女性と話していて非常に驚いたことがある。「伊藤詩織」という名前を聞いたことがないし、何故その人が話題になっているのかも知らない、というのだ。この発言には衝撃を受けた。

伊藤詩織さんは、実名・顔出しではなかなか訴えにくい性犯罪に真っ向から立ち向かい、日本における「MeToo運動」のきっかけとなった人だ。もちろんテレビや新聞でも報じられたが、恐らく彼女の名前はネットの方でより拡散されただろうと思う。私はそこまで熱心にネットを見るタイプではないので詳しくは分からないが、SNS周辺で大きく話題になった事件だと私は思っている。

その友人女性も当然、一般的なSNSはやっているのだが、それでも「伊藤詩織」の名前を知らないと言っていて驚かされた。伊藤詩織さんの事件はまさにその友人女性くらいの年齢の女性が関心を持たなければならないものだと思う。しかし、マスコミやネットでどれだけ盛り上がっているように思えても、最もその情報が届くべき人のところにかすりもしなかったわけだし、その事実に衝撃を受けた。

もしまた「光州事件」のようなことが起こったとして、こんな世界に生きる私たちは、その現実を知ることができるだろうか? 無理なのではないかと感じてしまう。

今も、世界のどこかで「光州事件」のようなことが起こっていてもおかしくはない

確かに、SNSは状況を大きく変えた。いわゆる「アラブの春」は、スマホが普及したことで起こった革命だという話を聞いたことがある。内戦が続くシリアで、悲惨な現状をツイッターで発信し続けた7歳の少女が話題にもなった。

確かに、「光州事件」が起こった時代より、「情報が発信される可能性」は格段に高まったといえるだろう。

では、「情報が受信される可能性」はどうだろう? 今まさに、世界のどこかで「光州事件」のようなことが起こり、誰かがそれをリアルタイムに発信し続けているとして、それが誰かの目に留まる可能性はどのくらいあるのだろう?

私は恐らく、テレビが取り上げなければ目にすることはないだろう。ヤフーニュースに載れば、概要ぐらいは視界に入るかもしれない。

きっと多くの人が、私と大差ない状況にいると思う。私たちが生きているのは、そんな世界なのだ。

「情報が多いこと」は決して、「知る機会が増えること」を意味しない。むしろ、減る可能性さえあるというわけだ。その怖さを、私はいつも感じながら情報と接している。

知らなければ、想像することもできない

知らないことの怖さは、想像が及ばなくなることだと思う。

何か「良くないこと」が起こると、みんなが一斉に批判する。確かにそれは誰かが責を負うべき事態なのだろう。しかし、状況を知らない人間が無遠慮に行う批判ほど無意味なものはないと私はいつも思っている。

それがどんな「悪」であれ、そこに行き着いてしまうまでには大体何らかの「理由」があるはずだ。理由があれば許されるべきだなどと言いたいわけではないが、理由を知らずに批判することは愚かでしかないと思う。

映画『万引き家族』では、「明らかに法を犯している”家族”」が登場する。その”家族”についてニュースなどで報じられる情報は表面上のものでしかなく、その背景には深入りされない。繰り返すが、どんな事情があるにせよ、彼らは法の定める罰を受けるべきだ。しかし、事情も知らないのに批判する人間が常に湧いて出てくる現実には苛立ちを覚えてしまう

結局、条件反射のように批判する人間は、想像力が欠けているとしか言いようがないと私は思っている。

知ることは、想像のための第一歩だ。現実でも物語でもなんでもいいが、「自分の頭の中からは出てこない発想・価値観・感情」に触れることで、現実の見方が変わる。自分が「当たり前」だと思っているだけでは捉えきれない現実が世の中には山ほどあるし、それらの現実を拒絶するとしても、「自分には理解し難い現実が存在する」という事実だけは受け入れざるを得ないだろう。

そして、「心地いい情報」だけに触れていればいるほど、このような発想からはどうしても遠ざかってしまうことになる。

だから私たちは、無理矢理にでも「知りたくないことを知ろうとする意識」を持って生きなければならない。そうしなければ、私たちはどんどんと想像力を無くしてしまうことになるからだ。想像力を失ったゾンビのような人間ばかりで埋め尽くされる社会は、悲惨でしかないだろう。

この映画では「光州事件」が扱われている。もちろん、「光州事件」がどのような出来事だったのかを知ることも大事だ。しかしそれ以上に、「今も世界のどこかで、第2の『光州事件』が起こっているかもしれない」と想像することの方が大事だろうし、「もしそうだとしたら自分には何ができるだろうか」と考えることの方が遥かに重要だと思う。

世の中の今の大きな流れは、私たち自身が意識的に立ち止まらなければ減速さえ望めない。つまり、私たちの行動が問われているということだ。

映画の内容紹介

実在のタクシー運転手をモデルにした映画である

ソウル市内でタクシー運転手として働く男は、一人娘ウンジョンを男手一つで育てている。基本的には陽気で楽天的な男なのだが、ひとり親のために娘に苦労を掛けていたり、家賃を滞納し続けている状況はマズいと思っている。払えていない家賃は10万ウォン。せめてこれぐらいはきちんと払わなければ。

そんなタイミングで、絶好の話を耳にする。あるタクシー運転手が外国人客の話をしていたのだが、なんでも光州まで乗せて帰ってくれば10万ウォン払うらしいのだ。これは聞き捨てならないと行動を起こした彼はなんとそのドイツ人客を横取りすることに成功した。そして、片言の英語を駆使して、ピーターというその男を乗せて光州へと向かう。

しかし、光州への道には、なんと軍が待ち構えていた。理由は分からないが、通行止めなのだという。しかし男は、なんとか10万ウォンを手に入れるため、口八丁手八丁で兵士をごまかし、どうにか光州へとたどり着いた。

そしてそこで恐るべき光景を目にする。道路にはゴミが散乱し、街中はスプレーで書かれた物々しい標語で溢れていたのだ。何が起こっているのか……。そしてピーター氏は、英語を話せる学生を通訳にして光州の街を撮影し始めた。彼はここでようやく、そのドイツ人が記者だと知ったのだ。

彼らの前にあったのは地獄絵図だった。軍が市民に対して暴虐の限りを尽くし、ためらいもなく銃を撃っている。男の脳裏に娘の顔が過ぎった。なんとかここから無事に脱出しなくては……。

映画の感想

正直私は、この映画を観るまで「光州事件」の存在さえ知らなかったと思う。民主化運動を軍が武力で鎮圧するという悲惨な事件であり、もしかしたらこのピーター氏(これは映画の中での名前であり、実際は「ヒンツペーター」だそうだ)が光州入りを果たさなければ、世界が「光州事件」の存在を知ることはなかったかもしれない。

そして、そんな外国人記者を光州まで送り届けたタクシー運転手が実際に存在し、その事実を元にして作られたのがこの映画なのだ。

この映画が公開された時点では、このタクシー運転手についてほとんど情報が存在しなかったという。ヒンツペーター氏も、このタクシー運転手を探そうと八方手を尽くしたが見つからず、結局再会できないまま亡くなったそうだ。映画の最後には、ヒンツペーター氏のインタビュー映像が流れ、再会できなかった無念さについて語っていた。

というわけでこの映画は、「韓国語がほとんど分からないヒンツペーター氏の証言」がベースになっている作品であり、「ヒンツペーター氏が見聞きしたこと以外はフィクション」と考えるのが妥当だろう

実は、この映画が公開されたことで、ヒンツペーター氏を光州まで連れて行ったタクシー運転手が誰なのか明らかになったという。詳しくは以下の記事を読んでみてほしい。

「光州事件」というあまりにも悲惨な現実をテーマにした作品だが、映画自体は非常に”楽しく”展開していく。タクシー運転手役を演じたのは、韓国映画を観るとだいたい出てくる、あの『パラサイト』にも出演していたソン・ガンホであり、彼が非常にコミカルな演技で物語を展開させるのだ。

だからこそ後半の「光州事件」が描かれる場面との落差が印象的だった。

「光州事件」の描写が始まってからは、画面を観ながらずっと祈っていたように思う。正義のために闘った者が無事でいてほしい。時の政権が目を覚まし過ちを認めてほしい。こんな酷い現実が起こらない世の中であってほしい。そんな風に願っていたはずだ。

さらに、ピーター氏とタクシー運転手は無事光州から脱出してくれ、とも願っていた。もちろん、こんな映画が作られるくらいだ、実際に彼らは光州を脱出し、ピーター氏は貴重なフィルムを持って韓国を出国できているはずだ。そうでないはずがない。しかしそれでも、祈らずにはいられなかった。それほどに酷い現実なのだ。

映画を観ながら、「自分はちゃんと『真っ当』でいられるだろうか」と考えさせられた

市民を銃撃する兵士も人間だ。彼らは、軍の命令を受けて市民に発砲している。彼らにとってはそれが「成すべき役割」なのだ。

兵士と市民、どちらが正しいか考えるまでもないとは思う。しかしじゃあ、私が兵士側に立っているとして「自分は間違っている」と考えて銃撃を止められるかと言えば、自信を持って断言はできない。兵士たちにも家族がいるなら、生活を守らなければならないだろう。あるいは本気で、民主化を防いで現政権の体制を維持すべきだと考えているのかもしれない。いずれにしても、彼らにも彼らなりの理屈があり、同じ状況に立たされた時に自分が彼らとは違う行動を取れるかは確信が持てない。

だから私は、こういう事実を知ってあらかじめ想像しておきたいと思う。自分がきちんと「真っ当」な側にいられるように。

出演:ソン・ガンホ, 出演:トーマス・クレッチマン, 出演:ユ・ヘジン, 出演:リュ・ジュンヨル, Writer:オム・ユナ, 監督:チャン・フン

最後に

「知らないこと/気づかないこと」が「恥ずかしいことではない社会」の中で「真っ当さ」を保つためには、自分で自分を「恥ずかしい」と思うしかないだろう。

知らないこと、気づかないことは恥ずかしい。自分自身にも、常にそう言い聞かせたいと思っている。

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