【思考】戸田真琴、経験も文章もとんでもない。「人生どうしたらいい?」と悩む時に読みたい救いの1冊:『あなたの孤独は美しい』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

竹書房
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いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「自分の『言葉』で誰かを救いたい」という強い決意に満ちた、熱量満載のエッセイ

犀川後藤

そこらの作家やエッセイストなんかより遥かに文章が上手いんじゃないかと思います

この記事の3つの要点

  • 家族との折り合いのつけられなさがもたらした高い言語化能力と、それを「誰かを救うために使いたい」と考える強い決意
  • 母から「男女交際」を禁じられていた戸田真琴が、処女のままAV女優になると決意するに至った「普通ではない思考」
  • 「普通」に囚われたまま、苦しんでいる人たちを解放するだろう、戸田真琴の思考と言葉
犀川後藤

なかなか人間に興味を持てない私が、「話をしてみたい」と強く興味を抱くきっかけになったエッセイです

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

AV女優・戸田真琴の「言葉の人」としての側面が全開に発揮された素晴らしいエッセイ『あなたの孤独は美しい』

私は基本的に、なかなか他人に関心を持つことができません。大体の場合、「つまらないなぁ」と感じてしまうのです。そして、興味を持てるかどうかは、「普段から色んなことをあーだこーだ考えているかどうか」の違いなのだろうと私は思っています。

以前、ちきりん氏の本を読んで、次のようなツイートの存在を知りました。

これは非常に共感できる内容でした。そして私は、「5分考えたことを5分話す人」にはまったく興味が持てず、「100時間考えたことを5分話す人」に興味があります。日常的に思考を巡らせていない人との会話はどうしても「つまらない」と感じてしまうし、そういう人とはなるべく関わりたくないと思ってしまうのです。

いか

このことが理解できるまでは、「人見知り」「コミュ障」なんだって思ってたぐらいだよね

犀川後藤

まあ、ある種の「コミュ障」なのかもだけど、とにかく「相手への関心」が最大の問題なんだよなぁ

そして「思考を巡らせているかどうか」は基本的に、その人が発する「言葉」に現れるものです。私は、「普段から色々考えていて、言葉が熟成されている人」のことを「言葉の人」と呼んでいて、大体そういう人にしか惹かれません。

今まで小説やエッセイなどたくさん読んできましたが、「作品を面白い」と感じることは多々あっても、「この著者に会いたい」と思うことはそう多くありませんでした。「この小説をどんな風に生み出したのか」「こんな面白いエッセイを書く人はどんな感じの人なのか」という関心を抱くことはあるし、そういう興味を解消するために1回ぐらい会ってみたいと感じることはあるのですが、「人間的に興味を抱き、もし可能なら継続的に関われたらいいと感じること」はほぼありません

今までそう感じた人を挙げてみると、小説家の森博嗣アイドルグループ乃木坂46の齋藤飛鳥4人組バンドSEKAI NO OWARIの藤崎彩織となります。

そして本書『あなたの孤独は美しい』を読んで、AV女優の戸田真琴にも同じような感覚を抱きました

いか

本書を読んだ時点で、「AV女優・戸田真琴」の存在は知らなかったし、未だに彼女のAVは観たことがないよね

犀川後藤

AV女優のエッセイも色々出てるだろうけど、「たぶんこれ、ちゃんと本人が書いてるんだろうな」ってので興味を持った気がするなぁ

辛すぎる経験を乗り越えるために身に着けた「言語化能力」と、それを「誰かを救うために使う」という意志

私の中には、「辛い経験をせざるを得なかった人ほど、『言葉』が豊かになる」という持論があります。そして、私のそんな持論を証明するかのような文章が本書にありました。

私は家族に対する「どうやってもわかり合うことができないんだ」という失望が、自分の孤独を知るきっかけになりました。当たり前にわかり合えて愛し合える家族の下に生まれていたら、きっともっと満ち足りていて、こんなに必死に自分の心の本当の姿を知ろうと頭をひねらせることもなかったかもしれません。

私も子どもの頃からずっと、「自分の周囲の世界に『馴染めない』という感覚」をずっと抱いてきました。家でも学校でも、「なんか違う」という感覚を拭いきれなかったのです。家族に対して多くの人が抱いているのだろう「親愛の情」みたいなものを、私はこれまで感じたことがないし、クラスメートたちの会話に「一体何が面白いんだろう」とずっと疑問を抱き続けていました。一応書いておきますが、私は別に親から虐待を受けていたとか、学校でいじめられていたなんていうことはなく、外から見れば「普通」の環境にいたと思います。それでも私は、自分の周りに存在する環境すべてに、「ここにはいたくないなぁ」と思い続けていたのです。

いか

子どもの頃は特に、「自分がどうしてそんな風に感じるのか」を言語化できずにいたから、余計大変だったよね

犀川後藤

そういうもどかしさみたいなものが、「考えていることを言葉にしたい」っていう動機に繋がってると思う

戸田真琴もまさにそのようなタイプの人でした。後で詳しく触れますが、彼女の場合は「家庭環境」にかなり問題があり、そのせいで「歪んだ愛情」にしか接することができなかったり、あるいは「愛情」というものの存在がよく分からなかったりすることになります。

そんなわけで戸田真琴は、「どうして自分はこういう状況にいるのか」「私は本当はどうしたいのか」みたいなことを必死で考えざるを得なくなりました。そういう経験をしているからこそ、普通にはなかなか獲得し得ないだろう「言語化能力」を手に入れられたのでしょう。

私はよく「解像度」という言葉を使います。一般的には、カメラの画素数などと関連付けて使われる言葉でしょう。しかし私は、「言葉の解像度」「理解の解像度」などのように使っています。要するに、「物事をどれだけ細かく捉えているか」の指標というわけです。詳しくは、『彼女が好きなものは』の感想で触れていますので、そちらを読んでください。

戸田真琴は、とても「解像度」が高い人だと感じます。様々な事柄を非常に細かく捉え、さらにその捉えたものを仔細に言語化できるのです。私は、「言葉の人」「解像度が高い人」を見つけるセンサーに優れていると自分では思っていて、そしてそのセンサー的に、戸田真琴はめちゃくちゃハイレベルだと感じます。だから、先に挙げた人たちと同じく、「人間的に関心があるので会ってみたい」という風に思わされたのです。

いか

まあ「会う」だけなら、ファンイベントみたいなのがあるのかもだけど、そうじゃなくて「喋りたい」ってことね

犀川後藤

電話とかで喋れるなら、別に会わなくてもいいって感じなんだよなぁ

さて、そんな「言葉の人」である戸田真琴は、やがて、自分以外の誰かのために「言葉」を駆使しようと考えるようになります。本書の冒頭「はじめに」で書かれていた文章は、まさにそんな宣言とも取れるものでしょう。

あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。

現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。

そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。

いか

この文章を読んだ時点で、結構惹き込まれた感あったよね

犀川後藤

凄いこと書くなこの人、って思ったなぁ

この文章の凄まじさを私なりにちょっと説明してみたいと思います。

凄さを感じる最大の理由は、「嘘っぽいことを言っているのに、嘘っぽく受け取られない」という点にあります。「大丈夫だと言うために駆けつけます」「その手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます」という言葉は、普通に考えれば「いや、無理でしょ」と受け取られて終わってしまうでしょう。彼女自身も、「そんなことできやしませんが」と書いているので、実際に出来ないことは認めているわけですが、そもそも「そんな偽善者っぽいことを言うのは胡散臭い」という印象になってもおかしくないと私は思うのです。

ただ、もちろん感じ方は人によって違うと思いますが、私はこの文章を読んで、「彼女は本心でこれを書いているのだろう」と受け取りました。本文を読んでさらにその印象は強まるわけですが、彼女はたぶん「思ってもいないことは言葉にできない人」なのだと思います。「自分の中で『嘘』だと感じられてしまうこと」は、書きたくても書けないというわけです。そういう雰囲気が伝わるからこそ、やや大げさにも感じられる宣言が、一言一句偽り無く彼女の本心であると受け取れるのだと思います。

いか

宗教の教祖とか政治家とかネットワークビジネスの人なんかで「本当っぽく聞こえさせる」みたいな人はいるだろうけど、そういう人じゃないのよね

犀川後藤

どう違うのか、上手く説明するのは難しいけど

戸田真琴が「誰かのために『言葉』を届けたい」と考える背景には、彼女が抱き続けた「普通」に対する憧憬のような気持ちがあるのだろうと思います。

たまに、他人のことを眩しいと感じることがあります。それは、ごく当たり前のように「みんな」と仲良くできて、「みんな」が笑うようなことで一緒に笑って、「みんな」が見ているテレビを見ていて、「みんな」に引かれないちょうどいい話題で会話ができる――そんないわゆる「普通」の人に対してのことです。

これだけ抜き出すと誤解を招くかもしれませんが、彼女はきちんと、「そういう『普通』の人も、物凄く努力した果てにその立場を手に入れたのかもしれない」とも書いています。しかし、「だとしても、『普通』に憧れを抱いてしまう」のだと、彼女はその切実さを訴えるのです。

犀川後藤

私は別に「普通」には憧れなかったけど、この感覚は分かるなぁ

いか

「『普通』には馴染めないから、どうやって『普通』から離れて人生を成立させるか」って方向に振り切ったよね

さてそんな戸田真琴はやがて、次のような「願い」を抱くようになります。

それからの私の自分のための願い事は、いつか私が「普通」になる世界がやってきたらいいのにな、というものになりました。

ある面では、まさに今がそういう世界だと言えるかもしれません。「多様性」という言葉が、かなり当たり前のものとして社会に浸透してきているからです。しかしもちろん、まだまだ「多様性」への理解は十分ではないし、特にマイノリティに属する人たちには厳しい状況が続いていると思います。戸田真琴の理想が実現しているとは決して言えないでしょう。

そして彼女は、自分以外にも同じような感覚を抱いている人が他にもいるはずだと思い、本書のような「言葉で自分の考えを伝えるメディア」を駆使することで、「誰かを支える存在になれたらいい」と考えているのです。

彼女のこの「決意」が、本書を「ただのエッセイ」に留めていない要素なのだと感じました。なんというのか、随所から彼女の「熱」が漏れ出ているような、文字そのものにも「熱」が籠もっているような、そんな作品だと思います。

犀川後藤

ちょっと褒めすぎかな?

いか

でも、「AV女優が書いた本」っていう時点でかなりの先入観が生まれるから、これぐらい言わないと手にとってもらえない気もする

宗教にのめり込む母、男女交際を禁じられた戸田真琴

本書には、戸田真琴の子ども時代の様々な苦労が描かれています。姉が壮絶ないじめに遭っていたことや、父親と絶望的に価値観が合わなかったことなど、彼女を取り巻く環境には様々な大変さがありましたが、やはり中でも、母親が新興宗教にのめり込んでいたことが最も大きな影響を及ぼしていたでしょう。

小学生だった戸田真琴は、引っ越しを機に、「自分の家が、どうも他の家族とは違うようだ」と気づいてしまいました。そして、その時のことをこんな風に書いています。

そんな感じで、普通とはちょっと違った家に育ったのだと気がついてしまった私でしたが、異様に心の強い子供だったので、そこまで落ち込みもしませんでした。幸い、自分にとって何が正しくて何が間違っているのかは自分で判断ができる子供だったし、心というものはそれ自体、いつも自由でいる術を必ずどこかに隠し持っているもので、その頃の私は「お母さんの宗教は私にとっては信じるべきものではないのかもしれない」と理解し、自分はそれを無理に信じる必要もない、と割り切りながらもそれをお母さんに対しては隠し通す、というやり方でなんとか切り抜けていた気がします。

小学生にして既にこのような思考ができていたことに驚かされました。母とは心の距離を取りながらも、表向きはそうは見せないという振る舞いは、小学生にはなかなか困難だろうと私には感じられます。

犀川後藤

親が宗教を信仰してたとして、私もたぶん信じはしなかいと思うけど、表向き分かりやすく反発したような気もする

いか

そのバランスが取れるのはかなり上級者って感じするね

しかし一方で戸田真琴は、母親に掛けられたある「呪い」に長年囚われ続けていました。それが「男女交際禁止」です。彼女は、「母にも母なりの思いがあったのだろう」と理解を示してはいます。しかし、彼女が「AV女優」への道を踏み出すきっかけにもこの「呪い」が関係しているので、母がどういう理由で「男女交際」を禁じていたのだとしても、結果としては逆効果になってしまったと言えるかもしれません。

さて、後の話とも関係するので、ここで少し「AV女優・戸田真琴」についての情報に触れておきましょう。本書に書かれている話ですが、彼女はなんと「処女でAVデビュー」を果たします。しかも応募時点では「自身が処女であること」は隠していました

この話に触れたのは、本書に書かれている「彼女の『恋愛未満』のエピソード」の背景になると思うからです。彼女は恋愛もセックスも経験しないままAVの世界に飛び込みました。そしてその背景に、母の「呪い」の存在があったというわけです。

いか

この記事でも後で触れるけど、彼女がAV女優になると決めた経緯はちょっと凄いよね

犀川後藤

そんなことを考えてAVの世界に飛び込んだ人なんかたぶんいないだろ、って感じする

さて、彼女の決断は決して、母の「呪い」だけが理由ではありませんでした

戸田真琴は学生時代、ある男の子から告白されます。彼女はその男の子に「特別な感情」を抱いてはいないつもりでしたが、告白された後で、「彼のこと、ちょっと気になってたかも」と感じもしたそうです。つまり、「特別好きなわけではなく、別に嫌いでもない」という感じでした。

彼女はその告白に逡巡します。男女交際を禁じられていたことも理由の1つではあるのですが、一方彼女はこんな風にも考えていたそうです。

私は自分のことを、一人の男の子の大事な10代の時の中で大きな配分を占めていいほど価値のある人間に思えませんでした。

本書を読めば分かると思いますが、彼女は異様に自己肯定感が低いです。先の感覚も自己肯定感の低さからくるものだろうし、そういう自分を支えるために「言葉」が必要だったのだろうとも感じさせられました。

またさらに、こんな風にも書いています。

当時も今も、好きになったら付き合いたいと思う、という思考回路が普通とされていますが、なぜ付き合うのかが私にはわかりませんでした。(中略)好き、というだけで本当は完成なのではないか? なぜその先で「付き合うかどうか」という白黒つけるような選択が迫られてしまうのだろう。

いか

これはメッチャ共感できるよね

犀川後藤

ただ私の場合は、30歳になるぐらいの頃にやっとこう考えられるようになったから、10代の思考って考えるとちょっと驚く

今の10代の男女が「恋愛」に対してどんな感覚を抱いているのかはよく分かりませんが、「恋愛をしたくない」とか「興味がない」と考えている人でも、このような思考をする人はなかなかいないのではないかと思います。こういう思考に囚われてしまうととても大変です。私もめんどくさい思考で頭がグルグルする時は、「こういう性格じゃなかったら良かったのに」と考えてしまいます。ただ、トータルで考えた時にはやはり、「思考を展開できる」という特性は決して悪くありません。戸田真琴もきっと同じでしょう。

さて、彼女は「恋愛」について思考を迫られる中で、「母の呪い」でもなく、「世間の常識」でもなく、あくまでも「自分がどう考え、感じるか」で決断を下したいと考えるようになります。そしてその結果、10代にして、次のような結論に至るのです。

私の導き出した極論――好きな相手でも告白を断ることができる正当な理由――は「この人といつか結婚するのかな?赤ちゃんをつくりたいって思うかな?」という問いを自分の中で投げかけてみるということでした。

自分でもそう書いているように、彼女はこの考え方が「極論」であることを当然理解しています。私も、「メチャクチャ歪んだ思考だな」と感じました。しかし一方で、「極論を持ち出さなければ自分を保てない」という感覚も分かるつもりです。詳細には触れませんが、私も子どもの頃、「自分は世界中の人から嫌われている」と考えることで日常を乗り切っていた時期がありました。そう考えることで、自分のメンタルを保っていたのです。

いか

「嫌われているかもしれない」って状態が怖いから、「嫌われてるんだ」って風に確定させることにしたんだよね

犀川後藤

それが「極論」だとは分かってたけど、それで精神が保てるなら別にいいかって思ってた

「AV女優という生き方を選んだ人」という捉え方では見えてこない部分が、本書にはかなり描かれています。そして、それらの描写から、「まったく同じではないけれど、自分と同じ大変さを経てきた人だ」と感じる方も結構いるでしょう。そしてこのような来歴を知ることで、冒頭で触れた「誰かを救うために『言葉』を駆使したい」という宣言の「本気度」がより一層増すとも言えるのではないかと思います。

「『羨ましがられない』ためにAV女優になる」という異次元の思考

先程、「男女交際を禁じられたことがAV女優の道へ進むきっかけの1つになった」と書きましたが、その点についてはこの記事では具体的に触れません。ここからは、彼女がAV女優という人生を選択するに至ったかなり大きな理由についての話をしていきましょう。

それについて戸田真琴はこんな風に書いています

私がAV女優になることを選んだ理由のひとつにも、「なるべく誰にも羨ましがられない存在にならないといけない」という気持ちがありました。もしも私のことを誰かが羨ましがろうとしても、「でもこの子はAV女優だし」と見下すことで劣等感を抱かないで済めばいい、と思うが故のことでした。これもやっぱり正しいことなのか今でも悩むところではあるのですが、誰かが誰かに劣等感を抱いて、そのせいで自分自身を嫌いになる、という現象が、私にとって本当になるべく起こって欲しくない、悲しい現象に思えていたのでした。

いか

なんというか、「自己肯定感の低さ、ここに極まれり」って感じの話だよね

犀川後藤

理屈としては理解できるけど、よくそんな思考にたどり着いたなって感じもする

意味が分かるでしょうか? どういうことなのか説明しようと思います。

戸田真琴が最初にこのような感覚を抱いたのは中学生の頃です。当時、ハルちゃんといつも一緒に帰っていたのですが、彼女が下校中にずっと、他人の悪口ばかり言うようになります。その状況は彼女にとって非常に苦痛でしたが、しかし「この状況に耐えよう」と決断しました。その理由を彼女はこう説明しています。

もしも私がこのハルちゃんの聞き役を降りたら、他の子がこの立場にならなきゃいけないかもしれない。この言葉のナイフたちが、私以外になるべく刺さりませんように――と願いながら、耐え抜く他ない日々が続きました。

これは決して「誰にも羨ましがられない存在になる」という話ではありませんが、「自分が我慢すれば丸く収まる」という彼女のこの考えは、その片鱗を感じさせるでしょう。また戸田真琴は、ガリ勉というわけでもないのに勉強が得意だったり、絵を描くことが心の底から好きで努力もしていた姉より絵が上手く描けてしまったそうです。普通に考えれば、それは「喜ばしいこと」と捉えられるのではないかと思いますが、戸田真琴は違いました。彼女は結局、勉強も絵を描くことも、本気でやらないと決めてしまいますその決断にも、「羨ましがられない存在」というキーワードが関係してくるのです。

ここでも、自分が得意なことに対して、誰かに劣等感を抱かれるとき、まるで自分がその人を悲しませてしまったような気持ちになるという悪い癖が出て、私はだんだんと、勉強なんかできない方がいいと自分に対して思うようになりました。

いか

戸田真琴は、「今となれば、優しさを完全に履き違えている行為だったと分かります」とも書いてるけどね

犀川後藤

ただ、こういう感覚は、まったく理解できないってことはなくて、読んだ時「なるほどなぁ」って思った

戸田真琴はとにかく、「羨ましがられる存在」でいることに苦痛を感じてしまいます。だから、勉強が出来ても、絵が上手くても、それを「羨ましい」と感じる誰かが劣等感を抱くことを恐れるのです。そして先述した通り、この感覚が彼女をAVの世界へと連れて行くことになりました。

少し前に引用した文章で、「やっぱり正しいことなのか今でも悩むところではある」と書いているように、この判断の是非については未だ保留という感じなのだとは思います。しかしそれにしても、このような理屈を内側から生み出し、それに基づいて実際の行動に移しているというその生き方には凄まじいものがあるなと感じさせられました。

いか

良い悪いは別として、「自分の将来を、自分で突き詰めた思考によって掴み取っている」って点はメチャクチャ凄いよね

犀川後藤

私は結局、未だにまともに生きれてないから、その点だけでも尊敬するわ

人によっては、「『羨ましがられること』なんか気にしなきゃいい」の一言で済んでしまうような問題でしょう。しかし戸田真琴はどうしてもそこから逃れられず、また、幸か不幸か「高い言語化能力」を有していたために、本来ならする必要のない選択をしてしまったように感じました。ここで私が言う「する必要のない選択」というのは、「AV女優になったこと」を指しているわけではなく、「『他人に劣等感を与えない』という価値基準で職業を選ぶこと」を指しています。そのことが私には、とても「悲しいこと」であるように感じられました

しかし彼女は本書の中で、

(略)あなたの見てきたすべてのことがその配合で混じり合っている存在は、きれいごとではなくあなたしかいないのです。
私はそこに、人が生きていく意味があるということを証明します。

と力強く宣言してもいます。つまり、メチャクチャ口悪く代弁すれば、「その人の経験は、その人自身にしか判断できないんだから、他人がとやかく口出してんじゃねーぞ」ということになるでしょう。確かに、余計なお世話でしかありません。彼女は彼女なりの決断を経てAV女優という選択をし、恐らく、少なくとも現時点では後悔していないのだと思います。そして、「後悔のあるなしに関係なく、『誰だって、自分の決断に沿って生きることに価値がある』ということを、自分の生き方を以って証明する」と決意しているわけです。こういう部分も、戸田真琴という人物への関心が強まる要素だなと思います。

いか

詳しくは知らないけど、戸田真琴って女性からの人気も高いみたいだしね

犀川後藤

彼女が監督した映画を観に行ったら、客席が女性だらけで驚いたわ

竹書房
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最後に

最後に、「見られ方」に関する彼女の思考を紹介してこの記事を終えようと思います。

AVというコンテンツ自体も、童顔で地味な顔立ちの子はエッチに対して奥手でウブであってほしい、とか、ギャルの子は自分からがつがつ来るタイプであってほしい、とかいうまさに”容姿から推測されるままの性格”を求められることが当たり前なのですが、これはAVというコンテンツが男性の理想を叶える、そしてそれがなるべく端的にわかりやすく示されているということが重要視されるものだからであって、これと同じようなことが日常的に起こりうるのはよく考えるとすこし変なことかもしれない、と思います。

彼女は、AV女優であるという自身の立場から、「AV女優に対して『分かりやすい見方』が求められることは仕方ない」と考えています。そして同時に、「あくまでそれはAVの世界だからこそ成立し得るのであって、日常生活の中で同じ感覚が通用してしまうのは正しくないだろう」と指摘しているのです。

この辺りの感覚についても、私は普段から考えていて意識もしています。つまり、「相手を『記号』で捉えない」という感覚を普段から強く持っているのです。私は、「外見や振る舞いなどから分かりやすく捉えられる情報」を「記号」と呼んでいます。そして、その「記号」から「相手のパーソナリティ」を勝手に判断したり押し付けたりしないように意識しているのです。

犀川後藤

気をつけてるつもりでも上手くできてないことは往々にしてあるから、自信を持ちすぎないように気をつけてもいるけど

いか

「自分の感覚が通用しているか」を確かめられる機会も少ないから余計にね

今指摘した話は、ジェンダーや多様性の議論においては前提と言っていいくらい当たり前の感覚だと私は思います。しかし、あまりにも無意識の内に言動に反映されてしまうため、「自分が他人を『記号』で捉えている」という事実に気づいていない人も多いはずです。パワハラ・セクハラなども、このような「『記号』で捉える言動」が生むのだと私は思っています。

その上で戸田真琴はさらに、こうも書くのです。

男の人も「男らしさ」を押し付けられることから自由になれたらいいな、と思うのです。

先程のような議論は、どうしても「女性がメイン」になってしまいがちですが、彼女は男性にも公平にその視線を向けています。この辺りの感覚も非常に好ましいものに感じられました。

「AV女優のエッセイ」と聞くと、様々な「先入観」が生まれそうですが、是非手に取ってみてください。「100時間考えたことを5分話す人」の面白さが体感できると思います。

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