【異端】「仏教とは?」を簡単に知りたい方へ。ブッダは「異性と目も合わせないニートになれ」と主張した:『講義ライブ だから仏教は面白い!』(魚川祐司)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 仏教の理解に「修行」は必須であり、理屈だけでは捉えられない
  • インド圏の人々は「輪廻」を信じているからこそ「解脱」を目指す
  • 「おっぱい」を見ても「ただの脂肪の塊」と捉えられるようになるために「修行」が必要

「宗教」全般にちょっと馴染めなさを感じていたが、本書を読んで、「仏教」は非常に興味深いと感じられるようになった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

ゴータマ・ブッダは何を主張し、何故仏教はここまで受け継がれてきたのかが理解できる1冊

東洋哲学全般について、以前記事を書いたことがある

上の記事でもブッダの主張について触れたが、今回はさらに詳しく書いていこうと思う。

「宗教」全般に対して、私は正直あまり良い印象を持っていない。それは新興宗教に限らず、キリスト教やイスラム教などに対しても同様だ。何故印象が良くないかと言えば、「偉い人の教えを盲信する」というイメージを持ってしまうからである。「キリストが言ったこと」「コーランに書かれていること」などをある種”無批判”に受け入れ、それが絶対的な「正しさ」であると思い込む、というのが、私が「宗教」に対して抱いてしまう印象だ。

しかし本書を読んで、少なくとも「仏教」に対するイメージは大きく変わったと言っていい。

仏教にももちろん、その創始者であるゴータマ・ブッダの「教え」があるのだが、しかしそこに「盲信」は存在しない。上記の記事で詳しく触れたが、仏教に限らず東洋哲学は、いかに「悟る」かこそが何よりも重要であり、あらゆる教えが「悟る」ための手段に過ぎないのである。世の中の人々を「悟る」という状態へと押し上げるための手引書のようなものであり、聖書やコーランのような「ルールブック」的存在とは一線を画すと私は感じた。

「仏教」そのものは決して分かりやすいものではないが、本書の記述は非常に易しく、初心者でも分かった気にさせてくれる作品だ。臆せず手にとってみてほしい。

「仏教を理解する上での注意点」と「本書を読む上での注意点」

本書の冒頭に、こんなことが書かれている。

私が本講義で行っているのは、「理屈と筋道の話を聞いているだけでは駄目で、最終的には実践をしていただかないと、本当のところはわかりません」というところまでを、何とか理屈と筋道でお話しようとすることなんです。

「仏教」には「修行」が必要不可欠だ。「修行」をしない者に「仏教」を理解することはできない。そして、「『修行』をしない者に『仏教』を理解することはできない」ということを理解してもらうために本書が存在する、というのが著者のスタンスというわけだ。

同じようなことは、先述した『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』にも書かれていた。入門書を読むだけでは東洋哲学を理解できない理由についても触れたので、そちらも是非読んでほしい。

先述した通り、仏教においてはいかに「悟る」かが重要であり、すべての教えはその実現の手引書に過ぎない。そして、「悟る」ためには「修行」をしなければならないのだから、手引書だけ読んでいてもその本質は理解できない、ということになる。

だから、本書を読んでも「仏教」については分からない。ただし、「これ以上は『修行』をしなければ理解できない」というそのギリギリ手前ぐらいまでは連れて行ってくれる作品なので、それだけでも十分読む価値があると言えるだろう。

さてさらに本書ではもう1つ、こんな注意が促される。

そこで、本書では主に「ゴータマ・ブッダの仏教」の根源的な思想構造と、その実践(瞑想)との関連に焦点を絞ってお話をしています。

ざっくり言えば、「仏教には様々な種類があるが、本書では、創始者であるゴータマ・ブッダの主張に絞って話を進める」という意味だ。

仏教には大きく分けて「小乗仏教」と「大乗仏教」が存在する。ゴータマ・ブッダの主張は「小乗仏教」に集約されるのだが、我々が「仏教」と聞いて一般的にイメージするのは「大乗仏教」だ。つまり本書は、我々にとって馴染み深い「仏教」の話ではない、ということになる。この点は押さえておかなければならない。

本書には、このように書かれている。

そのような性質の著作ですから、本書は「これ一冊で仏教の全てがわかる」種類の入門書ではもちろんありません。右に述べたように、仏教に関しては様々な見方が存在しますから、本講義はあくまでもそのうちの一つを示したにすぎませんし、また基本的な知識であっても、本書の中ではふれることができなかったものも多くあります。
ただ、タイトルにある通り、本書を読むことで、「なるほど。たしかに仏教というのは、とにかく面白いものなんだな」ということを、読者の皆様に感じていただけるであろうことには、ひそかに自信をもっています。

あくまでも、本書をきっかけに「仏教」の世界に触れてほしい、という意味で執筆したというわけだ。

では、「小乗仏教」と「大乗仏教」はどのような関係にあるのだろうか? これについて著者は、著者自身のアイデアというわけではない「大乗経典同人誌論」を引用しながら説明している。もの凄くざっくり言えば、「小乗仏教」を元に作られた同人誌が「大乗仏教」というわけだ。

ゴータマ・ブッダの死後、彼の弟子たちが様々に、「ブッダ様はこんな風に言っていたけれど、自分としては仏教はこんな風であってほしい」と考えるようになっていく。それらは、ゴータマ・ブッダの思想である「小乗仏教」的な要素を含みつつも、弟子たちの希望も込められた別物(同人誌)だ

そしてそれら同人誌の方が世間に広まっており、我々が知っている「仏教」のイメージは「大乗仏教」がベースになっている。しかしそれは、本来ゴータマ・ブッダが主張したこととは違う、というわけだ。

この2点を理解した上で、本書や以下の記事を読んでほしいと思う

ゴータマ・ブッダの主張の本質は、「異性とは目も合わせないニートになれ!」である

著者は仏教について、

したがって、本来的には、ゴータマ・ブッダの仏教というのは、「社会の中で人間的に役に立つ」ための教えでは全くないわけです。

と断言している。まずこの点が私には非常に意外に感じられた

最近では「マインドフルネス」と名前を変えて「瞑想」に注目が集まるなど、「仏教的なもの」は「穏やかさ」「価値がある」という受け取られ方をされるだろうと思う。お坊さんに対しても、実像はともかくとして、「良い人」「穏やかな人」というイメージを持っているはずだ。

もちろん、仏教の修行を経ることで「良い人」「穏やかな人」になれる可能性はあると思う。しかしここで大事なのは、ゴータマ・ブッダはそんなことを目的として仏教を創始したわけではない、ということだ。

ではゴータマ・ブッダの目的とは一体何だったのか。本書には、ゴータマ・ブッダが考える「修行の末に辿り着くべき仏教徒の理想」についてこんな風に書かれている。

現代風にわかりやすく、比喩的に言うとすれば、ゴータマ・ブッダは解脱を目指す自分の弟子たち、つまり出家者に対しては、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と教えていたんです。

この意味は、現時点ではまったく意味不明だろうが、最後まで読めば理解できる。しかしそれにしても、「異性とは目も合わせないニートになれ!」というワードはなかなかインパクトがあるし、「仏教」のイメージとあまりにそぐわない点も非常に興味深い。

しかし、仮にそうなのだとして、こんな疑問が浮かぶ。「異性とは目も合わせないニートになれ!」などという教えが、どうして2500年間にも渡って連綿と受け継がれてきたのだろうか、と。「異性とは目も合わせないニートになれ!」というのは、現代においてももちろんだが、過去どんな時代の価値観と照らし合わせても「は?」と感じるような主張だ。どんな時代であっても「異端的な主張」だと言えるだろう。ではなぜそんな異端的主張が存在し続けたのか。

まさにその理由を考えることにこそ、仏教を学ぶ価値があるのだと著者は主張する。

だとしたら、私たちが本当に仏教を「わかる」ためにやらなければならないことは、「異性とは目も合わせないニートになる」ことをゴータマ・ブッダが推奨していたという、文献から知られる事実を隠蔽することではなくて、そのように「非人間的」で「ヤバい」教えを言葉どおりに実践した先に、最終的に得られる価値は何であるのかということを、正面から考えてみることだと思うんです。

まさにその通りだと思う。どれだけ素晴らしい教えだとしても、それが何らかの価値をもたらすものでなければ、今日まで残り続けるはずがない。だから逆説的に、「異性とは目も合わせないニートになれ!」という主張にはなんらかの価値があることになるはずだ。

そして、ここからわかることは、ゴータマ・ブッダの「非人間的でシンプルな教え」を実践して得られた先にあるものに、何かしらの価値があるいということ。あるいは少なくとも、そう考えた人たちがずっと存在し続けてきたということです。

では、その「価値」とは一体なんなのか? 本書の記述をそのまま引用するとこうなる。

「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。言い換えれば、ただ存在するだけ、ただ、いま・ここに在って呼吸しているだけで、それだけで「充分に満たされている」という、この世界における居住まい方

この文章も、現段階では意味不明だろうが、とにかく、「ゴータマ・ブッダは異常な主張をしているが、その実現のために修行することで、実際的な価値が得られる」という点は押さえておこう。

それでは、ゴータマ・ブッダがどのような思考で「小乗仏教」の主張にたどり着いたのか見ていくことにしよう。

「無限ループ」から逃れるために「解脱」を目指すという発想

まず「解脱」について説明していく

ゴータマ・ブッダは、この世の中を「条件付けされている世界」だと捉えていた。日は昇ればやがて落ちる。野菜を放置すればやがて腐る。このように、「『◯◯すれば△△になる』という発想で成り立っている世界」が「条件付けされている世界」なのであり、仏教の世界では「有為」と呼ばれている。

そして、「有為」の反対が「無為」であり、要は「条件付けされていない世界」のことだ。「涅槃」とも呼ばれており、仏教の実践によってこの「無為(涅槃)」に辿り着くことを「解脱」と呼んでいる。

「条件付けされている」については、あとで「おっぱい問題」として再び登場するので、そこで詳しく説明しよう。

ここで、なぜ「解脱」を目指さなければならないのかという疑問が浮かぶ。そこには、仏教における非常に重要な概念「苦(ドゥッカ)」が関係することになる。

では「苦(ドゥッカ)」とは何だろうか

私たちは普段、「有為」で欲望を充足する行為にあけくれている。要するに、「美味しいものを食べたい」「海外旅行に行きたい」などだ。しかし、どれだけ美味しいものを食べようが、より美味しいものを食べたくなってしまう。それがどんな欲望であれ、欲望充足を求める行為には終わりがないのである。

「苦(ドゥッカ)」というのはこの状態、つまり「際限なく欲望を追い求めてしまうこと」「満足したという状態には永遠に辿り着けないこと」を指す。「やりたいことをどれだけやったところで満たされはしない」という感覚を抱く人は結構いるのではないかと思うが、まさにその状態こそが「苦(ドゥッカ)」というわけだ。

この「苦(ドゥッカ)」は、インド圏においては非常に重要な問題だと捉えられている。何故ならインド圏では、「輪廻」が現実に起こることだと信じられているからだ。我々には捉えがたい様々なニュアンスが「輪廻」という概念には含まれるのだが、とりあえずざっくり「生まれ変わり」だと思えばいいだろう。

1度きりの人生であれば、「苦(ドゥッカ)」に囚われていてもそこまで大きな問題ではないかもしれない。しかし、何度生まれ変わってもこの「苦(ドゥッカ)」から抜け出せない人生だとしたら、それはあまりにも辛すぎる。「苦(ドゥッカ)」の無限ループというわけだ。

だからこそ、そんな無限ループから脱するために「解脱」を目指すという考えが生まれることになった。そして、そのために何をしたらいいのかを徹底的に考え抜いたのがゴータマ・ブッダというわけだ。

「苦(ドゥッカ)」から逃れて「解脱」するためには、世界認識のやり方を変えなければならない

ではどうすればいいのか。基本的な発想はシンプルだ。「苦(ドゥッカ)」があるから「有為」に囚われているのであり、「苦(ドゥッカ)」を捨てさえすればいいそうすれば「無為(涅槃)」に行けるというわけだ

ではどのように「苦(ドゥッカ)」を捨てればいいのか。「苦(ドゥッカ)」の根本原因は「渇愛」、要するに「欲望」だ。「渇愛(欲望)」があるからこそ「欲望充足の行為」が止められないのである。だから「渇愛(欲望)」が無くなればいい

つまり最終的には、「いかにして『渇愛(欲望)』を無くすのか」という話に帰着する。そしてここでようやく、先ほど名前を出した「おっぱい問題」が出てくるのだ。

さて、ここからの話はどうしても男性目線のものになってしまうので、女性の場合は何か「おっぱい」に代わるものをイメージして読んでほしい

「おっぱい」というのは、欲望のない状態で見れば「ただの脂肪の塊」でしかない。しかし、目の前に「おっぱい」がある時に、「ただの脂肪の塊だなー」なんて受け取れる男性はなかなかいないだろう。どうしてもムラムラしてしまう。欲望込みで捉えてしまうからだ。つまり「おっぱい」を「『ただの脂肪の塊』ではないもの」として見ていることになる

このように、実際には「ただの脂肪の塊」でしかないものを、欲望込みで捉えてしまう状態を「渇愛」と呼ぶ。これが本書で語られる「おっぱい問題」である。

そして、「修行によって『認知』を変えることで『渇愛』を打ち破ろう」というのがゴータマ・ブッダの主張なのだ。つまり、「おっぱい」が視界に入っても「なんだただの脂肪の塊じゃん」と捉えられるように認知を変えなければならない、そしてそのためには修行が必要だ、というわけである。

なんとなく理解できただろうか? もう少し説明を加えてみよう。

「おっぱい」を「ムラムラさせるもの」と捉えることは、「条件付けされた世界」に生きていることと同じだ。私たちは、どれだけ頭で「おっぱいはただの脂肪の塊」と言い聞かせたところで、実際に「おっぱい」を見れば欲望を伴った認知に囚われてしまう。

だからこそゴータマ・ブッダは、「世界=苦(ドゥッカ)」であると捉えた。欲望を伴った認知を避けがたい世界に生きているからこそ欲望充足が際限なく続いてしまうのであり、その結果として「苦(ドゥッカ)」から逃れられなくなるからだ。

だからこそ「世界」そのものを壊すことで「欲望を伴った認知」を転換しなければならないことになる。それはつまり、「おっぱい」を見ても「ただの脂肪の塊」にしか見えなくなるように世界の捉え方を変えるということだ。そしてだからこそ仏教では「修行」が必要になる、というわけなのである。

この説明で、仏教に「修行」が不可欠な理由も理解できるだろう。ゴータマ・ブッダの主張をどれだけ頭で理解したところで、「おっぱい」が「ただの脂肪の塊」に見えるようにはならないからだ。厳しい修行によって認知そのものを変えなければならず、だからこそ、理屈だけ知っても仏教を理解したことにはならないといえるのである。

最後に

この記事の文章だけではなかなか理解が及ばないだろう。本を読んで理解できた気になれても、他人に説明するのはなかなか難しいものだ。改めて、本書の読みやすさ、分かりやすさに驚かされる

著者は、自分の解釈こそが正しいと押し付けるタイプではまったくないが、一方で、世にある様々な「仏教本」についての苦言を呈してもいる。ゴータマ・ブッダの主張を本質的な部分で理解できていないもの、「こうである”はずだ”」という主張が強いものなど様々に存在するようだ。本書の著者が重視する、「ゴータマ・ブッダの主張は『社会の中で人間的に役に立つ』ようなものではまったくない」という考えについても、一切触れられていないものが多いという。

著者自身は仏教徒ではない。純粋に「ゴータマ・ブッダがいかにして仏教を生み出したのか」に関心があり、独自に研究を続けているのだうだ。非常にフラットな視点で仏教を捉えているような印象もあり、入門書として非常に秀逸だと感じさせられた

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