【真実?】佐村河内守のゴーストライター騒動に森達也が斬り込んだ『FAKE』は我々に何を問うか?

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:佐村河内守, 出演:森達也, 監督:森達也, プロデュース:橋本佳子, クリエイター:「Fake」製作委員会
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 森達也のドキュメンタリーには常に「揺らぎ」が存在し、森達也は自覚的に「揺らぎ」を生み出している
  • 「佐村河内守の耳は本当に聴こえないのか?」という批判は、聴覚障害者全般を傷つけた
  • 「作曲」という行為の捉え方の難しさと、この映画で示される劇的な「答え」

もしかしたら、モンスターなのは新垣隆の方なのかもしれない、と思わされる映画だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

モンスターは「佐村河内守」か、それとも「新垣隆」か。「『真実』の難しさ」を森達也が切り取る

佐村河内守という名前を覚えているだろうか。耳が聞こえない作曲家として一世を風靡したが、実は新垣隆というゴーストライターが作曲していたと報じられ、一時期メディアを騒がせた。

当時の報道を見ていた人のほとんどが、「新垣隆は普通の人、佐村河内守はモンスター」だと思っただろう。私もそう感じた。佐村河内守が嘘をついていたんだろう、と。

しかしこの映画を観て、その確信が揺らいだ。もしかしたら「佐村河内守は普通の人、新垣隆はモンスター」という可能性もあるのかもしれない

そう思わされる作品だ。

「森達也」という映画監督と、彼のスタンスについて

森達也の著作の感想は書いたことがある。

どちらもオウム真理教をテーマに据えた作品であり、元々『A』という本と同名タイトルの映画から始まっているのだが、私はそれを観たことがない。なので、『FAKE』が、初めて触れる森達也の映画である。

映画を観るのは初めてだが、『A』『A3』という著作を読んで、「森達也のドキュメンタリーに対する考え方」や「彼が『真実』をどう捉えているか」などはなんとなく理解しているつもりだ。詳しくは上記の記事を読んでほしいが、ざっくり書くと、

森達也のドキュメンタリーには、常に「揺らぎ」が存在し、森達也はその「揺らぎ」に自覚的である

となるだろうか。

ドキュメンタリーでもノンフィクションでもニュースでもなんでもそうだが、何らかの「事実」を扱うメディアは、「このような捉え方が正しい」という輪郭を無自覚に(あるいは自覚的に)押し付けたり、あるいは「これは正しい/間違っている」などの結論を決めつけたりすることがあると思う。

そこに私は、「『事実』というのは1つであり、揺るがない」という価値観を感じる。確かにそれも1つの捉え方だとは思う。しかし私は、どの方向、どういう切り口で見るかによって「事実」の捉え方は変わると思っているし、そういう感覚を持たずに「事実」を報じる状況を怖いと感じてしまうのだ。

『A』の中で森達也はこんな風に書いている。

事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日この撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの思考や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。

「A」(森達也/KADOKAWA)

ドキュメンタリーの仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。

「A」(森達也/KADOKAWA)

元々テレビの制作会社で働いていた森達也は、メディアのあり方に疑問を抱いていた。そして、『A』という作品で「オウム真理教の内部から社会を見る」という経験をしたことによって、「『事実』とは結局、主観的なものでしかありえない」という感覚に至ったのだろうと思う。

この映画で森達也は、佐村河内夫妻の生活に密着し続け、「観察者」として「佐村河内守の真実」を切り取っていく。そしてその過程で、いわゆる「ゴースト問題」(佐村河内守はこの表現を嫌がっていたが)における2つの大きな問題に、直接・間接に解答を与えるのだ。

もちろんそれは、「森達也が主観的に切り取った事実」である。ここまでの説明で理解してもらえると思うが、それは決して「森達也が恣意的に情報を操作し事実を捻じ曲げた」ということではない。「森達也は、自分が切り取った『事実』が主観的なものであると自覚している」という意味だ。

だからこそ森達也のドキュメンタリーには、「これは事実なのか、そうではないのか」という「揺らぎ」が内在することとなる。そしてその「揺らぎ」こそが、逆説的な形で「真実性」を高めているように私には感じられるのだ。

しかしそれも、受け取る人次第でしかない。そしてこの点に、森達也のドキュメンタリーの特徴があると私は思う。

佐村河内守は本当に耳が聞こえないのか?

佐村河内守は自身の聴覚について、「感音性難聴」だと説明している。これは簡単に説明すると、「音は届くが、会話の内容が理解できるほどには聞こえない」という状態だそうだ。

映画を観た私は基本的に、「佐村河内守が感音性難聴だと信じる」というスタンスを取る。つまり、当時マスコミが報じたように「耳が聞こえているのに聞こえていないフリをしている」と受け取るのではなく、「本当に聴覚に問題を抱えている」と捉えるということだ。

その理由は、この映画の撮影手法にある

既に少し触れたが、この映画は、森達也が佐村河内夫妻の日常に密着する形で撮影された。「情熱大陸」(TBS系列)のようなイメージである。実際に映画として使われた場面は全体の一部だろうが、恐らくかなり長い時間に渡ってカメラを回し続けたことだろう。

そしてその長期間ずっと、「本当は耳が聞こえているのに聞こえていないフリをする」のは不可能だろう、というのが私の感触だ。

佐村河内守は基本的に、奥さんに手話通訳してもらうことで他者との会話を成立させている。ゆっくり喋ってもらえれば、口の動きから発言が理解できることもあるようだが、通常は奥さんの手話なしには会話は成り立たない。そして、もしこれが「世間や森達也を欺くための偽装」だとした場合、長期間ボロを出さずに貫き通すことは不可能だろう、と思うのだ。

映画の中で佐村河内守は、

一連の報道によって、誰を一番傷つけたかって言うと、それは同じ聴覚の障害を持つ多くの人達です

「FAKE」(森達也)

と語っていた。確かに、佐村河内守が「感音性難聴」であるのだとして、彼が「聞こえないフリをしている嘘つきだ」と糾弾されている状況は、他の「感音性難聴」の人を傷つけていることになるだろう。

記者会見の場でも「感音性難聴」に関する資料を配っていたのだが、メディアはその資料の中から、「佐村河内守の聴力には問題がない」と受け取れるような箇所だけを繋ぎ合わせて報道した、と憤っていた。自身の状況に対する怒りは当然として、佐村河内守は、聴覚障害者への無理解に対しても憤りを露わにしていたのだ。

映画には、自身も聴覚障害者であり、聴覚障害者へのトレーニングも行っている前川修寛という人物が登場する。そして映画の中で、森達也が前川氏に、次のように質問する場面が印象的だった。

聴覚障害者にとって……、いや前川さんにとってでいいです、前川さんにとって音楽は意味がありますか?

「FAKE」(森達也)

これは要するに、「佐村河内守が聴覚障害者であるとして、音楽を聴いたり作曲したりすることに意味があるのか」について、佐村河内守以外の人物の証言でも確認したい、という意図でなされたものだろう。

この質問に対して前川氏は「はい」と答え、補聴器につけることでiPodなどの音楽を聴くことが可能なオプションを見せてくれもする。

前川氏は、こんな風に言っていた。流れてくる音楽のすべてが聴こえているわけではないと分かってはいるが、それが欠落した音楽だと認識した上で「音楽を聴く」という行為はする。音を口に出すことはできないものの、メロディは頭の中にあるのだ、と。

私自身あまり具体的にイメージしたことはなかったが、聴覚障害だが「音」を聴く力がゼロなわけではない「感音性難聴」の場合、音楽を聴く人もいると思う。だから、「聴覚に障害がある人間に音楽ができるはずがない」という主張は誤りだし、「感音性難聴の作曲家」も成立し得ると言えるだろう。

もちろんだからと言って、「佐村河内守の主張が正しい」ということにはならないが、間接的な補強という意味では価値ある証言だと感じた

佐村河内守の耳が本当に聴こえないとしたら、”モンスター”なのは新垣隆の方ではないか?

映画には当然、新垣隆本人は出てこないが、「テレビでのインタビュー映像」などは映し出される。そしてその中で新垣隆は、「佐村河内守の耳が聴こえないと感じたことは一度もない」「耳が聴こえることは黙っておくように言われた」というような趣旨の発言をしていた。確かに私も、「ゴースト問題」がメディアで報じられていた際、そのような発言を耳にした記憶があるように思う。

しかし、事実として佐村河内守の聴覚に問題があるとするならば、一転、嘘をついているのは新垣隆の方だということになる

もちろん、新垣隆が嘘をついているかどうかはこの映画からは分からない。恐らく永遠に分からないだろう。

では佐村河内守は、新垣隆とどのようにやり取りしていたのだろうか。新垣隆は手話ができない。奥さんにも”共作”のことは黙っていたので、打ち合わせの場に奥さんが同席して手話で通訳をした、というわけでもない。

佐村河内守はある海外メディアのインタビューに答える形で、「新垣隆はほとんど喋らない人だった」「かなり以前であれば筆談もしてくれた」「新垣隆は『言われた通りやればいいんだろう』というスタンスだった(だからほとんどコミュニケーションの必要はなかった)」というような発言をしていた。

これらの佐村河内守の発言が真実である保証ももちろんない。しかし、映画『FAKE』を観ていると、嘘をついているのは新垣隆の方なのではないか、と思えてくる。佐村河内守も、

なぜ彼がこんな嘘をつくのか、まったく分からない

「FAKE」(森達也)

というような発言をしていた。もし佐村河内守の主張が真実だとするなら、その実感はまったくその通りだろう

新垣隆の主張と佐村河内守の主張は、真っ向から対立する。どちらも正しい、ということはあり得ない。そしてメディアは、新垣隆の主張を「事実」として報じた

そうなったのも分からないではない。というのも新垣隆の主張は、「長年ゴーストを務めていたが、罪の意識から告発し謝罪した」という構図だからだ。それが本当なのかは不明だが、印象的に、「そういう立場からの主張の方がより『事実』らしい」という判断になるのも理解できるだろう。

つまり重要なのは、「分かりやすいか否か」である。

「佐村河内守は、目立ちたいから嘘をついてきた。そして新垣隆は罪悪感から告発した」という構図は、それが事実であるかに関係なく分かりやすい。一方、「佐村河内守は嘘をついておらず、新垣隆が突然『佐村河内守は嘘つきだ』と嘘をついた」という話は、まったく分かりやすくない。意味不明だからだ。そして、分かりやすくないからこそ、「事実」としては採用されないということになる。

これは決して、佐村河内守の問題に限ったことではない。私たちは常に「分かりやすい物語」を求めており、それ故メディアも「分かりやすい物語」を提示しようとする。そしてそのために、「事実であるか否か」が軽視される可能性が常にある、というわけだ。

繰り返すが、この記事では「新垣隆が嘘をついている」と主張しているわけではない。仮に「佐村河内守の耳が聴こえないことが事実である」とした場合に全体の構造がどう変わり得るのか、少し考えてみてはどうだろうかと提案したいのである。

佐村河内守は作曲をしているのか?

「ゴースト問題」には、耳が聴こえるか否かだけではなく、「そもそも佐村河内守は作曲できるのか?」という問題もあった。そしてこの映画は、この問題に対して誰もが予想しなかっただろう解答を与える。

しかしこの点は映画のクライマックスでもあるので、伏せておくことにしよう。映画のこの場面を観れば、「佐村河内守は作曲できる」という点に疑いの余地など無いように感じられる

さて、作曲に関して別の話を取り上げよう。

作曲については、「作曲できるか否か」だけではなく、「佐村河内守の行為はそもそも『作曲』と呼べるのか」という問題もあった。どういうことか。

佐村河内守はこのように主張している。彼が「指示書」と呼ぶ、全体のストーリーを文章に落とし込んだり、構成を図におこしたりした設計図のようなものを新垣隆に渡しており、この「指示書の作成」こそが佐村河内守にとっての「作曲」なのだ、と。

佐村河内守は「ゴースト問題」という表現を好まないが、その理由は、「自分も作曲に深くコミットしていた」と考えているからだ。佐村河内守にとっては、「自分の『指示書』を元に新垣隆が作曲を行う」という形での「共作」なのである。そして、「『共作』だったと伏せていたこと」を自身では問題だと捉えており、そのことに対しては罪悪感を抱いているというわけだ。

つまり佐村河内守にとって問題となるのは「作曲をすべて丸投げしていた」という「ゴースト問題」ではなく、「作曲を分担していたが、さも1人で行っていたかのように見せていたこと」だ、という理解である。

しかしメディアは、「『指示書の作成』は『作曲』と言えるのだろうか?」という形で問題を報じた。先に挙げた海外メディアの記者も、佐村河内守にこんな風に詰め寄っていた。

新垣隆さんが作曲できる証拠はいくらでもあります。でも、私はまだ佐村河内さんの音源をもらってもいないし、聞いてもいない。指示書や文章は見たけど、僕たちにはこれは読めない。このままだと多くの読者は、佐村河内さんが作曲の半分すら担っていないと思う可能性が高い

「FAKE」(森達也)

さて、この問題をどう捉えるかはなかなか難しい。それは「作曲とは何か?」を理解することであるし、もっと言えば「創作とは何か?」が問題になるということだからだ。

例えば日本の場合、マンガやライトノベルの創作においては、編集者がストーリーの構築の部分で大きくコミットする、とされている。つまり、作家や作品にもよるだろうが、「ストーリーのすべてを作家自身が考えているわけではない」ということになる。またマンガであれば、絵を描くのも分業制であることが多いだろう。つまり、「絵のすべても、作家自身が描いているわけではない」わけだ。

しかしそれでも、マンガやライトノベルは「作家の作品」と受け取られる。そのような共通理解が社会に存在するからだ。

では、このような考え方を、佐村河内守と新垣隆の状況に当てはめてみるとどうなるだろうか? 

正直なところ、佐村河内守が作る「指示書」が「作曲」においてどのような役割を担っているのかイメージしにくいため、同じようには比較しようがないという難しさはある。しかし、マンガやライトノベルのように、「編集者やアシスタントなど別の人間も関わるが、ベースとなる部分を考えた者が創作者である」と捉えるのならば、そして「『作曲』における『指示書』が、曲全体のベースとなる部分を定めるものである」のならば、「佐村河内守が創作者である」と主張することは不可能ではない、とも言えるだろう

この点に関しては、「『指示書』を使用した『作曲』の共作」の実例があまりないだろうから、ほとんど「どう解釈するか」の話に帰着してしまう。同じような創作スタイルを行う者が他にたくさん存在すれば、団体を作ったり協議したりすることで、「このような『作曲』における役割の明確化」などが規定されるだろう。しかし彼らのようなスタイルの「作曲」をする者が他にいないとすれば、受け取る側の価値観によって捉えられ方が左右されてしまうのは仕方ない。

しかし、「著作権」という権利を定めた法律が存在し、創作物のすべてはその規定に則って様々な事柄が判断されると決まっている。では「著作権法」的にこの事例はどう判断されるのだろうか

この映画には弁護士も登場する。森達也とのやり取りを私が上手く捉えきれなかったような気もするが、

著作権が佐村河内側にあるということが問題になることはない

「FAKE」(森達也)

というような趣旨の発言をしてたような気がする。

まずそもそもだが、新垣隆という人物が関わっていることは知られていなかったのだから、「作曲した曲の著作権が佐村河内守にある」となっていることは当然だろう。新垣隆の存在が隠蔽されていたからこそ、著作権は佐村河内守ただ1人にある、と定まっているわけだ。

しかし私は、弁護士の「問題になることはない」という言い回しが気になってしまう。具体的な説明はなかったが、私はこの発言を、「著作権に関して、新垣隆が問題提起することはない」という意味だと受け取った。つまり、「『曲の重要な部分を担ったのは佐村河内守だ』と新垣隆は認識している」ということを意味するのではないかと感じたのだ。

私は新垣隆について知っていることはほとんどないが、もし新垣隆が「ピアノを弾くのは得意だが、自ら曲を生み出すことは苦手だ」「佐村河内守の『指示書』が無ければ曲を生み出せなかった」と感じているとすれば、「佐村河内守が作曲した」という主張も成り立つだろうと思う。

つまり、「『指示書』を使った『作曲』における佐村河内守の役割はどの程度重要なのか」というのは、あくまで佐村河内守と新垣隆の2人の間の共通理解の問題であり、外からとやかく言えるようなことではない、と私は理解するに至った。

そして先程も触れた通り、そんなすべての議論を吹き飛ばすようなクライマックスが描かれることもあり、「作曲」に関する疑惑は払拭されるのではないか、と感じた。

そんなわけでこの映画を観ると、メディアで報じられていた「ゴースト問題」とはまったく違う景色が見えてくるのである。

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最後に

森達也の作品らしく、「森達也」という観察者が対象に積極的に食い込み、「森達也」自身も画面に登場しながら、主観によって事実を切り出していく。そのスタイルは、一般的なドキュメンタリー映画とは趣が異なって面白い。ドキュメンタリーには客観性が不可欠だと感じる人には向かないだろうが、「事実なんてどのみち主観的にしか切り取れないのだ」というある種の開き直りを抱いて対象に肉薄していく様は、1つの「事実の捉え方」として興味深いと思う。

佐村河内守は森達也に「私のことをすべて信じてくれますか?」と聞く。森達也は「信じなきゃ撮れない」と返す。そして『FAKE』というタイトルをつけ、観る者を戸惑わせる終わらせ方を用意する。

「事実」とは、絶対的にそこにあるものではなく、選び取って信じるものだ。そんな森達也の”主張”も感じさせられる作品である。

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