【高卒】就職できる気がしない。韓国のブラック企業の実態をペ・ドゥナ主演『あしたの少女』が抉る

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「あしたの少女」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • この映画は、単に「ブラック企業の酷さ」を描き出すだけの物語ではない
  • 高校が「派遣会社」と化している現状と、その現実がもたらす悲惨な実態
  • 韓国国内でもあまり知られていなかった事実を映画化した本作は、法改正を促すほどの影響力をもたらした

「調べても分からない空白部分を、敢えて創作によっては埋めない」という構成から、「真実を伝えたい」という制作側の強い想いを感じ取った

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

韓国で実際に起こった事件を基にした映画『あしたの少女』は、「教育現場がブラック企業を生み出す構造」を炙り出した凄まじい作品

少女を追い詰めたのは企業か? それとも学校か? 韓国に蔓延る信じがたい仕組み

衝撃的な作品だった

映画には、「実話を基にした作品である」のような表記はなかったと思う。恐らく実話ベースだろうと思いつつ、映画を観ている時にはその確信が持てなかった。調べてみると、やはり実話がベースの作品であるようだ。それを知ったことで、映画を観て感じたことがより一層重さを増したようにも感じられた。

あまりにも酷い現実である

最近の話で言えば、自動車修理・中古車販売業「ビッグモーター社」の問題を思い出した。映画で描かれるのはコールセンターであり、自動車修理業とはかけ離れているが、本質的な部分は変わらない。つまり、「顧客の利益を毀損してでも、自社の利益を”強奪する”」というスタンスで企業活動を行っているのである。

この「企業のスタンス」自体ももちろん大きな問題だ。もちろん、企業が存続するためには「キレイゴト」だけではどうにもならないと理解しているつもりだが、しかしやはり、「顧客の利益を毀損するやり方」は許されないだろう。

ただ重要なのは、「映画『あしたの少女』で描かれる現実は、単に一企業の問題に留まるものではない」という点だ。「何故そんな酷い経営が可能だったのか」という「構造的な問題」が指摘されているのである。そしてそこに、「いくらでも使い捨てが出来る」という「教育現場を含めた信じがたい仕組み」が見え隠れするというわけだ。

その仕組みを理解するために、まずは主人公キム・ソヒが何故コールセンターで働くことになったのか、その理由を見ていこう。

愛玩動物管理科に通う高校生のソヒは、担任から実習先が指定された。それがコールセンターである。大手企業の下請けであるヒューマン&ネットでの仕事であり、教師は大いに喜んでいた。当校の実習先としては、これまでで最も大手の企業だからだ。ソヒは「やっとウチからも大手企業に人を送れる」「お前には期待してる」と言われ、ソヒ自身も「OLになるんだ」という期待で胸が膨らんでいた。

そして勤務初日を迎える。チーム長であるイ・ジュノはとても丁寧に仕事を教えてくれたのだが、渡されたマニュアルがとにかく酷かった。このコールセンターでは、サービスの解約を希望する客からの電話が掛かってくるのだが、マニュアルには、「様々な理由をつけて、いかに解約させずに電話を終わらせるか」についての手法が書かれていたのである。ソヒは、自分のやっている仕事に疑問を抱く。しかし、自分がここで頑張らなければ、学校に迷惑が掛かってしまう。自分は期待されている。とにかく頑張るしかないと、ソヒは目の前の仕事に必死に食らいついていく。

しかし、給料日になるとソヒは再び愕然とさせられる。教師からあらかじめ渡されていた「現場実習契約書」に記載されている金額通りには支払われなかったのだ。そのことを指摘すると、チーム長は「現場実習契約書」とは別の勤労契約書を提示し、そこに「状況によって賃金は変わる」と書かれていると説明した。それを聞いてソヒは引き下がる。しかし彼女の知るところではなかったが、「現場実習契約書」とは異なる契約を交わすことはもちろん法律違反だ。

また、「解約阻止率などの実績を考慮し、インセンティブが支払われる」とも聞いていたソヒは、成績を上げているにも拘らずインセンティブがもらえない状況についても指摘した。すると、「すぐ辞められては困るので、実習生には1~2ヶ月先に支払うことにしている」とあしらわれてしまう。映画での描かれ方からするに、「本当はインセンティブなど支払うつもりなどなく、適当にごまかしているだけ」という感じがした。

そんなわけでソヒは、「実習」とは名ばかりの、社内の大人たちとまったく同じ仕事をさせられながら、高校生だという理由で低賃金で働かされている。高校生なのに、仕事が終わらないせいで20時前に帰れたことなどほとんどないのだが、その状況について後に指摘されると、会社は「インセンティブ目当てに自発的に残業する者がいる」などと実態とは異なる説明をしたりするのだ。

キム・ソヒは、このような状況にあった。これは決して、彼女に特有の事情ではない韓国の高校生は皆、ほぼ同じような状況下に置かれているのだ。映画は、2016年から2017年に掛けてを舞台にしている。たかだか5年前の話なのだ。

韓国の若者が置かれている状況について、なんとなく理解していただけただろうか?

「高校が企業に『実習』という名目で働き手を送り出す」という異様な構図

映画は冒頭からしばらくの間、「コールセンターで働くキム・ソヒ」を中心に展開する。そして後半から、「ペ・ドゥナ演じる女刑事が状況を捜査する」という物語が始まっていくのだが、そこで「韓国の教育現場の実情」が明らかになっていくのだ。

韓国の高校は実質的に、「安い労働力を企業に送り込む派遣会社」のような存在に成り下がっている。そう捉えると、キム・ソヒの状況を理解しやすいだろう。彼女は、自ら望んでコールセンターで働いているわけではない。「お前はここに行け」と、学校から「実習先」としてあてがわれているだけなのだ。

この状況の困難さは、「『自分の意思で辞める』という選択肢がほぼ存在しない」という点にあると言っていいだろう。実習生は「学校の代表」であり、理由はどうあれ、「実習生が実習先の企業を辞めた」となれば、それは「学校のマイナス」と扱われてしまうのだ。生徒たちは、「期待している」などの言葉を教師から掛けられることで、そのような事情を理解する。だからこそ、送り込まれた先がどれほど酷かろうと、辞めずに頑張るしかなくなってしまうのだ。

映画の中である人物が、「実習先を辞めたいと学校に頼んだけど辞めさせてもらえなかったから、学校を辞めるしかなかった」みたいなことを口にする場面がある。あまりに酷すぎる状況だろう。しかし、映画の中ではさらっと描かれる場面でしかなく、だからこそ私は、「彼女のような状況は決してレアケースではないのだ」と受け取った。

これは相当に尋常ではない状況と考えていいのではないかと思う。

さてそもそもだが、「愛玩動物管理科」に通っていたキム・ソヒが「コールセンター」で「実習」を行うというのはなかなかに意味不明だろう。せめて、動物と関わる実習先が用意されるべきではないのか。どうしてそのような状況になっているのか、その背景を知ろうと調べを進めた女刑事は、学校教育が置かれている状況を知ることになる。どの高校も、「生き残るのに必死」というわけだ。

映画で描かれているところによると、韓国の高校は、「新入生の入学率」と「実習生の就職率」の2点”のみ”で評価されるのだという。しかしそれは誰からの「評価」なのか。もちろん、「我が子をどの高校に入学させようかと考えている親」の目も意識しているとは思う。しかしそれだけではない。そもそも教育庁からの補助金が、「入学率」「就職率」の2点をベースに決められているのである。

だから、高校が生き残るためには、その2つの数字を高く維持し続けるしかない。そして、「就職率が下がるから」という理由で、高校は専攻に合った実習先を用意しないのだという。

どういうことか。

生徒たちの専攻は、100%彼らの希望で決まるわけではない。というか、生徒が望むのとは異なる専攻になることが多いのだという。だから、専攻に合った実習先を選んでも、実習生が実習先でそのまま就職する可能性は低い。確かにキム・ソヒも、コールセンターでの実習が決まった時点では、「OLになれる」と喜んでいた。動物に関わる仕事に就きたかったわけでは恐らくないのだろう。

学校としては、「実習生の就職率」が下がるので、実習生が実習先でそのまま就職してくれないと困る。そこで、就職先として「生徒たちが希望しそうな一般企業」に頼んで実習生を受け入れてもらい、さらに生徒には「絶対に辞めるなよ」という”圧力”を掛けて送り出すというわけだ。

そして当然のことながら企業側は、このような学校の事情をきちんと理解している

状況を理解した上での「搾取」状態は、少しずつ変わり始めている

この状況を企業側から見れば、次のようになるだろう。高校の方から、「是非実習生を預かってほしい」とお願いに来るのだから、否もない。実習生の契約条件はあらかじめ決められるとはいえ、そんなものはどうとでもなる。安くこき使おうじゃないか。優秀な人間ならそのまま残ってもらえばいいし、無能なら使えるだけ使い倒して辞めてもらえばいい。「実習生の就職率」なんて知るか。都合の良い部分だけ利用させてもらおう

映画の中で、企業側のこのような思惑がはっきりと描かれるわけではなく、あくまでも私の勝手な想像に過ぎないが、しかし、映画で描かれるコールセンターの状況を見れば、大きくは捉え間違っていないはずだ

なにせ、キム・ソヒが働いていたコールセンターの実態が凄まじい。なんと「全員が実習生」、つまり「リーダー以外全員が高校生」なのである。この企業はコールセンターのチームを5つ持っており、その内の1つが「実習生しかいないチーム」というわけだ。そして、他の4つのチーム(当然、社会人が働いている)と競わせ、成績が悪いと「他のチームと比べて劣っている」とボロクソに言われるのである。

なかなかにイカれた環境と言っていいだろう。

そもそもこのコールセンター、後に女刑事が調べたところによると、全社員650名程度の会社なのだが、その内の629名が昨年退職し、617名を新たに採用したことが分かっている。つまり、従業員のほとんどが入れ替わっているというわけだ。そんな会社がまともなはずがない

本来であれば教師は、生徒を送り込む企業について調べ、実際に訪問し、労働環境などをチェックしなければならないと定められている。しかし学校としては、「大手企業(実際にはその下請けだが)に実習生を送った」という実績が欲しい。だから、「禄な調査もしないまま、実習先として選定している」というのが実状なのだ。

本当に、知れば知るほど信じがたい状況である。あまりにも酷い世界だと思う。

先程も触れた通り、映画で描かれているのは2017年頃の話である。しかしその当時、このような状況は韓国国内でもほとんど知られていなかった。本当であれば、その当時起こったある「事件」をきっかけにこのような実態が明るみになり、社会問題化してもおかしくなかったはずだ。しかし残念ながらそうはならなかった。「事件」そのものは報じられたが、その背景についてはほとんど深入りされなかったからだ。高校も企業も教育庁も、「臭いものに蓋をしたい」という動機で一致していたのだろう。公式HPによると、ある人権活動家の働きかけによって多少は報道されたそうだが、大きな問題としては扱われなかったという。

しかし、まさにこの『あしたの少女』という映画が公開されたことをきっかけにして、韓国国内で「現場実習生の保護」を求める声が高まっていったのだそうだ。これは私にはかなり凄まじい話に思える。そしてなんと、通称「次のソヒ防止法」と呼ばれる改正案が国会を通過したというのだ。この映画の原題を直訳すると「次のソヒ」となる。つまり、まさにこの映画が、社会を動かす大きなきっかけを作ったというわけだ。いち映画が与えた影響としてはかなり大きなものと言えると思う。

さて、実話を基にした映画が作られる場合、一般的には状況が一通り落ち着いてからになることが多いだろう。「事件が解決した」とか「被害者への補償が決まった」などの状況を経ないと、「物語」としてのまとまりを保つのが難しくなるからだ。

そしてそういう意味で、この『あしたの少女』という映画は、非常にまとまりのない形で終わる。当然だろう。この映画を制作している時には、「現場実習生を保護する改正案」の話など、まったく存在していなかったのだから。そのため、物語としての「不完全燃焼感」は強いのだが、それはある意味では、「まさにこの映画が現実に影響を及ぼした証」とも捉えられるだろう。

別に私は、「映画」というメディアに対して常にそのような影響力を求めているつもりはない。しかし、「自分が作りたいと思う作品を完成させた」その結果として社会が正しい方向に動いてくれるというのは、とても素晴らしいことだろうと思う。

ちなみに、「韓国は酷いことをしているなー」と対岸の火事のように感じている人は、少し足元を見たほうがいいかもしれない。日本も同じようなことをしているからだ。高校生にではなく、外国人労働者に対してだが。

映画の内容からは少しズレるので詳しくは触れないが、日本には「外国人技能実習制度」と呼ばれる仕組みがある。国が行っている、「表向き」の理由がちゃんと存在する制度なのだが、現実には「移民を受け入れずに外国人の労働力を確保するための仕組み」でしかない。そしてこの「外国人技能実習制度」について知れば知るほど、韓国の高校生が置かれているのと大差ない現実に驚かされることになるだろうと思う。

以前読んだ、『人生格差はこれで決まる 働き方の損益分岐点』(木暮太一)という本に、こんな文章がある。

しかし本来、資本主義経済のなかで働くということは、(法律の範囲内で)ギリギリまで働かされることを意味します。
程度の差はあれ、資本主義経済のなかで生きる企業は、みな元来「ブラック」なのです。

マルクスの『資本論』をベースに考えれば、企業はすべて『ブラック』になって当然だ」と主張しているのだ。だからこそ、企業を適正に縛り付ける「法律」が必要とされるのであり、その「法律」を正しく守らせなければならないのである。

そうでなければ、「企業」はいつでも「化け物」に変貌出来てしまうというわけだ。

映画の内容紹介

キム・ソヒは、通っている近所のダンスクラブで「一番上手い」と褒められるのだが、それでも夜、誰もいなくなった練習場で、スマホで自撮りしながら延々とダンスの練習を続けるような女の子だ。映画の冒頭は、このダンスのシーンから始まる。

そんなソヒは高校の実習先が決まり、大手企業の下請けであるコールセンターで働くことになった。1つ上の先輩で、実習先が工場であるテジュンの元へ向かった彼女は、「明日からOLになる」と彼に伝える。同じダンスクラブに通っていた仲間であり、その嬉しさを伝えたかったのだ。彼女は期待を胸に、実習先であるコールセンターへと向かう

しかし、その業務はかなり辛いものだった。解約を希望して電話をしてくる客を無理やりにでも引き留めることが求められていたからだ。「解約阻止率」が「成績」とみなされ、チーム内の成績が日々壁に張り出されていく。また、5つあるチーム同士でも競わされており、チーム全体の成績が下がっても上司からどやされてしまうのだ。ソヒは「今ならこんなキャンペーンをやっています」と望んでもないキャンペーンを勧めたり、「高額な違約金が掛かります」と脅したりするような仕事にどうにも馴染めず、チーム長から発破をかけられることも多かった

仕事の辛さから「辞めたい」と感じることも増えてきたが、担任からは「絶対に辞めるなよ」と言われるし、良い会社で働いていると考えている両親にも話せないままだ。仕事の忙しさの合間を縫うようにして仲の良い友人と会う機会もあるのだが、仕事の疲れやイライラから些細なことで言い争い、険悪な雰囲気になってしまうこともあった。

そんなある日、ソヒは信じがたい光景を目撃し、想像もしなかった状況に動揺する。そしてこの出来事をきっかけに、人間としての感情が欠落してしまったのか、それ以降彼女はチーム内でも抜群の成績を残すようになっていく

しかし給料の支払いに関してチーム長と揉めてしまい……。

その後、女刑事が「事件」の捜査に乗り出していく

映画の感想

映画『あしたの少女』の主演は、是枝裕和監督作『ベイビー・ブローカー』にも出演していたペ・ドゥナである。しかし冒頭からしばらくの間、ペ・ドゥナはほとんどと言っていいくらい出てこない。一般的な映画とは違って、この映画は前後半でかなりくっきりと物語が分かれる作品だと言える。主演が後半になってからでないと出てこないというのは、なかなか珍しい構成ではないかと思う。

また、先程も少し触れたが、他の作品と異なる特徴として、「様々な事柄が投げっぱなしのまま終わる」という点が挙げられる。というか、「分からない部分を想像では埋めなかった」と言った方が正確かもしれない。

一般的に「実話を基にした作品」を作る場合、普通はそこに「創作」が入り込むことになる。「物語的に改変した方が面白くなるから」という理由ももちろんあるだろうが、他にも「『調べても絶対に分からないこと』は創作によって埋めるしかない」という事情もあるだろう。例えば、その実話に関わる人物が既に亡くなっている場合、その人物が当時どのように感じていたのかや、記録が存在しない場所でどんな行動を取っていたのかなどは、やはりどれだけ調べようが空白として残ってしまう。そして、そういう部分を創作で埋めているからこそ、「実話を”基に”している」という表記になるわけだ。

しかし映画『あしたの少女』では、「分からない部分を『創作』で埋める」ことをせずに制作しようと努力したのではないかと感じた。公式HPによると、映画後半の女刑事視点の物語は監督による創作らしいが、わざわざそう記載するということは、前半のキム・ソヒの物語はかなり事実に忠実だと捉えてもいいのではないかと思う。確かに観ている限り、「客観的な事実の積み重ねで描写できそうなシーン」がほとんどであるように感じられた。

そしてだからこそ、「『想像で埋めなければならないはずの空白』がそのまま残っている」という事実に、違和感を覚えたのかもしれない。というか、そういう構成だったからこそ、「実話を基にした物語」のような表記が映画冒頭になかったにも拘らず、「きっとこれは実話を基にしているのだろう」と感じられたのだと思う。

恐らくこのようなスタンスになったのも、「事件」が一段落ついたという状態に達していなかったが故だろう。一定の評価なり捉えられ方なりが定まった状況に対してであれば、改変や創作の余地もあるだろうと思う。しかしこの映画を制作した時点では、そもそも問題そのものが広く知られてさえいない状態だった。だから、「フィクション」という形を取りながら、出来るだけ「ドキュメンタリー」に近いような作品を目指し、「まずは事実を届かせる」という点に注力しようとしたのではないだろうか

そのような思惑で映画を作ったのだとしたら、まさにそれは見事な形で実を結んだと言っていいと思う。また、なかなか感じられないような「不穏さ」を残した造りにしたことで、なんとも言い難い強い印象を残す作品に仕上がったと言ってもいいだろう。さらに、ペ・ドゥナが登場する後半は、「真相の解明」よりも「無力感の共有」に焦点が当てられているように思えるし、そこには「どうかこの事実が多くの人の目に触れてほしい」という監督の強い想いが込められているようにも感じられた。

さて、1つだけ不満を挙げるとするなら、ペ・ドゥナ演じる女刑事の背景がもう少し伝わる何かがあればよかったと思う。今触れた通り、女刑事のパートは「無力感の共有」こそが目的だと思うので、だからこそ「何故彼女はこの『事件』に執着したのか」という描写がある方が良かった気がする。少なくとも私が観た限りにおいては、彼女がそのような強い動機を抱く背景を理解することは出来なかった

作中では、「元々事務職として勤務していたが、最近異動で刑事課に移ってきた」「休暇が明けてすぐに担当した『事件』である」「休暇の理由には恐らく、彼女の母親が何らかの形で関係している」みたいなことは示唆される。しかしそれ以上には、彼女自身の背景は描かれない。それでいて彼女は、刑事課に移ってきたばかりにも拘らず、上司の反対を押し切ってまでこの「事件」の捜査にこだわるのだ。

138分というなかなかの長尺の作品であり、女刑事の背景を描く余裕はなかったのかもしれないが、気になる要素をいくつか置き去りにしたまま物語が閉じてしまったので、そこは少し気になった。キム・ソヒについては「空白を想像で埋める」ことを避ける意図があったと理解できるが、女刑事のパートはそもそもが創作なのだから、もう少し突っ込んだ描写があっても良かったように思う。

いくつかどうでもいい話を

さて最後に、本筋とはまったく関係のない、どうでもいい話をして終わりにしよう

まず、私としては大変珍しいことなのだが、ペ・ドゥナの顔がとても好みだなと感じる。普段私は、異性かどうかに限らず、「顔が好みかどうか」みたいな判断をあまりしない。もちろん、「綺麗だ」「可愛い」みたいに思うことはいくらでもあるのだけれど、「顔が好みだ」と感じることはほとんどないのだ。私が今思い出せる範囲では、「顔が好み」と感じる相手は、ペ・ドゥナ、サリー・ホーキンス、そして古川琴音だけである。

ペ・ドゥナのことは、『ベイビー・ブローカー』で初めてちゃんとその存在を認識したように思う。そして、『ベイビー・ブローカー』でも本作『あしたの少女』でも同様なのだが、私はどうも「一切笑わない、疲れ切ったようなペ・ドゥナの顔」がとても好きみたいだ。ネットでペ・ドゥナが笑っている写真を調べたりもしたが、どうもピンと来ない。無表情で生気が無いみたいに思える彼女の顔がとても良いなと思う。まあ、実にどうでもいい話だが。

さてもう1つ気になったのは、「高校生なのに、キム・ソヒたちが普通に酒を飲んでいること」である。調べてみると、韓国では19歳から酒を飲んでいいそうだが、それだと計算が合わないように思う。高校3年生だとしても、18歳が普通だろう。

しかしそう考えて、少し前に見たニュースのことを思い出した。韓国で、「年齢の数え方が変更された」というものだ。この映画は、年齢の数え方が変わる前の時代のことを描いているので、そう考えると辻褄が合う。

韓国での以前の年齢の数え方は、「生まれた年を1歳とし、1月1日になったら1歳年を取る」というものだった。例えば極端な話、12月31日に生まれた場合、生まれた瞬間に1歳、さらに翌日の1月1日に2歳になるという計算になる。生まれてからたった2日で2歳になってしまうのである。この場合、高校生で19歳になるという状況は自然なので、飲酒も可能なのだろう

しかし最近韓国は、「現在の年度から出生年度を引いた数字を年齢とする」という、要するに日本と同じ年齢の数え方を採用した。私が見たニュースでは、「K-POPアイドルが2歳ぐらい若返る」みたいな話題として取り上げられていたはずだ。しかし、「酒が飲めるのは19歳から」というルールは変わらないらしいので、今後高校生の飲酒は認められなくなるのだろう。

最後に

「新卒で一括採用し、社員のクビを簡単には切れず、終身雇用が当たり前」みたいな日本の雇用形態が「世界と比べておかしい」と批判されることがある。まあ、私もその捉え方に意義を唱えるつもりはない。しかし一方で、映画『あしたの少女』が示すように、雇用に関する制約を緩めれば緩めるほど、企業は法律の裏を掻い潜って自社の利益のために人間を酷使しようとすることもまた事実である。「競争原理を導入することで、優秀な人間が適切な労働環境で働けるようにする」という方向はもちろん間違っていないと思うが、やはり一定の制約は残しておかなければ、企業が「怪物」になるのを手助けするだけになってしまうだろう。

韓国の話ではないが、中国では若者の失業率がかなり高くなっており、先日見たテレビ番組では、16歳から24歳の失業率が50%に達しているのではないか、とも指摘されていた。「達しているのではないか」と何故断定できないのかと言えば、中国が失業率の公表を止めたからだ。都合の悪いことは隠したいのだろう。中国では「専業子ども」といって、「家事手伝いなどをすることで親から給料をもらう」みたいな形で「就職」する若者が増加しているという。中国に関しては「雇用の制約」ではなく「景気の問題」だと思うのでまた状況は異なるが、いずれにしても「失業率が高いこと」が国にとって喜ばしいことではないのは間違いないだろう。

企業の成長も大事だが、私は個人的に、「国民全員にそれなりに働き場所がある」ということも大事だと思っているし、やはりそのことが一定程度実現されるように雇用のルールが定められているべきだとも考えている。今後日本は、人口減少に伴って働き手が減る一方で、AIの導入によって不要とされる仕事も増えていくという、なかなか舵取りの難しい時代に入っていくはずだ。そういう中で、企業の自主性だけに任せるような仕組みにしてしまえば、また別の形で『あしたの少女』で描かれるような問題が生まれ得るだろう。

そうならないためにも、「雇用に関する制約をどのように設けるか」については慎重に制度設計される必要があると改めて感じさせられた。

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