【衝撃】洗脳を自ら脱した著者の『カルト脱出記』から、「社会・集団の洗脳」を避ける生き方を知る

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:典雅, 佐藤
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 私自身は「宗教的なもの」に一切興味はなく、広い意味での「洗脳」にも嫌悪しかない
  • 本部で働いたこともある著者の、「エホバの証人」の中でも特異だろう経験の数々
  • 聖書研究を突き詰めた結果として「洗脳」から脱することができた著者の異端的経験

世間的には「東京ガールズコレクション」のプロデューサーとして知られているだろう人物の、壮絶体験記

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「エホバの証人」の”洗脳”から自力で抜け出した著者の、信じがたい「カルト体験記」に驚かされる

著者は、「『東京ガールズコレクション』を手掛けた天才プロデューサー」と紹介されている。表舞台で華々しく活躍している人物というわけだ。しかし彼が経験してきた出来事は、そんじょそこらの人間には体験不可能なほど、濃密で特異で狂気的だと感じる。

本書は、まさに「洗脳下」にあった人物が、自らその「洗脳」から抜け出し、「一般社会」に復帰するまでをつぶさに描き出す作品なのだ。

ただし、本書で扱われる「洗脳」や「洗脳からの脱出」は、一般的なイメージとは少し違うだろうと思う。私も、本書を読む前には一般的なイメージで捉えていたので、読む前の印象と読後感にはちょっとズレがあった。しかしいずれにせよ、驚きの経験であることは間違いないし、興味を持って読める内容だと思う

「宗教」に対する私の考え方と、「洗脳」に対する印象

一応まず、私の「宗教観」についてざっと触れておこうと思う。

基本的に私は、それが明確に「宗教」に分類されるかどうかに関係なく、「宗教的なもの」全般に対して興味がない。言い方が悪いかもしれないが、例えば「オンラインサロン」もある種の「宗教的なもの」に私には感じられるし、そういうものにも一切の興味がない、ということだ。

オウム真理教が最終的に犯罪集団になってしまったように、「狂信」が何らかの形で「個人や社会に対する実害」を生むのであれば、明確に「反対」の立場を取る。しかし、そうでなければ、賛成でも反対でもない。世の中にあろうがなかろうが、私には関係のないものという意味だ。

「『宗教的なもの』を信じている人」に対しても感覚は同じで、自分が勧誘を受けたり、自分の周りの人間が何らかの迷惑を被るのでなければ、「宗教的なもの」を信じていようがいまいがどっちでもいい。特定の宗教を信じていることそのものは、その人との関係性を考える上で特にプラスにもマイナスにもならないということだ。

ただ、これまでの私の少ない経験を基にして話をすると、やはり、何らかの宗教を信じている人は、周囲の人を自分が信じる宗教側に引き込もうとする雰囲気を醸し出す。そういう匂いを感じた瞬間に、私は恐らくその人から離れていくだろう。

とにかく私は、天邪鬼を気取っていることもあり、それがなんであれ「他人に勧められて何かを選択・決断すること」全般が嫌いなのだ。

これが私の「宗教的なもの」に対する基本的なスタンスである。

さて今度は「洗脳」についても書いていこう。「洗脳」と聞くと、非常に特殊な状態であるように感じられるかもしれないが、著者が巻末でこんな風に書いている文章に私は共感する

洗脳に関して言うと、私のカルト体験談は確かに特殊で極端な環境だった。しかし程度の差こそあれど、広い意味での洗脳は社会のあらゆる所で見られる。

確かにその通りだ。例えば、「広告」「マーケティング」などと呼ばれているものは、基本的に「いかに相手を『洗脳』するか」という手法に過ぎない。「男は結婚して家庭を持って一人前」「親の介護は子どもが責任を持ってすべき」といった社会通念も、私には「洗脳」の一種に感じられる。アイドル、YouTuber、オンラインサロンなどを支える「ファン」も広く「洗脳されている」と捉えていい気がしているし、「家族」や「国境」など「目には見えない社会的な括り」も「洗脳」の一種と呼んでいいだろう。

そして私は、そのように広い括りで捉えた場合の「洗脳」全般が、基本的には嫌いだ

というかそもそも、対象が何であれ「それをずっと好きでい続ける」という状態をあまり好きになれない。「自分の考えはいつでも変わり得る」という考え方を前提にしているのであれば、何をどのように信じていても構わないと思えるが、「狂信」と感じられるような状態は大体嫌いだ

広義での「洗脳」は、誰もが身近な生活の中で接しているだろうと思う。だからこそ、本書も他人事だと捉えない方がいい。著者と同じ体験をすることはまず無いだろうが、広い意味での「洗脳状態」に陥ることは誰の身にも起こり得る。そうなった場合に何が出来るのかあらかじめ知っておくことは重要だろう。

著者の目から見た「エホバの証人」と、内部での著者の特異な立ち位置

本書ではまず、著者が「エホバの証人」とどのように関わっていたのかが語られていく私は正直「エホバの証人」についてはほとんど何も知らず、大昔にニュースで「エホバの証人輸血拒否事件」が報じられているのを見た記憶があるくらいだ。そして本書を読みながら、「そういえば小学校時代、ずっと体育の授業を休んでいた同級生がいた」ということを思い出した。確かその子も、両親がエホバの証人だったように思う。輸血ができないから、運動して怪我をしたら困る、みたいなことだったのではないだろうか。

その程度の知識しかないので、基本的には本書の記述を踏まえて「エホバの証人」を紹介していきたいと思う。

著者の両親は、元々エホバの証人と関わりはなかった。父親は海外勤務が多く、一家で海外での生活が長かったそうだが、その過程で母親がエホバの証人にハマり、その流れで著者も「証人」になったという。エホバの証人では「信者」ではなく「証人」という言葉が使われる。

エホバの証人は、他の宗教団体ほどは規律が厳しくないと著者は言う。証人は、「聖書だけがルールです」と言って勧誘をするそうだ。そして、そこに嘘はない。本書にも、

ここで説明しておくと、証人たちは自分が宗教をやっているとは本気で思っていない。(中略)ではなんなのか? と聞かれると、「聖書を勉強しているだけです」と言う。これは営業トークでもなんでもなく、本心からそう思っているのだ。

と書かれているのだ。基本的に「聖書を勉強する集団」であり、そういう意味でとても真面目な人たちである。

しかし、「聖書に書かれている通りに行動する」という唯一の規律が、思いの外大変なのだ。運動会に参加してはいけないし、国歌や校歌を歌ってもいけない。娯楽全般にも制約があるし、デートも推奨されないのだ。男性にとって大変なのは「オナニー禁止」という規律で、これには著者自身相当に悩まされたという。また、婚前交渉もご法度だ。証人は、大抵証人同士で結婚するそうだが、オナニーやエロ本さえ禁止されているため、結婚後「どうやってセックスしたらいいかわからない」という笑えない状況に陥ってしまうという。また、かつては「大学進学」も良いものとされていなかったが、後に教義変更が行われたそうだ。

さて、エホバの証人の中で、著者が特異だった点が2つある

まずは、「ブルックリンの本部で働いたことがある」という経歴だ。証人にとって、本部での仕事は名誉なことである。著者は、子どもの頃こそ熱心な証人ではなかったものの、ある時から考えを変え、本部で働くことを目指すと決めた。そしてその願いを早くに実現するのである。

限られた人間しか本部にたどり着けないのだから、そんな人物が自ら洗脳を脱してエホバの証人から抜けるという経験もまた特異だと言えるだろう。「ごく一般的な証人以上に細部まで理解している人物による体験記」というわけである。

もう1点は、「非常に熱心に聖書研究を行っていた」という点だ。これには若干説明を加える必要があるだろう。

著者はそもそも、アメリカで育ったので、アメリカ人に混じって聖書研究を行うことは自然の流れだった。しかし一般的に、日本人の証人は聖書研究を熱心には行わないという。

著者はこんな経験をしたことがあるそうだ。

エホバの証人には、「長老」と呼ばれる、ある地域をまとめるリーダー的な存在がいる。「長老」は絶対的な存在であり、仮にその主張が誤りだったとしても従わなければならないとされているほどだ。しかし著者は、あることをきっかけに、長老の奥さんと対立してしまう。

著者はその際、長老との議論に挑んだ。そもそも長老に意見する証人がほとんどいないのだが、さらに著者は、聖書の中から様々な聖句を引っ張り出してきて議論の応酬を続けたのである。長老から、「聖句を引き出して議論する日本人の証人などほとんどいない」と言われるほどだったという

さらに「聖書研究をする日本人証人」が特異である背景にはもう1つ理由が挙げられる。ある時点から、エホバの証人に入ってくる日本人のタイプが変化したというのだ。いわゆる「精神を病んだ人」が多くなってきたという。エホバの証人の教えには、「証人はハルマゲドンの後、楽園に行くことが出来る唯一の存在であり、永遠の命を与えられている」というものがある。だからその「精神を病んだ人」は、聖書云々には関係なく、その教えにしがみつくようにしてエホバの証人を目指すようになったのではないかと著者は推測していた。

このような背景もあって、著者は「聖書研究を熱心に行う珍しい日本人証人」という立ち位置を自然と獲得していくことになる。

そして結果として、「聖書研究に熱心だった」という事実こそが「洗脳」から脱するきっかけになったそうなのだ。本当に、人生何が起こるか分からないと感じさせられる話だろう。

著者がエホバの証人を脱するに至った過程と、その後に待ち受けていた「本当の苦労」

著者は、最終的に聖書研究に熱心だったお陰でエホバの証人を抜けることになったわけだが、要因は決してそれだけではなかった

例えばある時から彼は、一般証人たちの投げやりさが気にかかるようになる。聖書研究に熱心ではない証人たちが、世の中のありとあらゆることを、

  • サタンのせい
  • ハルマゲドンが起こるから意味がない
  • 楽園でなければ解決できない

という3つの考え方だけで片付けてしまうように感じられたのだ。このことを著者は、恐ろしい思考停止だと感じるようになっていく。

また、こんな記憶も印象に残っているそうだ。その当時、地下鉄サリン事件の発生によりオウム真理教が連日メディアを賑わせていた。その頃の雰囲気を著者はこんな風に書いている。

オウムの事件は証人たちにいくつかの疑問をもたらした。なぜオウム信者たちが親族の強い反対にもかかわらず出家したのか? 社会から糾弾されているのもかかわらず、なぜ信者として留まっているのか? そしてこんな感じでしめくくっていた。
「サタンの宗教に入って惑わされると、分からなくなるんだね」
一番の問題は、自分たち自身が、外からそう見られていることに気がついていないことだ。

このような点も、著者の違和感として燻り続けたという。

しかしやはり著者は、聖書と向き合うことで最後の一線を越えた。そのきっかけは、90年代に発表された2つの重要な教義変更にある。それまでも聖書を研究する中で、小さな疑問に行き当たることは何度もあったそうだ。しかしこの2つの教義変更は、著者に大いなる疑問をもたらすことになる。聖書と真剣に向き合っていたからこその疑問だった。

著者は、その疑問を解消しようと様々なことを調べ始める。そしてその過程で、誰と議論しても負けないほどの理論武装に行き着いた。そしてそのことが、彼を「洗脳解除」へと導き、それだけではなく、他の証人の洗脳を解く際にも威力を発揮するようになったのだ。著者は、聖書研究の成果と、エホバの証人の主張を突き合わせることで、「エホバの証人は『神の組織』とは言い難い」という結論に達したのである。

こんな風にして著者は、35歳にしてエホバの証人から抜けることとなった。ここまでの人生だけでも、相当波乱万丈だと言っていいだろう。しかし本当の大変さは、エホバの証人を離れた後にやってきた

世の中のあらゆる価値観にまっさらな状態で向き合わなければならなくなったのだ

それまで著者は、「聖書に書かれていることだけが正しい」という世界の中で生きてきた。子どもの頃からずっとだ。基本的に、それ以外の価値観をすべてシャットアウトしていたと言っていい。しかし著者は、自らその世界から脱した。それまで信じていたすべての価値観をポーンと捨て去ったのである

そしてその状態のまま、「一般的」「普通」と呼んでいいだろう価値観の世界に突っ込んでいくことになったのだ。

なかなか普通の人が経験できる状況ではないだろう。著者自身は、こんな風に書いている。

私はこの年齢になって、第二の人生が与えられたことを感謝している。もう一度全ての価値基準や常識を白紙から考え直すことができるのだ。

私たちは、私たちにとっての「当たり前」の中にどっぷり浸かっているので、「信じている」という感覚さえないまま何らかの価値観を信じているし、「受け入れている」という意識もないまま何らかの常識を受け入れている。しかし著者は、それらすべてに「立ち止まる」という、ある種の「自由」を得た。もちろんそれは、苦労の連続だっただろう。簡単に想像できるような状況ではない。しかし確かにそこには、壮絶な苦労と共に、「感謝」と呼ぶべき経験が含まれていたことも事実だと感じる。

私たちが経験可能な状況に置き換えて考えてみると、「ネットで調べてもほぼ何の情報も出てこないような『世界のどこか』に単身移住する」くらいの激変だったのだろうと思う。そんな人生に、35歳という年齢で飛び込むことになったのだから、凄まじい経験だっただろう。

著者は、「エホバの証人での経験は今のビジネスに結びついている」と語っている。人脈的な意味ではない。エホバの証人時代の交友関係はほぼ断っているそうだが、それでも、エホバの証人での経験は何らかの形で著者の現在にプラスの形で残っているというのだ。

本書は、そんな激動の人生を歩んだ著者の、壮絶な記録である

著:典雅, 佐藤
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最後に

世界を見渡してみても、著者と同じような経験をした人間を探すのは不可能に近いだろうと思う。それほど特異で異端的な人生だ。一方で、「カルト」や「洗脳」という言葉は、日常からかけ離れているように感じられるかもしれないが、決してそうではない。むしろインターネットがあらゆる場所に蔓延る現代だからこそ、「洗脳」の入り口はそこかしこに空いていると言っていいのではないかとも感じる。

著者の人生を通じて、そんな穴にいかに落ちずにいられるか、落ちてしまった場合にはどうすべきなのかについて考えてみてほしいと思う。

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