【共感】斎藤工主演映画『零落』(浅野いにお原作)が、「創作の評価」を抉る。あと、趣里が良い!

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:斎藤工, 出演:趣里, 出演:MEGUMI, 出演:玉城ティナ, 出演:安達祐実, 出演:山下リオ, 出演:土佐和成, 出演:永積崇, 出演:信江勇, 出演:宮﨑香蓮, Writer:倉持裕, 監督:竹中直人
¥2,500 (2024/02/04 21:31時点 | Amazon調べ)

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • 「バズり」「流行り」みたいなものはすべて、私には「思考停止」にしか感じられない
  • 「共感を示す行為」は、「『私は何も理解していません』というメッセージ」として伝わってしまう可能性がある
  • 不自然なはずの「ちふゆの存在感」がとても自然に感じられる不思議さと、彼女を演じた趣里の見事さ

私が長いこと抱き続けてきた葛藤が核にある作品であり、久々に「自分のことが描かれている」と感じられた映画だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「創作の絶望」に直面する漫画家の葛藤をリアルに描き出す映画『零落』に滲む「世の中への嫌悪感」に強く共感させられてしまった

実に興味深い物語である。観ながら、様々なことを考えさせられてしまった。

「思考停止しているとしか思えない世の中」で生きざるを得ない「絶望」

映画『零落』の主人公である漫画家・深澤薫は、「売れる」「売れない」について様々な葛藤を抱えている。そして私も書店員時代に、「売れる」「売れない」については散々考えた

売り手からすれば、それがどんなものであれ、「売れるものは正義」である。売ることで商売が成り立つのだから当然だ。しかし、「売り手」の立場を離れればやはり、「『売れるもの』が『良いもの』なのか?」という問いにぶつかってしまう。もちろん、書店員だった頃はずっと、このような問いを抱え続けていた。

個人的には、「『良い売り手』にはなれなかった」と思っている。何故なら、「『売れるもの』が『良いもの』だとは思いたくない」と明確に考えていたからだ。というか、世の中のそのような流れにどうにか抗ってやりたいとさえ考えているのである。

映画の冒頭で深澤が、ある謎の少女について過去を回想するようにして語る場面があった。「自分の笑顔が嫌い」「首を締められている時だけが安心できる時間」と口にする、ちょっと変わったその少女は、「流行っているものに一喜一憂する世の中」に対して無性に苛立ちを覚えていたのだという。

あぁ、分かる」と感じた。私も同じような感覚を、子どもの頃からずっと持っている。私にとって「流行っている」という事実は、「なるべくそれに近づかないでおこう」と感じさせる情報でしかない。また、「ありとあらゆる判断が『流行っているから』に収斂されるような人」にも、どうしても嫌悪感を抱いてしまう

というのも私には、「流行りを追うこと」は「思考停止」とほぼ同義に感じられてしまうからだ。別に「『流行っているもの』を追うこと」自体に嫌気が差すのではない。「そこには恐らく、本人の思考が一切介在されていないのだろう」と感じられてしまう点にこそ、苛立ちを覚えるのである。

SNSが登場し、「バズる」という言葉が生まれた。そして、「バズることは正義」みたいな風潮が世の中を支配しすぎているように私には感じられてしまう。「バズり」も私に言わせれば、「思考停止」の集大成でしかない。もちろん、「バズったもの」に罪はないことぐらい理解している。一方「『バズり』に群がる人々」はまさに「『思考停止』の集団」と言っていいだろう。私は、そういう世の中が、とても嫌いだ。

繰り返すが、「バズったからダメ」「『バズり』に群がるからダメ」というわけではない。「たまたま知るきっかけが『バズり』だっただけで、その後中身を精査したり来歴を知ったりすることで好きになっていった」みたいなこともあるだろう。あるいは、「バズる前から好きだった」なんてことも当然あるはずだ。だから決して一概には言えないのだが、しかしやはり大雑把に言って、「『バズり』に群がる人々」は「何も考えていない」と考えていいと思う。少なくとも私は、デフォルトではそのように判定するようにしている。

そういう世の中が、私はとても嫌いだ

誤解されたくないので言葉を足すが、これは決して「他人の『感性』を批判している」みたいな話ではないそこに「感性」が介在しているのであれば、誰がどんな判断をしようが自由だと当然考えている。そして私が言いたいのは、「そもそもあなたの判断は『感性』によるものですか?」ということなのである。「あなたの『感性』が、それを『好きだ』と訴えかけていますか?」と聞いているのだ。

どんな出会い方をしようが、あなたの「感性」が強烈に反応しているのならそれでいい。しかし私は、「流行ってるから好き」「バズってるからやってみたい」みたいな判断は、「感性」によるものではないと考えている。それは単なる「思考停止」でしかないと判断しているのだ。「みんなと同じことをしたい」「みんなが『良い』と言っているものを好きになりたい」「こんなに流行ってるなら安心だ」みたいな判断はむしろ、「『感性』を殺している」のと同じではないかとさえ思う。

私には、そんな風に「『感性』を殺している」みたいな人が多すぎるように感じられる。そしてだからこそ、そういう世の中に生きることを割と本気で絶望しているのだ。

さて、そんな世の中で「創作」を行うことは、やはり「絶望」と言えるのではないだろうか。

深澤薫は、恐らくかつてはかなり売れっ子の漫画家だったのだと思う。しかし、8年間の連載が終了した直後から始まる映画『零落』においては、「昔ヒット作を出したことがある老害」みたいな扱いになっている。いや、周囲の人間がはっきりそう口にするわけではない。「彼がそのように自覚している」という話だ

深澤薫も、「売れれば正義」の世の中を明確に嫌悪している。はっきりとそれが伝わるのは、何度電話しても出ない担当編集者の留守電にメッセージを吹き込むシーンだ。「作り手が読み手を馬鹿にするようになったら終わりだ」「作り手が表現の先細りに加担してるんだからもう終わってる」などと、かなり辛辣なことを吹き込んでいるのだ。要するにこれは、「出版社は『売れる』のために『創作の魂』を売り渡してしまっている」みたいな指摘なのだと思う。

難しいのは、「彼自身、かつては大ヒットを飛ばしたことがある」という点だろう。「売れる」ことの威力を十分に知っているし、だからこそ「売れない」ことの無力さも否応なしに理解している。だから、「『売れる』かどうかよりも、『良いもの』を作りたい」という気持ちを常に抱きながら、どうしても「売れるかどうか」みたいな葛藤に囚われてしまってもいるのだ。

それ故に、もう何を描いたらいいのか分からなくなってしまっているのである。

その「共感」は、まったく届いていない

映画の中で特に印象的だったシーンがある。深澤薫が、「君は何も分かっていない」と呟く場面だ。映画のかなり後半のシーンなので、どういう状況で発された言葉なのか、その詳細には触れないでおこうと思う。とにかく私は、この場面で深澤が感じたであろう「絶望」が手に取るように理解できてしまった

その場面で深澤は、ある「共感」を示される。そしてそれに対して「君は何も分かっていない」と呟くのだ。普通は、「『共感』は『喜ばしい』もの」だと感じるのかもしれない。しかしこの時の彼の「絶望」は、売れっ子作家を担当する漫画編集者である妻から辛辣なことを言われる以上に深いものだったのではないかと思う。

どの程度賛同してもらえるか分からないが、私は昔から、「『共感を示す行為』は、『解像度』が合っていないと逆効果になる」と考えてきた。「解像度」というのは、「レベル感」とか「理解度(理解の深さ)」みたいに捉えてもらえたらいいだろう。例えば、「理解度10のAさん」に対して「理解度2のBさん」が「分かる~」と共感を示す場合、Aさんが「2しか分かってないお前に共感されたくない」と感じるのは、私は当然のことだと考えている。しかし恐らく、このように考えない人の方が世の中には多いはずだ。そして、私にはそれが信じられない。

私は、このようなことを昔から考えていたので、「『共感を示す』のはとても恐ろしい行為だ」とずっと感じてきた。何故なら、「私自身の『解像度』がどの程度であるか、相手に悟られてしまうから」だ。また、その「解像度」に差異がある場合、相手に「何も分かってないじゃん」と受け取られてしまい得ることも、恐ろしいポイントだと言える。

映画『零落』においても、ある人物が示した「共感」は、深澤薫にはまったく届かなかった。むしろその「共感」は、彼には「私は何も理解できていません」というメッセージとして届いてしまったのだ。そしてその事実が、彼に大いなる絶望をもたらすことになる。というのも深澤は、「この人には通じるかもしれない」という可能性をずっと抱き続けてきたからだ。その気持ちも、とてもよく理解できてしまった。

だから深澤薫は、かつて付き合っていた1つ年下の後輩のことが未だに忘れられないのだろう。彼にとってその後輩は、「まったく理解できないが、だからこそ『通じ合える』と感じられた存在」だったのだと思う。そういう人と一度でも出会えているなら、「誰かと『通じ合える』可能性」を幻想してしまうのも当然と言える。「人生で、誰とも一度も通じ合えたことがない」というのであれば諦めもつくが、たった一度でもそういう経験があれば、「次ももしかしたら」という可能性を捨てきれなくなってしまうだろう。

そういう「絶望」も含めて、深澤薫の抱えているものが、私にはとてもよく理解できてしまった。私は決して「創作する側の人間」ではないが、それでも、彼が抱き続けてきた葛藤は、私の中にずっとあり続けたものでもあると感じられる。だから、妻に対する絶望的な「伝わらなさ」も、ひょんなことから出会った「ちふゆ」に惹かれる感覚も、メチャクチャ分かってしまったのだ。

ホント久々に、「自分のことが描かれている作品だ」と感じさせられた映画だった。

映画『零落』の内容紹介

物語は、深澤薫が8年間に及んだ長期連載を終えたところから始まる。担当編集者が、社内の他の編集者を集めて慰労会を開いてくれたのだが、付き合い程度で参加した編集者たちは、既に「老害」でしかない深澤が喋っている間、ひたすらスマホをいじっている。誰も彼の話など聞いてはいない。帰りのタクシーの中で深澤は、アシスタントの1人である富田奈央に「もう終わった作家って思われてるんだろうなぁ」と思わず呟いた

それでも彼は、次の連載に向けて準備をするつもりでいる。ただ、何のアイデアも出てこない。2人いるアシスタントには、「使えそうな背景を適当に描いておいて」と指示するのみ。漫画編集者である妻は、今最も話題を集めていると言っていい漫画家・牧浦かりんの担当で忙しく、どうしていいか分からずにいる深澤の話を聞く余裕などない。彼は、気持ちも身体もどんどんと良くない方向へ進んでしまっている

そんなある日、気晴らしにと風俗嬢を呼んでみると、やってきたちふゆと妙に気が合った彼女に自分と似たような何かを感じ取った深澤は、どうやら人気嬢らしい彼女を度々指名しては、ホテルで様々なやり取りを交わしていく。

新連載のアイデアは出てこず、担当編集者からは邪険にされ、妻とは会話もままならず、既婚者でありながら風俗嬢と逢瀬を重ねる深澤薫は果たして、再び「漫画」と向き合うことが出来るのだろうか?

妻への絶望、「ちふゆ」の魅力、そして「りふゆ」を演じた趣里の存在感

印象的な描写は多々あったが、先ほど少し触れた「妻に対する『伝わらなさ』」も印象的だった

深澤薫は度々、妻に状況を説明しようとする。それは大雑把に言えば、「自分が今何を『しんどい』と感じているか」に関する話だ。確かに、彼の言葉は十分とは言えないかもしれない。しかし、長年連れ添った夫婦なのだし、また「漫画家」と「漫画編集者」という関係でもある。深澤としても、「これぐらい言えば伝わるはずだ」という感覚があったはずだし、そういう感覚を含めた上で私は、「深澤薫は自分の内面をきちんと妻に伝えようとしている」と感じた。

しかし、それは妻にはまったく伝わらない。妻は夫の辛さを、シンプルに「漫画が描けない」あるいは「描いた漫画が売れない」という形でしか捉えようとしないのだ。しかしそれは、深澤にとっては的外れな理解でしかない。そして最後の最後まで、妻は夫の言っていることを捉えきれなかった

私は決して、そのことで妻を責めているのではない。ただ、「これだけ説明しているのに、夫の主張がまったく理解できない時点で、この夫婦関係は継続出来ないだろう」とは感じた。最も身近にいる存在がこのレベルで話が通じない人だった場合、私ならちょっとしんどすぎるなと思う。この「伝わらなさ」は、ちょっと絶望的だと感じた。

さて、風俗嬢の「ちふゆ」の話に移ろう。彼女は、実に変わった存在だ。かなり特異な喋り方をするキャラクターであり、その点だけ捉えれば「現実感の薄い人物」にしか思えないだろう。しかし彼女の場合、その「変わった喋り方」も含めてキャラクターが”自然に”存在しているように感じられた。そしてそのことが彼女の「奇妙さ」をさらに助長させており、より一層「変わった存在」に思えたというわけだ。

ちふゆは終始、「21歳の女性がそんな喋り方をするはずがない」と感じさせるような口調で喋る。古風な感じとでも言えばいいだろうか。とても作り物めいた、そのままで実在しているとは感じられないような喋り方であり、普通に考えれば「不自然」に見えてもおかしくないはずだ。しかし映画『零落』においては、まったくそんな風には感じなかった

その理由の1つは恐らく、深澤薫とちふゆが逢瀬を重ねるシーンそのものが「非現実的」に構成されているからだと思う。「これは深澤の妄想で、ちふゆなんて人物は実際には存在しないのではないか」とさえ思わせるような雰囲気なのだ。恐らくそれは、「ちふゆとの逢瀬は、深澤にとって『非日常』である」という点を強調しているのだと思うが、だからこそちふゆの、本来的には「不自然極まりない」はずの喋り方が、とても馴染んでいるように感じられたのだろう。

そしてそのようなとても不思議な印象を、女優の趣里が見事に演じていると感じた。映画『零落』においては、深澤の元カノを演じた玉城ティナと、ちふゆを演じた趣里が、作品全体の印象を左右する実に重要な存在感を醸し出していたのだが、中でも趣里は重要だと思う。彼女の存在感が、この作品の屋台骨となって全体を一手に支えているような印象さえある。映画『零落』は、作中の随所に「よく分からなさ」が混在するのだが、それらすべてを「ちふゆ」という謎めいた存在がすべてひっくるめて引き受けているような感覚さえあって、そのような強い印象を、趣里が絶妙に醸し出していると感じた。

ネット記事で読んだのだが、ちふゆ役を趣里にと提案したのは、原作の浅野いにおなのだそうだ。そうするともしかしたら、「ちふゆ」という役を生み出す時点で既に、女優・趣里を多少なりともイメージしていたのかもしれない。その期待に、趣里が見事に応えたということなのだろう。とても素敵な存在感だった。

出演:斎藤工, 出演:趣里, 出演:MEGUMI, 出演:玉城ティナ, 出演:安達祐実, 出演:山下リオ, 出演:土佐和成, 出演:永積崇, 出演:信江勇, 出演:宮﨑香蓮, Writer:倉持裕, 監督:竹中直人
¥2,500 (2024/02/04 21:31時点 | Amazon調べ)

最後に

映画全体を通して「よく分からない部分」は結構あり、とても「理解できた」と言えるような作品ではない。度々「女子高生の脚」がアップにされる演出や、深澤薫が「台無しだよ」と口にするシーンなど、上手く捉えきれているとは言えないシーンも多かった

ただ、深澤薫という漫画家の葛藤は、創作者ではない私自身の葛藤でもあると言えるし、恐らくそれは、少なくない人が抱き続けている葛藤でもあるのだと思う。「理解度2で『分かる~』と口に出来てしまう人」にはたぶん「まったく意味不明な物語」だと思うのだが、そうではない側の人にはズバズバ突き刺さる作品のはずだ。

ホントに、この映画が示唆する「クソみたいな世の中」が、どうにか駆逐されてくれることを私はずっと願っている

次におすすめの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次