【奇跡】信念を貫いた男が国の制度を変えた。特別養子縁組を実現させた石巻の産婦人科医の執念:『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』(石井光太)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:石井 光太
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 菊田昇は、マザー・テレサと同じ賞を国連から授与されたほどの人物
  • かつて、中絶手術に”失敗”して産声を上げた赤ちゃんは、医師に殺されていた
  • 犯罪行為だと分かった上で赤ちゃんの斡旋を始めた菊田昇が、ついに国を動かし、「特別養子縁組」の制度を勝ち取る物語

実話だとは信じがたいほどの衝撃的な人生であり、その凄まじさに圧倒されてしまった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「特別養子縁組」は、菊田昇がいなければ実現不可能だった。石井光太『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』が描く、あらゆる困難をなぎ倒し信念を貫いた男の壮絶な人生

読んでいる間、大げさではなく、ずっと泣いていた凄すぎる。とんでもない人物がいたものだと感じたし、自分が彼のことをまったく知らずにいたことにも驚かされた。もっと広く知られていい人物のはずだ

あらゆる反対を押しのけて、「特別養子縁組」という制度を国に作らせた張本人なのだから。

昇は平成三年四月に、国連の国際生命尊重会議がつくった「世界生命賞」の第一回受賞のマザー・テレサにつづいて、第二回受賞者として選ばれた。受賞理由は胎児を中絶から守り、その人権を訴えつづけたことだった。

国連から、マザー・テレサに匹敵する人物として表彰されているのだ。であれば、私たちはもっと彼について知っているべきではないだろうか。

さて、そんな菊田昇を取り上げた『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』の感想を書く前に、1つ触れておくことがある。それは、本書が「小説」と銘打たれているという点についてだ。「事実を基にした小説」というわけだが、そのような作品の場合、「どの描写を『事実』と捉えるか」という判断が難しい。というわけで一応、この作品における私なりの判断基準に触れておこう。

菊田昇は、1991年に亡くなっている。であれば、本書の著者が彼に直接取材をした可能性はほぼないだろう。ではどのように事実を確認したのか。あくまでも私の想像にすぎないが、こんな感じではないかと思う。まず、存命の関係者には当たれるだけ当たったはずだ。さらに、菊田昇本人の著作や、菊田昇について触れた書籍も片っ端から漁る。新聞記事なども渉猟しただろう。このように、調べられるだけの事実を調べたはずだ。そして、それでもなお埋められずに残った部分については創作で補った、というのが私の捉え方である。

つまり、

  • 客観的に判断可能、あるいは、第三者が証言可能だろう事柄についてはすべて事実
  • 内面描写や個人的な会話などについては、創作も含まれる

という理解だ。このような前提で以下、記事を書いていくことにする。

かつて医師は、「中絶手術の際に息をしてしまう子」を殺していた

現在、中絶が認められるのは妊娠22週未満だが、かつては7ヶ月(28週)まで許容されていたという。7ヶ月ギリギリの中絶でも、ほとんどの場合が死産となる。しかし稀に、生命力の強い子の場合、息をして産声を上げてしまうことがあったそうだ。

さて、このような場合、医師はどうしていたのだろうか

子どもが産まれたのだから、原則として出生届を出す必要がある。しかし、妊婦は中絶を望んでいるのだからそれは不可能だ。今でも同じかもしれないが、以前は特に、「戸籍に出産の記録が残ること」だけは絶対に避けたいと考えられていた。だから「出生届を出す」という選択肢を妊婦やその家族が受け入れるはずもない。また、7ヶ月の未熟児で産まれてきてしまった場合、どれだけ救命措置を施したところで、当時の技術ではどのみち数日から数週間しか生きられないことがほとんどだった。

だからそのような場合、産まれてきた子を医師が殺していたという。

昇の脳裏に過ったのは、かつて大学病院や市立病院で先輩たちから聞いた話だった。このような場合、開業医は誰にも言わずに赤ん坊の顔に濡れた手拭いを被せたり、浴槽に沈めたりすることで葬り去っているという。医師が密室で子供の息を止め、”中絶”として手続きを済ませば、外部に知られることはない。万が一の場合、開業医にはそれができるからこそ、患者の方も信頼してやってくる。

菊田昇は宮城県石巻で産婦人科医として働いていたが、この状況は決して石巻に限るものではなかった

後で知ったことだが、これは石巻だけでなく、日本全国の開業医が暗黙の了解のうちに行っていることだった。昭和三十五年には百万件以上の中絶手術が行われているが、そのうちの一定数は七ヶ月のそれであり、少なくない赤ん坊が医師の手によって命を奪われているのだ。

まずこの事実に驚かされはしないだろうか? 「そういう時代だったから仕方ない」と考える余地もあるのかもしれないが、やはり、「医師が子どもを殺すことが“当たり前”だった時代がある」という事実に、私はとても驚愕させられた。

さらに驚かされたのは、医師のスタンスだ

「子どもを殺す」という状況を許容し続けた医師たち

「中絶に失敗し、息をしてしまった子を殺す」という状況は、当時の法律や社会通念を背景に「仕方なかった」と表現できるのかもしれないし、医師の行為も「必要悪」と捉えることができるかもしれない。本書には、医師の実感を表したこんな文章もある。

慣れることはねえけど、誰かがやらねばならねえ仕事なんだ。

行為として良くないことは分かっているが、様々な状況を勘案した結果、医師である自分がそれをやるしかない」という判断なのだろう。

そして私も、そこまでは理解できる。私がもし、その当時の産婦人科医だとしたら、きっと彼らと同じように、「誰かがやらねばならねえ仕事なんだ」と思いながら子どもを殺していたと思う。

しかし、信じられないと感じたのはその後のことだ

菊田昇は、子どもの命が奪われている現状をどうにかしようと立ち上がる。そして、まずは石巻の医師会に訴え、その後世論に呼びかけて、後に「特別養子縁組」という制度に結実する運動をたった一人で起こす。

しかし、石巻の産婦人科医たちは、そんな菊田昇の「敵」として立ちはだかるのだ。この感覚に、私はとても驚かされた

繰り返すが、産婦人科医たちは「望まぬ子殺し」をし続けてきたのである。そして菊田昇の提案は、そんな「望まぬ子殺し」をしなくて済むようになるものなのだ。普通に考えれば、彼に賛同するのが自然ではないかと私は感じる。しかし産婦人科医たちは、徹底して菊田昇に反対の立場に立ち続けるのだ。

お言葉ですが、この問題はここにいる全員に共通のもののはずです! 今日俺が話したのは、俺個人の問題を解決したいのとは別に、産婦人科医が直面してきた不条理を正面から議論したかったからです。今の法律がつづく以上、俺たち産婦人科医は中絶に失敗して生まれて来てしまった赤ん坊をどうするかという難題を突きつけられます。問題を先送りしても何も変わらねえです!

彼はこのように医師に訴えかけるのだが、その言葉はまったく届かない。菊田昇は、「頭のおかしいことを言っている」という風に扱われ続けるのである。

当時の産婦人科医たちがもし、自分たちの行為に罪悪感を抱いていたのなら、「自らその状況を変える勇気はないが、変えてくれる人物が立ち上がったのだから応援しよう」という感覚になる方が自然ではないかと思う。だから私は、こんな風にさえ想像してしまう。もしかして当時の産婦人科医たちは、「子殺し」に対して罪悪感を抱いていなかったのだろうか、と。私の想像力では、そう考えるしかない。

もちろん、菊田昇の反対に回った医師会にしても、きっと何か事情はあったのだろう。また、一個人としては菊田昇に賛同していても、「医師会」の決定に従うしかなかったという人もいたとは思う。当時の状況を詳しく知らない人間が、「菊田昇の反対に回ったなんて信じられない」と憤るのも正しくないだろう。しかし、そうは理解していてもやはり、その異常さに驚かされてしまった。

「法律は守らなければならない」からこそ、「信念を優先した菊田昇」を尊敬する

私は基本的に、「悪法もまた法なり」という考えを持っている人間だ。詳しくは、映画『ダーク・ウォーターズ』の記事に書いたのでそちらを読んでほしいが、ざっくり書くと、「どれだけ悪い法律だとしても、『法律を変えるための努力』をしなければならないし、その間は法律に従わなければならない」という感じである。

そういう意味で言えば私は、菊田昇の行為を「誤り」と捉えなければならないはずだろう「特別養子縁組」というルールが存在しない時代から、それに類する行為を行っていたのだから。それは明らかに、当時の法律に違反する行為だった。私の基本的なスタンスを貫くとすれば、「制度が変わってからそのような行為をすべき」と判断しなければならないだろう。

しかし、彼が取り組んでいた問題は、人命に関わるものである。「制度を変えてから動く」なんて悠長なことをやっている間にも、多くの命が喪われてしまう、そういう状況にあったのだ。

だから彼は、ルールを変える努力をしつつ、同時並行で、自身が正しいと信じる「違法行為」を行い続けた。私は、そんな彼の判断を「勇敢だ」と感じる。

問題があるのは、正しいことが違法になっている法律の方なんだ。

「明らかに間違っている」みたいな判断を個人に委ねてしまうことは、とても危険なことだ。そんなことが許容されるなら、社会秩序は失われてしまうだろう。しかし時に、そういう判断でしか乗り越えられない現実が存在する。「特別養子縁組」を実現した菊田昇の奮闘は、まさにそのようなものと受け取られるはずだ。あくまでも例外中の例外であり、彼のような振る舞いが常に許容されていいはずがない。菊田昇の行動に賛辞を送る一方、彼のような行動が決してスタンダードになってはいけないと、私たちは理解すべきだと思う。

同時に、自分が菊田昇の近くにいる人間だった場合、即座に「彼に協力する」という判断ができる人間でありたいとも感じた。

どんなことがあっても、私をここで働かせてください。優生保護法指定医師が取り消されても、何ヶ月かの業務停止処分が下されても、ここにいさせてください。私は、特例法が成立した時に、一緒になってよくがんばったって喜びたいんです。どんな困難があっても、先生が医院をつづけて、私たちを雇ってくれると約束していただけるのなら、全力でお力になります。

お給料のことを心配されているなら、どうでもいいんです。数ヶ月ならなんとかやっていけます。

先生! 私も婦長と同じ意見です! 業務停止になっても医院にいさせてください。再開まで待てばいいだけですから!

私も同じです。看護学校にいた時、私は菊田医院にいることを同級生にからかわれました。でも、私はその度に「赤ちゃんの命を助けることのどこがいけねぇんだ」って反発してきました。ここに勤めてからもずっとそうです。

歴史に残るような偉業は、大きな一歩を踏み出した人間だけで実現できるわけではない。必ず、その意志に賛同しついていく「フォロワー」の存在が必要だ。菊田昇の周りには、敵も多かったが、味方もたくさんいた。そのことは、色んな困難に直面せざるを得なかった彼にとって、非常に幸運だったと言えるだろう。

石井光太『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』の内容紹介

菊田昇が生まれ育った宮城県の港町・石巻の歓楽街には、遊郭が多数軒を連ねていた。その中に、金亀荘はある。遊郭の経営などしたことがない菊田ツウが買い取り、”蟻地獄のような客引き”で大繁盛店へと育て上げた有名店だ

菊田昇は、そんなツウの5人目の子として生を受ける。元々菊田家はとても貧しい家であり、子どもたちは皆成績優秀で級長を務めるほどだったのに、お金がないせいで進学させてやれなかった。そんな後ろめたさを感じていたツウは遊郭を買い取ることを決意し、どうにか昇だけでも進学させてやりたいと奮闘したのである。

ツウは、18歳未満の女の子を遊女としては働かせなかった。その代わり家政婦として雇い、仕事が忙しくて家に帰れないツウの代わりに家の仕事を任せていたのだ。ツウの代わりに昇を育てたのは、アヤとカヤの姉妹である。昇が小学生の頃、既にアヤの方は水揚げされていたが、カヤはまだ17歳で家政婦の仕事だけしていた。6歳ぐらいまでは「アヤ姉」「カヤ姉」と慕っていた昇も、遊郭の仕事について理解が深まるにつれ、少しずつ2人と距離を置くようになっていく。

菊田昇のこの生い立ち、つまり「遊郭出身であること」「アヤ・カヤとの幼少期の関わり」が、後に「特別養子縁組」の特例法制定に繋がる大きな契機となった。

昇は、兄弟の中では最も出来が悪かったのだが、東北帝国大学医学専門部をどうにか卒業し、産婦人科医として働き始める。感情を隠さずに喜んだり泣いたりする熱血医として妊婦から慕われ、看護婦からは「いつ寝たり食べたりしているのか分からない」と、仕事のし過ぎを注意されたりもした。結婚後も患者を優先して家に帰らず、そんな菊田を医師や看護婦が心配するのが日常だったという。

やがて彼は、いくつかのきっかけを経て、石巻に産婦人科医院を開業した医院の経営を成り立たせるためには、「中絶手術」を積極的に行うしかない。ベビーブームが重なったこともあり、菊田昇も中絶手術を手掛けるようになっていく。

そしてついに恐れていた事態に直面してしまう。7ヶ月の中絶で、子どもが息をして産声を上げてしまったのだ。その時は、仕方なくその子を殺した。しかし、こんなことは二度とすべきではないと、彼はあるアイデアを思いつく

それは、不妊治療をしている夫婦に子どもを”あげる”ことだった。産みの親の戸籍を汚さずに、かつ子どもを殺さずに済む方法はこれしかない。もちろんこの実現のためには、出生届を偽造するなど犯罪行為にに手を染めざるを得なかった。しかし、菊田の想いを受け取った医院の面々は、皆協力を申し出る。彼らは密かに、産まれることを望まれない子を、子どもを望む夫婦の元へと繋いでいた。

しかし、この取り組みは菊田昇の医院のみで行っているものであり、当然、“需要”と“供給”のバランスが常に成り立つわけではない。ある時、産まれた子の引き取り手がどうしても見つからないという事態に陥った。そこで菊田は、驚くべきことを思いつく

新聞に広告を出してみたらどうだろうか

”急告”
生まれたばかりの男の赤ちゃんをわが子として育てる方を求む 菊田産婦人科

昭和48年4月17日。地元の朝刊二紙に、菊田はこのような広告を載せた

当然、この広告は問題となる。そして、世論が様々に揺れる中、菊田昇は自身の信念を貫き続け、ついに国を動かした……。

石井光太『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』の感想

決して、菊田昇1人の努力で「特別養子縁組」が実現したわけではない。しかし、菊田昇は「特別養子縁組」の実現にとてつもなく重要な存在である。彼が、ありとあらゆる批判をものともせず、信じられないような障害が立ちはだかろうとも前進し、「国」と闘って自らの信念を実現させようと奮闘しなければ、恐らく何も変わらなかったはずだからだ。

マララ・ユスフザイやグレタ・トゥーンベリのように、一介の個人が凄まじい影響を及ぼすケースは度々あるが、私はいつもその動機が知りたくなってしまう。どうしてここまでのことが出来るのかと感じてしまうからだ。そして本書では、菊田昇の動機の核として「遊郭出身であること」が挙げられている。この点もまた興味深いだろう。

本書は、単行本で350ページほどの作品だが、最初の70ページほどが「遊郭時代の昇のエピソード」に費やされている。菊田昇の生涯を追う作品において、幼少期の生活が遊郭と結びついているのだから当然と言えば当然だ。さらにその生い立ちは、その後の菊田昇の人生における様々な判断に絡んでくるのである。

中絶はしかたねえと思ってる。でも、違法行為をしてまで生まれてきた赤ん坊を殺すのはどうかな。アヤ姉だったら許してくれっかな。それとも、やめれって言うかな。そう考えると、俺は自分が恥ずかしくねえ生き方をしてるって言い切れる自信がねえのさ。

菊田は、仕事をし過ぎて度々婦長に叱られていたのだが、「どうしてそんなに仕事をするのか?」と婦長に問われた際に、こんな風に返してもいる

俺の実家は遊郭だったんだ。そこの女性たちはみな、妊娠しても産むことが許されねえで、命の危険のある堕胎を何度もしてた。孕んでもおめでとうなんて言えねえし、本人も産みてえなんて言えねがった。初めから赤ん坊は殺されねばならなかった。それが当たり前だった。でも、俺はこの病院に来て初めて、家族に喜ばれるお産つうものを直に見た。(中略)悲しいだけの印象があった妊娠が、こんなにも大きな幸せを産むのかと驚いたよ。

「出産」が許されないものとして扱われるのが当然の環境にいた彼にとって、産婦人科医として「出産」に関わることは、普通の人が感じる以上に喜ばしいことだったのだ。そしてだからこそ、余計に「中絶」への忌避感を抱いたとも言える。本書を読むと、もし菊田昇が遊郭で生まれ育っていなければ、「特別養子縁組」は実現しなかったのではないかとさえ感じさせられるほどだ。

また、菊田昇が産婦人科医院を開業するに至った背景にも、「遊郭育ち」が関係している

彼にとって、自身が生まれ育った「遊郭」は「圧倒的に間違った環境」だった。しかし、その「圧倒的に間違った環境」のお陰で、自分が大学に通えてたという事実も理解している。このことは彼にとって、大きな負い目だったのだ。さらに彼は、「圧倒的に間違った環境」と捉えていた生家である遊郭の一切を取り仕切っていた母・ツウを「諸悪の根源」と捉え、良い感情を抱けないでいた。ただし、彼には見えていなかったツウの様々な側面について、後に色んな場面で他の兄弟たちから耳にしたことで、母親に対して抱いていた複雑な怒り・わだかまりが少しずつ解けていく。そしてその心境の変化が、彼に開業を決意させることにもなったのだ。

冒頭で書いた通り、どこまでが「事実」なのか分からない話ではあるが、いずれにせよ、彼が「特別養子縁組」の制度を実現させたことは紛れもない事実である。その凄まじい奮闘と、彼が辿ってきた来歴を知ることが出来る作品だ

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最後に

彼は、「犯罪行為を行っている」と堂々と宣言しながら逮捕されずにいた稀有な人間でもある。記者会見や国会答弁などあらゆる場面で彼は、「赤ん坊の斡旋は違法だと理解しているが、赤ん坊を殺さないために法律を破っている」と語った。警察や検察が彼の逮捕に動かなかったのは間違いなく、世論が彼を支持したからだろう。この点もまた、「法律を破って行動した菊田昇」を称賛すべきと考える一因と言っていいだろう。

もちろん、支援する者がいなければ実現できなかった。様々な事情から、彼を表立って支援することができない者もたくさんいただろう。その一方で、こんな風に考えて菊田を支援する物もいた。

それに、昇が負けるってことは、地元に支える人間がいねがたってことだ。そんなことになりゃ、石巻の恥だ。石巻のためにも手伝わせてけろ。

最初の勇敢な一歩を踏み出したのは菊田昇だが、彼の一歩に社会が強く反応したからこそ、国という巨大なものが動いたのである。この事実は、現代を生きる私たちを勇気づけもするだろう。社会にはあらゆる問題が存在している。それらの問題に対して、菊田昇のように勇敢な一歩を踏み出す者がいれば、社会はまだまだ変わる可能性があるというわけだ。

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