【対立】パレスチナとイスラエルの「音楽の架け橋」は実在する。映画『クレッシェンド』が描く奇跡の楽団

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ペーター・シモニシェック, 出演:ダニエル・ドンスコイ, 出演:サブリナ・アマーリ, Writer:ヨハネス・ロッタ―, Writer:ドロール・ザハヴィ, 監督:ドロール・ザハヴィ
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 殺し合いを繰り広げるイスラエル・パレスチナの若者が共同で管弦楽団を立ち上げる物語
  • 当事者が既に中心に存在しない争いは、「この問題は終わった」と無理やり宣言する以外に解決の道はないと私は思う
  • 「音楽」というモチーフを絶妙に生かして、「世界で最も解決が難しい問題」を前面に押し出す見事な映画

どれほど大きな対立であろうと、歩み寄ろうとする個人の小さな動きから改善される可能性があると感じさせられた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『クレッシェンド』は、「世界で最も解決が難しい問題」を「音楽」で乗り越えようとする若者たちの、実話をベースにした「奇跡の楽団」の物語

この映画で描かれるストーリーそのものは、実話ではない。しかし、映画の設定は現実を踏襲している。「世界で最も解決が難しい問題」と言われるほど複雑な歴史を持つパレスチナとイスラエル、その2国に生きる者たちによる混合管弦楽団が実際に存在するのだ。

お互いを憎みい、殺し合いを続ける両者が、「音楽」によってなんとか歩み寄ろうとする。そんな物語を通じて私たちは、日本人にはなかなか馴染みが薄い対立について、その重苦しさを実感ができる作品だ。

「この問題はもう終わった」と無理やり区切りをつける以外にはない

岩手県に住んでいた頃、度々驚くような話を耳にした。それは、「かつて南部藩だった地域」と「かつて伊達藩だった地域」の間に、現在でも”曰く言い難いしこり”のようなものが残っている、というものだ。私は元々、日本の歴史には大変疎く、かつて両者がどうしていがみ合っていたのかよく知らない(なんとなく分かるが、説明できるほどではない)。しかし、数百年も前に起こっただろう出来事が現在にも禍根を残しているという事実には、とても驚かされてしまった

あるいは、日本と韓国との間には、「慰安婦問題」を含め様々な「禍根」がある。韓国との関係においては、日本は「加害者」の立場だと思うので、日本人である私が何を言っても説得力は生まれないだろう。ただ、この記事に関連して私が言っておきたいのは、「私は韓国に対して特に何も感情も抱いていない」ということである。繰り返しになるが、「加害者」側がこんな発言をしてもまったく何の意味もないし、むしろマイナスに受け取られてしまうだろう。もちろん、問題を軽視しているつもりなどまったくない。ただ、感覚として強調しておきたいのは、「戦時中の日本が韓国に何をしていたとしても、『私自身の問題』だとは感じにくい」ということである。

さて、このような話から何を伝えたいと考えているのか。それは、「私自身は、この映画で描かれているような『対立』とはあらゆる意味で無縁だ」ということである。「何らかの『当事者意識』を踏まえた意見ではない」というわけだ。だから、これ以降私が書くことはすべて「机上の空論」だと思われても仕方がない。ただ私の中には、「どれだけ机上の空論だと思われようが、こう考えるしかないという結論」がある。

それは、

「この問題はもう終わった」と無理やり区切りをつける

というものだ。

パレスチナとイスラエルの問題にせよ、日韓の問題にせよ、既に問題は大いにこじれてしまっている。それ故、「この問題の原因はこれで、その原因を解消するためにこのような対処を行う」というような正攻法では解決不可能と考えるのが妥当だろう。

というのも、既に「当事者」ではない者たちが問題の中心に立っているからだ。

「直接加害を行った者」と「直接被害を受けた者」が問題に向き合っているのなら、「原因究明」「謝罪」「補償」などの手段で解決できる可能性があるだろう。直接の加害者・被害者が問題の中心にいる場合は、「根本的な解決」を目指すべきだと思う。

しかし、時間経過と共に、直接の当事者が亡くなったり、問題の中心にいられなくなったりする。それによって問題が次世代へと引き継がれるわけだが、そうなってしまえばもう「根本的な解決」など望めないだろう。何故なら、振り上げた手をどのタイミングで下ろすかを、直接被害を受けたわけではない者が判断するのはとても難しいはずだからだ。

イスラエル・パレスチナの問題の場合は、さらに難しいことに、現在に到るまで何世代にも渡り双方に被害者が生まれ続けている「祖先の恨み」と「自身の恨み」が混じり合うというわけだ。そうなってしまえば、余計状況はややこしくならざるを得ない。両者がどこかのポイントで合意することなどまず不可能だろう

『クレッシェンド』は音楽映画なのだが、話し合いの場面が実に多い。普段からいがみ合っているイスラエル人とパレスチナ人が一緒に練習をするというのだ。簡単に上手くいくはずもない。だから、まとめ役である指揮者が、幾度も話し合いの場を設けるのである。

その中で彼らが、「私のおばあちゃんが……」「僕のおじいちゃんは……」という話ばかりしているのが印象的だった。彼ら自身も、普段から砲撃や迫害を受けているのだが、自分のこと以上に「祖先が強いられた歴史」のことを語る。そして、「だからこそ許せない」と語気を強めるのだ。登場人物の1人は、

これは歴史の物語なんかじゃない。家族の話なんだ。

と言っていた。これこそが、問題の根深さの根本というわけだ。

「被害」が先で「対立」が後という「最初の当事者同士の問題」であれば根本的な解決もあり得るだろう。しかしその後は、「対立」が継続することで「被害」が生まれるという逆の流れに変わる。そしてそうなってしまえばもう、状況を根本的に解決する手段など残っていないはずだ。

だから私は、「無理やりにでも『この問題は終わった』と区切りをつけるしかない」と考えている。「根本的な解決は不可能だ」という認識を全員が共有し、「問題の原因は取り除かれていないし、その後の被害の補償もないが、それでも、この問題はここで終了だ」と判断するしかないと思う。自分で書いていて、あまりに理想主義的な、現実離れした解決策だと感じる。しかしこれ以外に、具体的に提案可能で実行性のある手段など存在するだろうか

「分かり合おうとする者」同士を、他人が邪魔する権利などない

さて、上述のようなことを前提にしつつ、私はさらにこう考えている。それがどんな問題であれ、「他人の決断を邪魔する権利」など誰も有していない、と。

過去の歴史を背景にした国家間の問題においても、すべての国民が同じ捉え方をしているとは限らない。パレスチナ・イスラエルの争いにしても、「相手の国を絶対に許さない」と考えている人もいるし、「憎いが、対立したいわけではない」「個人的には恨みを抱いているが、国民としては相手を批判しないと決めた」みたいに考える人もいるはずだ。

他人の命や尊厳を貶めるような考えでなければ、それがどんなものであれ許容されるべきと考えるのが、民主主義的な発想のはずだろう。だから、他人の考えを無視して自分の思想を押し付ける人間を、私は嫌悪する

映画では、家族との関係が描かれる場面もある。「”敵国”の人間と一緒に楽器を演奏するなんて信じられない」という反応を見せる人物が出てくるのだ。

「”敵国”の人間と一緒に楽器を演奏するなんて信じられない」という考えを持つこと自体は仕方ないと思っている。決して褒められたことではないが、両国の歴史を踏まえると、個々人がそのような感情を抱いてしまうことは避けがたい。しかしやはり、どんな理由があろうとも、「自分の考えを基に他人の行動を制約すること」が許されていいはずがないと私は思う。

国家間に大きな問題があるとしても、両国の個人同士による関係改善は進んでいく可能性がある。そして、そんな個人同士による関係改善が、いずれ国全体に大きな影響を及ぼすかもしれない。しかし、他人がその行動を制約してしまえば、進むはずのものも進まなくなってしまう。そうなれば、どのような意味においても「解決」とは程遠くなってしまうだろう。

国際情勢というのは複雑であり、もしかしたら「『イスラエル・パレスチナの問題が継続してほしいと考えている第三国』が関係改善を間接的に阻んでいる」なんていう可能性もあるのかもしれない。そういうことまで考え始めると、もはや何から手をつければいいのか分からなくなってくるが、とにかく私としては、先程触れた通り、「この問題は終わった」と無理矢理にでも宣言するしかないと考えている

どうすればそんな可能性を実現できるのか、私にはなんとも分からない。しかし、この映画で描かれる物語は、そんな可能性を微かに想像させるのではないかと私は感じた。

映画『クレッシェンド』の内容紹介

指揮者を引退した大学教授エドゥアルト・スポルクは、ある日カルラという女性の訪問を受ける。彼女は、ある壮大なプランを持っていた。パレスチナとイスラエルから演奏家を集めて楽団を作り、和平交渉会議の場で演奏させるというものだ。彼女が言うには、スポンサーとしてEUがついているという。スポルクは政治に関わるなどまっぴらごめんだと考えており、当初は断るつもりでいたのだが、最終的にはそのまとめ役を引き受けることに決めた。

それからイスラエル・パレスチナにオーディションの情報が知らされ、会場に両国の若者が集まってくる。しかし、会場に辿り着くのも一苦労だ。パレスチナの国境には、イスラエル人による検問所が設けられている。レイラはきちんと発行された許可証を提示したが、彼女は”嫌がらせ”としか思えない足踏みをさせられてしまう。また、父親に付き添ってもらって検問所までやってきたオマルは、所持している許可証では父親の通行は認められないと言われ、オマルしか国境を超えられない。オーディション会場までの道を知らないオマルは困惑を隠せずにいるが、幸い、検問所で足留めを食らっていたレイラと合流し、2人は無事会場まで辿り着くことができた。

スポルクは、演奏者の前についたてを置き、演奏だけで合否の判定をする。その結果、パレスチナの合格者がほとんどいなくなってしまうとカルラに告げざるを得なくなった。「混合での楽団」という点にこそ意味があるので、この状況はとてもマズい。

窮状を知った、イスラエル人の合格者で、既にバイオリニストとして著名なロンは、「パレスチナ人に見えるイスラエル人を集めますよ」と提案する。楽団のレベルを上げるためには、技量の高い演奏者を集めなければならないが、どうにもパレスチナ人はレベルが低い。だから、「イスラエル人だがパレスチナ人に見える演奏者」を集めれば、とりあえず体裁が整うんじゃないですか? と言っているのだ。その場にいたカルラがこの案を却下するが、楽団の指揮を取るスポルクとしても、「だったら腕の良いパレスチナ人を集めてこい」と言わざるを得ない。

さらなる波乱は、そんなスポルク自身がもたらした。コンサートマスターに、バイオリンの技量で劣るパレスチナ人のレイラを選んだのだ自分がコンサートマスターに選ばれるべきだと考えていたロンは、この決定に納得がいかない。楽団のメンバーにはロンの生徒が多数選ばれており、ロンは報復とばかりに、自身の生徒を焚き付けてレイラの邪魔をするような行動を取るようになる。

一方、レイラと共に会場にやってきたパレスチナ人のオマルは、イスラエル人のシーラと親密な関係になっていく。奥手なオマルではなく、シーラの方が積極的にアプローチをかけ、2人は皆に秘密のまま関係を深めていった。楽団の練習では、楽器を置いて話し合ったり罵り合ったりする時間が長い。そういう時2人は、全体を遠巻きに眺めている。どちらも、生まれた国の違いについてさほど意識しておらず、わだかまりも抱いていないようだ

環境を変えようと行われた合宿では、さらに楽器を持たない時間が増えていく。まずはお互いを理解しなければならないとスポルクは考えるが、そう簡単にはいかず……。

映画『クレッシェンド』の感想

とても良い映画だった。私は音楽の素養のまったくない人間だが、映画のラスト、紆余曲折あって彼らがある場所で演奏する場面では、思わず泣きそうになったほどだ。

この映画はフィクションなので、物語はフィクションらしくなかなか劇的な形で展開される。そしてそれ故に、彼らは想像してもいなかった状況で「演奏」しなければならなくなってしまうのだが、そのシーンで演奏される音楽には、震えるほどの感動を覚えた。それは決して、「音楽そのもの」による感動ではないと思う。私はそこまで「音楽」のことが理解できる人間ではないからだ。しかし、「あの場面で楽器を手にした者たちが、どのような想いで演奏をしたのか」という想像はできる。そして、そこに至るまでの彼らの奮闘の軌跡を知っているからこそ、彼らが演奏に込めた想いが伝わり、泣かされそうになってしまったというわけだ。

この演奏の場面は、セリフが一切存在せず、音楽だけが鳴り響いている。そしてその音楽こそが、彼らの気持ちを雄弁に語っているように強く感じさせられた。

とにかく、「音楽」によって「イスラエル・パレスチナ問題」を描き出すというこの映画の手法は見事だと思う。

私は楽器を弾いたことがないのであくまで想像に過ぎないが、一流の演奏家であればあるほど、「全体の演奏レベルが低い」ということに自分で気づくはずだ。そしてその理由が、「演奏家たちの気持ちが1つになっていないから」ということまで容易に察するだろう。そのことが、観客に向けて分かりやすく示される場面もきちんと用意されている。合宿が始まった最初のリハーサルの場面で、「技術の問題もあるが、気持ちの問題も大きい」という、楽団が抱える根本的な問題が明らかにされるのだ。彼らは、「楽団を成功させるためには、民族間の対立にかまけてはいられない」とはっきりと理解しているのである。

もちろん話はそう簡単ではない。頭で理解できていても、心を変えるのはとても難しいからだ。

話し合いの場では、

でも心は変えられない。先生でも。

とはっきり口に出す者さえいた。しかし同時に彼らは、「この楽団が、キャリアにおけるチャンスだ」とも理解している。パレスチナ人・イスラエル人混合の楽団というだけで、もの凄く注目度が高いのだ。演奏家として身を立てたいと考えている者にとってみれば千載一遇の機会だと言っていいだろう。スポルクも「チャンスを掴め」とはっきり口にする。つまり、「心を変えて、”敵国”と気持ちを1つにすることのメリット」もきちんと認識されているというわけだ。

このような要素が上手く絡まり合うことで、「不可能としか思えない混合管弦楽団」の存在がリアルなものになっている。「音楽」をモチーフにすることで、それぞれの国の人間としての葛藤や、演奏家としてのジレンマなどが自然と引き出される設定が絶妙だった

また、まとめ役であるスポルクの話も興味深い。彼の生い立ちについて、この記事では詳しく触れないが、彼もまた、イスラエル・パレスチナ問題とは違った形で「生まれながらの対立」に巻き込まれてしまっている人物なのだ。映画の冒頭から、「スポルクには何か、この複雑な管弦楽団の指揮者に選ばれるに値するだけの背景がありそうだ」ということが示唆される。そしてある場面で彼は、それを自ら明かすのだ。

スポルクは、

自分に貼り付いているものを拭うために何でもやった。

と語る。しかし結局、彼自身の努力によっては何も変わらなかった。残念ながらスポルクは、「この問題は終わった」と宣言できるような立場ではない。その事実もまた、彼の苦しみを長期化させる要因だったと思う。そして、そんな経験があったからこそ、どう考えても無謀としか思えない楽団のまとめ役を引き受けるという決断にも至ったのだろう

このように、様々な葛藤に満ちた、複雑でややこしい背景を描きながら、一方で、エンタメ作品としても音楽映画としても面白く仕上げている。なかなか想像の及ばない世界の話ではあるが、正攻法ではない形で「改善」の道を進もうとしている若者たちの姿から感じ取れることは多いのではないかと思う。

出演:ペーター・シモニシェック, 出演:ダニエル・ドンスコイ, 出演:サブリナ・アマーリ, Writer:ヨハネス・ロッタ―, Writer:ドロール・ザハヴィ, 監督:ドロール・ザハヴィ
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最後に

ストーリーそのものは実話ではないが、混合管弦楽団は実在するし、映画で描かれるパレスチナ・イスラエルの問題も今なお現実だ。映画全体から、どことなくドキュメンタリー映画っぽい雰囲気も感じられ、そのリアリティに圧倒されてしまった

私たちが生きているのはどんな世界なのか、そして、世界中に存在する問題はどのように改善され得るのか。そんな現実と可能性を垣間見せてくれる作品である。

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