【正義】マイノリティはどう生き、どう扱われるべきかを描く映画。「ルールを守る」だけが正解か?:『パブリック』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:エミリオ・エステベス, 出演:アレック・ボールドウィン, 出演:テイラー・シリング, 出演:クリスチャン・スレイター, 出演:ジェフリー・ライト, 出演:ジェナ・マローン, 出演:マイケル・ケネス・ウィリアムズ, 出演:チェ・“ライムフェスト”・スミス, 監督:エミリオ・エステベス, Writer:エミリオ・エステベス
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 自分がマイノリティにならない保証はあるか?
  • 「無知のヴェール」という思考実験から、理想の社会を考える
  • ルールより正義を重んじるべき時、ルールを破る行動を取れるだろうか?

「ルールは守らなければならない」が大前提だが、「ルールを守っていれば何をしてもいい」わけじゃない

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「闘わなければ権利が手に入らない社会」は間違っていると思う

欧米のような権利闘争は、日本には向かない気がする

私は、ノンフィクション本や実話を元にした映画に触れる機会が多くある。そしてその中には、「奴隷解放運動」や「女性の参政権獲得」など、欧米の人たちが闘いによって個人の権利を少しずつ手にしていった歴史を描くものも多い。

そのような運動は素晴らしいと思うし、先導した人物のエネルギーに羨ましさを感じることもある。迫害されていた者やマイノリティと呼ばれる人たちが、闘いによって平等な機会を手にし、社会を大きく変えていく流れは見事だと思う

しかし、私自身はそういう大きな流れに与したくないと考えてしまう。同じ感覚の日本人は多いのではないだろうか。詳しく論じるには私には知識も経験もないが、日本は長く「村社会」の影響が強く、個人の権利がきちんと意識されるようになったのは本当にごく最近のことだと思う。慣れていないから、「個人の権利を獲得しよう」という動きにどう乗っかればいいのかイマイチよく分からないのだ。

さらに、日本でも「個人の権利」が意識されるようになったとは言っても、現代においても「村社会」の影響はそこまで抜けていないと思っている。それが良いか悪いかはともかくとして(良い場合も悪い場合もあると思っている)、「個人より集団・組織が優先されることで状況が回っていく」という仕組みはたくさんあるし、そういう仕組みの中にいることで、個人の権利を意識するマインドが薄れてしまうこともあるはずだ。

日本人が「個人の権利」を闘いによって獲得していくようになるのはまだまだ先の話になるだろう。もちろんこれまでの日本においても、権利闘争のようなものはあっただろうが、欧米と比べると洗練されていないという気がしてしまう。

個人の権利が強いことが良いことなのかについては、日本通のフランス人による『理不尽な国ニッポン』という本で非常に面白く分析されていたので、是非以下の記事を読んでみてほしい。著者いわくフランスという国は、「個人の権利を主張しすぎるが故に、非常に窮屈な社会になっている」そうだ。

そもそも、マイノリティの権利が保障されることが”当然”の社会になってほしい

私はそもそも、「マイノリティが権利獲得のために闘わなければならない」という事実に疑問を抱いている

もちろん、民主主義社会であれば、基本的には「多数決」の論理で物事が動くことになるし、「多数決」とは即ち、多数派の意見を尊重する仕組みなのだから、マイノリティがないがしろにされるのは構造上当然だと言える

しかし、この仕組みが多数派にとってプラスになるためには、ある大前提が必要となる。それは、「多数派である自分が、社会的弱者になることは”絶対にない”」という大前提だ。多数派にいる自分は未来永劫安泰だ、と思っているのかもしれないが、本当にそう言い切れるだろうか?

まさに私たちは今、そう問われ続ける世の中を生きている。コロナウイルスは、我々の生活を一変させた。もちろんコロナ禍でも大して状況が変わらなかった人や、あるいはそれまで以上に状況が良くなった人もいるだろう。しかし同時に、「勝ち組」(この表現は好きではないが)だと思っていた人が、コロナウイルスの蔓延によって奈落の底に落ちてしまったケースも世の中に多く存在すると思う。

また、私たちの人生に大きな影響を与えうるものは他にもある。最近特に多くなったと感じるが、豪雨による水害・土砂崩れなどが多発している。地震は昔から定期的に起こるし、予知できない以上被害を避けることも難しい。しかし豪雨災害は、近年明らかに増えていると感じるし、ある程度予測できるにも関わらず甚大な被害がもたらされてしまう。

正直、いつどこでどんな出来事によって自分の人生が激変するかは分からない。私たちが生きているのは、そういう社会だ。

人生を振り返ってみて私は、自分がいつホームレスになってもおかしくなかったと感じるし、今後も、自分がホームレスにならない保証などどこにもない、と考えている。

ホームレスは社会的弱者の代表的存在と言っていいだろうが、彼らも好きでホームレスになっているわけではない。実態をよく理解しない人は、「怠け者だ」「努力していないだけだ」などと言いがちだが、頑張ってきたのにちょっとした躓きでホームレスになってしまった人もたくさんいるはずだ

そしてそれは、明日の自分かもしれない。そういう想像力を持たない人間は、考えの浅い人間に感じられてしまう。

そして、自分がいつ社会的弱者になるか分からない世の中に生きているからこそ、多数派こそが社会的弱者の権利のために動く方がいい。利他的に行動するのはなかなか難しいが、「社会的弱者の権利を整備することは、自分のためにもなる」という利己的な行動だと思えれば、動きやすくもなるだろう。

自分が社会的弱者になることをイメージすることは難しいかもしれない。しかし、なってしまってから行動しても、ほとんど何もできないだろう。マイノリティが声を上げて社会を変えるのではなく、マイノリティではない者がマイノリティの権利をきちんと整備することが、より良い社会を生むはずだ

自分で書いていても「理想論だよなぁ」と思うが、私はそんな風に信じている

「無知のヴェール」という思考実験

「自分が社会的弱者になったら」という想像を哲学の思考実験として提示した、ロールズの「無知のヴェール」の話が面白い。

さて、ちょっとこんなことを考えてみてほしい。今あなたは頭に真っ黒なヴェールをかけられており、何も見えない。さらに、自分自身に関するすべての記憶・情報は失われているとしよう。自分が男なのか女なのか、アジア人なのか黒人なのか、大富豪なのかホームレスなのか、何も分からないということだ。

そして、そんなヴェールを被った人たち(自分に関する情報を覚えていない、というのは全員共通している)が、「国のルール(憲法)」を決めるために集まっているとしよう。そこに集まったのは新たな国を建国しようとしている人たちであり、様々な意見を元に話し合いで国のルールを定めようとしている。

さてこの話し合いの場で、あなたならどんなルールを提案するだろうか? という思考実験だ。

この思考実験のポイントは、「国のルールが決まった後でヴェールが取られ、自分が何者か分かる」という点だ。あなたは、「日本人のホームレス」かもしれないし、「エジプト人の大富豪」かもしれない。それは、ルールが決定するまで分からないのだ。

「金持ちを優遇する政策を取ろう」と提案してもいいが、ヴェールを取ったら自分がホームレスだと分かるかもしれない。「奴隷制度を復活させよう」と提案した後で、自分が奴隷だったと判明するかもしれない。さて、あなたならどうする?

ロールズはこの思考実験を通して、「この『無知のヴェール』を被った状態で行う提案こそ、誰もが目指すべき正義ではないか」と主張した。自分がどんな立場であっても不利益を被らないルールを作れば、誰にとっても平等な世の中になるはずだ、と。この思考実験にも批判は存在するようだが、私はとても納得した。現実的にこのやり方でルールを定めることはできないとしても、議論のスタートには立てると感じられたのだ。

改めて、あなたがこの「無知のヴェール」を被っているとして、どんな社会を望むか考えてみてほしい。その社会では恐らく、マイノリティもそこまで辛い境遇に陥らずに済むのではないだろうか。

「理想の社会」に行き着くための「ルール破り」

この映画で描かれるのは、「ルールと正義、どちらを貫くべきか」という問いである。そして私は、「ルールを守っていさえすればいいわけじゃない」という立場を取る。

大前提として、ルールは守るべきだと考えている。価値観のまったく違う者同士が社会の中で生きていく以上やはりルールは必要だし、「ルールを守る」という行動が基本でないならルールの存在価値が無くなるからだ。

しかし、ルールを守っていればいいわけでもない

映画の中では、ホームレスたちが「平和的デモ」と呼ぶ行動が展開される。その行動は、明らかにルールに反していると言っていい。しかし、「ルールが守られないことによる直接の被害者はいない」「ルールを守れば大勢の被害者が出る」という特殊な状況であり、このルール破りは許容されるべきものだと私は考えている

「無知のヴェール」を被って議論して生み出された社会を「理想」とするならば、我々が生きている社会はその「理想」と必ずズレがある。そのズレは是正されるべきだが、様々な事情から一足飛びには改善されない。そして、是正されない状態が続けば、それによって辛く苦しい思いをする人間が必ず出てくる。

そういう場合、ルールを守らないことが許容されてもいい、と私は思っている

というかそもそも、「ルールの第一の存在意義」は「弱者を守ること」にあるはずだと思う。つまり、「弱者を守ること」を実現できていない以上、そのルールには不備があると考えていいだろう。そして、そのような不備のあるルールは、「弱者を守る」という大義名分がある限りにおいては、破られて然るべきだと思っている。

ルールと正義が衝突する場面は、社会の中に多くあるだろう。そして、「ルールを破ったか否か」は判定が容易であるが故に、すぐに批判・炎上の対象になる

しかし重要なのは、「そのルールが破られたことで、どんな不利益が生まれたか」「そのルールが破られなかったら、正義は実現できなかったか」が議論されることだろう。批判・炎上の力が強くなりすぎたことで、このような議論がなかなかまともに行われなくなっている印象を抱いている。

「ルールは守らなければならない」という前提を共有した上で、「今この瞬間は、ルールよりもむしろ正義の方が重要だ」という判断がしやすい世の中であってほしい、と思う。

映画の内容紹介

シンシナティ公共図書館で職員として働くスチュアートは、なかなか大変な日々を過ごしている。本に触れられる時間はほとんどなく、カウンターでの問い合わせやホームレスへの対応に大忙しだ。

カウンターでは、常軌を逸した質問が繰り出される。「ジョージ・ワシントンのカラー写真はどこ?(あるわけない)」「実物大の地球儀ってどこかにない?(あるわけない)」など、ムチャクチャなレファレンスにも対応が求められる。

また公共図書館には、ホームレスもよく集まってくる。特に寒波に襲われる冬は、図書館が命を救う避難場所だ。「開館後は誰でも入れる」が公共図書館の主義なので当然追い出しはしないが、トラブルを起こしたり節度を守らないホームレスには注意が必要だ。

とにかくスチュアートは、日々バタバタとしているのだ。

そんなある日、驚くべき話を聞かされる。なんとスチュアートが同僚と共に訴えられているというのだ。10週間前に、「体臭」を理由にホームレスを追い出したのだが、その件で訴えが起こされているという。和解のために75万ドル支払えと弁護士がやってくる。

こんな風に日々、「個人の権利」と「他の利用者の権利」の調整に苦労させられているのである。

さて、スチュアートに「訴えを起こされているぞ」と告げにきた検察官・デイヴィスは、まさに今市長選に出馬中だ。今のところ一番人気は黒人牧師であり、デイヴィスは側近から、「今投票したら確実に負けます」と告げられるのだが、”何か”が起これば逆転の可能性もある、と彼は考えている。

一方、署長に休暇願いを出しているのは、刑事のビルだ。彼は、行方知れずになっている息子を探したいと考えている。ここ最近の寒波でホームレスの死者が多発しており、息子もその一人になってしまうのではないかと危惧しているのだ。しかし署長は、必ず休暇は出すからもう少し待ってくれ、とビルを説得している。

さて、そんな状況の中、いつものように閉館しようとしたスチュアートに近づいてくるホームレスがいる。スチュアートにとっては馴染みのホームレスだ。彼はスチュアートに、「今日は図書館から出ない。ここを占拠する」と宣言した。今日の寒波で外に出れば死にかねないし、ホームレス用のシェルターも一杯で空きがない。頼むから今日はここに泊めてくれ、というわけだ。

スチュアートは、ホームレスの味方をしてあげたいと、館長の説得を試みる。しかし、タイミングが悪かった。訴えられているスチュアートは今、評議会から解雇の対象に挙がっていると聞かされたのだ。館長としてはスチュアートを手放したくない。だから今は事を荒立てないでくれ、と逆に説得されてしまう。

しかし、そうこうしている内に、ホームレスたちによる”占拠”はなし崩し的に始まってしまう。そこに目をつけたのが、デイヴィスだ。この騒ぎに乗じて支持率を上げようと目論む彼は、「武器を持っているかもしれない精神異常者による立てこもり事件」と、事実とはまったく異なるデタラメをメディアに話してしまい、大騒動になってしまう……。

映画の感想

読んだことがない人には伝わりにくい表現だと思うが、伊坂幸太郎の小説を彷彿とさせる映画だった。些細としか言いようのない出来事がひょんなことから大きな問題へと発展していき、奇妙な偶然によって状況がますます複雑になっていく。そして、現実にはあり得ないと分かっていながらも、どこかで「こんなことが本当に起こってもおかしくはない」と感じさせるような絶妙なリアルさを醸し出しているのである。

伊坂幸太郎的世界観は、登場人物の魅力によっても支えられている。単なる「平和的な立てこもり」のはずが、「占拠の首謀者」扱いされてしまうスチュアートを始めとして、ホームレスのまとめ役、文芸セクションへの異動を希望している同僚、図書館の館長、前日にたまたま仲良くなった隣人などなど、様々な人間の思惑が錯綜することで、物語がハチャメチャになっていく。そしてそのハチャメチャさを、なかなか衝撃的なラストがすべて丸く収める……というかまったく収まっていないのだが、「こうなったらもうしょうがない」と思わせる絶妙なラストであり、最初から最後まで非常に良く出来ていると感じた。

さて、人間味溢れるハチャメチャな行動をする愛すべき人物が多数出てくる一方で、分かりやすく嫌なやつも出てくる。ステレオタイプ的に振る舞う輩である。具体的には、支持率を上げようという動機だけで行動するデイヴィスや、この中継によって顔を売ろうと思っている女性キャスターなどだ。

そしてこの映画では、そういうステレオタイプ的な人物が、徹底的に「ダサいやつ」として描かれる。そのことも痛快さを増す要因になっていることだろう。

特に痛快だったのは、先に挙げた女性キャスターが電話でスチュアートの単独インタビューを行う場面だ。具体的には触れないが、この場面でスチュアートは、女性キャスターの”質問の意図”を理解し、そして表向き女性キャスターの意図通りの返答をしたように思わせつつ、インタビューを聞いている国民にまったく異なるメッセージを伝えることに成功するのだ。女性キャスターの無知さと、図書館員ならではの知性が生んだ、実にしてやったりの場面である。

そして、映画全編で貫かれる「公共図書館としての使命は何か?」という自問が、非常に印象的だった。映画のタイトルは『パブリック』、まさに「公共」である。「誰もが知る権利を行使できる」という「図書館」の存在意義だけではなく、「公共の存在」は一体何をすべきか、どうあるべきかについて、ユーモラスな「平和的デモ」を通じてリアルに考えさせられる。

どんな場面で誰が誰に言うセリフかは書かないが、

私は、市民の情報の自由のために生涯を捧げてきた。あんたらチンピラのために戦場にされてたまるか!

と叫ぶシーンは非常に印象的だったし、「あなたなら同じ場面でどう行動するだろうか」と突きつけられているようにも感じられた。

出演:エミリオ・エステベス, 出演:アレック・ボールドウィン, 出演:テイラー・シリング, 出演:クリスチャン・スレイター, 出演:ジェフリー・ライト, 出演:ジェナ・マローン, 出演:マイケル・ケネス・ウィリアムズ, 出演:チェ・“ライムフェスト”・スミス, Writer:エミリオ・エステベス, 監督:エミリオ・エステベス
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最後に

観客から時々笑い声が上がるような「面白い」映画なのだが、ただ面白いだけではない深みを持つ作品だと感じた。

こういう映画を観る度に、ルールと正義を天秤にかけなければならない時、正義を選び取れる人間でありたい、と思う。

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