【おすすめ】江戸川乱歩賞受賞作、佐藤究『QJKJQ』は、新人のデビュー作とは思えない超ド級の小説だ

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:佐藤究
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「国家」も「お金」も、私たちの「幻想」が生み出した概念であり、人間が消えれば同時に無くなってしまうものでしかない
  • 「少数の人々が抱く幻想」によっても容易に社会は規定され得るという事実
  • 衝撃の設定と、計算されつくされた混沌によって読者を翻弄する物語

その凄まじい想像力によって、非現実的な世界をリアリティを持って現出させる魔術に驚かされた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

とんでもないデビュー作!新人作家の小説とは思えない弩級の物語に驚愕させられる、佐藤究『QJKJQ』

著者は本作で江戸川乱歩賞を受賞し小説家デビューした。新人のデビュー作には大抵、どこか粗削りの部分が見えるものだが、『QJKJQ』にはそれが無い。最初から完成されていると思う。同じ著者の『Ank : a mirroring ape』という小説にも度肝を抜かれたが、その片鱗はデビュー作から存在していたというわけだ。

この記事では、『QJKJQ』の核となる部分には一切触れない。なので、本書を未読の方がこの記事を読んでもネタバレにはならないだろう。とはいえ、未読の方は、私の記事なんか読まずに、すぐ本書を買って読んでほしい。その凄まじさに、圧倒されるはずだ。

ネタバレにならないように記事を書くつもりだが、本書においては「幻想の共有」が重要な要素だと言っていい。そこでこの記事では、本書に登場するある一文を起点として、「幻想」やその共有について、私が考えていることを書いていきたいと思う。

私たちが生きる社会は、「幻想を共有すること」で成り立っている

「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」市野桐清はわたしにかまわず話し続ける。「それは何のことか? 国家のことだ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉だ」

こんな一文が出てくるというだけで、なかなか普通の小説ではないと感じるだろう。マックス・ウェーバーと言えば、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『職業としての政治』など、現在でも読み継がれる古典を著した人物としても知られる、非常に有名な人物だ。

著:マックス・ヴェーバー, 著:大塚 久雄
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著:マックス ヴェーバー, 翻訳:脇 圭平
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そんな彼が、「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」と呼んだものが「国家」である。

では、私たちは一体何を「国家」と呼んでいるのだろうか? 例えば、目の前にリンゴがあれば、それを「リンゴ」と呼んでいると分かる。物理的な実体の有無が問題というわけではない。例えば虹。虹はリンゴのような物質ではなく、現象につけられた名前だが、虹を見れば、それを「虹」と呼ぶことができる。

しかし私たちは、「国家」に対して同じことはできない何かを指して「あれは国家だ」と呼ぶことは不可能なのだ。要するに「国家」とは、「人間が作り出した幻想」でしかないのである。目を凝らしても、「国境線」が目に見えるわけではない。私たちは、「そこに国境がある」「それを境に国が分かれている」という「幻想」を共有しており、そのことによって初めて「国家」という概念が成り立っているにすぎないのである。

そしてこれは「国家」に限る話ではない。そのような様々な「幻想」によって、世の中は成り立っているのだ。「お金」に価値があると考えていること、「病気」という括りによって正常と区別すること、「お盆」「正月」といった季節の区切りを設けていること。こういうものはすべて「幻想」であり、私たちはそういう「幻想」を共有することで社会を成り立たせている。

「幻想」かどうかの判断は、シンプルに「人間がいなくなれば消えてしまうものが『幻想』」と考えればいいだろう。「リンゴ」や「虹」は、人間の存在に拘わらず存在し続けるはずだ。一方、「国家」「お金」「病気」「季節」などは違う。これらは、人間がいなくなれば消えてしまうものでしかない。人間がそう思い込むことによって社会の中に存在する概念でしかなく、まさに「人間の存在に依存したもの」というわけだ。

中には、「人間がいなくなっても、お金は残るじゃないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。確かに、物質としての100円玉や1万円札は残るだろう。しかし人間がいなくなれば、それらはただの「金属の塊」「特殊な紙」でしかない。それらに「お金」としての価値を感じ取る存在はいないのだ。

この議論は正直微妙なポイントであり、例えば「リンゴ」や「虹」にしたところで、人間がいなくなれば、「名前を付けるほどの価値を感じ取る存在はいない」と言える。というか、物事に名前をつけるのは人間だけのはずなので、大きく捉えれば「人間が名前を与えたものはすべて『幻想』」という解釈も可能だろう。しかしそこまで範囲を広げてしまうと、なかなか面白い議論にならない。私が言いたいことのニュアンスはなんとなく伝わると思うのでこれ以上詳しく説明はしないが、こんな風に「人間がいなくなれば消えてしまうもの」を「幻想」と捉えることで、社会がいかに「幻想」によって成り立っているのかが理解できるのではないかと思う。

「少数派が信じる幻想」が世の中を規定することもある

恐らく誰もが、「お金」の価値を信じているだろうし、「国家」の存在も認めているだろう。日常生活の中でそんな風に意識する機会はほとんどないかもしれないが、「お金に価値があると思いますか?」「国家は存在すると思いますか?」と聞かれれば、ほとんどの人が「Yes」と答えるに違いない。

では、「ビッグバン」はどうだろうか? 「ビッグバン」というのは、「大爆発によって宇宙が始まった」という仮説のことである。

「宇宙はビッグバンで始まったと思いますか?」と聞かれて、躊躇なく「Yes」と答える人はどれぐらいいるだろうか。「そんな風に言われていますよね」「たぶんそうなんだろうって思ってます」ぐらいの感覚が一番近いのではないかと私は思う。それは「信じる」というほど強いものではないだろう。多くの人が、「特にそれを信じているわけではないが、しかしそうなのだと思っている」ぐらいに捉えているはずだ。そして、これもまた、社会における「幻想」と言っていいだろう。

ではそもそも、「ビッグバンによって宇宙が始まった」と信じているのは誰なのか。それは「科学者」である。これはつまり、「科学者という、決して多数派とは言えない人たちの『幻想』が『当たり前』のものとして受け入れられている」ということを意味するだろう。この指摘は、「気象予報士」や「特派員」などに対しても当てはまると思う。「明日は雨が降る」「この戦場で3人亡くなった」というような主張を、私たちは「当たり前のもの」として受け入れている。自分では天気図が読めないし、外国の戦場の状況など見れないのに、「こうである」と言っている人の主張を割と簡単に信じるのだ。

つまり、状況さえ整えば、私たちは「少数の人たちが信じる『幻想』も同じように受け入れ、共有する」のである。「銀行が破産するかもしれない」という噂話が本当に銀行を倒産させてしまう「取り付け騒ぎ」は有名だし、現代であれば、ちょっとしたツイートからデマが広く拡散することは頻発している。それらはすべて「幻想の共有」と言えるし、世の中は益々「『多数派に属するわけではない誰か』が信じる『幻想』」が大きな影響力を持ち得る時代になっていると思う。

だからこそ、この物語は荒唐無稽ではないと私は感じる。

『QJKJQ』を読むと、「そんなことあり得ない」と感じるかもしれないし、どう感じてもそれは自由だ。しかしそのような捉え方は、「人間は『幻想』に塗れた社会で生きている」という事実を適切に認識していないだけにも感じられてしまう。

「幻想」に塗れた社会において、私たちは様々な事柄に「意味」を見出す。例えば、「赤いライトが点灯している」という状況においては、私たちは「止まれ」というメッセージを受け取る。まさにこれも「幻想の共有」だ。そして、多くの人が同じ「幻想」を当然のものとして共有しているが故に、「幻想を共有している」という事実にさえ気づかない

となれば、私たちの社会が『QJKJQ』の世界のようになっていたとしても、私たちはその事実に気づけないのではないか……。

そんな、現実が解体されていくような経験を味わうことになる者たちの物語である。

本の内容紹介

市野亜李亜。17歳の高校生。普段からスマホの電源は入れず、防犯カメラに映らないように行動している。

何故なら、殺人鬼だからだ。

人気の無い寂しい路地で男が声を掛けてくる。男が運転する車でドライブ。そのまま、キスを受け入れる。そして、ベストの内ポケットからペーパーナイフを取り出し、男の喉を切り裂く。家に帰った亜李亜は、母からこんな風に声を掛けられる。「どうして部屋でやらなかったの?」

家には<専用部屋>があり、家族みんなで使っている人を殺すための部屋だ。母は若い男を連れ込み、シャフトで殴って殺す。兄は若い女性を引き込み、顎の力で喉を噛み切って殺害する。父が人を殺している姿は、一度しか見たことがない。しかし、その光景はあまりに衝撃的だった。抜き取った血を口から飲ませて死に至らしめていたのだ。

そう、市野家は全員が猟奇殺人鬼なのである。そんな秘密を抱えながらも、ごくありふれた家族のように日々生活をしている

そんなある日、亜李亜は驚くべき光景を目にしてしまう。さらに続けて、まったく理解不能な状況が現出する。父親の視線の変化から、長い間気づかずにいた秘密を知ってしまった。父親を問い詰める。その答えは、彼女には理解出来ないものだった

誰でも目の前のものを見ずに生きている。現実を他人に教えられても信じない。それで結局、自分で向き合うこととなる。

大混乱に陥った亜李亜は、とにかく家から離れ、現実を理解しようとする。しかし、その一歩目から盛大に躓いてしまった。なんと彼女は、自分の住民票の写しを見ることが出来ないのだ……。

本の感想

冒頭でも書いた通り、とにかくとんでもない作品だった。「新人のデビュー作にしては凄い」なんてレベルではなく、小説として果てしなく魅力的だと言っていい。本当に凄まじい才能だと感じた。

上述の内容紹介を読んでも、なんのこっちゃさっぱり分からないだろう。分からないように書いているのだから当然だ。とにかく本書は、何も知らないまま読んでほしい。読み始めてしばらくしてから現れる果てしない混沌。混沌を分け入るようにして少しずつ手に入る情報。それらを繋ぎ合わせることで現出する認めたくない現実。そういったすべてがもたらす衝撃を、是非体感してほしいと思う。

私は、本書の「現実が解体されていくような展開」も凄く好きだが、それ以上に感心させられたのが、「アカデミー」と呼ばれる存在についての描写だ。この点についても詳しく触れないが、私はこの「アカデミー」の実在を100%否定することは難しいと感じた。もちろん、普通に考えれば「アカデミー」など存在するはずがないだろう。しかし、本書で説明される「アカデミー」の存在理由については、理解できるとは言わないまでも論理的には成立すると感じるし、この考え方に賛同する人がいてもおかしくはないとも思う。であれば、それを理念として掲げる人物がどこかの時代に存在し、行動に移したと考えることも、そこまで大きな飛躍ではないだろう。

「現実的にそんなことが可能なのか」と聞かれればなんとも答えようがない。しかし、人類はこれまでも「不可能としか思えないようなこと」を数多く実現させてきた。ピラミッドの建設から月面着陸まで、頭の中で想像しているだけなら間違いなく「無理だ」と結論が出るようなことを成し遂げてきているのだ。だから、「アカデミー」についても、決して「不可能」だとは断言できないだろう。そして、こんな荒唐無稽な存在を、一定以上の「リアリティ」を持って現出させてしまう著者の力量に驚かされた。

さて一方で、本書においてはその「アカデミー」の存在が、「小説としての是非」の議論になったという。つまり、「『アカデミー』なんてものを作品に登場させることは正解だったのか否か」という視点だ。単行本の巻末に載っていた江戸川乱歩賞の選評でも、選考委員の多くがこの点に触れている(文庫版にも選評が載っているかは分からない)。

私は別に、そのような疑問を抱かなかった。「『アカデミー』を登場させるか否か」よりも、「そういう材料をいかに調理するか」の方が重要だと私は感じる。そして本書は、まさにその調理の方法が絶妙だった。「アカデミー」の扱いが下手であれば台無しだっただろう。しかし見事な手さばきで、リアリティの欠片も持ち得ないような存在をリアルな存在として描き出しており、その見事さに圧倒されるばかりだった。

著:佐藤究
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最後に

冒頭でも触れた、著者2作目の『Ank : a mirroring ape』でも感じたことだが、著者は底知れぬ想像力を持つ人物だと思う。「一体どこからそんなことを考えるのだろうか」と唸ってしまうような視点と、それを小説として面白く見せるための展開がとにかく絶妙なのだ。

この記事を読んでも、『QJKJQ』についてはほぼ何も理解できないだろう。それで構わない。「なんか凄そうだな」と感じていただけたのであれば、是非読んでみてほしい。きっと度肝を抜かれることだろう

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