【実話】映画『グリーンブック』は我々に問う。当たり前の行動に「差別意識」が含まれていないか、と

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ヴィゴ・モーテンセン, 出演:マハーシャラ・アリ, 出演:リンダ・カーデリーニ, 出演:セバスティアン・マニスカルコ, 出演:ディミテル・D・マリノフ, Writer:ニック・バレロンガ, Writer:ブライアン・カリー, Writer:ピーター・ファレリー, 監督:ピーター・ファレリー
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • 「差別感情を抱いている」と自覚することは非常に難しいので、気をつけなければならない
  • 2人の主人公の「対立」が明確には描かれないにも拘らず、最終的にその関係性の変化が大きく伝わってくる構成が見事
  • 「差別感情を抱くこと」以上に、「ダブルスタンダード的に行動すること」への嫌悪感が強く浮き掘りにされる作品

「今の自分の『当たり前』は、未来世代から非難されないだろうか?」という視点は常に持ち続ける必要がある

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

黒人差別が今以上に苛烈だった時代のアメリカを描く映画『グリーンブック』は、意識しにくい「差別意識」を自覚させる強烈さがある

とても良い映画だった設定は非常にシンプルながらとても奥深いし、また、どうしても説教臭くなりがちなテーマを扱っているにも拘らずそういう感じが全然ない。2人の主人公のそれぞれの立場が様々な描写によってスマートに描かれるし、さらに、お互いが関わることによってそれが少しずつ変わっていく展開もとても素晴らしかった。また、外国の映画の場合、描かれている「ユーモア」が日本人には分かりにくかったりすることもあると思うが、『グリーンブック』はそんなことはなく、クスッと笑える場面の多いコメディ的な作品でもある。それでいて、さりげなく教訓っぽいことを組み込んで色々考えさせる構成になっているので、嫌味にならずにスッと受け入れやすいのではないかと思う。

実話を基にした物語」とのことだが、どこまで実話なのかは分からない。しかし、個々のエピソードはともかくとして、全体として「この2人にはこのような関係性があったんだろうなぁ」と感じられる作品であり、相容れないはずの2人が分かり合えていく過程はとても良かった。

「差別している」と自覚することはとてもむずかしい

以前、『ある奴隷少女に起こった出来事』というノンフィクションを読んだことがある。詳しいことは以下の記事を読んでいただきたいが、この本は、奴隷として育った少女が白人男性の元を逃げ出した後、当時の記憶を自ら書いた作品だ。「黒人奴隷に読み書きが出来たわけがない」という理由から、当初は「白人が書いた小説」と思われていたのだが、研究によって著者が実在の人物であることが判明し、その後古典作品として大ベストセラーになった

それまで「奴隷制度」について深く考えたことなどなかったのだが、この『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んで私は、「差別意識を持つことの難しさ」を理解させられた。なんと当時のアメリカ南部では、「黒人奴隷を有する家庭」は「裕福」の象徴であり、羨ましがられていたのである。つまり、「黒人を奴隷として使役すること」に対してなんの躊躇いもなく、「当然のこと」「豊かな生活には無くてはならないもの」として認識されていたというわけだ。

しかし現代の視点で捉えれば、「同じ人間なのに、非人間的に扱って酷使するなんて信じられない」と受け取られるだろう。この2つの間には、大きな断絶がある。どちらも、それぞれの時代では「当たり前の感覚」なのだ。しかし時代の変遷によって、「当たり前だったこと」が「極悪非道の行為」と見做されるようになっていったのである。

だからこそ、私たちも気をつけなければならない。つまり我々も、「もしかしたら今、『100年後の人類から極悪非道と判断されるような行為』をしているかもしれない」という意識を持っている必要があるというわけだ。

映画の中で、とても印象的なシーンがあった。主人公の1人である黒人の天才ピアニスト、ドクター・シャーリーは、招待を受けて演奏のためにある会場を訪れる。シャーリーは今、黒人への差別が一層色濃く残るアメリカ南部での8週間のツアーの最中であり、この会場も予定会場の1つというわけだ。そして彼は、その会場に併設されたレストランで食事を摂ろうと考える

しかし、レストランに入ろうとしたシャーリーは、入り口で止められてしまった「黒人だから」という理由で、レストランでの食事が許されないと説明されるのだ。繰り返すが、シャーリーは翌日、その会場で演奏を行う「VIP」である。さらに言えば、今まさにそのレストランで食事をしている客は、翌日のシャーリーの演奏を聞きに来た者たちなのだ。にも拘らず、シャーリーは結局、最後までレストランでの食事が許されなかったのである。

これは凄まじい判断だと感じた。「てめぇで招待した会場のレストランで食事が出来ねぇとはどういう了見だ」ってなもんだろう。現代的な感覚で言えばそうなるはずだ。しかし、少なくともこの映画で描かれている限りにおいては、シャーリーの入店を断るマネージャーに悩む素振りはない。「俺は当たり前のことを言っている。黒人のお前が俺を困らせているんだ」と言わんばかりの態度なのだ。

せめて、「あなたの主張が正しいことは理解していますが、ルール上どうにもしようがないんですよ」みたいな感じで断られるなら、100歩譲ってまだ許容出来るかもしれない。しかしそんな雰囲気ではまったくないのだ。「お前、マジで何言ってんの?」みたいな雰囲気を前面に出しており、その態度にはちょっと驚かされてしまった。

しかし繰り返すが、私たちはこのマネージャーを単に非難するだけではいけない。彼は、「当時のアメリカ南部の『当たり前の感覚』に従って行動していただけ」なのだ。であれば、同じ非難を私たちが受ける可能性も十分にあると考えるべきだろう。私たちが「現代の『当たり前の感覚』に従って行動していること」が、未来の世界では「なんて酷いことを」と受け取られる可能性はいくらでもあるからだ。

この視点を、常に忘れてはならないと私は感じる。

これは決して「差別」に限らない。例えば、現実的な話で言えば、「気候変動に関わる行動」に関して、未来世代から悪し様に言われる可能性はかなり高いだろう。「100年前はあらゆる乗り物がガソリンで動いてたらしい」「キャンプで焚き火してたとか正気?」みたいな時代がやってくるだろうし、そうなれば間違いなく、私たちは非難の対象である。

現代の『当たり前』に従っているんだから別に問題ないだろう」と感じる人もいるかもしれない。しかし、もしそう思うのであれば、先程紹介したマネージャーの行動を非難することも出来ないはずだ。シャーリーの入店を拒否したマネージャーを単に批判しても仕方ないとはそういう意味である。「私たちは、このマネージャーのような行動をしてしまっていないか」と自問するべきなのだ。

「昔は酷かった」ではなく、そのように受け取られるべき作品だと私は感じた。

映画の内容紹介

ナイトクラブ「コパ」で用心棒として働いているトニー・リップは、勤務先の改装のため一時的に失職することが決まった。何か繋ぎの仕事を探さなければならない。トニーは知り合いから、「医者が運転手を募集しているから面接に行ったら?」と勧められ、カーネギーホールの上階にあるらしい「診療所」へと向かう。

そこで出会ったのは、王族のような格好をした黒人男性だった。通された部屋には、宝石や象牙など高価なもので溢れている。彼はドクター・シャーリーと名乗り、「医者ではなくピアニストだ」と説明した。よく間違われるのだろう。そして続けて、「ディープサウスを含むアメリカ南部で8週間のコンサートを行うので、その運転手を探している」と、その仕事内容を説明する。

トニーは断ろうと決めた。何故なら彼は、黒人に対して嫌悪感を抱いているからだ。以前、自宅に工事のために黒人男性2人がやってきたことがある。妻のドロレスは相手が誰であっても分け隔てなく接するため、その黒人男性にも水を出してあげた。しかしトニーは、黒人が使ったコップを妻にバレれないようにこっそり捨てたのだ。また、トニーはイタリア出身であり、部屋にいた親族とイタリア語で「黒ナスが来るなんて知らなかったんだ」という会話もしていた。「黒ナス」は黒人の蔑称だ

そんなわけでトニーは、黒人の運転手役を引き受けるつもりなどまったくなかった。しかしその後色々とあって、結局トニーはツアーの運転手を引き受けることに決める

トニーはレコード会社の担当者から車のキーなど必要なものを受け取るが、その中に「グリーンブック」があった。これは、「黒人にも利用可能な施設がリストアップされた旅行ガイドブック」である。当時のアメリカには「ジム・クロウ法」という、白人と黒人を区別することを許可する法律が存在していた。そして特にアメリカ南部では、その法律がかなり厳しく適用されていたのだ。そのため、余計なトラブルを避けるためには、「グリーンブック」は欠かせなかったのである。

こうして、トニーとシャーリーの旅路が始まった。これまで「口からでまかせ」だけで人生をどうにか渡り歩いてきたトニーと、ピアノに限らず幼い頃から高い教育を受けてきたシャーリーとでは、会話や振る舞いなどあらゆることが噛み合わない。しかし、不意に訪れる様々なトラブルに対処したり、思いがけず本音でやり取りする時間を過ごしたりする中で、彼らの関係は次第に変化していき……。

映画の感想

「2人の関係性は決して分かりやすくはない」という点がとても良い

私がとても良いと感じたのは、「2人の関係性の変化が分かりやすいわけではない」という点だ。設定や構成は非常にシンプルながら、それらを背景にして描かれる”中心軸”である「2人の関係性の変化」は、決してシンプルではない。例えばこの映画のような設定なら、普通は、「最初は険悪だった2人が、様々な状況を経て友情を深める」という展開にするのが分かりやすいし、多くの人が感動しやすい物語に仕上がると思う。

しかしこの物語は、そんなに分かりやすくはない

例えばトニーは、確かに観客に対しては「黒人に嫌悪感を抱いている」という情報が伝わる構成になっているのだが、しかしそれを直接的にシャーリーにぶつけることはない。もちろん、「雇用主だから」という理由もあるだろうが、それだけではないようにも感じられる。「確かに嫌悪感を抱いているし、関わりたいと思っているわけでもないのだが、しかしそれをはっきりと表に出すこともしない」というわけだ。だから仮に、工事のために黒人男性がやってきたシーンが無かったら、しばらくの間観客も、「トニーが黒人に嫌悪感を抱いている」という事実に気づかなかったかもしれない

一方のシャーリーも、「無学」なトニーに対して呆れたり苛立ったりしていたはずだが、それをはっきりと表に出すようなことはなかった。また、これも雇用関係があるからかもしれないが、トニーに対して気安く接するなんてこともない。あるいは、シャーリーは黒人としてこれまで様々な形で白人からの差別を受けてきただろうから、白人に対する嫌悪感をもちろん有してもいるはずだが、それがはっきりと示されることもないというわけだ。

このように、トニーとシャーリーの「対立」は明確に提示されるわけではないのである。物語を描く上で、「対立をはっきり示す」方が、作り手側も受け手側もやりやすいように思うが、そういう安易な構成にはしていないというわけだ。私は、このような描き方がとても良かったと感じている。

そのように作られている作品だからこそ、「2人の関係性の変化」を描き出すのは難しいと言えるだろう。最初に「明確な対立」を描けば、その対立を無くすことで「友情が芽生えた」という打ち出し方が出来るが、この2人の場合、最後の最後まで「この関係は一体どうなるんだろう?」と思わせるような不安定感に満ちていたのだ。その「不安定感」こそが観客を惹き付ける要素になっていたのだとも思うのだが、「関係性の変化を描く」という意味ではやりにくい構成だっただろうとも思う。

しかし、物語を最後まで観ると、ちゃんと「2人の関係性はもの凄く変わったな」と感じさせるものに仕上がっており、その辺りの作り方がとても上手いと感じた。

改めて、「この映画で描かれる『黒人差別』のスタンス」には理解出来なさを感じてしまう

さて、冒頭でも書いた話ではあるが、やはりあまりにも理解できないので、『グリーンブック』で描かれる「黒人差別」について改めて触れたいと思う。先程は、「VIPとして招待しておきながら、レストランへの入店は拒否する」という話を紹介したが、この映画の中では他にも様々な形で「差別」が描かれる

さて、ここで少し、私自身のある考え方について触れておこうと思う。これは少し誤解を招く表現かもしれないが、「特定の誰かを、”完全に””徹底的に”排除する」という形で「差別」しているのであれば、私はまだ理解できると感じる。もちろん、その行為を許容しているわけではない。ただ私は、「自分には相容れない意見」であっても、そこに「一貫性がある」ならば、「許容は出来ないが、その人はそのように考えているのだ」という形で受け入れる余地があると考えるタイプの人間だ。この映画に即して言えば、「どれだけ天才的なピアニストであろうと、『黒人である』という理由で完全に排除している」のであればまだ理解できなくもないと感じられるのである。

しかし、『グリーンブック』で描かれる「差別」はそうではない。白人たちは、「天才的なピアニスト」としてのドクター・シャーリーは受け入れるが、「いち黒人」としてのドクター・シャーリーは排除するのだ。私はこのような「一貫性のない言動」に苛立ちを覚えてしまう。日本でも多々あるだろうが、このような「ダブルスタンダード」にイライラさせられることがとても多いというわけだ。

「差別」がダメなのは当然のことだが、差別感情を抱いてしまう理屈は理解できなくもない「自分の考えとまったく異なる価値観を持つ者」を拒絶することで「自分の信念が冒されること」を防ごうとしていたり、あるいは、「何らかの意味で自分よりも『下』の存在を意識すること」によって、「あまりにも辛い現実を乗り越えられる」と思えたりするのだろう。決して褒められたことではないが、ある種の「自己防衛本能」として「差別感情」が発動することはあるだろうし、「生き延びる」ために仕方ない状況もあるとは思う。

しかし私には、先程触れたような「ダブルスタンダード」は、「生き延びるためにどうしても必要な感情」だとは思えない他人の存在を自分にとって都合の良いように捉えているだけだからだ。強く嫌悪感を抱かされてしまうし、私自身もそのような振る舞いをしてしまっていないかと、常に気をつけているつもりである。

シャーリーがある場面で、非常に皮肉的な発言をしていた。彼は、自身を招待する白人たちについて、

上流階級の人間は「教養がある」と思われたくて私の演奏を聴きに来る。

と口にするのだ。確かにその通りだろう。白人にとってシャーリーは、「白人としての自身の存在価値を高めるためのツール」ぐらいの存在でしかないのである。だからこそ、「ツール」として価値のある「ピアニスト」という側面だけは受け入れるが、それ以外は完全に拒絶するという振る舞いになるのだ。

映画にはもちろん、「『黒人だから』という理由で完全に拒絶する者」も出てくるのだが、先程説明した通り、そういう人たちのことはまだ理解できる。しかし、「ピアニストとして存在していない時のお前はただの黒人でしかない」みたいな扱いを平然と出来てしまう上流階級の面々に対しては、激しい怒りをずっと感じてしまった

映画的な側面で言うなら、そのような「醜悪な上流階級」を描き出すことによって「トニーのフラットさ」が一層際立つという構成になっており、そういう意味でも全体の作りがとても上手いと思う。

出演:ヴィゴ・モーテンセン, 出演:マハーシャラ・アリ, 出演:リンダ・カーデリーニ, 出演:セバスティアン・マニスカルコ, 出演:ディミテル・D・マリノフ, Writer:ニック・バレロンガ, Writer:ブライアン・カリー, Writer:ピーター・ファレリー, 監督:ピーター・ファレリー
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最後に

物語が最後どのように着地するのかは、大体想像出来るだろう。しかし、確かに想像通りの展開ではあるのだが、もの凄く感動させられてしまった。映画における本当に最後のセリフも見事で、それまでの描写をぎゅっと凝縮したような感じにまとまっている。全体的にとても素敵な映画だったが、終わり方が特に良いと感じる作品だった。

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