【人生】「資本主義の限界を埋める存在としての『贈与論』」から「不合理」に気づくための生き方を知る:『世界は贈与でできている』(近内悠太)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「差出人が分からない」「贈与であると気づかない」ものこそ「贈与」と呼ばれる
  • 「過剰に受け取ってしまったから次に渡す」という行為の連続が「贈与」を生み出す
  • 「贈与」に気づくためには「当たり前」を理解している必要がある

「仕事のやりがい」や「生きる意味」には「交換」の論理ではたどり着けない。だからこそ「贈与」的な見方が必要だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

『世界は贈与でできている』は、「贈与論って何?」という初心者にも面白く読ませる、「生きる意味」にも繋がるお話である

本書を読む前の私には、「贈与論って単語は聞いたことがある」ぐらいの知識しかなかった。内田樹の著作に「贈与論」の記述が少し出てくることがあり、「『交換』とはまったく違うものなのだな」という感覚をなんとなく持ってはいたが、それが何なのかきちんと説明できるほどには知らなかったのだ。

そんな私でも本書は物凄く興味深く読むことができた。メチャクチャ面白い

どんな主張が展開されるのかはこれから詳しく見ていくが、まず本書の読みやすさについて触れておこう。本書には、哲学者や思想家の難しい主張も出てくるが、しかしそういうものばかりではない。マンガ『テルマエ・ロマエ』シャーロック・ホームズ平井堅・back numberなどの曲の歌詞小松左京・星新一などのSF作家の作品といったように、様々なモチーフから話題や事例を提示してくれるのだ。

本書で説明される「贈与論」は、決して易しいわけではない。しかし、親しみを感じられる話が様々に出てくるのでとっつきやすさを感じられるはずだ。

そして「贈与」という発想を理解することで、「理屈がつくとは思えないような言動や現象を上手く捉えられる」だろうし、それは「なぜ我々は生きているのか」と考える際にも役立てられる。

そんななかなか馴染みのない「贈与論」について、本書でぜひ触れてほしいと思う。

「差出人」が分かってしまったら、それは「贈与」ではなく「交換」になってしまう

『贈与』とは何か」については、この記事を読みながらなんとなく理解していってほしいと思う。分かりやすい定義はしない。とりあえず言葉のイメージ通り、「誰かから何かを受け取ること」だという理解でいいだろう。

しかし、それは「交換」とはまた異なるものだ。「『交換』の論理に囚われてしまえば、それはもう『贈与』ではなくなってしまう」という言い方も可能である。

そこでまずは、「交換」との比較で「贈与」の性質について語っていくことにしよう。

本書には、「最近の若者は、献血を『コスパの悪い行為』と考えている」という話が出てくる。どういうことだろうか。

前提として著者は、最近の若者はボランティアへの意識が高い、と捉えている。しかしそれにも関わらず、献血にはあまり積極的になれないというのだ。その理由を著者はこう分析する。

自分の行為がどれくらい人の役に立っているのかが認識しにくいから積極的になれないということらしいのです

要するに若者は、ボランティアを通じて「感謝というレスポンス」を求めている、というわけだ。まさにこれは「交換」である。「ボランティアという行為」と「感謝というレスポンス」を交換しているのだ。別に「そんなスタンスではダメだ」などと言いたいわけではない。ただ事実認識をしているだけである。

献血と比較した場合の大きな違いは「差出人が分かっているかどうか」だ

対面で行われるボランティアであれば、「誰の行為なのか」が相手に伝わるし、だから、誰に「感謝というレスポンス」を返せばいいのかも分かる。しかし献血の場合、血液を受け取った人間はそれを誰からもらったのか知りようがない。そしてだからこそ「返礼の義務」が生じることもないのだ。

これが「贈与」である。つまり、「差出人が分からない」が故に、「受け取った人が、与えてくれた人に何かを返すことが不可能」という性質を持っているというわけだ。

「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと転じ、その受取人の自由を奪います。手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それは直ちに返礼の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」へと変貌してしまいます。そして、交換するものを持たない場合、負い目に押し潰され、呪いにかかってしまうのでした。

この理屈を絶妙に利用しているのが、サンタクロースだ

「サンタクロース」という存在は、「このプレゼントは親から贈られたものだ」という情報を覆い隠す。子どもは「サンタクロース」からもらったのだと考えるが、しかしそれは「返礼を行える存在」ではない。

つまり、子どもがサンタクロースを信じている間は、親からのプレゼントは「贈与」として成立し、「交換」の論理に絡め取られることはないというわけだ。

さて、このサンタクロースの話、実は正確には「贈与」ではない。この場合、親は「子どもがプレゼントを受け取ったかどうか」を知ることができるわけだが、「贈与」の理屈で言えば「差出人」さえも「相手が受け取ったかどうか」を知ることができないということになるのだ。

贈与は宛先に届かないかもしれない。
あるいは受取人が受け取っていることに気付いてくれないかもしれない――。
贈与にはそのような不安定な側面があります。

「差出人」が分からないように何かを与えるということは、必然的に「相手がそれを受け取ったかどうかもはっきりとは分からない」という状況を生み出す。具体的にはイメージしにくいかもしれないが、とりあえず先に進もう。

そしてそんな性質を持つからこそ、「贈与」は「祈り」と共に差し出されることになる。

祈りとは、贈与の差出人の「届いてくれるといいな」という倫理でした。
それは「届かない可能性」を前提とする態度です。
届くことがないかもしれないから、祈りながら差し出すのです。

少し私自身の話をしよう。私は15年以上もずっと、こうして本や映画の感想を書くブログを続けている。ブログを書いていても正直、ほぼ誰からも反応はない。ブログにコメントが来ることもほとんどなく、知り合いから直接感想を聞く機会もなく、ほぼ常に無反応のまま、長々と文章を書き続けている

私がそんな環境で文章を書き続けていられるのは、「贈与」的な発想を持っているからなのだろうと、本書を読んで感じさせられた。

別に「反応が来ない方がいい」と思っているわけでは決してない。ただ反応がなくても、「どこかの誰かには届いているかもしれない」という祈りみたいなものを、確かに私はずっと持っているとも感じるのだ。そんなことが本当に起こり得るのか分からないが、私が書いた文章によって、どこかの誰かが楽しんでくれたり、不安が解消されたり、新たな道へと進むきっかけになったりしているなら、それはとても嬉しく思う。

このように、誰かが本当に受け取ってくれているのかどうか「差出人」さえからないようなものが「贈与」と呼ばれる、というわけだ。

「過剰に受け取ってしまったから次に渡す」という行為を連続させる

しかし、「差出人が分からない」というだけでは、「贈与」としては不十分である。それが「贈与」であるためには、もう少しルールが必要なのだ。そのルールについて著者は、『ペイ・フォワード』という映画を引き合いに出して説明している。

まずは映画の内容にざっと触れよう。

主人公の新聞記者は、ある親切を受けた。記者は親切を受ける理由が思い当たらなかったため、相手に聞いてみたところ、「自分も親切を受け取ったからだ」という答えが返ってくる。親切をしてくれた人に何かお礼をするのではなく、別の誰かに渡す(Pay it forward)という善意が、この町では連綿と続いているという説明だった。

そこで記者は、その親切の連鎖を逆に辿ってみることに決めた。そして最終的にトレバーという少年に行き着く。インタビューで彼は、「ペイ・フォワードは確かに自分が考えて始めたことだ」と答え、そしてその直後に死んでしまう。

という内容だそうだ。

著者は「少年が死ぬ」というこの結末を「贈与論的に正しい」と主張する。何故ならトレバー少年は、「贈与」のルールを逸脱しているからだ。

「贈与」は基本的に、「誰かから過剰に受け取ってしまった」という感覚からスタートする。これが何よりも重要なことだ。しかしトレバー少年には、「過剰に受け取ってしまった」という感覚はない。彼はそんな感覚を持たないままで「贈与」を始めてしまったのだ。

というか、正確に言えばそれは「贈与」ではない。「贈与」のフリをした「供犠」である。

つまり『ペイ・フォワード』という映画は「贈与の失敗物語」だと言うのだ。

私の場合はどうだろう、と考えてみる。

私には、「本に救われた」という感覚がある。自分がとてもしんどかった時期に、本を読んでいたからなんとか乗り切れたという感覚が。

そういうものとの出会いは、いつ起こるか分からない。それは映画かもしれないし音楽かもしれないし、あるいは誰かとの会話やYoutubeの動画かもしれないのだ。

私はしんどさを抱える人に、「自分を支えるための何か」に出会ってほしいといつも願っている。そして私の場合は、本と映画に多く触れているので、それらとの接点を作れればいいと思って文章を書いているつもりだ。

そういう意味では私もきちんと、「過剰に受け取ってしまったから次に渡す」という行為を行えているのではないかと思う。

著者はあとがきでこんな風に書いている。

そんな僕の取るに足らない愚痴に、加藤(典洋)さんはこうおっしゃいました。
「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」

からっぽだと自覚するところから文章は始まる。
それで正しいんだよ。
そう言ってくださった気がしたのです。

「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰かからもらったものだ、ということです。他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです

確かに私の中にも似たような感覚はあるかもしれない。本や映画の場合、「差出人」が分かっているので正確な意味では「贈与」とは言えないが、「直接返礼をしにくい」という側面はあるし、私の気分的には「贈与」である。

本書を読んで、自分の行為をなんとなく「贈与」という観点から説明できる感覚になれたことは、大きな発見だった。

「贈与」は「受取人の想像力」からスタートする

さてここまでで、「贈与」が成立するためには「差出人は名乗ってはいけない」「それが贈与であるとも伝えてはいけない」という状況が必要だと分かった。

しかし普通に考えてこれは変ではないだろうか? 考えてみてほしい。自分の元に「何か」がやってきたとする。しかし、誰から届いたものなのかも分からないし、どんな性質のものなのかも記されていない。

では、その「何か」が「贈与」であるとどのようにして気づけばいいのか? もっと言えば、そのような性質を持つ「贈与」がなぜ存在し得るのか?

この疑問に対して著者はこう答える

贈与者は名乗ってはなりません。名乗ってしまったら、お返しがきてしまいます。
贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。
しかし、ずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しません。
だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要があります。
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。
だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない。

意味が分かるだろうか?

つまりこういうことだ。「贈与」というのはそれが届いた時点では「何だか分からないもの」でしかない。しかし届いた後しばらくして、「あぁ、あれはもしかしたら『贈与』だったのか」と気づく。そしてそういうものこそ「正しく『贈与』である」と言える、というわけだ。

そしてだからこそ、「贈与」において最も重要なのは「受取人の想像力」なのである。

だとするならば、受取人が現れさえすれば、あらゆるものが贈与になります。
贈与はどこから始まるかと言うと、第1章で見た通り、「受け取る」という地点からでした。
僕らは受取人としてのポジションからゲームを始めるのです。

繰り返すが、「贈与」には「差出人」はいない。あるいは、いるのだとしても受取人にはそれが誰なのか分からない。だからこそ、「あぁ、あれはもしかしたら『贈与』だったのか」と気づく受取人が存在しさえすれば、それはすべて「贈与」だと主張できるのだ。

この「受取人の想像力」を、2つの具体例でさらに説明していこう。キーワードは「16時の徘徊」と『テルマエ・ロマエ』である。

「16時の徘徊」は、『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』(酒井穰/ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本に出てくるエピソードとして紹介される。こんな話だ。

ある男性の母親が認知症になった後、毎日16時になると外に出ようとして暴れてしまう。男性が母親に理由を尋ねても答えは返ってこない。困り果てた男性は、ベテランの介護職員に助けを求めた。

介護職員は母親の兄と連絡を取り、「『16時』というキーワードに何か思い当たることはないだろうか」と聞いてみると、「息子(つまり母親を介護している男性)が幼稚園からバスで帰ってくる時間のことかもしれない」という。そこで介護職員が外出しようとする母親に、「息子さんは幼稚園のお泊り会だから今日は帰ってきませんよ」と告げたところ、「そうだったかね?」と言ってすんなり部屋に戻ったというのだ。

さて、この話と「贈与」は一体どう繋がるのか

男性には、「16時に外出しようとする母親の行動」はまったく理解できない。まさに「何だか分からないもの」だ。しかし介護職員の手助けのお陰で、母親の行動が「息子を迎えに行く」という「愛情から来る行動」だということが理解できた

この時点でこの男性は「受取人」の立場に立つことができる。そして彼が「受取人」になったことで初めて、「母親の愛情」という「贈与」が浮かび上がることになるのだ。まさにこれは、「受取人の想像力」が「贈与」を立ち上げた事例と言っていい。

一方の『テルマエ・ロマエ』は、ルシウスという主人公が古代から現代へとタイムスリップし、現代のお風呂事情に驚嘆する、という設定の物語である。ルシウスは浴場設計技師であり、古代ローマと比べて圧倒的に進化している現代のお風呂に新鮮な驚きを示すのだが、我々現代人からすれば当たり前のものでしかない。

これについて著者はこんな風に指摘する。

ルシウスは、現代を生きる僕らに何が与えられているのかを教えてくれます。
ルシウスが見て驚くもの、驚く対象。それは、古代ローマには存在していなくて、現代においては存在しているもののおよそすべてです。
それらは、僕らが気づかぬうちに受け取っていた贈与なのです。
なぜなら、古代ローマには存在していなかったということは、この世界に初めからあったわけではないものです。
ということは、歴史の過程で、それを生み出した誰かがいるということになります。
だとすれば、それは誰かからの僕らに宛てた贈り物と言えます。

我々は、自分たちが「凄いお風呂」に触れている実感がない。それは「受取人の想像力」が存在しない状態であり、だから「贈与」にも気づけないでいる。しかし、ルシウスがその驚きを示してくれることで、我々は「受取人」になれるのだ。そして、「古代ローマから現代に至るどこかの間で、誰かが素晴らしいものを生み出し続けてくれたのだ」という「想像力」を発揮することで、目の前にあるものが「贈与」であると認識できるようになるのである。

このように「贈与」には「受取人の想像力」が必須なのだ。そしてそれ故に、「贈与が誰にも届かない可能性」が認識されることとなり、だからこそ「贈与」が連綿と続く可能性が生まれる、と著者は指摘する。

贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
これは本書の贈与論において、決定的に重要な主張です。
そして、倫理と知性はどちらが先かと問われれば、それは知性です。
つまり、受取人のポジションです。
なぜなら、過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来へ向かって贈与を差し出すことができるからです。その主体は「もし私が気づかなかったら、この贈与は存在しなかった」ということを痛いほど理解しています。つまり、「この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない」と直覚できているからこそ、今から差し出す贈与も他者へと届かない可能性が高く、届いてくれたならこれほど素晴らしいことはないと分かっているからです。
この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない。
ということは、私がこれから行う贈与も他者へは届かないかもしれない。
でも、いつか気づいてくれるといいな――。
かつて受取人だった自身の経験から、そのように悟った主体だけが、贈与が他者に届くことを待ち、祈ることができるのです。

ここまでの説明で、「『贈与』とはどんなものか」について概ね理解していたのではないかと思う。贈与には「差出人」が存在せず、受け取った時点でそれが贈与だと気づかれてもいけない。しかし同時に、いつかは贈与だと気づいてもらう必要があり、そのためには「受取人の想像力」が必要である。つまり「受取人が存在することで『贈与』が存在し得る」というわけだ。

そうなると次は、「どうしたら『贈与』に気づけるのか?」を知りたいところだろう。そして本書で語られる「贈与論」の最も面白い主張がここで登場する。

それは、「『贈与』に気づくためには『資本主義』が必要」というものだ。これについて説明していこう。

「贈与」に気づくためには「資本主義」が必要

まずは、「『贈与』に気づくためには『資本主義』が必要」という主張の「おかしさ」について触れておこう。何がおかしいのか。それは、「資本主義とは結局『交換』」という点にある。

これについて著者はこんな風に書く。

資本主義というシステムに「資源の分配を市場に委ねる」という側面があるのだとすれば、資本主義は、ありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。
市場の拡大、資本の増殖。
そのためには、あらゆるものが「商品」でなければならない。
したがって、資本主義のシステムの内部では「金で買えないもの」はあってはならないことになります。資本主義を徹底し、完成させようとするのならば、僕らは金で買えないものを排除し続けなければなりません。
「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです。

つまりこういうことだ。「資本主義」においては、ありとあらゆるものが「金で買える」必要がある。それは、「金で買えないものはあってはならない」というほど強力な制約だ。つまり、「金さえあればありとあらゆるものが交換可能」ということになる。

これで、「『贈与』に気づくためには『資本主義』が必要」という主張の「おかしさ」が説明できる。要するにこれは、「『贈与』に気づくためには『(交換の論理である)資本主義』が必要」という意味であり、「交換」の論理に絡め取られたものは「贈与」ではあり得ないのだから、この両者が共存し得るという主張には違和感を覚えなければならないのだ。

著者は本書で、「資本主義」をネガティブなものとして捉えている。「あらゆるものが金で交換できる」という仕組みの存在が、社会に様々な問題を引き起こしていると指摘するのだ。

じゃあすべて「贈与」にすればいいのかと言うと、そういうわけではない。本書では、「『贈与』はたやすく他人を縛る『呪い』として機能してしまう」とも指摘されている。すべてのやり取りを「贈与」のみで行うことは現実的ではないというわけだ。

著者はこのようにして「資本主義」の難しさや「贈与」の難点などに触れていく。そして様々な話の後で、

ですから本書が論じた形の贈与は、市場経済を否定していません。
それどころか、むしろ、市場経済を必要としているのです。

と、本書の独自の主張を展開していくのである。

では何故、「贈与」には「資本主義(市場経済)」が必要とされるのだろうか? それを説明するために「不合理性(アノマリー)」というキーワードが登場する。

他者の不合理な振る舞いの中に、差出人としての姿が隠されている。
僕らは不合理性を通して、他者からの贈与に気づくことができる――。

贈与にはある種の「過剰さ」「冗長さ」が含まれています。なぜかというと、ある行為から合理性を差し引いたときそこに残るものに対して、僕らは「これはわたし宛の贈与なのではないか」と感じるからです。

「不合理性(アノマリー)」という言葉を使い、本書の結論を先に書くと次のようになる。

「贈与」に気づくためには「不合理性(アノマリー)」を認識する必要があり、我々が生きている社会の中で「不合理性(アノマリー)」に気づくためには「資本主義(市場経済)」が必要だ

そこでまずは、「不合理性(アノマリー)」とは何なのかに触れていくことにしよう。

「不合理性(アノマリー)」の説明、そしてそれに気づくために必要な要素

本書では「アノマリー」について、会話を例にしたこんな説明が出てくる。

例えば、「座ってほしい」と相手に伝える場合、「座れ」「座りなさい」「おかけください」「もしよかったらおかけになってはいかがですか」など様々な表現が考えられる。重要なのは、「文字数が増えるほど丁寧になる」という点だ。

文字数が増えるということは冗長性が増すということであり、まさにこれは「不合理」と言っていい。ただ情報を合理的に伝えるだけなら「座れ」と言えば済むはずだが、合理的ではないものを足すことでそこに丁寧さが加わっている。その丁寧さは「相手に対する敬意」であり、これは贈与のようなものだというわけなのだ。

つまり、「アノマリー」の存在が「贈与」に気づかせるきっかけになる、ということである。

しかし「アノマリー」に気づくことはなかなか難しい。その難しさを説明するのに「血液の循環」の話が登場する

人間の心臓は、1日に6000kgもの血液を送り出しているという。この事実を知って、あなたはどう感じるだろうか? 「心臓って凄まじい機能を持つ臓器だな」とは感じても、「それはおかしい、不合理だ」と感じる人はいないだろう

しかし、「心臓が1日6000kgの血液を送り出している」という事実を発見した17世紀のハーヴェイという医師は、「そんなはずはない」と考えたという。そこには、当時のこんな常識が関係している。

17世紀の常識では、「血液」は「肝臓で作られて体中に運ばれ、末梢組織で消費される」と考えられていた。つまり、「血液は、手足にたどり着いたら消えてなくなる」という、一方通行の流れでしかないと思われていたということだ。その常識を背景にすれば、「毎日6000kgもの血液が肝臓で作られ、手足で消えるなどということが起こり得るだろうか?」と考えるだろう。

そしてこれを「不合理」と捉えたハーヴェイは、「血液は体内で循環している」という事実に気づくこととなったのである。

さてこのエピソードから「アノマリーに気づくための要素」を理解することができるのだが、改めて情報を整理しよう。

ハーヴェイは「血液の循環」を発見した。その直接のきっかけは、「心臓が1日6000kgの血液を送り出している」という事実に気づいたことだ。しかしそれだけでは「血液の循環」の発見には繋がらない。もう1つ重要だったのは、「血液は肝臓で作られ、手足で消える」という当時の常識である。この「常識」があったからこそ、ハーヴェイは「毎日6000kgもの血液が手足で消えるなどありえない」とその「不合理」に気づくことができたのだ

つまり、「アノマリー」に気づくというのは、それがどんな「枠組み」から外れているのかを理解することであり、そのためには「枠組み」そのものを知っていなければならないのである。「アノマリー」に気づくためには、「常識」を正しく捉えている必要がある、というわけだ。

「市場経済」があるからこそ「誤配」に気づくことができる

これで、「贈与」に「市場経済」が必要な理由が理解できるだろう。本書にはこう書かれている。

ですから本書が論じた形の贈与は、市場経済を否定していません。
それどころか、むしろ、市場経済を必要としているのです。
なぜなら、無時間的な等価交換、相手を問わない形の交換が日常となっているからこそ、贈与がアノマリー、すなわち「間違って届いたもの=誤配」として立ち上がるからです。

私たちは普段、当然のようにして「交換」の世界に生きており、「市場経済では、すべてのものに値段が付き、金を支払うことで交換できる」と理解している。そしてそういう「常識」が染み付いているからこそ、「交換」の論理から外れた「アノマリー」に気づくことができるのだ。

「それが『誤配』である」と気づくためには、「『誤配』ではない正しいルール」を理解している必要がある。そして我々の世界ではそれは「市場経済」である、というわけだ。

さらに話を広げると、あらゆる「誤配」に気づくためには、それがどんな「常識」から外れているのかを知っている必要があり、だからこそ様々な勉強しなければならない、という論理も成り立つのである。決して経済に限る話ではないのだ。

本書ではさらにここから、「仕事のやりがい」「生きる意味」などについても触れられていく

なぜ僕らは「仕事のやりがい」を見失ったり、「生きる意味」「生まれてきた意味」を自問してしまうのか。それが「交換」に根ざしたものだからです。
ギブ&テイク、ウィン-ウィン。残念ながら、その中から「仕事のやりがい」「生きる意味」「生まれてきた意味」は出てきません。

「交換」の理屈からは、「仕事のやりがい」「生きる意味」を理解することはできない。だったらどうするのか。

不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次につなげなければならない。
誤配を受け取ってしまった。だから、これを正しい持ち主に手渡さなければならない。

誤配に気づいた僕らは、メッセンジャーになる。
あくまでも、その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が、偶然返ってくるのです。

「仕事のやりがい」と「生きる意味」の獲得は、目的ではなく結果です。
目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすことです。
だから僕は差出人から始まる贈与ではなく、受取人の想像力から始まる贈与を基礎に置きました。
そして、そこからしか贈与は始まらない

誤配に気づく。それをさらに次へと手渡すく。その積み重ねの結果として「仕事のやりがい」「生きる意味」が偶然に目の前に現れることがある。そういう形でしか、「仕事のやりがい」「生きる意味」に気づくことはできないと著者は主張するのだ。

「仕事のやりがい」や「生きる意味」に悩む人は多いだろう。しかしそれらを「交換」の理屈で考えている以上、正しい理解にたどり着くことはできない。そういう意味でも、本書を読んで「贈与」について理解することは重要だと言えるだろう。

最後に

「贈与」というのは非常に分かりにくいし、理解できたとしても実際に捉えるの難しい。しかし一方で、「誤配に気づき、次に手渡す」という行為そのものがある意味で人類の歴史であり、我々の存在が連綿と受け継がれてきた理由だとも捉えられるだろう。

「資本主義」という比較的新しいはずの考え方が、人間社会の根幹を成す当たり前の考えだと感じてしまうだろうし、そうであればあるほど「交換」の論理に絡め取られてしまう。しかし、人類は元々「贈与」の論理の中で生きていたのだと理解できれば、人生をまた違った見方で捉えることができるのではないかと思う。

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