【未知】コーダに密着した映画『私だけ聴こえる』は、ろう者と聴者の狭間で居場所がない苦悩を映し出す

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:Nyla Roberts, 出演:Ashley Ryan, 出演:Jessica Weis, 出演:McKenzie Edwards, 監督:Itaru Matsui, プロデュース:Paul Cadieux, プロデュース:Mayu Hirano, プロデュース:Kengo Toyoda

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「コーダ」についてまったく何も知らなかったので、本作『私だけ聴こえる』で描かれる世界はとても衝撃的だった
  • 彼らは、「聴者の世界」にも「ろう者の世界」にも居場所が無いと感じられてしまう非常に辛い境遇にいる
  • 自分以外の家族が全員聴覚障害者という環境の中で、コーダはどのようにして言葉を覚えるのだろうか?

「コーダ自身に作品のディレクションを託す」という斬新な作り方のお陰もあって、まったく知らなかった世界のことが分かりやすく紹介されている

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『私だけ聴こえる』を観て初めて知った「コーダ」という存在。そんな苦悩があるとは思いもしなかった、驚きの現実

もちろん、「世の中には自分の知らないことがまだまだたくさんある」と理解しているつもりだったが、本作を観て本当に、思いもよらないところに思いもかけないような「未知」が広がっているのだと改めて認識させられた。映画『私だけ聴こえる』では、「耳の聴こえない親を持つ、耳が聴こえる子ども」である「コーダ」という存在が取り上げられているのだ。本作を観るまで私は、「コーダ」についてまったく何も知らなかった

私は「コーダ」という存在を、本作で初めて知った

映画のかなり早い段階で、登場人物の1人が次のように口にする場面がある。

私たちは聴者でもろう者でもない。コーダという種族だ。私たちにしか経験できないことがある。

本作『私だけ聴こえる』は、まさにこの事実を描き出そうとする作品だと言っていいと思う。観れば誰もが、「私たちにしか経験できないことがある」のだと実感できるだろう。しかし冒頭の時点では、私にはそれが何を意味しているのか、全然理解できなかった

もちろん、「ろう者(耳の聴こえない人)」のことは知っている。いや、正確には「知っているつもり」と書くべきだろうか。私は、それがどんな知識であっても、「『十分に知っている』と自覚することの強さ」を認識しているつもりだ。特に「身近ではない事柄」について知るのはなかなか難しいものだが、それでも、「ダイアログ・イン・サイレンス」という「聴覚障害者の世界を体感するイベント」に参加したり、目が見えず耳も聴こえなくなった大学教授・福島智を描く映画『桜色の風が咲く』を観たりしていたこともあり、「それなりに知っている方」ではないかと考えていた部分は正直ある。

しかし実際は、本作を観るまで、「コーダ」と区分される存在がいることや、彼らがかなりの苦労を抱えていることなどについてまったく何も知らなかった。世の中には本当に、知らないことがたくさんあるものだと改めて感じさせられた作品である。

私が「コーダ」という単語を初めて認識したのは、映画『Coda コーダ あいのうた』だったと思う。この映画自体は観ていないが、アカデミー賞を受賞したことでメディア等でも取り上げられる機会が結構あったので、「コーダ」という単語だけは目にする機会があったのだ。聴覚障害者を扱った作品だということも知ってはいたものの、それでも「コーダ」が何を意味するのかは知らないままだった。

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その後私は、本作『私だけ聴こえる』の存在を知る。そして確か、映画館に置かれていたチラシか何かで「コーダ」の意味を知ったのだったと思う。

しかしその時も、「確かに、親が聴覚障害者でも子どもまで同じとは限らないわけで、となれば『耳の聴こえない親を持つ、耳が聴こえる子ども』みたいな状況もあり得るのか」と感じた程度だった。正直なところ、「わざわざ『コーダ』などと別の名前をつけて区別するような意味があるのだろうか?」と思ってもいたのだ。そんなこともあって、本作を観るかどうか、ちょっと迷っていたところもある。

しかし、本当に観て良かったと思う。そこには本当に、まったく知らない世界が広がっていたのである。

「コーダ」が抱える辛さ

映画は、数人の「コーダ」に密着する形で進んでいく。そしてそれとは別に、「匿名のコーダたちの本音」が何度か字幕で映し出されるのだが、その中の1つに次のようなものがある。

聴こえている人の世界にずっといたら、気が狂いそう。

この感覚には、シンプルに驚かされてしまった。改めて書くが、コーダは「耳が聴こえる」のである。普通に考えれば、「聴こえないより、聴こえる方が良いに決まっている」と考えてしまうだろう。しかしコーダの話を聞くと、どうもそうではないようなのだ。

また、メインで取り上げられる1人であるナイラは、冒頭でこんな風に語っていた。

小学校に入るまで、周りには私も「ろう」だと言っていた。喋るのが嫌だったから。
今も喋るのは嫌い。話すことに抵抗を感じていた。
ろう者になりたいってずっと思ってた。

やはり、「『聴こえる世界』への違和感や苦痛を抱いていた」というのである。割と早い段階でこのような感覚が示されるのだが、「コーダ」についてまったく知識の無かった私には、正直信じられないという感覚の方が強かった。「そんなことがあり得るだろうか」と疑ってさえいたのだ。

さて、映画の冒頭で、アメリカではよく行われているらしい「コーダキャンプ」に密着する様子が映し出される。私が観た回は上映後にトークショーがあり、その中で話していたのだが、撮影スタッフはまずこの「コーダキャンプ」に張り付いて、これから密着したいと思えるコーダを探すことにしたという。

「コーダキャンプ」はその名の通り、コーダのみが集まるイベントである。容易に想像できるだろうが、「コーダ」の絶対数はとても少ないはずだ。ネットで調べたところによると、聴覚障害の50%は遺伝だそうで、どうしたって、聴覚障害者の親からは聴覚障害を持つ子どもが生まれやすくなる。だから、「耳の聴こえない親を持つ、耳が聴こえる子ども」の数は、聴覚障害者よりどうしても少なくなるのだ。なんとなく「聴覚障害者のコミュニティ」はあちこちに一定数存在しそうな気がするが、「コーダのコミュニティ」はちょっと想像しにくいだろう。

つまりコーダにとって、「周りにコーダしかいない環境」など普通にはまず実現しないのである。そのため、この「コーダキャンプ」は彼らにとって、ある意味で「天国」のような素晴らしい環境に感じられるのだそうだ。

そんなわけで話を聞くコーダたちからは、口々に「帰りたくない」という趣旨の発言が出てくることになる。

みんなコーダだから、心から分かり合える。

自分の家よりも家みたい。

ここで暮らしたい。両親に会うのは年1回でいい。

聴こえる世界に戻ったら、うんざりしそう。

このような不満や苦痛を抱えているにも拘わらず、それを理解してくれる人が周囲にいないとなれば、それはかなり辛い状況と言えるだろう。また、私の場合、「コーダ」という存在さえ知らなかったわけだから想像のしようもなかったのだが、それでも、「こんな苦労を抱えている人がいる」という事実を知らなかった自分に驚かされてしまった

さて、このコーダキャンプでは、みんなで話し合いをする時間も設けられており、その中で、自身もコーダであるカウンセラーのバートが、「周囲と馴染めないと感じるのはどういう時?」と質問をする。もちろんこれは「聴こえる世界」での話だ。そして、彼らが様々に語る話を聞いて、私はようやく「コーダの大変さ」の一端を知ることが出来た

手話をしながらの会話は、何故か落ち着くんだ。字幕みたいで。

手話しながら話をすると変だと思われる。

声が大きいねって言われる。聴こえる人がいないから、声の加減が分からないの。

「家は静かなんでしょ?」って言われるから、友だちを家に呼べない。母は台所でシャウトしてるから。

学校で「父親が迎えに来る」っていうと、「どうやって?」って聞かれる。「車の運転ぐらいできるよ」と言うと、「嘘ばっかり!」って。

これらは、聞けば「なるほどそれは大変だ」と理解できるエピソードだと思う。しかし一方で、何も知らない状態で想像を巡らすのはかなり難しいだろう。特に、日本では家同士が近いからまた状況は違うだろうが、「『聴こえないこと』をいいことに、母親が台所でシャウトしている」なんて状況は、知識として知らなければなかなかイメージ出来るものではないと感じた。

彼らの話から理解できることは、「コーダ自身は『聴こえる』のだが、『聴こえない者』とのコミュニケーションが日常であるが故に、むしろ『聴こえる者』とのコミュニケーションに困難さを感じてしまう」という事実である。指摘されれば「なるほど確かに」と感じられる話なのだが、まさかそんな「大変さ」が世の中に存在するとは想像もしていなかった。そして、私と同じように多くの人がそういう認識を持てずにいるから、「コーダの苦労」はなかなか可視化されないのだし、その「可視化されない」という事実がさらに彼らの苦労を倍加させることになってしまうのである。

コーダが抱えている苦労は様々にあるのだが、それらをぎゅっと凝縮させると、ある人物の次のような言葉に集約されると言えるだろう。

学校でありのままの自分でいると、受け入れてもらえない。

本作にはMJという女の子が出てくるのだが、作中では、この問題に対して彼女が特に困難さを感じている様子が映し出される。彼女は「ろう者」と接する時は生来の「のんびり屋」のような感じでいられるのだが、「聴者」の世界である学校では「独りが好きな大人」を意識的に演じているのだという。楽器を演奏している時だけが唯一学校で安らぎを感じられる時間なのだそうだが、同時に、

音楽が止まった時、不安が忍び寄る。ただ幸せになりたいだけなのに。

とも言っていた。

他にも、

もう自分ではいられない。

「自分らしく」とみんな言う。
でも、学校で私らしく振る舞おうとすると、「なにそれ?」って言われる。
本当に「自分らしく」したら叩かれるんだ。

と語り、カメラの前で涙を流すのである。これはつまり、「ろう者との世界」と「聴者との世界」があまりにもかけ離れているために、「2つの異なる人格」を持たなければならなくなるということだと思うし、そうであればあるほど「自分らしさ」みたいなことから遠のいてしまうというわけだ。「聴こえる/聴こえない」を行き来する生活は、このような苦労を伴うのである。

他のコーダとは少し感覚の異なるナイラ

さて「コーダあるある」の1つに、「親の通訳をしなければならない」というのがある。家族の中で「聴こえる」のが自分だけなのだから、「ろう者」の話を「聴者」に伝えなければならなくなるのは必然と言えるだろう。しかし、常にそのような役割を担わされることで、「自分が話したいと思っても、通訳に徹しなければならない」という状況に苦痛を感じるコーダも多いのだそうだ。

しかし、メインで映し出される1人であるナイラは、そんなことはなかったと語っている。親から通訳を頼まれたことは一度もないが、3~4歳の時点で既に、自ら通訳を買って出ていたそうだ。彼女は、

私は、2つの世界を結ぶ役割を担えて、とても嬉しい。

とさえ語っていた。

ただ、映画の中で描かれる情報から判断する限りにおいては、ナイラはコーダの中でもちょっと違った感覚を持っているようだ。

コーダはよく「ろうになりたい」と口にする。「聴こえない人になりたい」と考えているというわけだ。しかし、確かMJだったと思うが、

本気でろうになりたいと思っているコーダはいない。どこか1つの場所に居場所がほしいだけ。

とも言っていた。まあ、そりゃあそうだろうと感じる話である。「ろう者になることで、居場所が得られる」と考えているだけで、本当に「聴こえない人」になりたいわけじゃない。これは理解しやすい感覚ではないかと思う。

しかし映画を観る限り、ナイラはちょっと違う感覚を持っているようである。どうも「本気でろう者になりたがっている」ように見えるのだ。ある場面で彼女は、「聴力が衰えているかもしれない」と感じ、病院で検査をしてもらう結果は「問題なし」だったのだが、その後彼女は次のように語っている。

がっかりした。ろうになれると思ってたから。
ようやく両親や兄のことを理解できるんだ、って。

彼女は、彼女以外の5世代が全員ろう者という家に生まれ、子どもの頃からずっと「ろう者の世界」で生きてきた。しかしそんな彼女でさえ、「ろう者との間には壁を感じる」と口にしている。

兄はろう者で、ろう学校の仲間とは家族みたいな関係だ。私もその仲間に入りたいけど、入れない。私はどこにいてもはみ出し者だから。

ずっと「ろう者の世界」で生きてきたからこそ、「聴者の自分には、本質的にはろう者のことが理解できない」という実感が積もり続けたのだろう。傍から見ているだけで、彼女がそのことに対してモヤモヤした想いを抱いていることがとてもよく伝わってきた。さらに彼女は、続く場面で「思わず」といった感じで涙を流す。ただし彼女自身も、その理由を的確に言語化することはが出来ないようだった。恐らくだが、「『ろう者の世界』に対してある種の『豊かさ』みたいなものを感じている」一方で、「自分がその世界に『深入り』出来ないもどかしさを実感させられている」のではないかと思う。そしてそのことに苦しんでいるように私には感じられた。

だから彼女はきっと、本心から「ろう者になりたい」と願っているのだと思う。

でも、そしたらまたゼロから始めるの? コーダとしてやっと、居場所を見つけられたのに?

そんな葛藤を抱きながらではあるが。

「ろう者の世界から離れたくない」というジェシカの感覚

本作では様々なコーダが取り上げられるわけだが、その1人であるジェシカもまた違った感覚を持っている。彼女は「コーダとしての葛藤」をあまり抱えていないように見えた。コーダとして生まれ育ったことが、彼女のアイデンティティに大きな影響を及ぼさなかったということなのだろう。ナイラやMJと比べると、そういう点ではマシな状況にいると言えるのではないかと思う。

一方で彼女は、「ろう者の世界」との繋がりに対する不安を口にしていた。

成長するにつれて、手話を忘れてしまうかもしれない。それが怖い。ろう文化と繋がっていたいと思う。

これも「コーダあるある」のようだが、進学などで親元を離れることで「手話を使う環境」から遠ざかってしまい、結果的に「手話を忘れてしまう」ことが多いのだそうだ。自身は聴者であるコーダの場合、「家族」を除けば「聴者の世界」で生きているのだから、「家族」と物理的に距離が離れることで必然的に手話が不要になるし、当然使わなければ忘れてしまう。そしてジェシカは、この点にこそ葛藤を抱いているようなのだ。

映画の中では、恐らく進学なのだろう、ジェシカが親元を離れる決断をする場面が映し出される。彼女は、同じくコーダである妹に、「今まで自分がしてきたような『ろう者の家族』とのコミュニケーション」を託す。しかしどうも、そう簡単ではないようだ。妹については詳しく触れられていなかったものの、ジェシカが家を離れることに関して母親が、

この家は静かになる。今までと変わってしまう。

と語っていたので、恐らく「妹とはジェシカのようには関われない」と感じているのだと思う。「同じ家族であっても、『聴者』と『ろう者』のコミュニケーションは難しい」のだと感じさせられた話でもあるし、「コーダが家を離れること」の課題でもあると言えるのだろう。

このように、ナイラ、MJ、ジェシカと抱える問題は様々なのだが、いずれにせよ、「『コーダ』という非常に特殊な立場が、なかなかに想像し難い困難さをもたらしている」ことが理解できた。「聴者でもろう者でもない」という、ろう者以上に狭い世界に生きざるを得ない状況がもたらす大変さに、かなり驚かされたというわけだ。

「コーダはどうやって言葉を習得しているのか?」という疑問

さて、私は映画を観始めてすぐに、ある疑問に行き着いた。それが、「コーダはいかにして言葉を学ぶのか」である。何を言っているのか理解できるだろうか?

登場人物の1人が、こんなエピソードを披露していた。音楽の先生と旅行に行った際、手話の通訳をする機会があったのだが、その際に「どこで手話を覚えたの?」と先生に驚かれたという話である。彼女は、「その時に初めて、親がろう者だと気づいた」と言っていた。「手話でのコミュニケーション」が当たり前の世界に生きていたため、「みんな手話ぐらい出来る」と当然のように考えていたからだ。そんなわけで、その時まで自身の特殊性に気づかなかったと言っていた。

この話からも理解できるように、「聴者」であるコーダは、家族が大体「ろう者」なので、コミュニケーションのほとんどを基本的に「手話」で行う。一般的に、子どもの頃の言語習得は「親との音声会話によるコミュニケーション」に依る部分が大きいと思うが、コーダの場合は当然「親との音声会話によるコミュニケーション」など存在しない。このように、「聴者」として生まれても、環境的に「音声言語を習得する機会」が得られないのだから、コーダは「言葉を覚えられない」のではないかと私は考えたのだ。

作中にはこの点に関する説明はなかったので、上映後のトークショーで質問してみたのだが、その答えは「なるほど」と感じられるものだった。

登壇した本作の監督も、撮影中にまったく同じ疑問を抱いたという。そのため、取材対象にしていたコーダに聞いてみたそうだ。そのコーダは「小学校に上がるぐらいまでは、まったく喋れなかった」と話していたという。やはり環境的に、言葉を習得できるような状態ではないということだろう。

しかし、だったらどうして喋れるようになっているのか。そこには実は、アメリカ特有の事情が関係している。移民が多いアメリカでは、学校に「移民に英語を教えるクラス」が存在するというのだ。そしてコーダの子どもたちは、そんな移民の子に混じって英語を学ぶそうである。

さてそうなると、当然のことながら、日本での状況が気になるところだろう。日本の学校には普通、「移民に日本語を教えるクラス」は存在しないからだ。そしてやはりと言うべきか、「日本ではアメリカ以上に、コーダが厳しい状況に置かれている」と監督は話していた。

私も、本作『私だけ聴こえる』を観て初めて「コーダ」という存在を知ったわけで、一般的に「コーダ」のことは全然知られていないはずだ。だから学校の先生も、「この子は耳が聴こえるのに、どうしてこんなに喋れないのだろう」という認識で止まってしまうのだという。確かに、「コーダ」という存在をそもそも知らなければ、その認識から先に進めなくても仕方ないと言えるだろう。

しかし、まさか「移民の受け入れの差」が「コーダの言語習得環境の差」に繋がっているとは、誰も想像出来ないのではないかと思う。正直、トークイベントでのやり取りだけでは、「日本のコーダがいかに言葉を覚えているのか」までは理解できなかったのだが、かなりの苦労を強いられていることは想像に難くないだろう。正直、「コーダ」の絶対数はかなり少ないと思うので、支援が行き届きにくいという側面もあると思う。アカデミー賞受賞作である映画『Coda コーダ あいのうた』によってその認知度は少し高まったと言えるかもしれないが、やはり「多くの人が『問題そのもの』を認識する必要がある」と感じさせられた。

アメリカの事例を取材した理由と、本作のディレクションをコーダ自身に任せた話

トークイベントでは、もう1つ質問をしてみた。先程の話と少し関係するのだが、「日本人監督が、何故アメリカの事例を基にドキュメンタリー映画を作ったのか」である。英語が喋れる人なのかなどについては知らないが、日本人の監督なのだから、日本の事例を取り上げる方が自然ではないかと感じたのだ。そして私は、「そうすることが不可能だった事情が何かあるのではないか」と想像していたし、それは「取材を開始した時点で、日本では『コーダ』という概念がほとんど存在しなかったから」ではないかと考えていたのである。

監督は、「最初に出会ったコーダがアシュリーというアメリカ人であり、そのことがアメリカでの撮影を行う理由の1つだった」と言っていたが、やはり私の想像通り、「日本での『コーダ』の認知度」も無関係ではなかったようだ。作中では、「アメリカでは1984年頃から『コーダ』という考え方が広まり始めた」と説明される。一方、監督はトークイベントの中で、「日本で認識されるようになったのはここ1~2年ではないか」と語っていた。つまり日本では、アメリカのコーダと同じ状況に置かれていても、自分が「コーダ」であるという自覚を持てない可能性が高いと考えられるのだ。

また、監督の口から「J-CODA」という日本の団体の名前が出てきたので後で調べてみた。1994年に設立された団体のようだが、HPには「会員数 約40名」と書かれている。コーダの絶対数が少ないといっても、40名はあまりにも少なすぎるだろう。この会員数からも、日本でいかに「コーダ」が認知されていないかが判断できるのではないかと思う。

さて、本作『私だけ聴こえる』の制作には、7年もの歳月がかかったそうだ。資金難やトラブルなどの問題も色々とあったそうだが、監督の口から語られた話の中で私が最も重大だと感じたのは、「『コーダ』という存在をどのように取り上げるべきか」というディレクションについてだった。

監督は元々、通常のドキュメンタリーの手法でコーダを撮影していたという。つまり「監督のイメージに合わせる形で、ナイラたちコーダのことを切り取っていく」というやり方だ。しかしそんな風にして撮っている最中、コーダの1人から「あなたにはコーダのことは分からない」と言われてしまったという。確かに、オーソドックスなドキュメンタリーの手法では、「コーダとはこういう存在である」という単なる説明に終始するだけの作品になってしまうかもしれない。監督もそのように考え、一度撮影を止めて立ち止まったのだそうだ。

その後監督は、「コーダ自身に映像のディレクションをしてもらう」という提案を彼女たちにした。それまでのやり方とは真逆と言っていいだろう。そしてこのドラスティックな変更によって、映画の内容が大きく変わっていったのだそうだ。

本作については、「よくこんなプライベートな状況にカメラが入れたな」と感じるシーンがとても多かったのが印象的だった。そもそもドキュメンタリーとはそういうものだということは十分理解しているつもりだが、それでも、生活や内面にかなり踏み込んでいると感じさせられたのだ。

しかしトークイベントの中で監督が、「映し出される多くの場面が、登場するコーダたち自身のアイデアだ」と言っていたので納得できた。だからこの事実はむしろ、「コーダがいかに『自分たちのことを分かって欲しい』と強く願っているかを示すもの」と捉えるのが正しいのだろうと思う。

監督から「ディレクションを任せたい」と言われたコーダたちは、「自分のことを分かってもらうためにどんな場面が必要なのか」を考え、そこにカメラを入れる段取りをつけたのだろう。もちろん、ドキュメンタリー映画の撮影がそんな単純なものではないことぐらい分かっている。ただ、「聴者がコーダを撮る」のではなく「コーダ自身がコーダを撮る」というスタイルに変えたことで、少なくとも日本ではほぼ知られていないだろう「コーダ」のことがかなり伝わりやすい作品に仕上がったと言えるのではないかと思う。

このような点も含め、全体的にとても興味深く展開される作品だ。非常に面白かった。

出演:Nyla Roberts, 出演:Ashley Ryan, 出演:Jessica Weis, 出演:McKenzie Edwards, 監督:Itaru Matsui, プロデュース:Paul Cadieux, プロデュース:Mayu Hirano, プロデュース:Kengo Toyoda

最後に

自分とは違う立場にいる人たちについて想像を巡らすことはなかなか困難ではあるが、それでも、「何らかの障害を有している人」の苦労についてはそれなりに触れたり考えたりする機会があると言えるだろう。しかし「コーダ」の場合、自身は「障害者」ではない。それなのに、障害者と同等かあるいはそれ以上の苦労を抱えてしまっているのであり、その事実にとにかく驚かされてしまったのである。

本作で描かれることのほとんどが初耳で、まったく知らないことだらけだった。本当に観てよかったなと思う。

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