【窮屈】日本の生きづらさの元凶は「失敗にツッコむ笑い」。「良し悪し」より「好き嫌い」を語ろう:『一億総ツッコミ時代』(マキタスポーツ)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:マキタスポーツ
¥660 (2021/12/15 07:15時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「ツッコまれないために先手を打ってツッコむ」なんて振る舞いはつまらない
  • 当事者でもないのに「不謹慎だ」と叫ぶ「不謹慎ゾンビ」にはなるな
  • 「好き/嫌い」ではなく「良い/悪い」で語るのはダサい

バラエティ番組の常套句が社会であまりにも当たり前に使われすぎていることが息苦しさの原因だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「ツッコむ」より「ツッコまれる」を目指した方が社会は穏やかになる

「負けないポジション」を確保するために、先制攻撃ばかりしている現代人

さて、本書に書かれている次のような文章を読んで、あなたはどう感じるだろうか

今の日本は、みんながみんな自意識過剰です。
自分のポジショニングを確認していないと不安でしょうがないという人が多いのです。そのうえで「自分はツッコミの立場に立っている」と確認していたい。自分の振る舞いや、周りからどう見られているかを常に気にしている。常に自分自身の振る舞いを厳重に監視しているわけです

要するに、「先にツッコんでしまえば、ツッコまれるようなポジションを回避できる」という行動原理に従っているわけだ。思い当たるという方は多いのではないかと思う。

また、こんな文章もある。

自分はツッコまれないように、つまりボケをやらないように気をつけながら、ツッコミを入れるわけです。ツッコミだけを入れていれば、安全な場所から他人を攻撃できます。そのことで自分の価値を高めようと考えている。

このような振る舞いは、非常に多く散見されると言っていいだろう。何らかの作品に対しても、社会の出来事に対しても、「批評する」というスタンスでしか関わらないという人が目立つ。「批評する」ことで相手を落とし、相対的に自分を高めようとしているのだ。お笑い芸人がやるならば、それは「笑いを生み出すための仕掛け」だが、下手な一般人がやれば「自分の土俵から下りないための言い訳」でしかない

以前、こんな話を聞いたことがある。外国のメチャクチャ強いチェスプレイヤーが、どんな相手とも「ハンデあり」でしか対局しない、というものだ。

もちろん実力がかけ離れている場合、ハンデを与えて対戦するのは自然である。しかし実力が拮抗するかもしれない者とも、絶対にハンデ戦しか受けなかったという。

これについて、仮に負けてしまった場合に、「ハンデがあったから負けたのだ」と言い訳できるようにするためだ、という説明がされていた。彼にとって「ハンデ戦」というのは「自分の土俵から下りないための言い訳」でしかなかった、というわけだ。

このような、「自分の土俵から下りないための言い訳」のための行動は、世の中にあまりに当たり前に広まってしまっているために、それに違和感を抱けない人も多いかもしれない。ここまでこの記事を読んでも、「何がダメなのか分からない」という人もいるのではないだろうか。

しかし著者は、そんな社会に問題意識を抱き、「一億総ツッコミ時代」と名前をつけて、その功罪を分析しようとする。著者は本書で、「そんな社会でいいのか?」と訴えているのだ。

相手の言動を何らかの「枠組み」に当てはめることで笑いを取ろうとする現代の作法

さて、もう少し具体的な話から、「ツッコむ」という行為について考えていこう

本書で分かりやすく提示されているのが、「いま噛んだでしょ?」というツッコミだ。元々はバラエティ番組での笑いのとり方の1つに過ぎなかったはずだが、今では日常生活の中でも当たり前のように使われている。

さてここで、「『噛むこと』は何が悪いのか?」という問いについて考えてみてほしい。「いま噛んだでしょ?」とツッコんで笑いを取ろうとするスタンスには、「噛むこと」は悪い行為であり、そんな行為を的確に指摘した自分は正しい、という考えがあるはずだ。しかし、「噛むこと」の何が悪いのかと冷静に考えてみても説明できないだろうと思う。

それなのに、「『噛むこと=悪いこと』という考えをみんなが共有している」という前提に立って「いま噛んだでしょ?」とツッコんでいる、というわけだ。こう説明されると、非常に不思議な振る舞いに感じられないだろうか?

このように、相手の言動を何らかの「枠組み」に嵌め込んで評価することを、本書の著者は「額縁を当てる」と表現している

この「額縁を当てる」行為は、「矮小化された価値観の元で良し悪しを語る」ものだと捉えられるだろう。額縁を用意し、「自分が用意した額縁は正しい」という盲信の元、相手の言動に「額縁を当て」、その額縁の枠組みの中で「良し悪し」を判断しているというわけだ。

そもそも、「用意された額縁が正しいのかどうか」さえ分からないのに、前述のようなプロセスで「ツッコミ」という行為が行われることで、何故か「額縁は正しい」という無意識的な評価が生まれてしまう。「みんなもこの額縁は正しいって思うよね」という前提が「ツッコミ」という行為に含まれているからだ。

だからこそ、「額縁からはみ出してしまうかもしれない」という恐怖が、社会の「息苦しさ」に繋がってしまうことになる。

ちょっとした失敗は見過ごそう、もう一度やり直そう。そんな空気感はそこにはありません。これはたいへん息苦しい。そんな息苦しさが、バラエティ番組の枠を超え、今や日本の社会全体に蔓延してしまっています

笑いに変えるための手法であった「ツッコミ」は人を簡単に非難するツールとなりました。多くの人は他人にツッコまれることを恐れて、なるべく下手な動きをしないようになり、同調する側にまわるようになったのです。
もともと人と違うことをするのが苦手な日本人がますます萎縮するようになったのは、この「ツッコミ」という攻撃によるものと言えるでしょう。

非常に納得感のある理屈だと思う。こういう空気を乗り越えられるのは、「炎上などものともしないメンタルの人」だけだろう。そしてそういう人たちの周辺で炎上が頻発しているのを目の当たりにして、「やっぱり『額縁』から外れないようにしなければ」という気持ちが倍加されていくことになる。

そりゃあ窮屈な世の中になるよな、と誰もが思うだろう。

「良い/悪い」ではなく「好き/嫌い」で語るべき

多くの人は、何かを「好き」あるいは「嫌い」と表明しているようで、あまりしていません。「嫌い」とは言わずに「ダメ」と言う。「良い/悪い」や「アリ/ナシ」もそう。最近では「これはひどい」なんていう便利な言い方もあります

私は、本書を読むずっと以前から「できるだけ好き/嫌いで語ること」を意識している。時と場合によっては「良い/悪い」で語ることもあるが、「良い/悪い」で語ろうとすると違和感を覚えてしまうことの方が多い。だから本書の著者のスタンスは、非常に共感できる。

私も「好き/嫌い」をはっきり言ったほうがいいんじゃない? と周りの人には言います。「良い/悪い」のようなメタ的な視点はもう効力がないと思うからです。そういう客観的な見方があってもいいのですが、遠くには響かない。それは誰が発言してもいい内容だからです。一方で「神」的視点で物事を見るという傲慢な感覚だけは当事者に残ります。
好き嫌いを表明しましょう。その代わり、なぜ自分がそれを「好き」なのかをよく考えてみることです。逆に「嫌い」なものは、なぜ自分が「嫌い」なのか立ち止まって考えてみるのです。それがポスト現代的な思考の表明の仕方(マナー)だと思うのです。超越的な「アリ/ナシ」はもう古い。

まさにその通りだ。しかしどうも世の中には「良い/悪い」で語りたがる人が多いように思う。「多い」というか、「良い/悪いで語りたがる人は声が大きい」という言い方が正解だろうか。数としてはそこまで多くはないのかもしれないが、そういう人は影響力があったり執念深く自説を主張したりととにかく「声が大きい」ので、世の中で一定の影響力を持ってしまう。

本書で、「不謹慎ゾンビ」と称されている人たちも、まさにそのような存在だろう。「何か不祥事やトラブルなどが起こった時に、『不謹慎なんじゃないか?』と先回りして非難する人」のことだ。本当に、世の中にはこういう人が一定数いる。芸能人の浮気など分かりやすいが、当事者が「不謹慎だ」と声高に主張するならともかく、まったく関係のない赤の他人が「不謹慎だ」と非難して回るのは、私には理解できない。

もちろん、外野のそういう「不謹慎だ」という声に当事者が励まされる、というケースも稀にあるかもしれないが、ほとんどそんなことはないだろう。それに、励ましを与えたいなら、「好き/嫌い」でも効果は同じはずだ。わざわざ「良い/悪い」で判断しなければならない理由はない。だから結局、「不謹慎ゾンビ」たちは、自己満足で「不謹慎だ」と叫んでいるに過ぎないということになる。

「寿司屋では淡白なものから注文すべし」とか「カープファンなら◯◯を知らないなんてモグリだよ」のような「ツッコミ」も、「良い/悪い」で語る好例と言えるだろう。こういう発言をする人たちは、「正しいとされている『額縁』」をただ振り回し、その「額縁」の内側にあるかどうかだけで物事を判断している。本当はそんなことより、「ウニが大好きだから最初からウニを注文する」「野球のルールは知らないけどカープが大好き」という「好き/嫌い」で判断すればいいのに、それができない

何故なら、「好き/嫌い」で判断すると、「そんなのが好きなの?」という「ツッコミ」を回避できないからだ。だから「額縁」を用意し理論武装して、自分はツッコまれないように慎重に振る舞いつつ、誰かにツッコむことで自分の優位性を保とうとする。

クソみたいにつまらん、と私は思う。

私は、可能な限り「好き/嫌い」で物事を判断するようにしている。そう強く意識していないと、「不謹慎ゾンビ」を始めとする「良い/悪い」で判断したがる社会の風潮に巻き込まれてしまうからだ。そうはなりたくない。

「ツッコまれしろ」という考え方

本書には「ツッコまれしろ」という発想が出てくる。

今、求められているのはツッコまれる人、「ツッコまれ“しろ”」がある人だと思います。ツッコまれる遊びの部分を備えている人、ということです

「しろ」は「伸びしろ」などと同じと考えればいい。「余白」みたいなものだ

「ツッコまれしろ」のある人の例として、本書では「その場にいないのに話題に出てくる人」を挙げている。私が芸能人でイメージするとムロツヨシがピッタリくるが、なんとなく伝わるだろうか。その場にいなくても「あの人はいつもあーでさぁ」「前にもあの人こんなことしてた」と話題に出てくる人はいるはずだ。

そういう人は大体「ツッコミ」側ではないだろう。ツッコむこともあるかもしれないが、それよりは、「こんなこともできないのかよ~」「なんでまだそんなことしてるんですか???」みたいな「ツッコまれる余地」がある人の方が、話題の中心になりやすいと思う。

そういう性質を「ツッコまれしろ」と本書では呼んでいる。そして、今の時代そういう立ち位置の人間が少ない、だからこそ価値があるのではないか、と主張するのだ。

私も昔から、「ツッコまれしろ」みたいなスタンスを意識している。私が普段から心がけているのは、「みんなが知ってそうなことをなるべく知らない人でいる」というものだ。これによって「そんなことも知らないのかよ」という「ツッコまれしろ」が生まれると思っている。

私は、本も読むし映画も観るので、「割と知識がある人」という見られ方をされがちだ。だからこそ、誰もが知ってそうな、「世間的にメジャーな情報を知らないでいる」という状態を目指そうとしている。具体的には、できるだけネットを見ない。ネットの情報は、話題になっていればいるほど広まるし、多くの人が知る可能性が高まる。そしてそういう情報をなるべく知らないようにすることで、「ツッコまれしろ」を持てるだろうと考えているのだ。

「みんなが知ってそうなことを知らない」という振る舞いは実際、場を成立させるための重要な要素になることもある

あまり参加する機会はないが、「ネットで知り合った人とリアルで会う」という「オフ会」的なものに何度か参加したことがある。そして私はそういう場面で何度か、「みんな普段からネット上でやり取りをしているから、リアルで会って喋ることがない」みたいな雰囲気を感じた。近況などをみんなネットに書いているから、「この話は前にSNSに書いたし知ってるよなぁ」という牽制をしているように感じたのだ。

そういう中で、私のような「みんなが知ってそうなことを知らない」という人間がいると、「私に色々教える」という会話の流れが生まれることになる。それで「場が成立する」と感じたことは何度かあった。

同じ「ポジションを取る」という振る舞いでも、誰かにツッコんで「かりそめの優位」を得るよりも、ツッコまれるような余白を持って「足りない役割を補う」というスタンスの方が、これからさらに求められていくのではないか、と改めて考えさせられた。

「ベタなこと」をやろう

本書には様々な指摘・提言がなされるのですべてに触れるわけにはいかないが、最後に「ベタなことをちゃんとやろう」という主張を取り上げようと思う。

「いま噛んだでしょ?」と同じように、「それってベタだなぁ」も、「額縁を当てる」行為としてイメージしやすいものだろう。これも同じように、「ベタなことをする」のが何故ダメなのかは説明されないまま、「ベタなことをするのは良くない」という「額縁」がさも正解であるかのように押し付けられる

情報化社会の中で、いつしか刺激のないようなものとして処理されてきたのが「ベタ」です。しかし、それは一般的に流通している「言葉のイメージ」としてたんに形骸化しているだけなのです。
これらを自分に関係のないものとして遠ざけるのではなく、身近なものとして引き寄せて感じてみる。実際に富士山を見れば心を奪われてしまうように、もう一度「ベタ」の意味を問い直してみることも必要なのです。そんなに簡単なことではないかもしれませんが、私はそうした「ベタ」を受け入れていくことをオススメします

本当は、「自分はもうそんなベタなことをするステージにはいない」という自身の優位性を示すために発せられる言葉でしかないにも関わらず、どうしてもそのような言葉に引きずられて、「ベタなことをするのは良くない」と無意識の内に避けてしまいがちになるだろう。

「あいつ、サムいな」
「そこはツッコまないと」
「あ、今、スベりました?」
「ハードル上げないでくださいよ」

バラエティ番組で頻繁に登場するこれらの言葉は、「お笑い」という枠組みの中でのみ機能するはずだったのに、今や日常生活の中に当たり前に組み込まれてしまっている。そしてそれ故に、「ベタなこと」がやりにくく、「好き/嫌い」で物事を語るのが難しくなってしまう

まさにこの「ツッコミ志向」が、今の時代の息苦しさを生み出していると言えるだろう。

ツッコミを止め、ツッコまれしろを持ち、ベタなことをやる。こういう振る舞いが、社会を少しずつ変えていくのかもしれない。

著:マキタスポーツ
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最後に

「お笑いのルール」が社会に染み出したことで窮屈になってしまう構造を分析し、「ツッコミ」ではなく「ボケ」的に生きることをお笑い芸人自らが指南する作品だ。現代社会を非常に鋭く切り取っていると感じられるし、自分の振る舞いを改めるきっかけになる1冊になるのではないかと思う

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