はじめに
この記事で伝えたいこと
あなたは、「誰かに必要とされる生き方」ができていますか?

私は上手くできていません。だから、この作品の主人公に超共感してしまいます
この記事の3つの要点
- 親しい人が亡くなっても「悲しい」と思えなかった理由
- 「必要とする/される関係」には責任感が伴う
- 「自分が失ったものの大きさ」が分からないことの悲哀



小説とはいえ、こんな主人公が受け入れられているというのは、少しホッとする事実ではあります
この記事で取り上げる本
「永い言い訳」(西川美和/文藝春秋)



この本をガイドに記事を書いていくようだよ
自己紹介記事





どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください
誰かに必要とされる生き方
家族に対するめんどくささと、死を悲しめない私


今はさほどでもありませんが、人生の長い期間にわたって、家族に対するめんどくささを感じていました。特に、実家に暮らしていた18年間はかなりしんどかったです。物心ついた頃から、「この人たちとは、合わないなー」という感覚をずっと抱いていましたし、「どうしてこの人たちと一緒にいなきゃいけないんだろう」と感じていたと思います。



今では、「家族だから嫌」っていうよりは、「誰かと一緒に暮らすことが嫌」っていう感覚が強かったんだろうって思うけどね



一人が向いてるよね
割と最近、父親が亡くなりました。62歳だったので、若くして死んだと言えるでしょう。ただその時でさえ私は、「悲しい」という感情を抱くことができませんでした。


昔からずっと同じです。これまでも、祖父母や大学時代の先輩など、それなりに身近な人の死に触れています。しかしその度に私は、「自分の内側から『悲しい』という感情が湧き上がってこないなぁ」と感じてきました。
この作品の主人公のように。
私はこの作品の主人公に恐ろしいほど共感してしまうのですが、「被害者になるのは怖い」というこんな感覚も非常に強く理解できるものでした。
理不尽な殺人などが起こるたびに、それまで他者に殺意など抱いたためしもなさそうな可憐な主婦が、テレビカメラの前で「極刑以外望みません」と強い口調で語ったりするのを見るにつけ、巨大な喪失がもたらす激しい動力を見たような気がして幸夫は圧倒され、被害そのものを恐れる以上に、被害者になるのは怖いと感じてきた。何かひどい目に遭った時、自分は彼らをはるかにしのぐ、桁違いの憎悪に狂う可能性を秘めているし、あるいは全くその逆もあるかもしれない。もし彼らのように迷いなく、真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れなかった場合、その先には何があるのだろうと考えると、それもまた恐ろしかった。


確かに私も、「真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れなかった場合」のことを考えてしまいます。それなりに親しい人が亡くなった時でさえ、私はあまり感情的になれません。しかし同時に私は、「そういう時には悲しむのが当然」という無言の圧力みたいなものを感じてしまいます。



まあ、「誰か死んだら悲しい」と感じるのが普通だろうから、これを「圧力」だなんて捉える人は少ないだろうけどね



それは私も十分に分かっております


直接被害を受けるのではなく、「被害者家族」のような立場に立たされた時に、自分が、よくニュース映像で見るような打ちひしがれた状態になれる気がしません。
こんな感覚は、きっと誰にも理解されないだろうと思っていたので、本書を読んだ時には本当に驚きました。こんな、世間からまったく共感されないような主人公を据えて、それで作品として成立させているのは凄まじいな、と感じたのです。
私は、以前こそ家族に対するめんどくささを感じていたとはいえ、今は大分薄れています。しかしその今の状態でさえ、家族の死(しかも父親の死)に対して、あまり心が動きません。そんな自分を理解しているので、「こういう時、人は感情的になるはずだ」と多くの人が感じる状況に陥りたくないなぁ、といつも考えています。


なぜ悲しいと思えないのか
私は、誰かの死に接した際に、「どうして悲しいと感じられないのか」と折に触れて考えてきました。
今のところの私の結論は、「自分が必要とされているかどうか」に関係している、というものです。
年を重ねるごとに、そして自分の状況がいろいろと変化するたびに感じることですが、生きていく上で「自分が誰かに必要とされている感覚」は非常に重要だと感じるようになりました。若い頃は正直、この重要さにそこまで気づいていなかったと思います。他人と関わることがめんどくさいと感じていたし、一人でいることに苦痛を覚える人間ではないとも思っていたからです。


しかしそれは、仕事でのちょっとした関わりや、プライベートでそれなりに人と会うことで、「自分は必要とされている」という感覚を多少なりとも無意識に受け取っていたということなのだろうと思います。
年齢を重ねたことやコロナ禍であることなどによって、状況は少しずつ変わり、私は今、「自分が必要とされている感覚」をあまり実感できません。そしてそのことによって、自分が少し不安定になっていると感じています。



自分でも意外だったからちょっと戸惑ってる



新しい自分を発見できたってことで良しとしようね


そういう思考を経て、「この人は私を必要としてくれているだろう」と感じられる相手が死んでしまったら、恐らく私は大きな喪失感を抱くのではないかと考えるようになりました。そしてそれこそが「悲しい」という感情なのでしょう。結局のところ、今まで私の周りで亡くなった人に対しては、そういう感覚を抱けなかったということなのだと思います。
「必要とされる」ためには「必要とする」ことが不可欠
そしてさらに感じることは、「誰かに必要とされること」は、「誰かを必要とすること」と表裏一体だ、ということです。確かに、そのバランスが崩れている、つまり、「必要としていない相手から必要とされる」や「必要とされていない相手を必要とする」という状況も考えられますが、大体の場合、お互いがお互いを必要とし合う、という関係性に落ち着くことが多いのではないかと思います。


この小説では、対照的な二家族が描かれます。どちらもバス事故によって妻を亡くした夫が中心となりますが、一方は妻を失って悲しみに暮れ、一方は妻を失っても動揺さえしません。


一方は、突然妻を奪われた悲しみを全身から発し、言葉でも悲しみを表現します。そして周囲も、そんな反応になるのは当然だと受け取り、理解を示します。
もう一方は、妻が死んでも涙を流さず、しかし世間体があるので悲しんでいるフリはします。そして、自分が「不幸な事故によって妻を失った可哀相な人」という役割を”演じなければならない”という感覚にうんざりしているのです。



悲しんでない方に私はメチャクチャ共感できてしまう



どうなんだろうねぇ、それ……
そして、あまりに対照的なこの二人の一番大きな違いは、「必要とする/される」という点なのです。


「自分が何を失ったのか」を理解できるか?
私がこの物語を読みながら感じていたことは、何か喪失を経験した時に、自分が失ったものの大きさを理解できるのか? ということです。
妻を失って泣き崩れる男は、「その大きさを理解している側の人物」として物語に登場します。もちろん、「思っていた以上に大きな喪失だった」ということをさらに後から理解することはあるかもしれません。ただいずれにせよこの男は、妻を失ったその瞬間に、自分がどれほど大きなものを失ったのかを理解します。
しかしもう一方の男は、それが理解できません。


実際に彼も、妻の死によって大きなものを失いました。しかし、妻が亡くなった時点では、それに気づくことができていません。それは、男が妻から「必要とされず」、男も妻を「必要としていなかった」からです。
結婚当初は違いました。男は作家であり、デビュー前は全然食えなかったので、美容師として働く妻に10年以上も養ってもらっていました。しかしデビューして一気に人気作家になったことで、この関係は変わってしまいます。
男は、自分の才覚で稼げるようになったことで、妻を必要としなくなりました。それは、妻のことを「自分の生活を金銭面で支えてくれる人」としか見ていなかったということです。



ホント酷い男だよなぁ



私はこの男ほど酷い人間じゃないと思いたい……


妻は、男の変化を理解し、自分が必要とされていないと受け取ったことでしょう。彼女は「悲しい」と感じますが、しかしそれは、「夫の変化によって自分が何を失ったのか理解できている」ということでもあります。そしてその現実を受け入れ、妻は妻なりにその喪失を織り込んだ上で、自分の人生を歩んでいきます。
しかし男の方はそうではありません。男は、人気作家になり妻を必要としなくなった時点で、自分が何を失ったのか理解できていませんでした。であれば当然、妻が死んだ時にもその喪失が理解できるはずがありません。
男は妻の死によって何を失ったか?
では、男が失ったものとは一体なんだったのでしょうか? まさにこの物語は、「自分は一体何を失ったのかを理解する」というこの男の旅路を描く作品なのです。


男は遺族会で、妻の死に対して悲しみを爆発させる長距離トラックのドライバーと出会い、関わりを持つようになります。そして、仕事で長く家を空けなければならないドライバーに代わって、妻を失い子供もいない男が子供の面倒を見る、という関わりが生まれるのです。
その過程で男に変化が現れることになります。
陽一にとってそうである以上に、この小さな友人たちにとっても自分の存在が命綱であるということが、何よりも幸夫を勇気づけた。他人からの毀誉褒貶ばかりを気にかけてきたこの十数年には手にしたことのない感覚だった。


男は、人気作家として世間と対峙し続けてきた時期には感じられずにいた「誰かに必要とされている感覚」を、子供たちとの関わりの中で実感できるようになります。そしてその感覚は、感情が揺れ動くことのなかった「妻の死」に対しての感覚も変えていくことになるのです。
もしも彼女が生きている間に、「夏子の人生にとって自分は不可欠だ」と盲目的にであれ幸夫自身が信じていたならば、そこには子供らに対して今抱いているのと同じ、甘美な充足があったのだろうか――。
つまり彼が失ったものは、「あり得たかもしれない未来」だと言えるでしょう。



確かに、”今”自分の手元にあるわけじゃないものを失っているんだとしたら、実感は難しいかもね



そういう感覚を、物語を通じてじわーっと感じさせるのがとても上手い


男が得た実感は、結局「擬似的」なもの
ドライバー一家と関わることで、男は少しずつ変わっていきます。子供たちから命綱のような形で「必要とされる」状況には、男自身さえも戸惑うような甘美な感覚があったからです。そして、その感覚を通じて、「もし妻が生きていれば……」と、過去の自分の振る舞いや妻との関わりを思い返す構成は見事だと感じます。
しかし一方で、子供たちと関わることで男が抱く「必要とされている」という感覚は、ある種の虚構でもあります。
というのも、男にとってドライバー一家の子供たちは、「最終的に自分の責任の対象ではない存在」だからです。自分の子供には厳しく接した祖父母が、孫には甘くなってしまうのと理屈は同じでしょう。責任がない立場だからこそできること、得られることがあるのです。
だから、妻の死から時間が経った後で、男が「自分はこれほど大きなものを失ったのではないか」と感じる実感も、実際のところは誤りだと言えます。なぜなら男は、「必要とする/される関係」に付随する責任感を理解していないからです。「必要とする/される関係」から「責任感」を取り除けるなら、それは「甘美」にもなるでしょう。
しかしそんなの通用しない。子供は母親のアイデンティティや、順調だった人生や、正当性なんて、ハリケーンのように横暴になぎ倒す。子供のいる生活に対して抱いていた明るい夢もろともに。
男ではない別の人物が、こんな実感を吐露する場面があります。私は結婚していないし子供もいないのでちゃんとは分かりませんが、そりゃあ大変だろうと思います。



子育てしている人は本当に凄いと思います



その感覚が、自分の親にはあんまり向かないのな
男は、自分が何を失ったのか理解したつもりになれます。しかしそれは、「擬似的」な感覚から得られた「虚構」でしかありません。


だから、すべての土台が崩れ去るような瞬間を迎えてしまうことになります。
大宮一家には気の毒だが、幸夫にとって、この二日の灯や真平や陽一との久々の邂逅は、振り返るのも怖いほど甘いひとときだった。しかし甘い時間の過剰摂取は、人生を蝕んでいく。甘いものなど、食べなければ良かったと思うようになる。


この物語を読んで、改めて自分の感覚が整理できたように感じられました。自分が喪失感を抱けないのは、「必要とする/される関係」を上手く作ってこれなかったからでしょう。しかしそういう関係性には当然「責任感」も発生します。そこからは逃げたい。
そんな感覚を共有しているだろう、本書の主人公の「弱さ」や「卑怯さ」みたいなものは、私自身に突きつけられているようにも感じられました。
本の内容紹介
ここで改めて本の内容を紹介します。


衣笠幸夫は、有名な野球選手と名前の響きが同じであり、子供の頃から自分の名前を嫌悪してきた。だから、作家としてデビューしてからは「津村啓」という名前で通し、本名はごく親しい人にしか伝えていない。
美容師として働く妻は、出版社を辞めて作家を目指すという夫の突然の決断を快く受け入れ、家計を支えていく。しかし、夫が作家としてどんどん有名になっていき、夫と一緒にいても自分の存在意義を感じられなくなる。津村も、人気作家となったことで妻の存在を必要としなくなり、一緒に暮らしてはいるものの、夫婦の生活は見えないところで着実に破綻していく。
そんなある日。友人とスキー旅行に向かった妻は、その途中でバス事故に遭い、命を落とす。妻の死に感情が動かない津村。そんな折、遺族会で大宮陽一という男と出会う。妻と一緒にスキー旅行へ行き亡くなった友人の夫である。大宮は妻から”幸夫ちゃん”の話をよく聞いていたらしく、そんな縁で津村は、大宮と関わることとなる。
大宮などから、亡き妻に関する話を様々に聞き、一緒に暮らしていたにも拘わらずまったく知らずにいた妻の姿を知るようになっていく。しかしだからと言って、津村は妻に強い感情を持てるようになったわけではない。「人気作家が妻を事故で失ったこと」は報じられており、津村は「可哀相な被害者」として振る舞わなければならない現実にうんざりしているほどだった。
状況が変わるのは、大宮から頼まれて子供たちの面倒を見るようになってからだ。そこで津村は久々に、「誰かに必要とされる感覚」を味わうことになる。妻が亡くなったことで、自分が一体何を失ったのか、少しずつ掴み取れるようになっていき……。
本の感想
もの凄く良い物語でした。何度か書いていますが、私は津村の感覚にメチャクチャ共感できてしまいます。その辺りの話は後で触れますが、私が不思議なのは、多くの人は一体何に共感しているのか、ということです。
この作品はどこが評価されているのか?
この作品は、本屋大賞候補となり、本屋大賞でも4位になっています。一般的にかなり高く評価されていると言えるでしょう。ただ、この津村という男は、とても共感されるタイプの主人公ではないと思うんですよね。


かなり酷い人間だと思うし、感情が欠けています。確かに、後半に行くにつれて津村も変化していくし、「最終的に良い感じになったから途中も許す」みたいなことなのかもしれないけれど、そうだとしても私には、この作品が高く評価されている理由が謎です。



作品をけなしてるわけではないのよ



あなたはメッチャ共感してるわけだしね
私が津村に共感したのと同じように、世間の多くの人も実は津村的な部分を抱えていて、だから津村のあり方に心の底から共感しているのだ、ということなら凄くいいなぁと思います。
もしそうなら、私が抱いている、到底大多数の人には受け入れられないだろうと考えていた価値観が、実は許容される、どころか多くの人が同じ感覚を抱いているということになるからです。
ただまあ、そんなことはないでしょう。そしてそういう期待をしないとすれば、この作品を読んだ人が何をどう評価しているのか、不思議だとずっと感じています。


私は津村にメチャクチャ共感する
津村は折に触れて、様々な思考を展開していきます。その多くが私の琴線に触れますし、「うわぁ、メッチャ分かる!」と感じてしまうのですが、なかでも、「まったく同じ思考だ」と驚いたのがこれです。
ぼくは人の親になれるような人間じゃない。「なんとかなるものさ」という他人の言葉は信用ならない。なんとかならなかったやつらがこんなにぞろぞろ居る世の中で、ぼくが「なんとかなる組」に入れる保証はどこにある? なんともならなかった時、「なんとかなるさ」と言った連中は、何をしてくれる? ぼくは子供が嫌いなんじゃない。そう信じている。ただ、「不幸な子供」の親にだけはなりたくなかったんだ


私は本当に昔から、このことを口にしていました。友人などとの会話でたまに、「結婚ぐらいしてみればいい」という話になります。私が、結婚願望がまったくない、みたいなことを言うからです。で、「結婚ぐらいしてみればいい」というのは私も同感ではあります。ただその流れで、「子供だって育ててみたらいいのに」みたいに言われることもあります。そう言われる度に私は、それは無理あるだろー、と感じてしまいます。


その理由は、先程引用した津村の思考とまったく同じです。私はよく、「自分の子供が将来藤井聡太になるなら、そりゃあ育ててみたい。でも、どんな子供か分かんないし」という話をします。
「藤井聡太になるなら」というのは別に、「大金を稼ぐ子供」とか「有名になる子供」という意味ではありません。私は天才が好きなので、自分の子供が何らかの意味で「天才」だったらいいな、と思ってよく藤井聡太の名前を出します。
「子供だって育ててみたらいいのに」と言う人が何を考えてそういう発言をするのかよく分かりませんが、私がいつも思うことは、世の中には児童虐待とか育児放棄とかメッチャ起こっているじゃないか、ということです。
そういう人の中には、様々な事情で子供を産むことを望んでいなかった人ももちろんいるでしょう。しかしその多くはやはり、「子供が欲しいし、自分には子育てができると思っている人たち」のはずだと私は考えています。そして、産んで育て始めるまではそう考えていた人たちが、虐待や放棄をしてしまうというわけです。



「自分は大丈夫」って思ってる人が上手くいかないんだから…



上手くやれるなんて思えないよねぇ


もし世の中に虐待や放棄が一例も、あるいはほとんど存在しないのであれば、私も子育てできると思えるかもしれません。しかし世の中には、子育てに上手くいかなかった人たちの事例がたくさんあります。であれば、私が「なんとかなる組」に入れる保証などない、ってかきっと入れないだろうと考えてしまいます。まさに津村と同じです。
私も、別に殊更に子供が嫌いなわけではないし、案外良い親になれるんじゃないかと思えたりする瞬間もあります。でも、やっぱり、「不幸な子供」の親にはなりたくない、と考えてしまうんですよね。津村が言っている通りです。
私はこの物語が存在することで、なんとなくほんの少しだけですが、「自分のような考えも、世の中のどこかにはちゃんと存在しているんだな」と思えて、気持ちが軽くなった気がします。
最後に
「必要とする/される関係」を築けなければ喪失感を上手く捉えることはできません。しかし「必要とする/される関係」には、それ相応の責任も付随してきます。私は、その責任を果たす勇気がなくてどうしても遠ざかってしまい、そのせいで、誰かの死に対して感情が動かない人間になってしまいました。
津村のように、失ってからその大事さに気づいたとしても、できることは多くはありません。自戒を込めてですが、失う前にその大事さを捉えられるような関係性を築くことが重要だと改めて考えさせられました。
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