【考察】A24のホラー映画『TALK TO ME』が描くのは、「薄く広がった人間関係」に悩む若者のリアルだ

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ソフィー・ワイルド, 出演:アレクサンドラ・ジェンセン, 出演:ジョー・バード, 出演:ミランダ・オットー, 出演:オーティス・ダンジ, 監督:ダニー・フィリッポウ, 監督:マイケル・フィリッポウ, Writer:ダニー・フィリッポウ, Writer:ビル・ハインツマン
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「『皆が真似していること』を真似る行為」の面白さが、私にはまったく理解できない
  • 「SNSは、『人と人とをあっさり遠ざけるツール』になってしまった」という考察
  • 「リソースの省エネ」という観点から、「『皆が真似していること』を真似る行為」の広がりについて考える

現代の若者が、私が考察した通りの状況に置かれているとしたら、そりゃあ大変だわと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』は、ホラー映画とは思えないテーマを切り取る、実に現代的な物語だ

「『皆が真似していること』を真似る行為」が、私にはまったく理解できない

なかなかにムチャクチャな話だった。面白いとか面白くないみたいな評価のしにくい作品だが、ただ「観て良かった」とは思う。

正直に言えば、作中の登場人物たちの行動は私にはまったく理解できなかった。「その何が面白いんだ?」としか感じられないのだ。しかし公式HPを読んで、私が彼らに共感できないのは恐らく、私が41歳のオジサンだからだろうと思った。そして、私が理解できるかどうかはともかく、本作で描かれているのが「現代の若者のリアル」なんだとしたら、その事実こそが何よりも恐ろしく感じられる

本作の中心にあるのは、作中世界ではSNSでバズっているらしい「90秒憑依チャレンジ」だ。具体的には説明しにくいのだが、ざっくり「こっくりさん」みたいなイメージをしてもらえればいいと思う。どんな小道具を使うのかの違いはあれど、「霊的な存在を身体に降ろす」という部分は同じだ。そして「90秒憑依チャレンジ」では、「90秒以上霊が身体に入ったままだと危険」とされており、そのため「チャレンジ」という呼ばれ方になっているのである。

さて、作品自体の話から少し離れるが、私は基本的に、「流行っているものを皆で真似する」ことの面白さが全然理解できない。私は、TikTokはアプリ自体を入れていないし、YouTubeもほぼ見ることはないのだが、ざっくりしたイメージでは、「メントスコーラやダンスなど、『その時に流行っているもの』を皆で真似る」という類のコンテンツが強いのだろうと思う。まあ、100歩譲って、かつて社会現象にもなった「アイスバケツチャレンジ」のように「寄付を募る」みたいな目的があるならまだ理解できる。しかし、今流行っているのはシンプルに「『皆が真似していること』を真似る」だけのコンテンツなのだと思う。

それの一体何が面白いのか、私には本当に理解できないのだ

これは、かなり強い感覚である。例えば仮に、私が役者や歌手など表に出る仕事をしているとしよう。そしてその上で、「今流行ってるこのダンスを踊ってくれたらバズります!」みたいにか言われても、絶対に踊りたくないと感じるだろう。「興味がない」みたいな話ではなく、「出来る限り関わりを持ちたくない」というぐらいに嫌悪しているというわけだ。

しかし一方で、私の好き嫌いは一旦置くとして、今若い人たちの間で「『皆が真似していること』を真似る」のが流行っているのであれば、その理由を考察してみることには価値があるだろう

SNSは「人間関係を一層ややこしくするためのツール」になってしまった

私は未だに、「バイトテロ」みたいな動画がSNSやマスコミを騒がせる状況に驚かされてしまう。さて、「バイトテロ」のような「不適切な言動をSNSに上げてしまう」みたいな行為について、「SNSが広まったせいで、こういうアホみたいなことをする奴が出てくるようになった」と考えている人もいるだろう。しかし私は、「SNSによって単に可視化されるようになっただけ」だと思っている。昔から、若者はアホみたいなことをしていた。今「バイトテロ」と呼ばれているような行為も、昔からあっただろう。しかし、SNSが無かったために、多くの人が気づかなかっただけだ。そういう意味で私は、これらの「アホみたいな行為」を「SNSが元凶」だとは認識していない

一方で、もちろんのことながら、SNSの登場が直接的に影響を与えたこともあるはずだ。色々思い浮かぶかもしれないが、本作『TALK TO ME』に絡めた話をするなら、「人付き合いを余計に難しくさせた」ことが挙げられるだろう。

一見、この主張はおかしなものに思えるかもしれない。何故なら、SNSは元々「人と人とを容易に繋ぐツール」として登場したはずだからだ。確かに、SNSが生まれた当初は、そのような機能がきちんと存在したと思う。しかし「SNS過剰社会」とでも言うべき時代になった今、SNSは逆に「人と人とをあっさりと遠ざけるツール」に変わってしまったと私は考えている。

私の学生時代は、「ガラケーこそ多少広まっていたものの、スマホはさほどでもない」という感じだった。つまり私は、「SNSが存在しなかった時代の人間関係」も経験している。その頃は、「自分の身体が動く範囲内」でしか人間関係を築けないのが当たり前だった。自分で選び取ったわけではない「出身地」「小中学校」のような「外的環境」による制約から逃れるのは難しく、誰もが当たり前のように、「身体が動く範囲内」だけで人間関係を築いていたはずだ。

SNSは、この「物理的な距離」という制約を取り払った。その気になれば、距離が離れた人といくらでも関わりを持てるようになったのだ。物理的距離だけではない。言語の違いや性別・性的指向などの制約さえも取り払って、フラットに様々な人と関われるようになったのである。

さて、SNSによるこの「制約の撤廃」は恐らく、「元々コミュニケーションに苦手意識を持っていた人」には非常に大きな効果をもたらしただろう。そういう人は概ね、「仲良くなれるタイプ」が限られているのだと思う。しかし様々な「制約」のせいで、そういう人と出会うのはなかなか難しかったはずだ。そのため、SNSによって選択肢が広がったことで、「仲良くなれるタイプ」と関わりやすくなっただろうと思う。

一方で、「『コミュニケーションが得意な人』にとって、SNSはある種の『呪い』として機能しているのではないか」というのが私の考えである。

「コミュニケーションが得意な人」は、物理的距離の制約のことなど気にせず、近場にいる色んな人と仲良くすることが出来るだろう。というか逆に言えば、「物理的距離の制約があるお陰で、人間関係を広げずに済んだ」とさえ言えるかもしれない。地域、学校、塾、スポーツクラブなどで出会った人たちと”だけ”関わっていれば良かったわけで、「『人間関係に割くリソース』がある一定の範囲内に収まっていた」という捉え方も可能だろう。

しかし、「SNS過剰社会」ではそうはいかないSNSは、あらゆる制約を”勝手に”取り払ってくれるわけで、だからこそ「関わり得る関係性」は無限に広がることになる。「コミュニケーションが得意な人」は恐らく、「SNS過剰社会」においても「なるべく多くの人と仲良くしよう」と考えるだろう。コミュニケーションが得意なのだから、人間関係を遠ざける必要がない。しかし、「制約」が無いため、関係性は際限なく広がってしまうことになる。そのように考えると、「コミュニケーションが得意な人」にとってSNSの存在はかなりハードと言えるのではないかと思う。

そしてそういう人たちが少しずつ、「『人間関係のリソース』を、SNSを含めた全方位に割くのは無理だ」と理解し始めたのだろう。「SNS疲れ」などは、まさにそのような状態だと思う。つまりSNSは、「コミュニケーションが得意な人」に「人間関係のややこしさ」を突き付けるツールとして機能していると言えるのではないだろうか。私はこのように考えているのだ。

「『皆が真似していること』を真似る行為」を「SNS疲れ」から読み解く

では、私のこの捉え方が正しいという前提を元に、「『皆が真似していること』を真似る行為」について改めて考えてみることにしよう。そこには、「リソースの省エネ」という発想が見え隠れすると私は思っている。

先ほど同様、「『コミュニケーションが得意な人』は『なるべく多くの人と仲良くしたい』と思っている」という前提で考えよう。しかし当然のことながら、SNSまで含めると、関係が出来た人との関わりを維持するためのリソースは凄まじいものになるはずだ。普通に考えたら、ちょっとやっていられないレベルではないかと思う。

しかし「SNSで流行っているコンテンツ」があると、少し状況が変わると私は考えている。「SNSで流行っている」のだから、「SNSで繋がっている人たち」もそのコンテンツを知っている可能性が高いだろう。となれば、その「SNSで流行っているコンテンツ」を自身も発信することで、「SNSで繋がっている人たち」に対してある種の「挨拶」的な行為を一斉に行えることになる。つまり、「個別にやり取りするリソースを削減できる」というわけだ。

また、「SNSで流行っているコンテンツ」の中には、例えばダンス動画など、「リアルの世界の誰かと一緒に行うもの」も多いように思う。となると、そのコンテンツをSNSで発信することによって、「リアルの世界の関係性」に対しても何らかのアクションを起こせていると言えるだろう。

つまり、「『SNSで流行っているコンテンツ』に関わることで、最小のリソースで、広範囲の人間関係に一気にアピールすることが可能になる」という状況が生まれ得るというわけだ。意識的なのか無意識的なのかは分からないが、「『皆が真似していること』を真似る行為」の背景にはこのような感覚があるのではないかと私は考えているのである。

しかし、この手法は諸刃の剣とも言えるだろう。というのも、「最小のリソースで、広範囲の人間関係に一気にアピールする」というスタンスがバレバレだからだ。つまり、「あの人は、私に対してさほどリソースを割いてくれていない」とはっきり分かってしまうのである。SNSはこのように、「『自分に割かれるリソースの少なさ』が否応なしに可視化されてしまうツール」と言えるのだ。そして私のこの考察が正しいとすれば、「『皆が真似していること』を真似る行為」を「なるべく多くの人と仲良くしたい」という考えで行うのは本末転倒だと言えるだろう。

このような理屈から私は、「結果的に人間関係がどんどん希薄になっている」と考えているのである。

「つまらないが、独りよりはマシ」という感覚が皆の心の底にあるのかもしれない

先ほどは触れなかったが、本作は、「手の形をした彫像を握り、その状態で『トーク・トゥ・ミー(話したまえ)』と口にすると、目の前に突然霊が現れる」という設定で物語が進んでいく。また、公式HPには監督のインタビューが載っており、「手を握る」という設定にした理由について、「『孤独』や『人との繋がりを強要されること』についての映画だから」みたいな回答をしていた。これはもちろん、私がここまでで書いてきたような「SNS上の人間関係の希薄さ」にも繋がってくる話と言えるだろう。

作中では、「若者たちが集まって、この『降霊術』を何度も試しては馬鹿騒ぎしている様子」が描かれる。私には何が楽しいのかまったく理解できないが、ただ、実は彼らも「降霊術」そのものを楽しいと感じているわけではないように思う。彼らにとって最も大事なのは「みんなで集まって、一緒に何かしている」という事実であり、「何をするか」は大きな問題ではないのではないか。しかし、何か理由がないと「みんなで一緒にやる」というきっかけが生まれないから、それで「SNSで流行っている」という要素が必要になるのだろうと私は考えている。

そしてそのこと以上に彼らを見ていて感じるのは、「その場が楽しいかどうかはともかく、独りよりはマシ」みたいな雰囲気だ。そして何となくだが、その場にいるごく一部の人間を除いて「実際には『楽しくない』と感じているのではないか」とさえ思う「『楽しんでいる』という風に振る舞わないと、この場にいるのに相応しくない」みたいな感覚が強いのかなとも邪推してしまうし、だとすれば、「仮につまらない場だとしても、独りよりはマシ」みたいに感じているのではないかという気がするのだ。

そんな風に考えると、なんだか彼らが「可哀想な人たち」にも見えてきてしまう。一見すると「リア充そのもの」みたいな雰囲気の若者なのだが、「そう見える」というだけで実際には全然違うのかもしれない。先程の話と繋げて考えてみると、「『皆が真似していること』を真似る」という「リソースの省エネ」みたいな行為ばかりしてきたために、「リアルの世界でどう振る舞うべきか」が分からないなんて可能性だってあるだろう。だから、「とりあえず盛り上がって、楽しいフリをして、『独りにならずに済む空間』に自分の居場所を確保する」みたいな消極的な発想になっているのかもしれないし、それが、作中で映し出される「馬鹿騒ぎ」の本質だったりするのかもしれないとさえ感じるのだ。

そしてもしもこの解釈が正しいなら、本当に大変だなと思う

この記事では結局、作品の内容にはほぼ触れなかったが、本作は、外形的にはかなり「分かりやすいホラー」っぽい雰囲気を醸し出している。そのため、単にそういう作品だと受け取った人も結構いるのではないかと思う。しかし私には、本作の真のテーマは、「このような関係性しか築けないSNS過剰社会の困難さ」であるように感じられたのである。まさに、「『降霊術』なんかよりも、『若者の人間関係』の方がホラーである」と言ったところだろう。

そういう点でも、非常に興味深い作品だった。

出演:ソフィー・ワイルド, 出演:アレクサンドラ・ジェンセン, 出演:ジョー・バード, 出演:ミランダ・オットー, 出演:オーティス・ダンジ, 監督:ダニー・フィリッポウ, 監督:マイケル・フィリッポウ, Writer:ダニー・フィリッポウ, Writer:ビル・ハインツマン
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最後に

さて、記事も終わりに近づいているが、ここで少し作品の中身に触れておこうと思う。

物語の展開で言えば、主人公のミアが少しずつ崩壊していく様がとても興味深かった。さらに、その「崩壊の過程」を視覚的にもかなり上手く描写していて、映像的にも面白い。特に物語の後半、ミアが鏡のある部屋で”襲われた”後の展開は、もの凄い演出に感じられた。

さらに、ラストの展開もとても見事だったと思う。正直全然予想していなかったラストだが、提示されてみると、「まさにこれしかない」というぐらい見事な着地に感じられた。誰もがこのラストには納得させられるのではないかと思う。

A24のホラー映画史上、北米最高興収」と謳われる本作。「ただのホラー映画」だとしたら、ここまでの支持を獲得するのは難しかったのではないかと思う。やはり、若者の感性に触れる「現代的な困難さ」を切り取っている作品だからこその支持なのではないだろうか

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