【漫画原作】映画『殺さない彼と死なない彼女』は「ステレオタイプな人物像」の化学反応が最高に面白い

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:間宮祥太朗, 出演:桜井日奈子, 出演:恒松祐里, 出演:堀田真由, 出演:箭内夢菜, 出演:ゆうたろう, 出演:金子大地, 出演:中尾暢樹, 出演:佐藤 玲, 出演:佐津川愛美, 出演:森口瑤子, Writer:小林啓一, 監督:小林啓一
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いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

ステレオタイプを突き詰めて掛け合わせるとこれほど面白い物語になるのかと感心させられた

犀川後藤

「ありきたり」が詰め込まれることによって浮かび上がるものが確かにある

この記事の3つの要点

  • ストーリーらしいストーリーはまったくないがメチャクチャ面白い
  • ステレオタイプさを極限まで誇張することで生まれる奇妙な関係性に惹かれる
  • 感情が無いように見える人物の言葉だからこそ、クサいセリフもスッと頭に入る
犀川後藤

また観たいと思うぐらい面白い映画でした

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

よくある学園モノにしか思えなかったが、メチャクチャ面白い作品だった

正直、観てかなり驚きました。映画全体の装いは「若手の人気俳優が多数出てくる学園モノ」という感じで、正直なところ、普段私が観ようと思うタイプの映画ではありません。どうしてこの映画を観に行ったのか自分でも不思議ですが、観て良かったと思いました。

メチャクチャ面白かったです

元々は4コマ漫画として発表されている作品だそうで、そういう背景を考えると、映画全体にストーリーらしいストーリーがないことは納得できます。「れい」と「なな」は「殺すぞ」「死ぬぞ」と言い続けているだけ。男と上手く関係を築けない「きゃぴ子」を「地味子」が慰めているだけ。「撫子」は「八千代」にずっと告白しているだけ。こんな風に、言葉で説明してしまうと「その何が面白いの?」としか思えないような作品です。

しかしこれが面白い面白い

犀川後藤

こういう作品に出会えたりするから、先入観で観る観ないを判断しないように努力してるつもりなんだよなぁ

いか

でも、なかなか予想外の作品に遭遇するのは難しいよね

まずはざっとストーリーの紹介を

ある高校で3つの物語が同時に展開していく

小坂れいは留年してしまい、退屈を持て余しまくっている。同学年になったかつての後輩女子からカラオケやボウリングに誘われても「殺すぞ」と返すだけ。基本的に何にも関心を持たずにその退屈さに倦んでいる

そんなれいが、同じクラスの鹿野ななに興味を持った。ななはゴミ箱に捨てられた蜂の死骸を拾い上げ、花壇に埋めようとする。そんな奇特な行動に惹かれて後をつけるれいは、「死にたい」と言う彼女に「殺してやるよ」と返す。

そんな風に出会った2人は、お互いに罵り合いながら、特に相手を理解しようとするでもなく、しかしそれでも一緒の時間を過ごすようになっていく。

堀田きゃぴ子は、自分のことを「可愛い」と自覚しており、その可愛さを武器に男子に近づくのだが、いつも上手くいかない。上手く行かない理由ははっきりしている。嫌われたり別れを切り出されたりするのが怖くて、自分から離れてしまうのだ。そして、自分でそう決めたのに落ち込んでしまう。

幼稚園の頃からきゃぴ子のことを知っている宮定澄子(地味子)は、きゃぴ子のややこしい性格を理解し、しかし手助けするでも突き放すでもなく、付かず離れずの距離感で関わりを続けている。

大和撫子は、宮定八千代につきまとう。そして、事ある毎に「好き」と伝える。八千代はその度に、自分はあなたのことが好きじゃないし、付き合うこともできないと返す。しかし撫子はつきまといを止めない。

彼女は別に、八千代に振り向いてほしいわけではない。付き合ってほしいとも言っていない。ただ「好き」という気持ちを伝えているだけだ。「私のことを好きになってくれない八千代君が好き」とまで言う。八千代の邪魔をするつもりはまったくなく、ただ傍にいたいという気持ちで溢れている。

八千代としても、もはやどうにもしようがない。邪魔はしないのだしと、程よく関わっている。

この、全然バラバラな物語が、次第に混じり合っていく

「ステレオタイプなキャラ」で奇妙な関係性を描く化学反応の妙

内容紹介の中で名前を出した6人は全員、「ステレオタイプ的なキャラクター」だと言っていいでしょう。そして、そのステレオタイプさをこれでもかと誇張しながら、ステレオタイプ同士を掛け合わせることで生まれる奇妙さを描き出していくという点が、この物語の最も面白い点だと感じました。

正直なところ、あまりにもリアリティに欠ける登場人物ばかりなので、普通にしていたらなかなか「共感」までたどり着くのが難しいキャラクターたちだと思います。ただこの物語では、そのステレオタイプさを徹底的に強調して、「まさにそのステレオタイプさのみの存在」という程度まで凝縮しています。この徹底的に「記号化」させたという点が面白い部分です。

さらにその「記号」でしかないキャラクター同士が関わりを持つことで、普通にはあり得ないような奇妙な関係性が生まれることになります。さらに、ステレオタイプさを強調しているが故に、それぞれのキャラクターの「欠落」みたいなものが分かりやすく可視化されるわけです。

その「欠落」に共感してしまう人は多いのではないかと感じました。

犀川後藤

マンガに出てきても違和感を覚えるだろうってぐらい、超ステレオタイプ的なキャラだからね

いか

それをさらに実写でやってる、って面白さもあるんだよね

れいとななはそれぞれ「殺してやる」「死んでやる」と言い合うという、フィクションではありがちだろう設定を最後までひたすら続けます。そして彼らが発する言葉は、まるで空気のようにあっさり素通りしていくのです。「殺す」「死ぬ」という言葉の重みは一切なく、「殺す」と言われて嫌悪感を示すことも、「死ぬ」と言われて止めようとする素振りもありません。語尾の「です」「ます」くらい当たり前のように「殺す」「死ぬ」と口にする彼らの奇妙な関係性には、なんだか惹かれてしまいました。

きゃぴ子は「ヤリマン」と聞いてイメージするようなタイプの権化だし、地味子は「地味すぎるが故に目立つ」という究極の誇張がなされます。そして、まったく真逆の2人が関わることで、お互いが持っているものと持っていないものが非常に明確に浮き上がることになるわけです。その過程で、「愛されたい、でも満たされない」というきゃぴ子の厄介さがさらにくっきりすることにもなります。

撫子と八千代も、誇張されすぎてはいますがステレオタイプ的と言えるでしょう。一方は叶わないと知りながら追いかける、もう一方は相手の気持ちを受け入れないが突き放すこともない、というのは、現実の世界でもあり得る話だと感じます。特に撫子の振る舞いのステレオタイプさがもの凄く強調されすぎるわけですが、あり得ないながらなんとなく成立しているようにも見えてしまう2人の関係性が、実はそれなりの背景を持つものだと明らかになっていく展開もなかなか面白いです。

いか

コロッケのものまねが、本人の振る舞いを過剰に誇張してるから面白い、みたいなことかな?

犀川後藤

うーん、例えとして合ってるのか分かんないけど、そういうことにしとこう

ステレオタイプを過剰に誇張することで生まれる「記号っぽさ」と、そういうキャラクター同士が関わることによる「謎の化学反応」みたいなものが凄く良くて、そうやって生まれる奇妙な関係性をずっと見ていられる、という気分にさせてくれる映画でした。

「感情が無い」のではなく、「感情を表に出すことが苦手」

彼ら6人は、「感情が無い」「感情が分からない」ように見える、という点でも共通項があります。

れい・なな・地味子・八千代の4人は、最初から最後まで感情らしい感情を見せることがありません。動きも喋りもロボットのようで、何を考えているのか全然分からないという感じです。きゃぴ子は、感情を出している風ですが、それがとても「本心」であるようには見えず、やはり何を考えているのか分かりません。撫子の場合は、八千代のことが好きという感情が「本心」だとは伝わりますが、あまりにも言動が奇妙すぎてそれが本当の感情であるようには見えないのです。

パッと見の印象では、人間らしい感情を持っている人は誰もいないように思えるでしょう。

しかし、物語を追っていくにつれて徐々に、「彼らは『感情が無い』わけではなく、『感情を表に出すことが苦手』なのだ」と理解できるようになっていきます。そして、認識がそんな風に変わると、ロボットのようでしかない彼らの振る舞いが、とても切ないものに感じられてくるのです。

最初の内はまったく分からないものの、彼らには「感情を表に出すのが苦手になった遠因」みたいなものがある、となんとなく理解できるようになります。そういう予感を抱かせるからこそ、ロボットのような振る舞いをする彼らに「人間っぽさ」を感じるのでしょう。さらに、そんな彼らだからこそ、思わず感情がこぼれ落ちてしまうような場面では、観客は大きく心を動かされてしまうことになるのです。

犀川後藤

私の周りにも、感情を表に出すのが得意じゃないって人が結構いたから、なんか凄く分かる

いか

「怒ってるの?」「体調悪い?」って言われないようにするために笑ってるって人、結構多いよね

私はやっぱり、特にれいとななの関係性が素敵だと感じました。私としては、ある種の理想でもあります。それは別に「殺す」「死ぬ」と言い合っている部分ではなくて、「好き」とか「楽しい」みたいなことを言わなくても当たり前のように一緒にいられる、という点に惹かれてしまうのです。

れいもななも基本的に、ずっとお互いへの文句ばっかり言っているし、優しくしたり相手を思いやったりするような言動をほとんどしません。でも一方で彼らは、自分たちの居場所はここだという確信を持って接している感じもするのです。

この2人の物語が一番なにも起こりません。家でゲームしたり、神社でボーッとしたり、学校帰りにアイスを食べたりするだけです。それでも、「この2人の時間はそれで成立している」と感じさせられる空気感が素晴らしいし、私の理想だなと思いました。

一方で、やっぱりきゃぴ子のような人が周りにいたらキツいなぁ、とも感じます。もちろんきゃぴ子はこの物語の中で、そう観客に思わせる役割として存在するので、作品としては成功なのですが。

きゃぴ子のキャラクターは強調されすぎているとはいえ、似たような感覚を抱いてしまう人は間違いなくいるだろうなと思いました。自分の存在を認めてあげるには他人からの承認が欠かせないけれど、普通にしてたらそんな承認なんかくれっこありません。だから出来ることはなんでもやって承認がもらえるように頑張ってしまいます。でも承認してもらえるようになると、今度はその承認が無くなってしまうのが怖くなるわけです。だから、突然承認が無くなってしまうよりはと考えて、自分のタイミングで相手から離れてしまうことになります。そんな身も蓋もない行動を取ってしまう人は、現実世界にもたくさんいることでしょう。

恐らくきゃぴ子自身も、自分の振る舞いの不毛さを理解していると思いますが、でも止められません。「承認を強く求めてしまう気持ち」も「承認がいつの間にか消えてしまう怖さ」も理解できるでしょうし、それを無理矢理にでも両立させるためには、究極的にはきゃぴ子のように振る舞うしかないでしょう。

そういうややこしさはとても興味深いです

犀川後藤

とにかく、みんな幸せになってほしいよ

いか

躓いたり転んだりしちゃう人こそ、どうにか報われてほしいよね

また、感情が無いような言動は別のプラス効果をもたらしてもいると感じました。それは、「クサいセリフでもストレートに届くこと」です。

この映画には、「普通に耳にしたら恥ずかしくなるようなクサいセリフ」が結構出てきます。それもまた、それぞれのキャラクターのステレオタイプ感を強調するわけですが、一方で、それを「体温を感じさせないような言い方」で口にするからこそ、恥ずかしさを感じることなく耳に届くように感じました。

普通だったら、口に出すのも耳にするのも赤面するようなド直球のセリフが、感情のないロボットのようなキャラクターの口から発せられることで、ほとんど違和感を覚えずに頭の中に入ってくることになります。そしてだからこそ、ストレートな言葉が、そのストレートさを失うことなく真っ直ぐ響くように感じたのです。

これもまた、設定の奇妙さがもたらした面白い点だと思いました。

最後に

この作品について「言葉」で何かを説明するのは限界があるなと感じます。自分が感じた「面白さ」を、どうも上手く伝えられている感じがしません。

普段同じ映画を複数回観ることはほとんどありませんが、この映画は、機会があればまた観てみたいと思います。そう思わせるぐらい、メチャクチャ面白い映画でした。

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