【対立】数学はなぜ”美しい”のか?数学は「発見」か「発明」かの議論から、その奥深さを知る:『神は数学者か?』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:マリオ リヴィオ, 翻訳:千葉 敏生
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 元々数学は、探検家のように「発見」するものと考えられていた
  • 「非ユークリッド幾何学」の発見が数学者に大きな衝撃を与えた
  • 数学を完璧に体系付けようとしたヒルベルトの野望を、若き天才・ゲーデルが打ち砕いた

物理学の方程式が金融の世界で応用されるなど、数学にはまったく異なる領域を繋ぐ不思議さが溢れている

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「数学」は「発見」か「発明」か、という問いを考えたことがあるだろうか?

まずは、何を問われているのか整理しよう

本書は、「数学は人間が発見したものなのか、人間が発明したものなのか」について考える作品である。

数学は人間の心とはまったく独立して存在するのか? つまり、天文学者が未知の銀河を発見するのと同じように、われわれは単に数学的な真理を発見しているのか? あるいは、数学は人間の発明にすぎないのか?

まず、この問いの意味が分からない、という方も多いだろうと思う。そこで、もう少し具体的な例で、この「発見」と「発明」について考えてみよう。

まずは「発見」から。プロでもアマチュアでも、夜空に望遠鏡を向けて天体を観測することができる。そして、それまで誰にも知られていなかった天体を発見すると、自分で好きな名前を付けられるようだ。

さて、あなたが新しい天体を見つけたとして、これを「発明」と主張する人はいないだろう。天体というのは、我々人間が観測するかどうかに関係なく「そこにあるもの」だ。望遠鏡を向けたから天体が生まれた、なんてアホな話はない。だから、星を見つけるプロセスは明らかに「発見」である。

では、言語はどうだろうか? 世界中には、日本語・英語・フランス語など様々な言語が存在する。これらについて「発見した」と主張する人は恐らくいないだろう

例えば、「日本語」が「日本語を話す者」が現れる以前から存在していたとするなら、「発見」と呼んでもいいだろう。しかし、そんなわけがない。言語が生まれるプロセスは、明らかに「発明」である。

このように、「発見」なのか「発明」なのかは、それがどんな対象であるかによってかなり明らかに判断できるだろう。

では「数学」はどうだろうか? というのが、本書の問いである。

「発見派」と「発明派」のそれぞれの主張の骨子

数学の世界において、「発見派」と「発明派」の2つの立場に分かれている、というのが本書の前提となるスタンスだ。そして、それぞれの派閥の主張が、時代と共にどのように変化していったのかを追うのが、本書の構成である。

ここで余談だが、私は以前、日本の数学者にインタビューする機会があった。その際、「数学には、発見派と発明派がいるんですよね?」と問うと、「そんな議論は存在しない」と一蹴されたことがある。少なくともその数学者の周りは「発明派」しかいないという。

ただこれは、日本人であることが関係しているのかもしれない、とも思う。というのも、「発見派」の発想は、どうしても「神」に行き着くからだ。まさに本書のタイトルの通りである。

「神が数学者だった」のであり、神が作り上げた数学を人間が「発見」している、というのが「発見派」の大雑把なイメージだと言っていい。だからこそ、欧米の数学者であればあるほど「発見派」が出てくる可能性があるのではないかと思う。

さてでは、それぞれの派閥がどんな主張をしているのかざっと見ていこう。

「発見派」は、数学という学問があまりにも様々な領域に関わっていることを指摘する。本書ではそのことが「数学の偏在性と全能性」という言葉で表現されている。

例えば金融の世界には、オプション価格を決定する理論で用いられる「ブラック・ショールズ方程式」と呼ばれるものがある。これは実は、物理学の「ブラウン運動」という現象を記述する方程式がベースになっている。金融と物理というまったく異なる領域の事柄が、同じ発想の方程式で記述できてしまうということだ。

このような驚異的な応用力を目の当たりにすると、「神が数学を生み出し、この世界を構築したのだ」と考えたくもなるだろう。

「発見派」は、「『数学』というものが実在する」と考えているようで(この主張はなかなかイメージできないだろうが)、このスタンスを「プラトン主義」と呼ぶ。異なる領域によって数学で繋がる実例には確かに驚かされるが、しかし「『数学』が実在する」という考え方にも問題がある。

一方、「発明派」の主張は要するに、「数学は人間が作ったものだ」ということになる。数学においては「無矛盾性」という概念が重要なのだが、相互に矛盾しないような規則を定めた上で人間が数学を作り出しているだけだ、というのが「発明派」の主張であり、この立場を「形式主義」と呼ぶ。

「形式主義」では、「『数学』は実在する」という「プラトン主義」とは対極に、「実在するものとの関連など不要だ」と考える。数学というのはあくまでもゲームのルールのようなものでしかなく、現実の何かと対応するかどうかなど関係ないのだ、と。

しかしこの「発明派」の主張ではやはり、どうして数学が異なる領域をまたぐ記述できてしまうのかを説明することは難しくなる。

本書では、このような「思考の対立」が存在することを前提にした上で、数学史において「数学の捉えられ方」がどう変化していったのかを描き出していく

ピタゴラス・デカルト・ニュートンら「発見派」の歴史

元々数学は「発見するもの」と考えられていた。この主張を明確な形で行ったのが「ピタゴラス学派」である。「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスだが、これは彼一人の功績ではなく、「ピタゴラス学派」という数学を研究する集団の成果だと考えられており、ここが当時の数学研究を先導していたのだ。この学派は、

数とは、天界から人間の道徳まで、万物に宿る生きた実体であり、普遍的な原理であった

と捉えていた。数が実在するという、まさに「発見派」の立場である。「ピタゴラス学派」は、現代では「ある種の宗教的な存在」だったと捉えられているようだ。

こんな有名な逸話がある。「ピタゴラス学派」は、「すべての数は、整数の比(分数)で表すことができる」と考えており(これは一種の教義のようなものだった)、「分数では表現できない数(無理数)は存在しない」と主張していた。しかし、まさに「ピタゴラスの定理」を使って、ピタゴラスの弟子が「√2」という無理数を発見してしまったのだ。ピタゴラスは驚き、この発見を封印するためにその弟子を殺した、と伝えられている。

ともかく、「ピタゴラス学派」は、探検家のように真理や定理を「発見」するのだと考えており、このような思想はその後、プラトンやアルキメデスらによってさらに高められていく。

さてその後、数学は科学と結び付けられる。

科学哲学者のアレクサンドル・コイレ(1892~1964)はかつて、ガリレオが科学的思考にもたらした革命は一点に集約されると指摘した。それは、数学が科学の文法だという発見である

ガリレオが、数学は科学を記述するためのものだと考え、さらにその後、デカルトが革命的な発想を持ち込む。数学の授業で必ず出てくる、x軸、y軸で表す「デカルト座標系」を生み出したのである。このように数学の捉え方や記述法が整えられることで科学と協力に結びついていくのだが、さらにそれを強く推し進めたのがニュートンだ。

ニュートンは4%程度もばらつきのある観測や実験から、100万分の1の精度を上回る重力法則を築き上げた。彼は史上初めて、自然現象の説明と観測結果の持つ予測能力を統合したのである。物理学と数学は永久に結び付き、科学と哲学の分離は避けられなくなった

こうして数学は、世界を正しく理解するための手段としての地位を確立していくことになる。

そんなニュートンは、デカルトが記した『幾何学』という書物に強く影響を受けた。そして当時の数学では、「幾何学」という分野(算数や数学でいう図形問題のようなイメージ)こそが最も有用性が高く、世界を記述するための法則であり、神が創造した永久不変の真理だとされていたのだ。

また、「確率・統計」の分野においても、「神の真理」を感じさせるものが現れる。それが「正規分布」だ。

「正規分布」は、ネットで調べればすぐ出てくるが、お寺の鐘のような形のグラフである。そして、「体重」「IQ」「株式指数の年間利益率」「メジャーリーグの平均打率」など、まったく無関係の様々なデータが、この「正規分布」に従うことが知られている。

自然界の現象だけではなく、人間の特徴や活動に関するデータであっても「正規分布」が関係するというのは、やはり「神が数学を創造した」ということではないのかと受け取られた。この頃までは、「数学は発見するもの」という考えが常識だったと言っていいだろう。

「非ユークリッド幾何学」という衝撃

しかし、19世紀に衝撃的な事実が判明する。それが「非ユークリッド幾何学」の発見だ。「非ユークリッド幾何学」の存在が知られるようになったことで、それまで単に「幾何学」と呼ばれていたものが「ユークリッド幾何学」と名前が変わった。そして、この「非ユークリッド幾何学」の発見こそが、「神が数学を創造した」という根拠を揺るがすことになるのだが、その流れを見ていこう。

「幾何学」という分野は、紀元前300年頃のギリシャの数学者・ユークリッドが生み出した。彼は、「証明する必要のない5つの明白な前提」を組み合わせることで様々な定理を導き出していく。5つの前提というのは、「すべての直角は等しい」や「ある点から等距離の点を繋ぐと円になる」など、誰でも「まあその通りだろう」と考えるものである。

その中の1つに、後に「平行線公準」と呼ばれるようになる前提がある。これは、大雑把に説明すると「平行な2直線は交わらない」となる。これも当たり前だと思うだろう。

しかし19世紀になるまでずっと、数学者はこの「平行線公準」に不満を抱いていた。他の4つの前提と比べると、説明が長くなるからだ。この「平行線公準」は、正確に表現するとこうなる。

2直線に他の1直線が交わってできる同じ側の内角の和が2直角より小さいなら、この2直線を延長すると、2直角より小さい側で交わる。

京都産業大学

確かに長い。そして数学者はシンプルを好む。

彼らはこう考えた。この「平行線公準」はどこか不自然だ、だから他の4つの前提を上手く組み合わせることで、この「平行線公準」を組み込む必要はないのではないか、と。ただ、数学者がどれだけ奮闘しても、「平行線公準は不要」と証明することはできなかった

しかしその後、まったく新しい考え方をする数学者が登場する。それは、「平行線公準が成り立たない幾何学も存在するのではないか」という発想だ。つまり、「平行な2直線が交わる幾何学」も作れるのではないか、と考えたのである。

そしてなんと、実際にそれが可能であることが判明した。「平行線公準」が不要な幾何学が存在するということである。そこで、「平行な2直線が交わる」ような幾何学を、それまでの幾何学と区別するために「非ユークリッド幾何学」と呼ぶことになったのだ。

この事実は当時の数学者に衝撃を与えることになった。何故なら先述した通り、「幾何学(ユークリッド幾何学)こそが真理」と考えられていたからだ。「幾何学」こそが真理だと思っていたら、幾何学に複数の種類が存在すると判明してしまう。複数の種類が存在するものを「真理」と表現するには無理があるだろう。

また、「『数学』は実在する」と考えている「発明派」(プラトン主義)の数学者からすれば、「平行な2直線が交わる」なんていう、現実と対応しそうにない「非ユークリッド幾何学」の存在など許しがたかったはずである。

そして、この「非ユークリッド幾何学」の発見をきっかけに、「数学は人間が作ったものなのではないか」という考えが広がっていくことになる。

さらに「発見派」に大打撃がもたらされる

一方、「発明派」(形式主義)の数学者からすれば、「非ユークリッド幾何学」の発見など問題にならない。彼らにとっては「無矛盾性」こそが重要なのであり、幾何学が複数存在しようが相互に矛盾さえしなければいいのだ。

そして、数学の本質は自由だと考える形式主義の数学者たちは、やがて数学に論理学を組み込もうとする

本書を読んで初めて知ったが、数学に論理学が組み込まれたのは実は最近のことなのだそうだ。学校で学ぶ数学は、明らかに論理学の形式で整えられているので、そういう記述が当然だと考えていた。しかし実際には、様々な分野で別々の形で生まれた数学を、「ごく僅かな前提から導こう」という形でまとめる過程で論理学が組み込まれていった、ということのようである。

さて、数学に論理学を組み込む過程で、さらに「発見派」は大打撃を受けることになる。この話は非常にややこしいので、あまり具体的には書かないが、結論だけざっと書くと、

ツェルメロ=フレンケル公理系においては、『選択公理』も『連続体仮説』も共に、肯定も否定もできないことが判明した

ということになる。

つまりどういうことかというと、ツェルメロ=フレンケル公理系においては、

  • 「選択公理」も「連続体仮説」も共に採用する
  • 「選択公理」は採用するが「連続体仮説」は採用しない
  • 「選択公理」は採用しないが「連続体仮説」は採用する
  • 「選択公理」も「連続体仮説」も採用しない

という4パターンが存在しうる、ということだ。

これも幾何学の時と同様、一つの分野に複数の選択肢が存在することになる。どれを選ぶかは、その時々の人間の判断次第だ。こうなると余計に、「数学は人間が作ったものだ」とという発想が自然ではないかと考える機運が高まることになるだろう。

ヒルベルトの計画を粉砕したゲーデル

しかし話はそう簡単ではない。今度は「発明派」が大打撃を受ける番である

ヒルベルトという20世紀を代表する偉大な数学者が、ある計画をぶち上げた。それは「ヒルベルト・プログラム」と呼ばれ、多くの数学者がその完成のために動いていた。

「ヒルベルト・プログラム」とは、大雑把に書けば、「数学のあらゆる分野を、僅かな前提と推論規則で記述し、それが無矛盾であることを示そうとする計画」だ。要するにヒルベルトは、「数学というのは形式主義そのものであり、それを完膚なきまでに示してみせよう」と考えてこのプロジェクトを始動させたのだろう。同時代の数学者を焚き付けて、「形式主義の勝利宣言」をしようとした、といったところではないか。

しかしこのプロジェクトは、完成を見ずに頓挫する。何故なら、天才数学者ゲーデルが25歳という若さで発表した「不完全性定理」が、彼の目論見に終止符を打ったからだ。この「不完全性定理」も非常に説明が難しく、この記事では具体的には記述しないが、要するにゲーデルは、「ヒルベルトがやろうとしているプロジェクトは、絶対に不可能だ」ということを証明したのだ。

もう少し詳しく書こう。ヒルベルトは、「数学のあらゆる分野を、僅かな前提と推論規則によって記述し、それが無矛盾だと示す」ことを目指した。しかしゲーデルは、「どんな風に数学を記述しても、その数学体系内部の理屈では、その数学体系が無矛盾だとは示せない」ということを証明したのだ。

「不完全性定理」によってヒルベルトの野望は潰えたのだが、しかし決して「数学は人間が作ったものだ」ということが完全に否定されたわけではない。「形式主義者」は、「人間が数学を作ったのなら、形式主義的に完璧に記述できるはずだ」と考えていたのだが、その目論見が無理だと証明されたにすぎない。

いずれにしてもゲーデルによって、「形式主義的な視点で捉えたとしても、数学は不完全なゲームでしかない」と示されてしまい、「形式主義」の勝利宣言とはならなかった

現時点で議論は、ここで止まっているのだろう。今後数学でまた新たな展開が生まれれば、「発見派」と「発明派」の主張に変化が出るかもしれない。

このように「数学」という学問を「神が作ったのか、人間が作ったのか」という視点で捉えるのも面白いだろう。

「数学の偏在性と全能性」を示す実例

発見か発明かという議論はここまでで終了だが、本書では最後に、「結び目理論」と呼ばれるものが紹介される。数学が思いがけない領域と結びつくという実例だ。この記事では簡単に触れていこう。

元々「結び目理論」というのは、原子モデルを説明するために生み出された。しかし早々にこの考えは誤りだと分かり、原子モデルとしては廃れてしまう。

ただこの「結び目理論」、数学的にはなかなか興味をそそるものだったようで、物理学者が考え出したこの理論は、純粋な研究対象として数学者たちによって発展されていく。数学者たちは当然、それが何かの役に立つと考えていたわけではなく、突き詰めていったら面白そうだという興味だけで研究を続けていたわけだが、ある時、この「結び目理論」が、生命の根幹を成すDNAと関係していることが判明するのだ。これだけでもなかなか興味深いだろう。

しかしそれだけではない。現在科学においては、「一般相対性理論」と「量子力学」を融合するために新しい重力理論が待望されているのだが、その候補の1つと考えられている「ひも理論」にも「結び目理論」の考え方が重要だということが分かってきているのだ。

当初は物理学の領域で生まれ、すぐに間違っていることが判明しながら、純粋に数学的興味で研究が続けられ、それが別の領域に関係していくというのは、やはり非常に不思議な感覚を抱かせるだろう。本書では、なぜこのようなことが起こるのだろうかと問題提起がなされる。やはり数学は、神が作ったのだろうか?

いずれにしても、数学の奥深さを強く感じることができる作品だ。

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最後に

私は、個人的には「発見だったらいいな」と考えている。その方がロマンがあるし、「人間が作ったもの」と考えるのはやはり味気ない。別に「神」や「創造主」を信じているわけではないが、いつかそういう存在が「実は俺が作ったんだよねぇ~」と言って手書きのノートを見せてくれたりすると嬉しい。

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