【解説】実話を基にした映画『シカゴ7裁判』で知る、「権力の暴走」と、それに正面から立ち向かう爽快さ

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「シカゴ7裁判」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

Netflix

この記事の3つの要点

  • 一度「不起訴」と決まった事案を、新たに就任した司法長官がひっくり返したことで状況がややこしくなる
  • 「判事として真っ当ではない」と弁護士たちにも判断されたホフマン判事の異常さ
  • 暴動を防ごうと思った者たちが、暴動の首謀者として起訴された裁判の顛末は?

とにかく素晴らしい映画のラストを含め、全編を通して魅力溢れる素敵な映画だった

自己紹介記事

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「正義のためのデモ」が司法で争われた実話を基にした映画『シカゴ7裁判』はメチャクチャ面白かった

被告人ではなく、主席検事に同情を禁じえなかった

映画でメインとして描かれるのは、ベトナム戦争への反対意思を示すためにデモ行為を行う若者たちの姿だ。映画全体としてはもちろん、彼らがどのように奮闘したのかという話に焦点が当てられるし、物語としても非常に面白い部分である。

しかし、映画を観て何よりも強く感じさせられたのは、主席検事のシュルツの大変さだ。この映画で描かれるような裁判で被告人になるのも嫌だが、それ以上に主席検事に対して同情してしまった。

映画の冒頭、かなり早い段階でシュルツは、「共謀罪での立件には無理がある」と司法長官に告げている。そもそもこの案件、司法省は一度「起訴しない」という結論に達していた。しかし、司法長官が変わったことで方針が一転。デモの首謀者たちを無理くり起訴することになったというわけだ。そんな状況で主席検事に指名されたのがシュルツであり、彼にはやはりどう考えても「共謀罪での立件」は無理筋としか思えなかった。

しかしシュルツには「No」と返事が出来る状況にはない。なにせ、司法長官からの直々の指名である。しかも担当するのは、単なる裁判ではない。「ベトナム戦争への反対」という国家色の強い争いであり、裁判という土俵上だけで話が済むような性質のものではないのだ。

そんなとんでもない状況に放り込まれてしまったシュルツには、同情しかなかった

私とて、「検察は正義を担う機関である」などと無邪気に信じているわけではない。しかし、検察官を目指し、厳しい競争を勝ち抜いて検察の門をくぐり抜けた者たちはやはり、「自身の手で正義を実現したい」みたいな理想を抱えているのではないかと思う。もちろん、基本的には大体の裁判において「正義が実現された」と考えてもいいはずだ。しかし、すべてではない。様々な力学が働くせいで、正義は歪められてしまうことになる。

「歪められた側」も不幸ではあるが、「歪める側」もまた不幸なのだと思っている。少なくともシュルツは、デモ首謀者たちを立件したくはなかった。起訴することが、法に照らして「正義」であるとは思えなかったからだ。それでも、そういう状況に立たざるを得なくなってしまったのである。

またもちろん、次のような問いを突きつけることも可能だ。「シカゴに集まってデモを起こした者たちは、本当に『正義』を実現出来たのか」と。「法で裁くことが難しい」からと言って、それがそのまま「正義であること」には繋がらない。「法」とは別軸で、彼らの「正義」についても検証すべきだろう。私自身は、「大義だと信じるもののために法を犯すこと」が許容される状況もあっていいのではないかと思っている。つまり、「『どんな行動を取ったか』だけで是非を判断するのは正しくない」と考えているというわけだ。

しかしいずれにせよ、「正義」の多くは歴史の審判を待たねばならないだろう。後から、「あれは『正義』だった」と承認されるしかないと思う。それ故、歴史の審判を待つ間は、既存の「法」によって判断されなければならないだろう。その覚悟を持つ者だけが行動すべきだと思う。

こう考えると、シュルツが直面した困難さがより際立つだろう。何故なら彼は、本来であれば歴史の審判を待たなければならない事柄について、「あなた方が間違っている」と断言しなければならない立場にいたのだから。

こんな風に、決してメインとは言えないシュルツのことも気になってしまった

映画の内容紹介

舞台となるのは、民主党大会が間近に開かれる予定の1968年5月。時はベトナム戦争真っ只中。アメリカの若者たちが次々と戦場に送られていた。ベトナム戦争に反対する若者たちは、目前に迫った民主党大会の会場でデモを行おうと計画する

そこには様々な集団が入り乱れていた。民主社会学生同盟と青年国際党のメンバーはシカゴへと大挙する。また、ベトナム戦争終結運動のリーダーとブラックパンサー党のトップは共に、単独でシカゴへへと乗り込んだ。いずれも共通していたのは、「民主的にデモを行うべき」というスタンスだったこと。暴力的に対峙しても意味がない。

そして月日は流れる。

民主党大会から5ヶ月が経ったある日、シュルツは司法長官に呼び出された。デモ首謀者たちの裁判での主席検事に任命するためだ。司法省は民主党大会におけるデモ隊の行為を精査し、一度は不起訴の結論を出した。しかし司法長官が交代したことで方針が変わる。司法長官は、過去一度も判例が存在しない「ラップ・ブラウン法」を使い、彼らを「共謀罪」で起訴するように命じたのだ。シュルツは、明らかに無理筋だと感じたのだが、既にレールは引かれてしまった。やるしかない。

そして1969年9月26日、世界中が注目する裁判が始まった……。

映画の感想

デモの状況や登場人物たちの関係がなかなか複雑に絡み合っており、正直、全体像を正しく捉えるのが難しい映画だと言えるかもしれない。ただ、とにかく面白かった。映画は、裁判シーンの合間に、民主党大会前日からの若者たちの動きが挟み込まれる構成になっている。つまり、物語の中心にあるのが裁判であり、そしてその裁判が実に面白い。アメリカの裁判の仕組みについて知っているわけではないが、そんな私でも「異例づくめ」だと理解できるほど、映画で描かれる裁判はとにかく異常なのである。

その最大の元凶と言っていいのがホフマン判事だろう彼は、相当にヤバい。こんな判事がいていいのか? と感じたほどに常軌を逸している。途中で、「もしかしてホフマンのような判事がアメリカのデフォルトなんだろうか?」と思ったりもしたが、やはりそうではなさそうだ。映画の最後に、「シカゴの弁護士の78%はホフマン判事のことを不適格だと判断した」というような字幕が出たのである。そりゃそうだ、マジでヤバかったもんな。

映画では、ホフマン判事についての背景描写はまったくなかったので、彼のベトナム戦争に対する心情的な立場や、国家がホフマンに対してなんらかの介入をしているのかみたいなことは一切分からない。ただ、とにかくホフマン判事は、被告人たちに異様に冷たい態度を取るのである。もちろん、客観的に見て明らかに被告人たちに非がある状況も多々あったが、全体的にその振る舞いは、やはりホフマン判事の問題であるように感じられた。

映画を観れば誰もが「こりゃあヤバい」と感じるだろう場面についてはこの記事では触れないが、別のこんなシーンに触れておこう。ホフマン判事は、異例とも言える人物の証言を許可する。しかし1つ条件をつけた。「陪審員を入れる前に予備的な質問をし、そこで『重要な証言』が出たと判断したら陪審員を入れる」というものだ。こういうやり方は恐らく、アメリカの法廷では普通に行われているのだろう。

さて、その予備的な質問に応える形で、証人は「驚くべき証言」を行った誰もがそう判断するだろう衝撃的な内容だ。しかしホフマン判事は、「『重要な証言』が出てきていない」と証人を退廷させてしまったのである。この場面に至るまでに、ホフマン判事に対する違和感は積み上がっていたので、「おいおい、いいのかそれで」と心の中でツッコんでしまった。ただ、その後の展開を踏まえると判断が難しくなる。実にややこしい状況なのだ。とはいえやはり、裁判の進め方としては適切でないように感じられてしまった。

また、被告人側も問題百出で、観ている側としては面白い。最大の問題は「一枚岩になれていないこと」だろう。

裁判の展開において重要になるのが、民主社会学生同盟のリーダーであるトム・ヘイデンと、青年国際党のリーダーであるアビー・ホフマンの2人だ。アビー・ホフマンは偶然にも判事と同じ苗字であり、これもまたややこしさに繋がっている。トムは理知的な男で、「法廷でどのように振る舞えば自分たちに有利か」を理性的に考えるのに対し、アビーは法廷で判事を侮辱する言動を取るような男だ。実に対称的な2人と言える。この2人の関係性が、物語の展開と共に色々と変わっていく感じもなかなか面白い。

そんな中でも、あるテープの存在が明らかになったことでアビーに主導権が移ったように感じられる場面は特に興味深かった。そのシーンを境に、トム、アビーそれぞれの印象が一気に変わっていく展開も実に面白い。

そして、裁判の合間に挟み込まれる「デモに至るまでの流れ」もこの映画の見所と言っていいだろう。どこまで「事実」を描き出しているのかは判断できないが、この描写から私は「群衆を管理することの難しさ」について考えさせられた

シカゴに集まった様々なグループのリーダーは皆、平和的に物事を進めたいと思っている。しかし、集まったすべての人間が同じ考えを共有しているわけではない。かなりの規模に達したそんな若者の集団を、リーダーたちはコントロールする必要に迫られることになる。当然、それはそう容易なことではない。様々な場面で瞬時の判断が求められ、そのいくつかで「結果として正解とは言えない選択」をしてしまったことで致命的な事態が引き起こされてしまうことになる。そんな風にして結局、「暴動」が起こってしまうというわけだ。

暴動を起こさないように奮闘したリーダーたちが、「暴動の首謀者」として起訴されてしまうという現実裁判だけを見れば「被告人は悪」という印象になるだろうが、彼らが実際には「暴動にならないように努力した者たち」なのだという風に描かれることで、裁判中の姿とのギャップが生まれることになる。この対比も物語としてとても上手いと感じた。

最後に

具体的には書かないが、何よりも映画のラストが素晴らしい。まったく想像もしなかった展開なのだが、「このような終幕を見せられたら、それ以外の選択肢など考えられない」と思えるような、そんな見事な終わり方だった。

それまで「違和感」しか与えなかったホフマン判事は、このラストにおいては唯一「真っ当な振る舞い」をした人物だと言っていいかもしれない。しかし、それ故にホフマン判事は「まったく真っ当に見えない」という、恐らく何を言っているのかまったく分からないだろう状況が描かれる。そこで生まれた「団結感」みたいなものが、清々しさを与えてくれる、そんな作品だった。

全体的に、「こんな青春もあってもいいかもなぁ」と思わせる、物語として非常に魅力溢れる作品だと感じた。

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