【生き方】人生が虚しいなら映画『人生フルーツ』を見ると良い。素敵な老夫婦の尖った人生がここにある

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「人生フルーツ」公式HP
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

今どこで観れるのか?

公式サイトの劇場情報をご覧ください

この記事で伝えたいこと

「何のために生きているのか?」という問いを華麗に無視するしなやかな人生を彼らは生きている

犀川後藤

彼らは、「自分たちの外側に存在する『何か』を必要としない人生」を早くに選び取った

この記事の3つの要点

  • 私は「何のために生きているのか?」という問いをどうしても手放せない
  • 「彼女は僕にとって最高のガールフレンドです」とさらりと口にする90歳
  • 農作業や庭仕事をしている老夫婦の日常が「古びて見えない」ことに驚かされる
犀川後藤

こんな風に生きていけたらいいなと思わせる素敵な日常が映し出されます

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

この老夫婦の日常を観ていると、「何のために生きているのか?」という問いが無意味に感じられる

『人生フルーツ』は、ドキュメンタリーに定評のある「東海テレビ」が制作した映画です。

基本的には硬派で社会派のドキュメンタリーを撮ってきたので、この『人生フルーツ』は東海テレビらしくないと言える作品かもしれません。

いか

しかしホント、東海テレビのドキュメンタリー映画は話題になるよね

犀川後藤

テーマとか被写体が絶妙なんだろうなぁ

この映画は、愛知県に住むある老夫婦の日常をただひたすらに映し出しているだけの作品です。どうしてそんな映画がこんなに面白いのか謎なのですが、「良いものを観たなぁ」という感覚にさせてくれる作品だと思います。

「何のために生きているのか?」と昔から考えてしまう

私は今でも、「自分は何のために生きているんだろう?」と考えてしまうことがあります。その問いの重要度は時期によって違っていて、生きている理由が分からないのにめんどくさい日常を生きなければならない気分の時には頭がぐるぐるするし、「なんか毎日つまんねーな」程度の気分であればそこまでそんな思考に囚われることはありません。ただ自分の人生において、「何のために生きているんだろう?」という問いが自分の中から消え失せたことはないような気がします。

本当にめんどくさい

私には妹と弟がいるのですが、恐らく彼らは「何のために生きているんだろう?」みたいなことを人生で一度も考えたことがないでしょう。もちろん人生の中で、辛かったり逃げ出したかったりしたことはあるでしょうが、そういう時でも「何で生きてるんだろ」とは考えないタイプだと思います。

羨ましい。私もそんなこと考えずに生きていられる側にいたかったといつも考えてしまいます。

自分も同じだ、という方、それなりにはいると思っているのですが、どうでしょうか?

犀川後藤

私の周りには結構いるんだよなぁ

いか

表向き違う風に見せていて、実はそういうタイプの人って身近に隠れてると思ってる

時々、こんな風に考えてみることがあります。大金持ちで、働く必要がなく、遊んで暮らしていけるとしたら、自分は楽しく生きていけるだろうか、と。そして、どんなに考えてみても、「絶対面白くないよなぁ」という結論に達してしまうのです。

それは結局、「自分が生きている意味」みたいなものをどうしても求めてしまうからでしょう。坂本龍馬やアインシュタインなど、「その時その場所にその人がいたから何かが変わった」みたいな存在になりたいと思ってしまうのです。別に歴史に名が残る必要はないのですが、「『その時その場所』で『私』という存在が不可欠であるような何か」をいつも求めてしまっているような気がします。

それこそが「何のために生きているんだろう?」という問いに対する私なりの答えであり、そんな風に生きられなければきっと満足できないんだろうなぁと感じてしまうのです。

いか

しかしなかなかハードルの高い望みだね

犀川後藤

やっぱりそうよね……

たぶん、自分のこの性格はこれからも変わらないでしょう。何かが違っていたら、もの凄く社会貢献に首を突っ込む人間になっていた気もしますが、なかなかそんな風になることもなく、結局ウダウダしたまま生き続けております

「なぜ生きる?」ではなく「どう生きる?」と問い続けた夫婦

この映画で取り上げられる津端夫妻は、90歳近い年齢とは思えないほど軽やかに生きているように見えるでしょう。自宅である広大な敷地には雑木林や畑があり、2人は日々農作業や庭仕事で身体を動かします。夫は屋根の上での作業を自ら行い、マウンテンバイクも乗りこなすのです。生活に必要なものは可能な限り自分たちで作るようにし、やりがいと穏やかさを両立させた生活を送っています。

世の中にはもちろん、年を重ねるごとに活発になっていくという人もいるでしょう。ただ多くの人は、お金を稼ぐ仕事から離れ、子育ても終わり、身体も動かしにくくなり、気力が少しずつ減退してしまうのではないかとも感じてしまいます。そしてそうなればそうなるほど、「何のために生きているんだろう?」という思考も過りやすくもなるのではないでしょうか。

しかしこの夫婦からは、そんな雰囲気を微塵も感じません。彼らは、彼らの世界の中だけで充分に完結できる存在で、生きるために「彼らの外側の世界にある『何か』」を必要とすることがほとんどないのです。それは、何でも自分たちで作ってしまうからモノを買う必要がない、というだけの話ではなく、「やりがい」「幸せ」などについても、外の世界の価値観を必要としないということを意味します。

いか

様々な「尺度」が2人の中に独自に存在している、という感じだね

犀川後藤

私もそういう生き方が理想なんだけど、実践はなかなか難しい

私がお父さんに反対することはない。やりたいことは何でもやって、って感じで。

妻はそんな風に、夫を自由にします。給料が4万円だった頃に70万円のヨットがほしいと言われた時も、反対するのではなく真っ先に家計のやりくりを考えたというのですから凄まじいでしょう。妻は200年続く造り酒屋の娘だそうですが、結婚した当初からお金がなかったため、彼女は質屋に通い詰めだったそうです。

ただ、苦労を掛けるばかりではありません

私が自由に喋れるようになったのは、結婚してから。あの人にやりたいことを言うと、「それは良いことだからやりなさい」なんて言われて。それからかな、自由に何でも言えるようになったのは。

2人が結婚した当時は、まだまだ家父長制が強かったでしょうし、あからさまな男尊女卑が根付いていたと思います。そんな時代に、夫は妻を縛り付けるどころか、結婚以前には感じられなかった「自由」を与えたのだと言うのです。

結婚にはさほど関心を持てないのですが、「こんな風に生活できるならいいだろうな」と感じる日常でした。

映画の内容紹介

愛知県春日井市に「高蔵寺ニュータウン」はある。映画の主役の1人、津端修一がマスタープランの作成に携わった地域だ。そして彼らは、「高蔵寺ニュータウン」内に300坪の土地を購入し、そこで生活している。

映画は基本的に、津端修一・英子夫婦のなんでもない日常が映し出されていく。そしてその合間に、「高蔵寺ニュータウン」と津端修一の関係性が語られる。

津端修一が「高蔵寺ニュータウン」の設計を担当したのは、弱冠30歳の頃。すでに東京で18もの団地の設計に関わるキャリアを有していた。

「高蔵寺ニュータウン」の構想が生まれたきっかけは、伊勢湾台風にある。この台風により、5mの高潮が平地を襲い、5000人もの命が失われてしまった。伊勢湾台風は、「人間はどこに住むべきなのか?」という根本的な問いかけをもたらすことになり、「高蔵寺ニュータウン」は、高地移転を目指す重大なプロジェクトだったのだ。

津端修一は当初、「山の尾根筋に住宅を建てる」というプランを提案した。ニュータウン建設のために山を削るのだが、しかし「ここにこんな山があったのだ」という記憶を残すような設計にしたいとも考えたのだ。しかし、人口がどんどん増え、大量の住宅供給が求められていた時代のこと。「高蔵寺ニュータウン」は、8万戸もの住宅を建設する大規模計画に変わってしまい、結局、津端修一のプラン通りには作られなかった

そこで彼は、「高蔵寺ニュータウン」内に土地を購入し、ある挑戦を始める。

平らになった土地に、もう一度里山を復活させるにはどうしたらいいか。新しい緑のストックを作りながら、一人ひとりでも、里山の一部を復活できるという実験だった。

彼は、都市計画や住宅設計などの世界から距離を置き、「高蔵寺ニュータウン」内での独自の実験に力を注ぐことに決めた。

津端夫妻の生活は、彼のその実験の延長線上に存在するのである。

映画の感想

彼女は僕にとって最高のガールフレンドです。

津端修一は、こんなことをさらっと言います。90歳と87歳の夫婦とは思えない軽やかさでしょう。見た目こそ「お年寄り」ですが、「古臭さ」を感じさせるような言動はまったくなく、外見を取っ払ったら2,30代で通用してしまうのではないかと感じました。

それは恐らく、若い頃から「当たり前の感覚」から意識的に遠ざかっていたからでしょう。「社会の当たり前」に馴染んでしまえば、時間経過と共に「社会の当たり前」が古び、それと共に自分たちも錆びてしまいます。しかし彼らは、「社会の当たり前」をかなり早い段階で抜け出し、自分たちの独自の価値観で生活空間を作り上げたわけです。しかもそれを、彼らなりに常にアップデートしているのだと思います。だから、「農作業」のような、決して「新しさ」を感じさせない生活でも、普通ではない感覚をもたらすのでしょう。

生物である以上、見た目や身体が衰えてしまうのは仕方ないとはいえ、頭の中だけはいつまでも古くならずに生きていきたいものだと改めて感じました。

最後に

今の時点で既に退屈さにやられている私には、どうひっくり返っても彼らのような人生は歩めないと思いますが、彼らのように生きられないと決まったわけでもないはずです。可能性として、津端夫妻のような未来の選択肢も存在しうるのだと感じられたことは、とても良かったと思います

老夫婦のなんでもない日常を捉えた作品ですが、生き方を考え直すきっかけになるのではないかと感じました。

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