【美麗】映画『CLOSE/クロース』はあまりにも切ない。「誰かの当たり前」に飲み込まれてしまう悲劇

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:エデン・ダンブリン, 出演:グスタフ・ドゥ・ワエル, 出演:エミリー・ドゥケンヌ, 出演:レア・ドリュッケール, Writer:ルーカス・ドン, Writer:アンジェロ・タイセンス, 監督:ルーカス・ドン

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この記事の3つの要点

  • 「何も考えずに済むように、他人を暴力的にカテゴライズする」という言動に、私は苛立ちを抑えきれない
  • 「突出した何か」を持たないが故の劣等感が、「他人を何かの概念に放り込む」という行動に繋がっているのだろうか
  • 「沈黙でも成立するほどの関係性」だったからこそ、少年2人の変化は「明白なもの」として認識されない

この映画で描かれるあまりの「醜さ」が、映像的な「美しさ」によって一層強調されている

自己紹介記事

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あまりにも切ない人間関係を描き出す映画『CLOSE/クロース』から考える、社会の「無自覚な暴力性」

実に素晴らしい映画だった。非常に美しい映像で純真な少年たちを描き出し、その上で、「外的な醜さ」によって関係性に亀裂ができ始める過程を、とにかく丁寧に描き出す作品である。この映画の「醜さ」は非常に現代的だし、その「醜さ」が、映像的な「美しさ」によって一層強調される構成も、とても印象的だった。

「何も考えずに済むように、他人を暴力的にカテゴライズする社会」に私たちは生きている

私は基本的に、異性の友だちの方が多い。私は男なので、女友達が多いというわけだ。30歳を超えた辺りから、「女性とは恋愛ではなく友だちを目指そう」と考えるようになったのである。恐らく、一般的な同性と比べて異性の友だちが多いだろうと思う。

さて、そういう話を周囲の人にしてみると、ほとんどと言っていいほど「恋愛にしようとは思わないの?」みたいなことを聞かれる。その点が気になる気持ちも分からなくはないのだが、しかしあまりにもよく聞かれるので、「鬱陶しいな」と感じることの方が多い。

そういう反応に触れる度に私は、「世の中の人はどうやら、『なんだか分からないもの』を『名前が存在する概念』に放り込みたいようだ」みたいに感じる。恐らくだが、ある一定の年齢になると、「異性と友だちになるのは難しい」という感覚を抱くようになるのだと思う(特に男はそうかもしれない)。それにそもそも、「異性の友だちがいる」という状態には「定まった名前」が存在しない。だったら「恋愛」という枠組みに押し込めるしかないじゃないか。恐らく、そういう思考回路なのだと思う。

そして、「『なんだか分からないもの』を『名前が存在する概念』に放り込みたい」というその動機は、恐らく、「何も考えたくないから」だと私は考えている。

「異性の友だちが多い」という状態は、多くの人にとってきっと「情報が多すぎる」のだと思う。「どうして異性と友だちになれるのか?」「恋愛感情は抱かないのか?」「どういう会話をしているのか?」など、色んな疑問が浮かんでくるのだろう。しかし、そういう状態は面倒くさい。だから、「どうせ『恋愛』なんでしょ?」みたいに既存の概念に放り込んで、それ以降何も考えずに済むような状態にしたいのだと私は想像している。そうでも考えなければ理解できない。

映画『CLOSE/クロース』では、幼い頃から兄弟のように育ったレオとレミという2人の少年が登場する。彼らはずっと一緒にいて遊び、身体をくっつけ合ったり、どちらかの家に泊まって同じベッドで寝たりもするくらい仲が良い。彼らにとってそういう関係性は、物心ついた頃からの「当たり前」のものであり、だから学校でも同じように振る舞っていた。

しかし中学に上がると、彼らの関係は「異質なもの」と受け取られてしまう親友や幼馴染という関係で括るには「仲が良すぎる」と思われたのだ。そんなわけで彼らは、「2人は付き合ってるの?」と面と向かって聞かれるのである。

このたった一言が、彼らの運命を大きく変えることになってしまった。

クラスメートが、彼らの関係を「恋愛」という概念に放り込もうとした理由は、単にからかってやろうという程度のものだったと思う。しかしこれと同じような状態に対して、先述した「何も考えずに済む」以外の理由を想像してみることも可能である。

親友や幼馴染以上に仲良く見えるのに、恋愛ではない少年の関係」には、誰もが思い浮かべられるような「名前」は付いていないはずだ。そして、「名前が付いていない」というのは、「多くの人がその状態を認識していない」ことを意味するだろう。となればその事実は、「その状態を無意識の内に拒絶している」という受け取られ方を誘発しかねないとも言える。

つまり、「拒絶しているわけではない」と伝えようとして、「『名前が存在する概念』に放り込む」という行動を取る人がいてもおかしくはないとも考えているのである。「『親友や幼馴染以上に仲良く見えるのに、恋愛ではない少年の関係』のことは良く分からないけど、『恋愛』だって言ってくれるなら全然受け入れるよ」みたいな意図を伝えようとしているというわけだ。

これに似た類の振る舞いは社会の中に散見されるが、私はそういう言動がとても嫌いである。他人をカテゴライズして思考停止しようとしている人間も好きになれないが、他人を何かの枠組みに放り込んで理解を示しているつもりの人間も全然許容できないというわけだ。

さて、ここからは私の偏見だが、「他人をカテゴライズしたがる人間」は概ね「何のカテゴライズもされようがない人間」であることが多いだろう。平たく言えば、「普通の人間」ということだ。何か「異質なもの」がそこにあるからこそ「カテゴライズする必然性」が生まれるわけで、そういう「異質さ」を何も有しない「普通の人間」に何か名前を付けて分類することに意味はない。そしてそういう、「自身はまったくカテゴライズされようがないありきたりな人間」こそが、他人を「名前が存在する概念」に放り込みたがるのだと私は考えているというわけだ。

そういう社会に、私はとてもイライラする

「他者と異なること」を「間違い」だと思い込ませるような社会のあり方

筆致が少し刺々しいと自覚しているが、この刺々しさはもう少し続く。ご容赦いただきたい。

さて、「普通の人間」が他人をカテゴライズしたがるのは、「劣等感」からくるものなのだろうかと考えることがある。

カテゴライズされるような「異質さ」というのは、見方を変えれば「突出した何か」とも言えるだろう。そして、「カテゴライズされない」ということは、そのような「突出した何か」を持たないことを意味する。もしかしたら「普通の人間」は、そこに劣等感を抱くのかもしれない。そうであるならば、その劣等感を「無かったこと」にするために、「突出した何か」を持つ人間を「名前が存在する概念」に放り込んでいるとも考えられる。「お前だって、カテゴライズされるような『普通の人間』だぞ」という感覚を抱いて、溜飲を下げたいのかもしれない。

もちろんこれはちょっと飛躍しすぎた考え方だが、しかし、私はよくこんな風に考えてしまうのである。何故なら、そんな突飛な発想でも持ち出さなければ理解できないような状況が、世の中には山ほど転がっているからだ。本当に意味が分からない。SNS上の炎上などはほとんどこの類のものに思えるし、誹謗中傷などが背景にあるのだろう著名人の自殺なども、この話の延長上に存在するように感じられてしまう。誰かのことを「その人そのもの」として捉えるのではなく、「その人が属すべきと決めつけたカテゴライズ」で判断し、「そのカテゴリーにいるからダメだ」と非難する。そんな我田引水極まりない主張が世の中に蔓延っているように感じられ、私はイライラを抑えられずにいるというわけだ。

私も、レオ・レミと状況はまったく異なるものの、子どもの頃からずっと「周囲との馴染めなさ」を感じながら生きてきた。特に子どもの頃は本当に大変で、学校という場は特に「『他者と異なること』を『間違い』だと思い込まされるような環境」でしかなかったので、よく生き延びたなと感じる。

私は、大人になる過程で(あるいは、大人になってからかもしれないが)、「『他者と異なること』をプラスに捉える」という風に発想を転換出来たこともあり、子どもの頃のような葛藤を抱くことはもうほとんどない。そして、そう思えるようになった今は、「他者と異なること」はとてつもない武器だとさえ感じられるようになった。しかし、そう思えなかった頃の自分の記憶もちゃんとまだ残っている。プラスに捉えられなければ、「他者と異なること」は単なる「重荷」でしかない

そして、そんな風に否応なしに感じさせられる「重荷」は、「世間」が生み出していると言っていいはずだ。

映画『CLOSE/クロース』は、仲の良い少年2人の関係性の変化を丁寧に描き出す作品だが、しかしより広い視点で捉えることも可能である。2人の周囲の環境を「世間一般」と見做すことで、そんな「世間」の”些細な”反応によって、どれほど甚大な影響が生み出されるのかを描いているとも言えるだろう。誤解の無いように書いておくが、「些細な」という表現は決して私の主観ではなく、「世間はきっとそう捉えているだろう」という意味だ。当然のことながら、「世間にとっての『些細』」が、誰に対しても「些細」であるとは限らない

そしてまさにこのような構成は、「SNSに”支配された”と言ってもいいだろう現代人が、日々無意識に取っている行動によって、どこかの誰かをどれほど傷つけているのか」を可視化させる物語であるとも受け取れるだろう。映像的にはとても「美しい」物語なのだが、物語そのものや扱われているテーマ性は、対比させているかのようにあまりにも「醜い」のだ。本作の「美しさ」は、その「醜さ」を一層際立たせるために用意された背景でもあるのだと感じた。

映画の内容紹介

花卉農家の息子であるレオと、その幼馴染であるレミは、家族ぐるみで仲が良い。2人はお互いの家に泊まり合うほどで、学校から帰ったら花畑の中を走り回り、夜は同じベッドで眠る。2人はずっとそんな風に過ごしてきたわけで、それが「当たり前」だった。もちろん、それが「おかしなこと」だなんて考えたこともない

その後2人は中学校へ進学し、同じクラスになった。いつものように、レオがレミの肩に頭をもたれかけさせてくっついていたのだが、それを見たクラスメートが少しざわざわする。そして、同じクラスの女子から、「2人は付き合ってるの?」と聞かれてしまうのだ。

そんな風に問われたことが意外だった2人は、すぐ冷静に否定したのだが、クラスメートたちの「違和感」が消えることはない。そして結果として、この時を境に2人の関係は少しずつ変わっていってしまった。大きく変わったのはレオの方だ。学校にいる時は、レミと仲が良い風に見られないように振る舞い始めたのである。そして次第にそのスタンスは、2人だけでいる時にも及んでいく

ほんの”些細な”言動から、その距離が大きく広がり始めた2人。それまで仲良くしていたのが嘘みたいに歯車が噛み合わなくなっていき、やがて仲違いでもしているかのように疎遠になってしまう……。

映画の感想

映画は当然、「レオとレミの関係性の変化」に焦点が当てられるわけだが、その「変化」は非常に分かりづらいと言っていいと思う。

レオもレミも、演じるのは極端にセリフが少ない役柄だ。冒頭からしばらくの間、昔からの仲の良さを保っているシーンではもちろん会話しているが、「2人は付き合ってるの?」と聞かれて以降は話さない時間の方が長くなる

しかしだからといって、その事実がすぐに「仲違い」を示すのかというとそうでもない。というのも、レオとレミは「沈黙でも成立するくらい長い時間を共有してきた」からだ。長年連れ添った老夫婦が縁側でお茶を飲んでいるかの如く、彼らも、原っぱにただ寝転がって空を見ているだけで、関係性として十分成立する。しかもちょうど、中学入学というタイミングだ。それなりの変化があってもおかしくはないとお互いに認識していたはずである。

そんなわけで、彼らの関係性の変化ははっきりとは見えてこない。いや、メタ的な話で言えば、観客だけはそのことが理解できると言っていいだろう。設定やストーリー展開から、「レオとレミは仲違いしていく」と想定できるはずだからだ。いずれにせよ、レオにしてもレミにしても、相手の変化を「明らかにおかしい」と受け取るのは難しかっただろうと思う。「『喋らない』からといって怒ってるとは限らない」「中学入学直後だからそりゃあ変化もあるだろう」という風に、相手の行動にそれなりの説明が付けられてしまうからだ。

「相手の言動の変化が、『明白な関係悪化』を示している」と確信できた方が、お互いに行動しやすかったかもしれない。「どうして?」と相手に直接聞くことも出来ただろうし、あるいは、「まずは自分の振る舞いを調整しよう」という発想になれた可能性もある。しかし実際はそうではなかった。観客視点からすれば、レオは「明らかにレミを避けている」と映るが、レミにはしばらくその確証は持てなかったに違いない。「2人は付き合ってるの?」と聞かれたぐらいのことで、長い長い付き合いが崩れてしまうなんて、信じたくなかったはずだからだ

またここには、「名前が付くような関係ではなかった」という要素も関係していると思う。

例えば、彼らがお互いに「恋愛関係」だと認識していたのなら、「自分以外の誰かと仲良くしている」「以前と比べて連絡の頻度が減った」という事実に対して、相手に理由を聞いたり、改善を促したりすることが出来る。「出来る」というか、「恋愛」の場合にはそうすることが自然だとお互いに諒解できるはずだ。

しかし彼らは、レオの言葉を借りるなら「親友以上」の関係であり、要するに「決まった名前のない関係」だと言っていい。となると、「恋愛関係」なら成り立つだろう「こうすべきではない」「こうあるべきだ」みたいな「前提条件」を、お互いに共有することが難しくなると言えるだろう。「これが正解/不正解である」という理解が共通していれば、相手を責めたり何か要望を出したりもしやすいが、「正解/不正解の基準」が無いのだから、「お前は間違っている」みたいなことも言いにくくなってしまうというわけだ。

それにそもそもの話だが、彼らはきっと「言葉で説得する」みたいなことをしたくなかったのだろうなとも感じる。今までずっと、「言葉なんかなくたってお互いのことをすべて分かり合えていた」ような、そんな特別な関係性だったのだ。だとすれば、「言葉で説得する」みたいな行動を取った瞬間に、その何にも代えがたい奇跡的な関係性が崩れてしまうという感覚を持っていてもおかしくはないと思う。「『言葉なんかなくても分かり合える』というかつてのような関係に、言葉を駆使して戻っていく」みたいなことは、なかなか難しいと想像出来るだろう。

映画を観ながら私は、彼らの「沈黙」の中に、このような様々な葛藤を見出した。セリフは非常に少ないのだが、この「沈黙に語らせる」という構成が実に上手いし、そんな難しい演出を演技で実現したレオ・レミ役の少年たちも見事だったと思う。

繰り返しになるが、作中ではレオもレミもほとんど自身の内面を表に出さないので、それぞれの場面でどう感じていたのか、実際のところは分からない。想像するしかないわけだが、しかし、物語の設定が非常にシンプルなので、「恐らくこういう感じだろう」という想像は容易だとも言える。もちろん、その想像が当たっているか確認する術はないのだが、難しい解釈が要求されるような作品ではないので、観ていて戸惑うことはないだろう。そして、「きっとこんな風に葛藤しているのだろう」という想像が、観客の心を震わせるのである。

出演:エデン・ダンブリン, 出演:グスタフ・ドゥ・ワエル, 出演:エミリー・ドゥケンヌ, 出演:レア・ドリュッケール, Writer:ルーカス・ドン, Writer:アンジェロ・タイセンス, 監督:ルーカス・ドン

最後に

彼らの間に存在し続けた、確かな手触りのある「美しい世界」は、ほんの少し何かが異なっていれば、そのままずっと壊れることなく維持されたはずだ。しかし残念ながら、結果的にその「美しい世界」は失われてしまう。そのあまりの残酷さに、観ていてやりきれない想いばかりが募った。

そして同時に、これは私たち自身の話でもあると自覚しなければならないはずだ。もちろん、私たちが「被害者」になる可能性もある。しかしそれ以上に、「どうってことない」と考えている”些細な”行動によって、私たち自身が「加害者」になってしまう可能性だって十分考えておかなければならないのだ。

私たちも、どこかに存在しているかもしれない「美しい世界」を、あっさりと毀損してしまっているかもしれない。そんな可能性を否応なしに内包する現代社会に対して、私は強い嫌悪感を抱いている。そのことを改めて実感させてくれる作品だった。

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