【実話】映画『月』(石井裕也)は、障害者施設での虐待事件から「見て見ぬふりする社会」を抉る(出演:宮沢りえ、磯村勇斗、オダギリジョー、二階堂ふみ)

目次

はじめに

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この記事の3つの要点

  • 19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた凶悪犯の犯行動機を、私たちは「あり得ない」と否定し切ることが出来るだろうか?
  • 「私たちの『無意識的な見て見ぬふり』こそが、作中で描かれるような『酷い現実』を生み出している」のだと示唆される
  • 「『このような問題が存在する』という問題さえ共有できない社会の中で、『最適解』を見つけなければならない困難さ」が扱われている

テーマ性だけではなく役者の演技も素晴らしく、特に「凶悪犯」を演じた人物の怪演には恐怖すら感じさせられた

自己紹介記事

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記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

実際に起こった「障害者施設殺傷事件」を題材にした映画『月』は、私たちの「無意識的な見て見ぬふり」を暴く、恐ろしいが重要な問いを投げかける作品

「お前は何を『人間』と捉えているんだ?」と問われる、実に重厚な物語

とてつもなく重たい物語だ。そして、観る者に刃を突きつける作品でもある。本作の問いかけから逃れられる人は、まずいないはずだ。何故なら映画『月』は、「お前は何を『人間』と捉えているんだ?」という我々の認識の本質を問うているからである。

物語の舞台になるのは、「重度の障害を持つ者を支援する施設」だ。障害があるため、入所者とは意思の疎通がほぼ不可能である。そのような者を受け入れる施設なのだが、実情は「支援」とは名ばかりで、その環境はとてつもなく劣悪だ。一部の職員が、入所者に虐待しているほどである。しかしこの施設、山奥にあることもあって、家族が足を運ぶことなどほとんどない。そのため、入所者の苦しみを代弁できるような者もおらず、一部の職員はやりたい放題やっているというわけだ。

所長は、「公金を掠め取れる」というだけの理由でこの施設を運営しているのではないかと思われる。そのため、入所者のことなどまるで気にかけていない。また、ごく僅かではあるがこの施設に足を運ぶ家族もいて、彼らは施設の劣悪さに実は気づいている。しかし、「ここが無くなってしまったら、もう他に行く場所がない」のが実情であり、良い環境ではないことを承知でここに預けざるを得ないというのが現実だ。

本作は、そんな施設で働く者の視点から「凄まじい現実」を抉る作品なのである。

まだまだ記憶に新しいと思うが、本作で扱われるのは、2016年に相模原市の「津久井やまゆり園」で起こった、元職員が19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた事件だ。逮捕された植松死刑囚は犯行動機として、「意思疎通が不可能な重度障害者は『人間』ではないのだから殺してもいい」という理屈を主張したという。そして、この事件を基にしている本作にも当然、そのような主張をする人物が出てくる

さてその人物の主張をもう少し掘り下げておくことにしよう。彼は決して、「障害者のことは殺してもいい」などと考えていたのではない。あくまでも「意思疎通が不可能なら殺してもいい」と主張していたのである。少し言い換えると、「『心が無い』なら殺してもいい」となるだろうか。いずれにせよ、「どちらも大差ない」「どっちにしたって酷いことに変わりはない」と感じる人も多いかもしれない

しかしそのように考えているとしたら、この物語はあなたにも直接的に関係し得ると言えるだろう。というのも、作中でも取り上げられる話なのだが、「出生前診断を行って中絶の判断を下すこと」もまた、「『心が無い』なら殺してもいい」という考え方がベースにあると私には感じられるからだ。

本作には、「出生前診断によってお腹の子どもに障害があると分かった場合、96%が中絶を選ぶ」みたいなセリフがある。私は別に、その決断を非難するつもりなどまったくない。もし同じ状況に立つことがあれば、私も恐らく中絶を選択するはずだからだ。ただ、私はこのような指摘をしたいと思っている。「出生前診断で中絶を選ぶ」という行為は、「『心が無い』なら殺してもいい」という発想に基づいているはずだし、だとすればそれは、多くの障害者を殺傷した凶悪犯の思想とかけ離れているとは言えないはずだ、と。

ここまでの話は、次のようにまとめられるだろう。もしも「『意思疎通が不可能なら殺してもいい』という理由で大量殺人を行った人間を非難する」のであれば、「出生前診断で中絶を選択する」ことも同じように非難されなければならないのではないか。そして、映画『月』を観て私は、観客にそのような問いが投げかけられていると感じたのである。

このように考えることで、とても遠くに位置しているように見える本作は、実は私たちの日常と直接的に接続していると言えるし、そのように受け取らなければならないとも感じているというわけだ。

「自らの意思で死を選ぶ権利」が認められるべきだと私は考えている

それでは、この点について私自身がどのように考えているのか書いていこうと思う。

私は当然だが、「意思疎通が不可能なら殺してもいい」などとは思っていない。しかし一方で、「出生前診断をするかどうかに拘らず、『中絶』というシステムは存在すべきだ」とも考えている。ここまでの議論を踏まえれば、このような決断は明らかにダブルスタンダードであり、私自身も「気に食わない」と感じている状態だ。とりあえず現時点では、「本作が、そのようなダブルスタンダードに気づかせてくれた」と捉えておくしかないだろうと思ってはいる。この問いについては恐らく、今後も折に触れて考え続けることになるだろう。非常に難しい問題だと思う。

さて、この点に関連して、少し角度を変えた話をすることにしよう。

私は「意思疎通が不可能なら殺してもいい」などと考えてはいないのだが、しかし、この話には1点だけ例外がある。それは「意思疎通が可能な時点で、『意思疎通が不可能になったら殺してくれ』という意思表示があった場合」のことだ。

映画『月』を観ながら様々なことを考えさせられたが、その内の1つに、「自分がこの施設に収容されているような障害者だった場合の想像」がある。そして私は、「もしそうなったとしたら、絶対に殺してほしい」と願っているのだ。一応書いておくが、あくまでもこれは「私はそう考えている」という話にすぎず、「重度の知的障害者は死んで当然だ」などという主張ではまったくない。単に、「私はそのような状態では絶対に生きていたくない」というだけの話なのだ。私は正直なところ、私以外の人の決断にはほぼ興味がない。家族がそのような状況に陥った場合には否応なしに考えさせられるだろうが、そうでないなら、「他人の決断に介入しよう」などとは普段から思わないのだ。この点は明確に理解しておいてほしい。

さて、私のこの主張をもう少し掘り下げよう。私は、「意思疎通が可能な時点で、『意思疎通が不可能になったら殺してくれ』という意思表示があった場合には、その人のことを“殺していい”」と主張しているのではない。そうではなく、“殺すべき”だと考えているのだ。これはつまり、「人間には『自らの意思で死を選ぶ権利』が与えられているべきだ」という主張なのである。

そして当然だが、この話は決して障害者に限るものではない。とにかく私は、「意思疎通が不可能な状態になった場合、そうなる前に生死に関する意思表示をしていれば、その決定が最優先される権利」が存在しないことにこそ問題があると考えているのである。このような観点からすると、映画『月』で描かれているのは、あくまでもその特殊な状況に過ぎないと捉えられるだろう。だから私は本作を、「そのような権利についてお前はどう考えるんだ」と問いかける作品だと思っているのである。

本作で描かれるような状況は、「意思疎通が不可能な状態になった場合、そうなる前に生死に関する意思表示をしていれば、その決定が最優先される権利」が存在すれば回避できるはずだ。その「権利」のことを、ここでは分かりやすく「安楽死」と表現することにしよう。さて、もし日本に「安楽死」の仕組みが存在し、さらに「意思疎通が不可能な状況になった際、『生きる』のか『死ぬ』のかをあらかじめ決めておかなければならない」と定められているとしたらどうだろうか。「死ぬ」を選択した人は自動的に「安楽死」に決まる。そしてその場合、世の中に存在する「意思疎通が不可能になった人」は全員「『生きる』を選んでいた人」だけということにことになるはずだ。となればどんな理屈を捏ねようと「殺してもいい」という判断が成り立つはずもないだろう。これが、私が考える「本作で提示される問題の本質」というわけだ。

もちろん私だって、このような主張が「極論」であることは十分承知している。まず賛同を得られるような意見ではないだろう。ただ一方で、「『極端な状況』について考えることで見えてくるものがある」というのもまた事実だと思っている。少なくとも、「『自ら死を選ぶ権利』が認められている社会では、状況はどのように変わり得るだろうか」と考えることは、映画『月』が描き出す現実に違った光を当てていると言えるはずだ。

ただ当然のことながら、「現実解」を見つけ前進し続けなければならないことも確かである。「もしこうだったら」という想像も決して無意味ではないが、やはり「今目の前に存在する『現実』における『最善』とは一体なんだろうか?」と問い続けなければなかなか社会は回っていかないだろう。そしてある意味で、映画『月』で描かれる障害者施設は、そんな「現実解」の1つなのだと思う。確かに、胸糞悪い「現実解」ではある。しかしそこに家族を預ける者が、「ここが無くなってしまったら、もう他に行く場所がない」と言っているのだから、どれだけ受け入れがたいとしてもが、「現実解」として認めるしかないだろうと思う。

これが、我々が生きる社会の現実である。

私たちの「見て見ぬふり」こそが、この現実を作り出している

映画『月』は、随所で「見て見ぬふり」というテーマが浮かび上がる作品だ。まずは本作の登場人物たちが、目の前の「酷い現実」を「見て見ぬふり」しようとする。そして本作はさらに、観客に向けて、「本当に『見て見ぬふり』しているのは、お前たちの方だぞ」と突きつけるのだ。少なくとも、私はそのように受け取った。直接的にそういう主張が映し出される場面はないのだが、本作は間違いなく、「社会のみんなが『見て見ぬふり』しているからこそ、このような酷い現実が成り立ってしまっている」という描き方をしていると私は思う。

さて、この点についてもう少し突っ込んで考えてみよう

私たちは、それが何であれ、「必要だ」と感じれば何らかのアクションを起こすはずだ。お金を出して買えるのであればお金を出すし、誰かに頼る必要があるのならお願いするし、忍耐強く待たなければいけないのなら待ち続けるだろう。作中では「聴覚障害者との恋愛」が描かれるが、このように「特定の誰かと深く関わりたい」と思うのであれば「告白する」という行動を取るはずだ。

そして逆に言えば、「アクションを起こしていないのは、『不要』だと判断しているからだ」と受け取ることも可能だと思っている。もちろん世の中には、「『必要』だと認識しているが、色んな理由からアクションを起こせていない」みたいな状況も多々あるとは思うが、やはり全体的には「『必要』ならアクションを起こす」「『不要』ならアクションを起こさない」という捉え方で大きくは外さないだろう

つまり何が言いたいのかというと、「私たちが『障害者』に対して何のアクションも起こしていないのであれば、それは『不要』と判断しているからであり、そのようなスタンスが『見て見ぬふり』に繋がっているはずである」ということだ。この指摘はもちろん、私自身にも向けられている。私も、「障害者」に対して何かアクションを起こしているとは言えないし、とすれば「不要」と判断していると認めざるを得ないだろう。

さて、私たちはとても”便利”な社会に生きているため、「不要」と判断したものについて、「その後」を考える必要がほとんどない。SNSはブロックすれば見えなくなるし、ゴミは収集場所に置いておけば”誰か”が持っていってくれる。社会のそこかしこで「見て見ぬふり」が徹底できるようになっているため、「障害者」についても私たちは、「その後」を考えることなく日々の生活を過ごすことができるのだ。

しかしもちろん、私たちが「その後」を想像するかどうかに関係なく、「障害者」一人ひとりにも人生があり、”社会のどこか”で生きている。そして、そんな「私たちが想像することのない『その後』」の1つが、本作で描かれているような施設だというわけだ。つまり、「私たちの『見て見ぬふり』こそが、劣悪な障害者施設を生み出すきっかけになっている」と捉えることも可能だと言っても過言ではないのである。

私たちは、まずこの事実こそを正しく認識しなければならないのだ。

一番の問題は、「『見て見ぬふり』から生まれた問題であるが故に、『問題そのものを認識すること』がとても難しい」という点にあると言えるだろう。そしてそんな社会においては当然、「一定数の合意を得た『現実解』」など生まれるはずもない。そのため、「公金を掠め取ろう」みたいに考える人物しか「現実解」を提示出来ないことになるし、「酷い環境だと分かっていながら預けるしかない」という状況が生まれてしまいもするのである。

私たちはこのような社会に生きているのだ。そして、観客に「そういう社会に生きているんだぞ」とど直球に突きつけるのが本作『月』なのである。

見て、何かしましたか?

このセリフは、「無意識的な見て見ぬふり」の中で生きる私たち全員に突きつけられた「刃」だと言っていいだろう。この「刃」を突きつけるのは「狂気的な人物」であり、その中で彼が指摘していた「ずるい」にはモヤモヤさせられてしまう部分もある。しかし同時に、「確かに『ずるい』と言われても仕方ない」と感じさせられもするのだ。

正常でいられる方が異常ですよね。

そんな風に言われてしまう環境では、「普通」という言葉がいとも容易く歪んでいく。そして本作は、そのような「狂気」が恐ろしくリアルに描き出される作品なのである。

ざっくりした内容紹介と、役者の演技について

メインで描かれるのは、1組の夫婦である。堂島洋子はベストセラー作家なのだが、ある時期から小説が書けなくなってしまった。執筆以外の食い扶持を見つけなければと考えて行き着いたのが、森の中にある重度障害者施設での非正規雇用の仕事である。彼女はそこで、ほとんどただ横たわっているだけの者も含む様々な障害者のお世話をすることになった。

夫の昌平は妻のことを「師匠」と呼んでおり、特に働くでもなく日々創作活動に勤しんでいる。2人は辛い過去を経験しており、夫婦ともまだ当時のことを乗り越えられてはいない。しかし、働くことでどうにか前進しようとしているように見える洋子と比べ、昌平は未だ「過去」に留まっているようにも感じられる。

洋子が働く障害者施設では、作家志望の陽子や、入所者に自作の紙芝居を披露するさとくんと仲良くなった。この2人は良い人そうだが、職員の中には入所者に酷い扱いをする者もいる。しかし、だからといって何が出来るわけでもない。洋子自身はそのような酷い現実の中で、どうにか真っ当な仕事をしようと努力している

洋子は、パソコンには向かうものの、やはり小説が書けないまま日々の仕事に疲弊していく。昌平は、夢を追いながら、どうにか仕事を見つけて働き始めた。陽子は、小説を投稿するもなかなか上手く行かず、さらに家族との関係もままならない状態だ。そしてさとくんは、入所者に暴力を振るっている職員からいじめのような扱いを受けており……

とにかく、役者の怪演が光る作品である。メインの役を演じた宮沢りえ、オダギリジョー、二階堂ふみ、磯村勇斗は、それぞれがその役なりの厳しい状況に置かれており、その日常の「リアル」が強く打ち出されていたのが印象的だった。頭が変になりそうな環境の中でギリギリ理性を保ちながら、どうにか前に進んでいこうとする者たちが抱える葛藤を、役者たちが絶妙に演じていたように思う。

特に、その夫婦関係もメインの物語として描かれる、宮沢りえ・オダギリジョーが演じる役は、単純な理解を拒むような一筋縄ではいかない関係性である。そしてその複雑さを、2人が見事に醸し出していると感じた。2人が抱える過去や、現在進行形で行われる決断などが、障害者施設での現状にオーバーラップしていく構成もとても素晴らしく、全体的にとても良く出来た作品だと思う。

また、一応誰とははっきり書かないことにするが、最終的に障害者を殺傷する役柄を演じた役者の怪演も凄まじかった。まさに「『狂気そのもの』を纏っている」みたいな雰囲気だったと言えるだろう。そして、そんな人物が冷静に放つ言葉には、「真っ向から否定するのは困難である」と感じさせる妙な説得力があり、普通には成立させられないだろうそんな「異常な状況」を成り立たせた演技に驚かされてしまった

なんとも凄まじい作品である。

最後に

繰り返しになるが、私たちは本作が突きつける様々な「問い」から逃れられはしない。究極的には、映画『月』が描き出すのは「私たちの物語」だからだ。

そのような覚悟を抱きつつ、是非観てほしい作品である。

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