【抵抗】若者よ、映画『これは君の闘争だ』を見ろ!学校閉鎖に反対する学生運動がブラジルの闇を照らす

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「これは君の闘争だ」HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • デモに関わった3人の当事者がフリートークのようにしてナレーションをつけていく構成が、ドキュメンタリー映画としてはかなり異例だと思う
  • 私は基本的に暴力には反対だが、「暴力で訴える以外に方法は無い」という状況も存在すると考えている
  • ブラジルの若者たちによる「楽しそうなデモ」の様子から、私たち日本人が学べることは多いのではないだろうか

テーマ的にはかなりハードな現実が描かれるが、ナレーションがとてもポップなので、ドキュメンタリーを観慣れない人でも楽しめる作品だと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

学生が正当な権利を求めて権力と闘う様を映し出す映画『これは君の闘争だ』は、特に若い人ほど観た方がいいだろう“熱い”作品

とても良い映画だった。本当、若い人ほど観た方がいい作品だと思う。

私は別に、「この映画に出てくる若者のように闘うべきだ」などと考えているわけではない。ただ本作は、「何に疑問を抱くべきなのか?」「抱いた疑問に対してどう行動すべきなのか?」について考えさせてくれるという意味で価値があると考えているのである。決して若者に限らないが、現代を生きる人の多くは、「現状に対する疑問」をはっきりとは認識していなかったり、それを認識していても特に何も行動しなかったりするように思う。年齢が上の世代ならある程度もう「人生を諦めるモード」にいるだろうから別にいいと思うが、若い世代はそんな風には思えないはずだ

だったら、やはり闘うしかない

というか、実際に闘うかどうかは別として、疑問を抱いたり、どんな風に行動すべきかを考えたりする機会はやはりあってもいいんじゃないかと思う。本作は、そういう視点がかなり失われているだろう現代日本に生きる人々に、「考えるきっかけ」を与えてくれる作品と言えるだろう。

ドキュメンタリーを普段観ない人でも触れやすい、非常に珍しい構成の映画

本作はまず、その構成が非常に面白い。私は結構ドキュメンタリー映画を観る方だが、なかなかこのような作りの作品は観たことがないと思う。

さて、本作で扱われているのは、「ブラジルの公立校に通う学生たちが抗議のために様々な活動をし、最終的に学校を占拠するに至る過程」である。デモや占拠の実際の映像、当時のニュース番組や政治家たちの発言など様々な映像が組み合わされ1本の映画に仕上がっているのだが、まあそれ自体はよくある構成だろう。

違うのは、ナレーションである。本作では、「3人の若者がお喋りをしているようなナレーション」がつけられているのだ。これが非常に斬新だった。

デモ活動時この3人は高校生であり、学生運動の中核に位置していた中心人物である。そしてこの3人によるナレーションは、普通にイメージするような感じではない。恐らく、ナレーション録りしている場で映画の実際の映像が流されているのだろう、それを観ながら3人がワイワイ喋っているみたいなナレーションなのだ。なんとなくだが、「最低限の台本しかない」みたいな印象だった。

ちゃんとイメージしてもらえているか分からないが、日本のバラエティでよくある、「衝撃映像を観ながら、ワイプに映っている芸能人がワチャワチャ喋っている」みたいな感じを想像してもらえればいいだろう。ドキュメンタリー映画としてはかなり珍しいタイプだと思うが、少なくとも私にはまったく違和感がなかった。それに、このようなナレーションになっているお陰で、普段ドキュメンタリー映画を観ない人にも観やすい作品に仕上がっているとも思う。

まさに学生運動に関わっていた本人が、「うわー、あん時は大変だったなぁ」「ねぇ、ちょっとこっちの話を先にしてもいい?」「あの頃は髪型がフラフラ定まらなかった時期だー」などとかなり自由に喋りながら、時折きちんと「ブラジルの状況を詳しく知らないだろう人」向けに状況説明も入れるというスタイルである。状況説明だけはなんとなくの台本がありそうだが、それ以外はフリートークのように感じられた。これによって「堅苦しいドキュメンタリー映画」という印象がまったく無い作品に仕上がっており、「ドキュメンタリー映画なんて一度も観たことがない」みたいな人でも、結構チャレンジしやすいと思う。扱われているテーマはかなり厳しい現実だが、当事者たちがそれを楽しそうに話しているのを聴きながら観ると、悲壮感もあまり感じずに済むだろう。

なかなか珍しい「楽しく観られるドキュメンタリー映画」というわけだ。

「暴力」に対する私の考え方と、若者たちが当時置かれていた状況について

さて、映画の内容についてあれこれ書く前に、まず1つ触れておきたいことがある。私が「暴力」についてどのような考えを持っているかについてだ。映画では、高校生たちが「デモ」と称して、様々な場所を占拠したり、道路を強制的に封鎖したり、市議会の扉を壊そうとしたりする様子が映し出される。それらはもちろん、一般的に「暴力」と呼ばれるものだ。だから、「暴力」に対して私がどのように考えているのか説明しておく方がいいだろう。

基本的に私は暴力を肯定できない。しかし、「暴力に訴え出る以外に手段が無い」という状況も存在するはずだと思う。そして「暴力に訴え出る以外に手段が無い」と言えるのは、「立場の弱い者が、立場の強い者に闘いを挑む場合」だけだと考えている。

映画の中で誰かが、次のようなことを言う

抵抗は、私たちの唯一の手段。

観れば、確かにそのことが実感できるだろう。学生運動に参加している公立校の学生たちは、ほとんど何も持っていないのだ。というわけでここで、彼らがどんな状況に置かれているのかについて少し触れておこうと思う。

ブラジルでは、公立校に通うのは「貧困層」と決まっているのだそうだ。では「貧困層」はどのような生活をしているのか。親の給料は、最低賃金の月250ドル。その一方で、地下鉄の運賃は95セントもする。約1ドルだと考えると、月給の250分の1。月給25万円で換算すると、地下鉄の運賃が1000円ということになる。とてもじゃないが、通学で使えるような値段ではないだろう。またある学生は、「常に『家賃か食費か』の選択に迫られていた」と口にしていた。そもそもが「学校に通うかどうか」以前の問題というわけだ。

また貧困家庭にとって、学校給食は割と生命線と言えるはずだが、実際のところ中身はスカスカで、1食14セントしか掛けられていない。一方で、軍警察が学生運動を鎮圧するために打ち込む催涙弾は、1発で75ドルもする。たった1発で529食の給食が賄えるし、この映画で映し出される催涙弾だけでも、16399食分になるそうだ。ホントに、「そんなことに金を使うぐらいなら、給食をどうにかしてくれよ」と言いたくもなるだろう。

また教育内容についても公立校の学生には不利な点がある。ブラジルでは長く独裁政権が続いたこともあり、私立校ではどうか分からないが、少なくとも公立校では「デモ」「革命」「無政府主義」などについて学ぶ機会はないのだそうだ。いや、実はそんなレベルの話ではない。学校ではなんと、「議論や質問の仕方」さえ教えないのだという。教育の時点で既に、国による「弾圧」が始まっていると言っていいだろう。なかなかに酷い状況だ。

そして、そんな公立校に通う若者が、「より良い教育」を求めて立ち上がったことがきっかけで大きなうねりが生み出されることになった。そんな学生運動を描くのが本作なのである。彼らは金が無く、真っ当な教育を受けていないため知識も不足しており、さらに「後ろ盾となる団体」も何も無いという状態で市・州・国に闘いを挑む。「学生という身分」だけを引っ提げて、身一つで抵抗を始めるのだ

そして私は、そんな徒手空拳の彼らだからこそ「暴力」も許容され得ると考えている。もちろん、非暴力を貫いたというガンジーのようなスタンスも素晴らしい。しかしやはり、それは1つの理想でしかない。現実的には、何も持たない者が国家権力に立ち向かおうとすれば、どうしたって「暴力」を介在させるしかないだろう。「持たざる者」が立ち上がって団結した際、「主張するための手段」として「暴力」を選択すること自体は、許容するしかないだろうと私は考えているのである。

これが私の大前提だ。つまり、「学生たちの『暴力』は、行為としてはもちろん良くないが、彼らが置かれている酷い状況と目指すべき目的を踏まえると、仕方ないものとして許容されてもいい」という意味である。作中では、イギリス女性が参政権獲得のために行った「サフラジェット運動」に言及する者もいた。やはりその際も、死を覚悟して線路に寝転んだり、窓ガラスを割ったりと、かなり暴力的な行為が行われたそうだ。「状況を打破するには『暴力』に頼らざるを得ないこともある」という1つの事例と言っていいだろう。

さて、私が「暴力」についての話をしたので、「若者たちが酷い行為を繰り返して無理やり主張を通そうとする運動」と勘違いする人もいるかもしれない。しかし、映画を観る限りではそうではなそうだ。確かに彼らは、「暴力」に括られる行為を行う。しかしそれらはあくまでも「主張するための手段」であり、「最低限必要なレベル」と感じる人の方が多いのではないかと思う。「必要があってそうしている」のであって、「無闇に暴れている」なんてことではないのだ。

もちろん穿った見方をすれば、「映画ではそのような『穏やかな場面』が使われているだけで、実際にはもっと酷い行為をしていたこともある」と捉えることも可能だろう。しかし、これはあくまでも私の印象に過ぎないが、恐らくそうではないと思っている。彼らはきっと、他に手段があれば、真っ当なやり方で自らの主張を展開したはずだ。しかし、それが不可能だからやむを得ず「暴力」に訴え出ているのだという風に見えた。まあ、特に根拠はないのだが。

若者たちがデモを起こしたきっかけと、その後の経緯

それでは、彼らがいかにして立ち上がり、「学校の占拠」にまで至ったのかについて、時系列順に説明していくことにしよう。ちなみにだが、映画はまったく時系列順には進んでいかない。人によっては「捉えにくい」と感じるかもしれないが、私は「より興味を惹ける話題を優先して出している」と感じたので、とても良いやり方だと思っている。

学生たちが抗議の声を上げるきっかけとなったのが、2013年の「バス運賃値上げ問題」だった。サンパウロ市内のバス運賃は上がり続け、通学はもちろん通勤にも支障が出るような状況になっていたのである。お金に余裕がある世帯なら大きな痛手ではなかったかもしれないが、貧困層にとってバス運賃は死活問題だ。そこで、学生を中心に「バスの値上げをするな」という抗議の声が上がるようになる。

しかし2015年、学生にとってより深刻な事態が持ち上がった。それが、「公立校の再編問題」だ。サンパウロ市が打ち出した計画はかなりの規模のもので、93の公立校を閉鎖し、30万人以上の学生を転校させようというものだった。比較になるか分からないが、私がネットで調べた限りでは、東京都の公立高校の数は186校である。サンパウロ市にいくつ公立校があるのか不明だが、恐らくかなりの割合で閉鎖が計画されていたと考えていいだろう。

当然、公立校に通う学生たちは猛反発した。そしてこれを機に、

知事よ、学校は我らのもの!

と叫ぶ抗議活動が積極的に展開されることになったのである。

しかし、どうして「93もの公立校の閉鎖」などという計画が打ち出されたのだろうか。学生たちはその理由を、「選挙が近いから、金を捻出したいのだろう」と推測していた。その推測が正しいのかは不明だが、もちろん市としては「表向きの理由」を発表している。それが、「公立校に通う学生が少なくなっている」というものだ。確かに、それを示すデータも存在する。1998年から2015年に掛けて、公立校に通う学生は20万人も減ったのだそうだ。

だったら、再編案も妥当なのではないか。そう感じる人もいるだろう。しかしそうではない。何故なら「公立校に通う学生が減っている背景」には、深刻な問題があるからだ。

それが「囚人の数」である。なんと、サンパウロ市で収監されている囚人の数は、以前と比べて4倍になっているのだそうだ。また、ブラジルの囚人数は、世界で3番目に多く、逮捕されるのは黒人・貧困層・若者ばかりだという。

つまりこういうことだ。「貧困層の若者が通う公立校の学生が減っている」のは、裏返せば「彼らが逮捕されているから」であり、さらに学生たちは、「不当に逮捕される者が多い」と考えているのである。彼らのこの主張が正しいなら、確かに「公立校の学生が減っているから再編する」という話に納得できるはずもないだろう。公立校の学生を減らしているのは、不当な逮捕をしている国の方なのだから。映画には、このような状況を、

10年以内に、学校よりも刑務所の数の方が上回ってしまう。

と端的に表現する学生が出てきた。なるほど、これは深刻な問題と言っていいだろう。

このような状況を打開すべく、学生たちは様々な運動を展開して抗議を続けるわけだが、どうにも事態が快方には向かわない。彼らはこのまま、座して「93校の閉校」を見守るしかないのだろうか

そんな中で起こったのが、チリの学生による「ペンギン革命」である。チリの学生も彼らと同様「より良い教育」を求めており、なんと「学校の占拠」に踏み切ったのだ。このニュースを知り、サンパウロの学生たちも「これだ!」と感じたのである。

早速、サンパウロ市でも学校の占拠が始まった。先陣を切ったのはジアデマ高校。そしてそれに続き、名門として知られるフェルナォン高校でも占拠が始まったことで、世間は衝撃を受けた。その後様々な高校にも伝播し、実に200以上の学校で「生徒による占拠」が行われるまでになったのである。

これらの行動はすべて、各学校の生徒の判断に委ねられた。学校によっては、生徒たちの判断で「占拠は行わない」と決まったところもある。また占拠を実行に移した学校でも、その意思決定は非常に民主的に行われたという。例えば、普段学校では「掃除・料理は女性の仕事」とされているそうだが、占拠期間中は男も女も関係なくすべてを全員で分担したのである。ある女子学生は、

必然的に、男性優位の社会に反旗を翻す形になったのは良かった。

みたいなことを口にしていた。「彼らがいかに可能な限り平和裏に抗議活動を行おうとしていたか」が窺えるエピソードだと言っていいだろう。映画では、占拠中の内部の様子を撮影した映像も組み込みながら、占拠の様子が伝えられていく

しかし「生徒による占拠」は結果として、ブラジル国内ではあまり報道されなかったそうだ。その理由についてはあまり詳しく触れられていなかったが、恐らく多くの人が、「どうせ貧困層の問題だし、自分たちには関係ない」と考えていたのではないかと思う。作中ではある男性が、

こっちは税金を払ってるんだ。学校なんて知るか。

と、学生たちに声を荒らげる場面さえあった。これが、大方の市民に共通する感覚なのかもしれない。

「占拠」という手段をもってしても世間の関心を集められなかった彼らは、やむを得ず「道路の封鎖」という実力行使に打って出る決断をする。車通りが少なくなった瞬間を狙って道路に飛び出し、そのまま学校から持ち出した椅子に座って通行を妨害し始めたのだ。

学校の占拠に対しては静観を続けていた軍警察も、道路の封鎖となればやはり対処せざるを得ない。しかし彼らは驚くべきことに、学生の排除のためだけに市街地で催涙弾を使用したのだ。これをきっかけに、学生と軍警察の衝突は激しさを増していく。もちろんマスコミでも報じられるようになり、それを受けて当時の大統領の支持率は急落、サンパウロ市は結局「学校再編を先延ばしにする」と発表するに至ったのである。

「これでめでたしめでたし」とは行かなかったのが残念なところだろう。「ここで終わればハッピーエンドだったんだけどな」とナレーションの1人が言っていたように、争いは終わらなかった。別の問題が発覚し、それに抗議するデモを行うことになったのだ。しかしその後、「すべての社会運動を潰す」と公言して就任したボルソナロ大統領の登場で、状況は一層悪くなってしまう

本作は、このような状況が扱われる映画なのである。

さて、映画の上映後には、監督からの日本人向けのメッセージ動画が流れた。その中では監督が、状況の厳しさについて語っている

本作はボルソナロ大統領就任直前に完成し、就任の2ヶ月後に国内での上映が開始された。なかなか凄まじいタイミングだったと言えるだろう。現大統領を批判する内容を含む映画であり、監督は作中に登場する学生たちに何か危険が及ぶのではないかと、上映中止も検討したという。しかし学生たちと話すと、「今公開しなくてどうするんだ」という反応ばかりが返ってきたらしく、それで公開を決断したのだそうだ。本当に、ギリギリの状況だったことが伝わるエピソードだった。

良い意味でも悪い意味でも、日本ではこのようなデモは起こらないように思う

色々と考えさせられる映画だったが、一番強く感じたのはやはり、「日本ではきっと、このような学生運動はもう起こらないだろうなぁ」ということだ。それは、ある面では良いことだろうし、ある面では悪いことだと思う。

良い面で言えば、「日本の学生が置かれている状況は、ブラジルほど酷くはないはず」という点が挙げられる。ブラジルでは「公立校に通うのは貧困層だけ」という状況になっているそうだが、日本の場合は、お金のある無しに関係なく、子どもを公立校に通わせる選択は全然あるだろう。学校個別に様々な問題を抱えていたりはするだろうし、私が知らないだけで「公立校全体に関わる問題」もあったりするのかもしれないが、少なくとも作中のブラジルのような酷い状況にはないはずだ。そういう意味で、こういうデモは起こらないだろうと考えている。

しかし一方で、もしも日本が本作で描かれるような状況に陥ってしまった場合、ブラジルの学生と同じように立ち上がれるのかというと、たぶんそうはならないと思う。これが悪い面である。「一昔前には日本でも学生運動が行われていた」という事実を教科書なんかで学んだりするが、既に40歳の私でさえ、「うーん、ピンと来ないなぁ」という感じである。もし私が学生だった頃に酷い状況に直面していたとしても、私や同世代の学生は抗議活動に踏み切らなかったのではないだろうか。

どうしてそう感じるのかの理由は色々とあるのだが、映画を観ながら感じた1つの大きな違いは「音楽」である。

ブラジルの学生たちは、抗議活動中も占拠期間中も、なんだかんだずっと歌っていたとても楽しそうなのだ。どんな活動にも「理念」や「思想」があるものだろうが、やはりそれだけで他者と連帯していくのは難しいように思う。しかしそこに、「とりあえずみんなで歌う」みたいな要素が混じると、一気にそのハードルが下がる気がする。

サンバのリズムがベースにあるのだろうブラジルでは、「みんなで一緒に歌う」みたいなことは割と当たり前の日常なのだと思う。そして、「その延長線上に『抗議活動』を置く」みたいなスタイルを取っているからこそ、抵抗感なくデモと接続できるのかもしれない。

しかし日本の場合は、「歌うこと」でなくても別にいいのだが、「みんなで人前で何かする」みたいなことが得意ではないように思う。「ハレ」と「ケ」という概念が日本にはあるが、「冠婚葬祭や祭りなどの『ハレの日』にははっちゃけてもいい」が、そういう日を別途用意するぐらい、「『ケ』である日常では大人しくしていなければならない」のような感じが染み付いているんだと思う。だから、「みんなで抗議活動を行う」みたいなことにも、上手く接続しにくいのではないか。

ブラジルの学生たちは、もちろんある目的を達成するためにデモを行っているわけだが、しかしそれだけという感じでもない。占拠した学校内でファッションショーをしてみたり、カップルがデモ中にキスをしたりと、かなり自由に振る舞っているのだ。楽器をかき鳴らしては、みんなで大声で歌ってと、なんだかとても楽しそうである。

そして、この「楽しそう」という雰囲気こそが、デモに必要なものなんじゃないかと感じさせられた。

東京に住んでいると、渋谷などで時々、何かデモ行為を行っている集団を見かけることがある。ただ日本のそれは、正直あまり「楽しそう」には見えない「楽しそうだから、自分もちょっと飛び入りで参加しちゃおう!」みたいな気分にはどうしてもならないのだ。たぶんだが、日本人は真面目だから、デモをやる側も、それを傍から見る側も、「ちゃんとしていないとダメ」みたいな考えに囚われてしまうのだと思う。しかしそれでは、主張も届かなければ、参加者も増えないだろう。

本作を観ながら、「日本にももっと、『楽しそうなデモ』が根付けばいいのにな」と感じさせられた。

最後に

恐らくブラジルは、貧富の差がかなり激しい国で、だからこそ映画で描かれているような問題も浮上するのだと思う。となれば、徐々に貧富の差が拡大しつつある日本でも、他人事ではないと捉えるべきだろう。

「教育」というのは、国の土台を作る非常に重要なもののはずだ。しかし様々な理由から、権力は「教育」をないがしろにしようとする。日本でも、少し状況は異なるが、例えば「研究機関や大学への公的な研究費の分配」などで問題を抱えているはずだし、研究費の額が少なすぎて優秀な研究者が海外に流出したりもしているのだ。また記憶に新しいところだと、国立科学博物館によるクラウドファンディングも話題になった。これも、教育に対する公的なお金が足りないことが要因だろう。

そのような現状に対して、私を含めた日本人の多くはやはり声を上げることをしない。だから、厳しい状況に置かれながらも元気に声を上げ続ける若者たちを描く本作を観て、「抗議の仕方」を学ぶのもいいんじゃないかと思う。

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