【狂気】入管の収容所を隠し撮りした映画『牛久』は、日本の難民受け入れ問題を抉るドキュメンタリー

目次

はじめに

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この記事の3つの要点

  • 映画『東京クルド』で描かれる現実も衝撃的だったが、本作『牛久』で映し出される現実はさらに凄まじかった
  • 映像から伝わる酷さで言えば、本作監督が撮影したもの以上に、看守が撮影した映像こそが最悪だった
  • 収容施設から仮放免されても働くことが”禁じられている”彼らは、一体どう生きればいいというのだろうか?

G7サミットで「難民を受け入れる」という合意に署名している日本の振る舞いは、あまりにも酷すぎる

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

日本の入管は酷すぎる。その実態を隠し撮りした映画『牛久』は、日本の難民受け入れ問題を改めて再認識させる衝撃作だ

映画『東京クルド』で描かれる現実も酷かったが、映画『牛久』はもっと酷い

私は、映画『東京クルド』を観るまでは正直、「日本に暮らす難民」が置かれている状況についてまったく何も知らなかった。本当に初めてその実態を知り、あまりにも驚愕させられてしまったのである。日本はとんでもなく「イカれた国」なのだと、否応なしに理解させられる作品だった。映画『東京クルド』も、是非多くの人に観てもらいたい作品だ。

さて、映画『東京クルド』と本作『牛久』は、どちらも「難民」を扱う作品だが、描かれている現実はまったく異なる。まずはその辺りの話から始めようと思う。

映画『東京クルド』では、難民2世の若者2人がメインで映し出される。彼らは、幼い頃に両親と共に難民として日本にやってきた。つまり、「ほぼ日本で生まれ育った」と言ってもいいぐらいの生い立ちなのである。彼らは共に日本語がペラペラで、正直なところ、「言葉遣いが適当な日本の若者」と比べれば、圧倒的に正確な日本語を使えていると思う。小学校から日本の学校に通っているのだから、まあ当然と言えば当然だろう。生まれた国こそ確かに別の国だが、彼らにとってそこは単に「母国」でしかなく、「故郷」とは思えない場所だ。2人には、日本こそが「故郷」なのである。

しかしそんな彼らは、難民申請が通らない限り「仮放免」という状態にあり、就労さえ認められていないそんな若者たちが日本でどのように生活しているのかを追うドキュメンタリーが映画『東京クルド』である。

では、「仮放免」とは一体何なのか。この点を理解するためにはまず、日本に難民としてやってきた者がどのように扱われるのかを理解する必要がある。

日本にやってきた時点では、日本はまだ彼らのことを「難民」とは認定していないため、彼らの立場はあくまでも「難民申請を待つ者」でしかない。当然、「難民と認定されていない者」には「日本で生活する権利」が制約されることになる。そしてその制約の1つが「入管の収容施設への収容」というわけだ。要するに、「あなたはまだ申請者でしかないのだから、難民として認定されるまではこの収容施設に入っていて下さいね」という話であり、そして、この「収容施設」から「仮に放免されている状態」が「仮放免」である。イメージとしては、「刑務所からの仮釈放」みたいな感じでいいと思う。「本来は収容施設にいなければならないが、一時的に施設から出している」という状態なのである。

つまり、「仮放免」の状態では「日本で生活する真っ当な権利を持っていない」ということになり、だからこそ就労も禁止されているというわけだ。「そんな状態で一体どんな風に暮らしているのか?」を追うドキュメンタリーが映画『東京クルド』なのである。この映画は本当に、是非観てほしい作品だ。

一方、「収容施設」は申請者で溢れ返っている。その理由は実にシンプルだ。「日本が難民をほとんど認定しないから」である。具体的な数字は以下にリンクしたサイトを見てほしいが、他の先進国と比べると、認定数では100倍から200倍、認定率でも10倍ぐらいの差があることが分かるだろう。日本はとにかく、「異常なぐらい難民認定をしない国」なのである。

こうして、「難民申請を待つ者」はどんどんと増える一方で、「難民認定される者」が少ないため、「収容施設」は常に一杯ということになるわけだ。

さてここで、私の立場を明らかにしておこう。まず、「国が難民を受け入れるか否か」はその国の自由であり、「単に『難民を受け入れていない』というだけで非難するのは正しくない」と思っている。私は、個人的には「どの国も難民を受け入れるべきだ」と考えているが、国家としてその考えに賛同しない国があるのも当然だと思っているし、自分が住む日本がそういう決断をしているのであればそれも仕方ない、というのが私のスタンスだ。

ただ、映画『牛久』では、「日本が世界に『難民を助けるつもりがある』とアピールしている証拠」が提示されていた。G7伊勢志摩サミットにおける各国の合意文書からの抜粋と思われる文章が作中で引用されていたのだ。そこに書かれていた内容を要約すると、「難民を率先して助けます」となる。つまり日本は、G7各国とのそのような合意を結んだ国というわけだ。

日本が世界に向けて、「我が国は難民を受け入れるつもりがない」と主張しているのなら、百歩譲って許容できるだろうと思う。しかし日本は現状、「我が国は難民を受け入れるつもりがある」と言っているのだ。にも拘わらず、他の先進国とは比較にならないほどの受け入れしか実現していないのは、マジでクソだなと感じる。

日本が世界に向けて「難民の受け入れなどしない」と宣言しているのであれば、現状を許容する余地も生まれ得るだろう。しかし、少なくとも今のところは「難民を受け入れる」と主張しているわけで、そうであれば日本の難民が置かれている現状を許容するつもりはない。これが私の基本的な考えである。

収容者が訴える、あまりにも辛い現実

本作『牛久』は、茨城県牛久市にある入管の施設に収容された者たちを映し出す作品だ。その撮影手法はなかなかに驚くべきものなのだが、その点に触れる前にまず、彼らの「言葉」を届けておこうと思う。彼らが語る話には「日本」に対する痛烈な”皮肉”も多く、日本人なら心が痛むはずだ。

「日本はおもてなしの国」だなんてよく言うよな。これがおもてなしか?

東京オリンピックが延期になったそうだね。嬉しい。正義が金メダルを獲ったような気がするよ。

ただ、彼らは決して「日本という国」そのものを嫌悪しているのではない。もちろん、全収容者がそのような感覚なのかは分からないが、本作に登場する収容者の1人は明確に、「これは日本の問題ではなく、入管の問題だ」と断言していた。その理由については次のように語っている。

日本の人々には、この問題は知られていないから。

この言葉もまた、善良な日本人の心に突き刺さるものではないかと思う。

そして、そんな彼らの訴えの中で、私が最も辛く感じたのが次の言葉である。

私は、日本のことをほとんど知らずに来た。
日本でこんなに苦しむと分かっていたら、母国で死んだ方がマシだったかもしれない。

これは本当に、あまりにも悲痛な叫びだと感じた。正直、壮絶すぎる現実に絶句するしかないと感じさせられる。そして我々は、「『母国で死んだ方がマシだったかもしれない』と思わせている背景に、『我々の無知』も関係している」と自覚しなければならないのだ。

そんな彼らの言葉は、収容所の外には普通届かない。だから「我々がこのような事実を知らずにいる」ということにもなるわけだが、では監督はどのようにして「収容施設内の声」を外部に”持ち出した”のだろうか

「隠し撮りされた映像」を元に作られた映画

入管の収容施設は外部からの面会を受け付けているが、面会時にはスマホやカメラの持ち込みが一切禁止されている。つまり、内部の撮影はまったく許されていないということだ。

しかし、映画『牛久』では収容者の声を拾っている。声だけではない。収容者がモザイク無しで顔出しし、ほぼ全員が実名のまま登場するのだ。一体、そんな映画が何故撮れたのか

もちろん「隠し撮り」である。監督がどのようにして持ち物検査などのチェックを逃れたのかは不明だが、カメラの持ち込みが禁止されている面会室にどうにかしてカメラを入れ、収容者たちの許可を得た上で、彼らの様子を撮影しているのだ。これだけでも、かなり凄まじい映画だということが分かるだろう。

さて、当然のことながら、顔出しでカメラに映る収容者には大きなリスクがある。本作が公開された後、彼らが具体的にどんな不利益を被ったのかは分からないのだが、作中で示唆されるエピソードからも、その危うさが想像できるのではないかと思う。

例えば本作中には頻繁に「ハンスト」という言葉が出てくる。「ハンガーストライキ」の略であり、要するに「何も食べないことで抵抗の意思を示す行為」だ。そして収容施設では、「ハンストすることで、2週間の仮放免を得る」という手段が常態化しているのだという。

しかし、そのハンストはまさに「命がけ」だ。中には、80日間もハンストを続けてようやく2週間の仮放免が得られた者もいるという。収容者たちは、仮にハンストによって体調を大きく崩しても医者に診てもらえず、仮に診てもらえたとしても「ゴミみたいな扱い」を受けると言っていた。

映画『東京クルド』でも、「収容者が呼んだ救急車が、入管職員によって2度も追い返された」という、テレビでも報じられた事件が取り上げられている。とにかく入管としては、収容者の体調などおかまいなしに、「何がなんでも収容施設に留め置く」という方針を崩さないのだ。

入管というのは、そんな非人道的な状態が当たり前のようにまかり通っている場所なのだから、「一般公開されると分かった上で撮影に協力した」などと知られれば、どんな仕打ちを受けるか分かったものではない。もちろん収容者たちも、そのようなリスクがあることは重々承知している。しかしそれ以上に、「誰も聞いてくれる人がいない我々の声をどうにか届けてほしい」という気持ちの方が強いのだ。

そんな「決死の覚悟」によって生まれた作品なのである。

本作においては、使われている素材の8割以上が、「収容施設の面会室で隠し撮りした映像」か「真っ暗な画面のまま、電話越しの会話の音声が流れる映像」のどちらかだ。ドキュメンタリーの場合、「隠し撮り」や「音声のみ」みたいな映像も時々出てくるが、本編のほとんどがそのような映像で占められている作品もなかなか無いんじゃないかと思う。それぐらい「生の声を入手するのが困難」だということだし、そういうこともあって「ほとんどの人がその事実を知らない」という状況にもなっているというわけだ。

最も恐ろしいのは、看守が撮影した映像

しかし映画では、実はもっと凄まじい映像が使われている。本作はもちろん、そのほとんどが「監督が撮影・録音した素材」で構成されているのだが、「収容所内の監視カメラの映像」や「トラブルに対処する際に看守が手持ちカメラで撮影したのだろう映像」も一部使われている。そしてその内の1つに、私は驚愕させられてしまった

まず、その映像が表に出てきた理由について触れておこう。作中には、収容者の1人が「今、職員と裁判をしている」と話す場面があり、あくまでも推測ではあるが、恐らくその証拠として請求し出てきた映像ではないかと思う。映っているのは裁判中だというその収容者本人であり、彼が大勢の職員に取り押さえられ、手錠を掛けられ、そのまま懲罰室へと連れて行かれるまでの一部始終が記録されている。

そして私にはどう見ても、この様子が「リンチ」にしか思えない。なにせ、8人ほどの看守が1人の収容者を押さえつけた上で、手錠を掛けて動けない状態にしているにも拘わらず、さらに力づくでねじ伏せているからだ。誰が見たって、「暴れている人間を押さえつけるにしてもやりすぎ」と感じるような映像ではないかと思う。

さて、もちろん映像に映し出された状況そのものも恐ろしい。しかし、最も恐ろしい点は他にある。その点を理解してもらうために、この映像が撮影され表に出るまでの経緯を改めて確認しておこう。

映像は監視カメラなどによるものではなく、看守が手持ちしているカメラで撮られている。恐らくだが、何かトラブルがあった際には、記録のために撮影が義務付けられているのではないかと思う。ただ、収容所は刑務所と同様「密室」みたいなものだ。外部からその内側の様子を知る術はない。だから、「トラブルの際は映像を撮ること」というルールが存在するのだとしても、「たまたま撮り忘れていた」「電源が入っていなかった」みたいな言い訳を用意した上で「意図的に映像を撮影しない」なんてことも出来てしまうだろうと私は思っている。

そしてそのように考えた時、私はこんな風に想像してしまった。「この映像を撮影した人間は、『仮にこの映像が外部に出ることになっても問題ない』と判断していたはずだ」と。私が何を言いたいのか伝わるだろうか? もし彼らが、「今自分たちはマズいことをしていて、それが外部に知られれば糾弾されるはず」と理解していたのなら、適当な理由をつけて「撮影が出来なかった」と言えばいいはずだ。しかし実際には、その時の様子を撮影した映像が残っていて、表にも出てきている。となれば、「撮影した人間は、『今自分たちがしている行為は、特に糾弾されるようなことではない』と考えていた」と理解するのが妥当だと私は思うのだ。

そして私は、その点にこそ驚かされてしまった

彼らは、今まさに撮影している映像が「証拠」として外部に出る可能性について多少なりとも認識していたはずである。何故ならその映像には、収容者が「裁判で訴える!」と叫ぶシーンがあるからだ。それに対して看守は「訴えてみろ!」と返していた。恐らくだが、これまでにも収容者が看守を訴える事例は存在していたのだと思う。だから私は、この場面を見て、「看守が訴えられる可能性を理解していること」「まさに今撮影している映像が証拠として外部に出る可能性があること」をきちんと認識していたはずだと捉えている。

そしてその上で彼らは、「自分たちにこそ正義がある」と認識しているのだと思う。「訴えられたとしても、今撮っている映像が表に出たとしても、自分たちがマズい立場に置かれるはずがない」と考えているからこその振る舞いに感じられたのだ。

私には、そのような看守の認識こそが最も恐ろしいものに感じられてしまったのである。

『リンチにしか見えない映像』が表に出ても問題ないと考えている」のだとすれば、「この映像に映っていることは、収容施設においては『日常』でしかない」という事実を示唆しているようにしか思えない。つまり明らかに、「世間一般との感覚が乖離した者たち」によって収容施設が運用されているというわけだ。映画で使われた映像は、収容者が裁判を起こしたからこそ表に出てきたわけで、実際には氷山の一角でしかないだろう。どれほど酷い状況にあるのか、正直想像もつかない。

このように私には、その経緯も含め、「看守が撮影した映像」こそが最も恐ろしいものに感じられてしまった。

強制送還からギリギリで逃れた収容者の壮絶な体験

さて、最も恐ろしかった映像は先述のものだが、最も恐ろしかったエピソードは他にある。その話をしていたのは、難民申請が却下されたことで即座に強制送還の手続きが取られたというある収容者だ。監督が話を聞いたのは、まさにそのゴタゴタがあった翌日のことだったそうだ。恐らく彼自身もまだ、様々な整理がついていなかったのだろう。そのため、かなり話を補って聞かなければ捉えにくい内容ではあったが、私が理解したところによると以下のような状況だったようである。

強制送還が決まると、彼はすぐに成田空港に連れて行かれたそうだ。日本にやってくる難民には様々な事情があるのだろうが、やはりその多くは「母国に戻ると殺されるかもしれない」という切迫した事情を抱えている。彼もやはりそのような状況にあったようで、だから空港で必死に抵抗したという。すると、収容施設の職員から殴る蹴るの暴行を受けたのだそうだ。それでも、大声を上げ続けどうにか助けを求めていると、航空会社の人がやってきて、英語で「どうしましたか?」と聞いてくれた。そこで収容者が事情を説明すると、「そのような状況であれば搭乗手続きは行えません」という話になり、そのまま施設に戻されることになったというのだ。

このエピソードが語られる場面、最初は、収容施設で監督が隠し撮りした映像から始まるのだが、次第に、複数枚の写真が切り替わる映像を背景にして収容者の声が響くような演出に変わっていく。その写真は恐らく映像から切り出されたものであり、映像自体は収容施設の職員が撮影したものと思われる。これもきっと、証拠開示請求か何かで出てきたものなのだろう。酷い扱いを受けた収容者は、「写真では彼らの邪悪さは伝わらない」と、そのあまりの酷さについて語っていた。しかし正直なところ、写真だけからも「酷すぎる」と感じられるような状況だと私は思う。

そして、この写真(あるいは映像)も、状況としては先程と同じだ。つまり、「これが世間に知れたところで、自分たちが非難されることはない」と考えているからこそ、私たちが見られるものとして表に出てきているというわけだ。そしてそうだとするならやはり、一般的な感覚からあまりにかけ離れていると言えるだろう。

その点に、やはり恐怖を感じさせられてしまう

あるいは次のようなエピソードを語る者もいた。仮放免の際には顔写真を撮るのが通例なのだそうだが、その時に職員から「笑顔で」と言われるというのだ。あまりにも無神経すぎるだろう。この収容者は、「あなたたちのせいで笑えなくなった」と皮肉的に返したそうだが、本当にその通りだと思う。

職員が「笑顔で」なんて言葉をナチュラルに口にしているのだとしたら、「彼らは普段自分たちがしている行為を『悪い』などとはまったく思っていない」ことになるだろう。私にはどうしても、「笑顔で」なんて口にするのはあまりにも人の心が失われているように感じられてしまうのだ。このように本作では、「収容施設の職員は全員サイコパスなのか」と考えてしまいたくなるような、異常な実態が映し出されるのである。

日本の政治もとにかくヤバい

さて、収容施設の看守や職員の振る舞いはもちろん酷いのだが、それはある意味で「日本の政策によって生まれた歪み」であるとも言える。当然のことながら、そうだとしても看守や職員の振る舞いが許容できるわけではない。しかし根本的には、「日本がもっと難民受け入れに積極的になる」ことによって解決可能な問題であり、そこにこそ問題意識を向けるべきだと私は思う。

では、政治はこの現状をどのように捉えているのだろうか

映画『牛久』には、石川大我という政治家が登場する。彼は本作の監督と組んで収容施設の現状を改善しようと活動を行っており、彼が国会答弁する様子も作中で使われていた。

彼が国会で取り上げたのは、ある収容者の話だ。映画にも登場しており、「自殺未遂をしたため懲罰室に隔離され、そのせいでさらに精神状態が悪化し、以前にも増して自殺未遂を繰り返してしまう」という状況にある。石川大我は国会で、そのような人物がいることをまず紹介した上で、法務大臣に次のような質問をするのだ。

  • 仮放免者は就労が認められていますか?
  • 仮放免者は生活保護を受けられますか?
  • 仮放免者は国民健康保険に加入できますか?

現状、これらの答えはすべて「NO」である。つまり、収容施設から仮放免されたとしても、働けないし、生活保護も受けられないし、国民健康保険にも入れないのだ。

そのような状態で、一体どのように生きていけばいいというのだろうか

さて、石川大我はさらに、「収容施設に多くの難民申請者が収容されている現状をどのように解決するのか?」と問う。そして、それに対する法務大臣の答えは、「送還を促進することで問題を解決しようとしている」と要約できる。ここでは勝手ながら、日本政府の「本音」を想像し加味した上で法務大臣の回答を解釈してみると、以下のようになるのではないかと私は思う。

そもそも、日本に”勝手に”やってくる難民が悪い。しかも、送還を拒否する者が多くて困る。だからとにかく、より一層強制送還を徹底して、収容施設の人数を減らすつもりだ。

これが、G7のサミットで「難民を受け入れる」という合意に署名している日本の実態である。あまりにもお粗末で、非人道的で、国際標準からかけ離れていると言うしかない状況だろう。

冒頭でも書いた通り、日本が「難民なんか受け入れない」と世界に向けてアピールしているのであれば、少なくとも現状よりはマシだと感じる。難民の側も、日本に来ようと考える前の時点で「日本はどうやら難民を受け入れていないらしい」と理解できるだろうし、だとすれば、「母国で死ねば良かった」などと後悔する難民申請者を出さずに済むからだ。しかし日本は、「難民を受け入れない」と主張すると国際的な評価が下がると考えているのだろう、表向きは「難民を受け入れる」という体裁を整えている。そして実態は、申請のほとんどを却下して、申請者の命を危険に晒す「強制送還」を繰り返しているというわけだ。

あまりにも残念な国だと感じる。せめて、言っていることやっていることぐらいは一致させてほしい。そうでなければ、国民として、あまりにも恥ずかしいからだ。

私には正直、「日本が難民をここまで頑なに受け入れない理由」がまったく理解できない。もちろん、ドイツ並みに難民を受け入れればそりゃあ問題も起こるかもしれない。しかし現状の日本は、そんな議論をするレベルにさえないのだ。世界標準と比べれば「難民の受け入れほぼゼロ」と言っていいぐらいの状況であり、そこまで徹底して排除する理由が一体なんなのか、私には不思議で仕方ない。日本はLGBTQへの理解や夫婦別姓、緊急避妊薬の承認などの点でも、世界標準と比べて明らかに劣っているのだが、その背景に一体何があるのか本当に謎である。反対する人の話を聞いても、「反対するために反対している」みたいにしか感じられないのだ。

日本で生まれ育った身としては、住んでいて日常的に危険を感じることもないし、民間サービスの便利さなんかは色んな点で世界一だとも思う。もちろん、出生率や給与の伸びなど問題も様々にあるわけだが、個人的には大きな不満は無いし、住みやすい国だと感じている。ただ、国が掲げる方針や政策には疑問を抱かざるを得ないことが多く、世の中の色んな現実を知る度に、「本当に恥ずかしい国に住んでいるんだな」と実感させられもするのだ。

私にとって日本は、「便利で住みやすいが、誇らしいとは言えない国」であり、誇らしいと思えない部分には常々苛立ちを覚えているわけだが、映画『牛久』を観て、その苛立ちがさらに増してしまったという感じである。

最後に

非常に皮肉な話ではあるが、コロナウイルスが蔓延した”お陰”で、それまでほとんど許可されなかった仮放免が異常なペースで認められるようになったそうだ。作中で示された数字によると、2019年12月31日時点で全国の収容施設に942人の難民申請者がいたのだが、コロナ禍になってその約75%に仮放免が認められたという。この急激な変化は、「収容施設内でのコロナ蔓延をよほど恐れているからだろう」と指摘されていた。

しかし忘れてはいけないが、仮放免が認められたところで、「身体的な拘束が無くなった」以外の状況は何も変わらない。働けはしないし、とにかく何も出来ないのだ。仮放免されたある人物は、次のように語っていた。

仮放免から5ヶ月、たった5ヶ月ですよ、でもその間に、何度自殺しようと考えたか分からない。

収容施設に留め置かれることももちろん辛いが、仮放免され”シャバ”で暮らしたところで、その辛さに大して変わりはないということだ。

そして繰り返すが、このような現状は、私たちの「無知」あるいは「無理解」によって生み出されているのである。日本が難民を受け入れない理由は私にはよく分からないものの、大勢の国民から「難民を受け入れろ」という声が上がれば、間違いなく政治は動くはずだ。そして私を含め、そういうことを誰もしていないのだから、私たちにも責任があると言えるはずである。

本当に、絶望的なまでに酷い国に住んでいるのだと、改めて実感させられる作品だった。

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