【興奮】飲茶氏の超面白い哲学小説。「正義とは?」の意味を問う”3人の女子高生”の主張とは?:『正義の教室 善く生きるための哲学入門』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

ダイヤモンド社
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 哲学的な部分だけではなく、設定・物語・展開どれもが素晴らしい超面白い作品
  • 「直観主義」「功利主義」「自由主義」は本書でどう語られているか?
  • 「正義論」だけではない、様々な哲学的な話題に触れることができる

とにかく面白すぎて一気読みさせられてしまう、飲茶氏の中でも最初の1冊としてオススメの作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

女子高生3人を主人公にした学園小説で楽しく学ぶ「直観主義」「功利主義」「自由主義」

とにかく、メチャクチャ面白い作品だった。飲茶氏の作品はどれも壮絶に面白いが、「読みやすさ」「とっつきやすさ」「日常生活に関係する度合い」など様々な要素を考え合わせるとNo.1と言っていいかもしれない。

飲茶氏の作品なので当然、いわゆる「正義論」と呼ばれている、本書全体を貫くテーマの記述も面白い。しかし決してそれだけではなく、本書は設定・物語・展開も非常に見事だ。そりゃあ本職の小説家の作品と比べれば敵わないかもしれないが、「正義論を分かりやすく伝えつつ、小説としても可能な限り面白くしている」という点でちょっと凄まじい作品だと思う。

マンガ連載のように、章が変わる直前に「えっ!」と驚かされるような展開が毎回用意されていて面白いし、3人の女子高生の描写が「直観主義」「功利主義」「自由主義」を踏まえた上で深堀りされていくので人物像も興味深いものになっている。さらに、この記事では具体的には触れないが、物語のラストが「衝撃的」で「確かにここに着地するしかないよな」と納得感を抱かせるものになっており、その点も見事だと思う。

「哲学」というのはなかなか足を踏み入れるのにハードルを感じる対象だと思うが、その最初の一歩として本書は最適だと思うし、初心者でなくても知的興奮を味わえる素晴らしい作品だ。

物語と登場人物の設定

まず物語の設定を書いていくが、この記事では、この作品における根本を成す「ある設定」については触れない。それは、登場人物たちが通う私立高校が有する「特殊さ」だ。書いてしまっても別にネタバレというほどではないと思うが、それに触れずともこの作品の面白さを説明できると思うので、その「特殊さ」については是非作品を読んで体感してほしい。

それでは内容紹介をしていこう。

主人公は、とある私立高校に通う「山下正義」。彼はまったく望んでいないのに無理やり生徒会長にさせられてしまう。そこで、同じ生徒会に所属する3人の女子と、この学校が抱える重大な問題(これが「特殊さ」である)を含めた様々な議題について話し合うことになった。

この3人の女子高生がそれぞれ、「正義論」における「直観主義」「功利主義」「自由主義」のいずれかを強く主張する存在として描かれる。現実世界でも起こるこの3つの主義の対立が、「高校内の問題を解決する議論」の中にも登場する、という構図になるわけだ。

では3人の女子高生の立場を紹介しよう。

副生徒会長の「徳川倫理」は「直観主義」の立場を取る。これはざっくりと説明すれば、「人間の良心が『善い』と判断するかどうかに従う」という考え方だ。倫理は「学校の良心」と呼ばれるほどの真面目キャラで、イメージに沿って黒髪である。

会計の「最上千幸」は、「功利主義」の立場を取る。千幸は幼い頃から「ハッピーポイント」という言葉を使い、幼馴染である正義に呆れられていたのだが、これは要するに「より多くの人が幸せになる」ことを目指す立場だ。より硬い表現を使えば、「最大多数の幸福」とも言われる。

庶務の「ミユウ(自由)」さんは、「自由主義」の立場を取る。だらっとした服装、だらっとした格好で座っている、生徒会唯一の3年生だ。「自由主義」は「他人に迷惑を掛けなければ自由に何をしてもいい」という立場であり、ミユウさんは「他者から強制されない自由」を人生において何よりも重視している。

ちなみに、山下正義は特定の立場を取る人物ではない

この物語の中で彼ら4人は、生徒会の話し合いをするだけではなく、風祭封悟という倫理の教師の授業も受ける。これまで「正義論」の文脈で「直観主義」「功利主義」「自由主義」がどのように語られてきたのか、あるいは、どこに問題がありどのような対立が存在するのかなどを指摘し、それらを踏まえながら生徒会での議論も行うのだ。

そして、4人が議論をする過程で、彼女たちがどうして「直観主義」「功利主義」「自由主義」の考えを持つに至ったのか、その背景が語られる、という構成になっている。

ただの概念として哲学的な主義主張を語るだけでは見えてこないものが、女子高生たちの過酷な人生を描くことでリアルなものとして立ち上がってくる作品だ。「理屈の上ではこれが正しい」と感じる考えが、現実を目の前にすることで打ち砕かれることもある。そのようにして、「直観主義」「功利主義」「自由主義」のどれもが「これが唯一の正解である」と主張できるものではないと実感でき、その対立の難しさを理解できる構成になっているのだ。

この記事では本書の物語的な部分にはこれ以上触れない。哲学の記述だけではなく物語部分もとても面白いので、是非実際に読んでその面白さを体感してほしい。それでは以降は、本書の哲学部分の記述をざっとさらっていくことにしよう。

「功利主義」について

「功利主義」については先程、「最大多数の幸福」という言葉を紹介した。強者も弱者も関係なく、どんな立場の人もなるべく幸福でいられるようにする、という考え方だ。千幸は「ハッピーポイント」という言葉を使うが、実際に「幸福度」という指標が考えられており、できるだけ多くの人の「幸福度」が最大となるような決断・行動こそが「正義」と考えるのが「功利主義」である。

この主張だけ聞くと、とても良いものに感じられるだろう。より多くの人が幸福になれる、というのだから悪いはずがない。しかしこの「功利主義」を現実世界に当てはめようとすると、やはり問題が生じてしまう

最大のネックになるのが「幸福度をどう測定するのか」である。

例えばこんな生活をする人のことを考えてみてほしい。一般企業で働き、毎日定時に退社、飲みに行ったり遊びに繰り出したりせずまっすぐ家に帰り、Uber Eatsで頼んだものを1人で食べ、休みの日は家から出ずにゲームをして過ごす。

「幸福度」を100点満点とした時、あなたはこのような生活の「幸福度」をどう評価するだろうか

人によっては「なんてつまらない人生」と感じ、「幸福度5点」と考えるかもしれない。しかし、「他人と関わるストレスがなくて素晴らしい」と捉え、「幸福度95点」と判断する人もいるだろう。

このように「幸福度」を客観的な基準で判断することはとても難しい

また、仮定の話として、「客観的に幸福度を測定することが可能な社会」が存在するとしよう。つまり、「功利主義」が目指す「幸福度を最大にする」という目的が実現可能な社会だ。しかしもしそんな社会が存在するとしても、「功利主義」には綻びが生じてしまうのだと本書では指摘する。確かに、「功利主義の考えを突き詰めるとそうならざるを得ない」と感じさせる帰結であり、「幸福度の測定が困難」という問題が解決できればいいというわけではない

現実世界では、「功利主義」は「富の再分配」と関わるケースが多いだろう。裕福な人の税金を高くし、それを貧しい人に社会保障として分配することで、社会全体の幸福度を高めようという政策などだ。しかし、「裕福な人から税金を多く取るのは逆に不平等と言えるのではないか?」という議論が出るのも一方で当然だろう。また、「富の再分配」はそもそも「平等の実現」のために行われるはずだが、しかし「富の再分配」を実現するためには「強権と抑圧」も必要だ。しかし、「そもそも『強権と抑圧』はあまりに『平等』とかけ離れた考えではないか」という指摘もされるのである。

「最大多数の幸福」という考え方は理論としては非常に良いのだが、現実に落とし込むには困難が伴う、というわけだ。

「自由主義」について

「自由主義」については、「他人に迷惑を掛けなければ自由に何をしてもいい」と説明した。「自由主義」の説明はこれに尽きるわけだが、ここからは、本書の中でもかなり興味深かった「自由主義の種類の説明」の話をしていこうと思う。

世の中に存在する主張には、「自由主義」に独自の名前をつけただけのものも多く存在するらしい。つまり、名前こそ違うが、根本的には「自由主義」と大差ない考えが世の中には多数存在するというわけだ。その1つ1つを分類することは困難であり、また、そのことに意味があるわけでもない。そこで本書では、「自由主義」を大きく2つに分類している

それが「弱い自由主義」と「強い自由主義」だ。そしてこの2つは、「『自由』と『幸福』のどちらがより大事か」で分類できる。

「弱い自由主義」は、「自由よりも幸福が大事」という立場だ。つまり、「自由は、幸福を実現するための手段」という捉え方である。これは、「幸福であることが大事」という「功利主義」の考え方とほとんど変わらないため、本書では「弱い自由主義」=「功利主義」と捉え、以後議論には載せない。

よって、本書で詳しく説明されるのは「強い自由主義」の方だ。

こちらは、「幸福よりも自由が大事」という立場を取る。もちろん、「他人に迷惑を掛けない範囲で」という条件は絶対だが、その範囲内であれば幸福よりも自由を追求するというわけだ。

本書には、この考えを表したシンプルな文章がある。

自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、
自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である。

つまり、「強い自由主義」が問いかけるのは、以下のような主張である。

強い自由主義における真の論点は、「愚行権の是非」つまり「人間には自分の意志で不幸になる自由があるか?」ということだ。

分かりやすいのはタバコだろう。タバコは、パッケージにも健康被害に関する警告が載っているように、「健康を害するもの」である。つまり「自分を不幸にする選択」と言っていい。このような行為を「愚行権の行使」と呼ぶわけだが、「強い自由主義」はこの「愚行権の行使」も「自由」とみなすのである。

コロナ禍では、ワクチン接種を巡ってもこの「自由主義」の対立が見られた。特に「自由」を尊重する欧米諸国ではデモにまで発展している。もちろん「ワクチン接種を拒否する人」の中には、「ワクチンそのものを信じていない人」もいるだろう。しかしそうではなく、「ワクチン接種をした方が良いと分かってはいるが、強制するのは正しくないと考える人」もいるはずだ。これこそまさに「強い自由主義的主張」と言える。「ワクチン接種によるプラス効果」を失ってでも、「自由であること」、つまり「強制ではなく自らの自由意志でワクチンを打てること」の方が大事だ、と考えているのである。

ワクチン接種に関して言えば、私もこの「強い自由主義的主張」に賛同してしまう。私自身はワクチンを接種しているが、「ワクチン接種を強制する」という考えはちょっと正しくないように感じられるのだ。すべての事柄に対してそう考えるわけでは決してないが、「愚行権の行使」、つまり「不幸になる自由」を許容する「強い自由主義」の考え方に共感する場面は結構ある

さてこのようにして「弱い自由主義」「強い自由主義」について説明されるわけだが、ここで改めて「自由主義」全体について話を戻すことにしよう。当然だが「自由主義」にも問題がある

その問題点は、「道徳的に良くない言動を止めることができない」という点に集約される。例えば、「入れ墨」。海外では「タトゥー」は一定程度社会で受け入れられているような印象もあるが、日本ではまだまだ「入れ墨」「タトゥー」は「道徳的に許容されないもの」という受け取られることが多いだろう。

しかし「自由主義」、特に「強い自由主義」は「勝手にすれば」と本人に委ねる。法律を冒しているわけでもないし、他人に迷惑を掛けているのでもないのだから、本人次第、というわけだ。

「入れ墨」ぐらいなら影響は小さいかもしれない。しかし、「リストカット」「ネットワークビジネス」「新興宗教」など、法律に触れているわけではないが避けた方がよさそうな物事を、「自由主義」の考えでは排斥できないという点が難しいというわけだ

また「功利主義」の立場からすれば、「自由主義に任せると、一部の人間に富が集中し、格差が広がってしまう」と反発したくなるだろう。しかし「強い自由主義」の考えはまさに弱肉強食そのものであり、弱いものが淘汰されることで強い遺伝子が残ると考える。そして究極的には、「弱者に合わせた社会を作る必要などあるのか?」という議論にまで発展することになるのだ。

私は、「強い自由主義的主張」に賛同することが結構あるのだが、しかし弱肉強食の世界は嫌だと感じる。自由主義」の世の中もなかなかしんどいのだ。

「直観主義」について

「直観主義」の考え方について、「人間の良心が『善い』と判断するかどうかに従う」と紹介した。「正義」は人間の理屈を超えたところに存在するのであり、「良心」に従うことでその「正義」を誰でも理解することができるはず、という信念に基づく立場だ。

例えば本書では、「人を殺してはいけない」という主張に対して、3つの主義がどのような理由付けをするか比較する箇所がある。「功利主義」では「全体の幸福度が下がるからダメ」、「自由主義」では「他人に迷惑を掛けるからダメ」という理由になるわけだが、「直観主義」では「『人を殺してはいけない』なんて当然です」と答えるのだ。「直観主義」にとって「正義」は理屈の外側に存在するものであり、だからこそ理屈で説明できるものではない、という立場を取るのである。

「直観主義」が抱える最大の問題は、「『正義』は本当に理屈の外に存在するのか?」という点だ。もう少し言えば、「誰もが『当然』と感じるような『正義』など本当に存在し得るのか?」ということになる。人種・宗教・貧富の差など、世界に生きる人々が置かれている立場はそれぞれまったく違う。となれば、その立場ごとの「正義」が存在する、あるいは、人々が「直観する正義」が共通のものではない、そんな可能性もあるのではないか。この点をどう考えるかが問題になるわけだ。

この疑問に対して、「無知のヴェール」という思考実験を提示した哲学者ロールズの主張が非常に興味深い。

「無知のヴェール」に関しては、以下の記事で触れた。

ここではざっくり説明しよう。

「無知のヴェール」は、ドラえもんの道具のようなものだと考えればいい。被ると自分に関する情報をすべて忘れてしまうのだ。そしてこの「無知のヴェール」を被った人々が多数集まり、「どのような社会を作るべきか」という議論が行われているとする。

あなたがこの議論の参加者だとして、どのような意見を出すか考えてみてほしい

ここでのポイントは、「議論が終わり、社会のルールが決まってからでないと、参加者は『無知のヴェール』を外せない」ということだ。議論をしている最中は、自分が何者なのか分からない。「無知のヴェール」を取ったら、自分は大金持ちかもしれないし、ホームレスかもしれないし、障害を抱えているかもしれないし、10人の子どもの親かもしれないのである。

このような条件で議論を行えば、自然と以下のような結論に落ち着くと想像できるだろう

「(僕がお金持ちの可能性もあるから)お金持ちが裕福な暮らしをするのは認めてもよいけど、(僕が不遇な人の可能性もあるから)もっとも不幸な人の最低限度の生活は保証してほしい」という考え方に落ち着くわけか。

確かにこのように考えれば、誰もが「正義」と捉えるだろう共通項を見出せると言えるはずだ。

ただしこちらも「功利主義」と同様、現実社会に落とし込むのは難しい。「無知のヴェール」が科学技術によって開発されれば別だが、そうなるとは思えないので、この「思考実験」を根拠として「直観主義」の正しさを主張することも難しい。

やはり「正義」を捉えることは一筋縄ではいかない、というわけだ。

3つの「正義論」を確認した後、本書はどう展開するのか

「功利主義」「自由主義」「直観主義」のどれもが、単独では「正しい」とは言い難いことが確認された後、主人公が熱弁する場面が描かれる。その内容には触れないが、私が本書の中で最も好きだと感じた場面だ。そして熱弁の末に主人公は、

正義は、答えを出したらいけないんだ!

という結論に達するのである。何故そのような考えに至ったのかは是非本書を読んでほしいが、非常に説得力のある主張で納得感させられた

「正義」について思考する機会はそれまでほとんどなかったが、本書を通じて「正義」について考えることで、どこかモヤモヤした気持ちが生まれてしまっていた。結局にっちもさっちもいかないじゃないか、という思いだ。しかしこの場面は、そのモヤモヤを吹き飛ばしてくれる爽快さみたいなものを感じさせてくれたのである。

主人公が主張するように、「正義」とはあらかじめ立場を確定できるようなものではない。そう捉えておくことで、極限状況で決断を迫られた際に、少しは葛藤を抑え込めるのではないかと思う。

それから「構造主義」「ポスト構造主義」に関する話が展開され、その後フーコーの『監獄の誕生』という本の話に行き着く。これもまた非常に興味深い話だった。

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フーコーの発想は、現在の「監視社会」「相互監視社会」の起点を示すものと言える。

かつて犯罪者は、残虐に処刑されるのが当たり前だった。しかしある時点で「監獄」という仕組みが生まれる。そしてフーコーは、犯罪者を収容する「監獄」という仕組みが誕生したことで、「普通の人間」と「普通ではない人間」の区別が明確化されたと指摘し、さらにそれが「正常に生きなければならない」という圧力に繋がっていった、と考えたのだ。そしてその圧力が、「防犯カメラ」という名の「監視カメラ」が多数存在する「監視社会」を生み出すことに繋がっているのである。

つまり、「監獄」こそが現代の「相互監視社会」の遠因になっているというわけだ。

そして、これもまた非常に面白い点なのだが、この「監獄」という発想が実は本書全体の設定に大きく関わっている。読み進めながら、なるほどこの設定が最後にこう繋がっていくのか、という驚きを是非体感してほしいと思う。

そして物語は、ラストへと向かっていく。主人公は、生徒会の議題として常に挙がっていたある問題に対する解決策を提示、そしてその延長線上に「驚愕のラスト」が待ち受けることになるという展開だ。

「正義論」の知的興奮と物語の面白さを、是非両方体感してほしい

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最後に

最後に。「正義論」とは関係ないが、非常に興味深いと感じた話題に触れて終わろう。「直観主義」の流れで語られる、過去2500年の哲学史をどう捉えるか、という話である。

哲学史においてはこれまで、様々な議論の対立が起こった。ざっくり挙げるだけでも、「相対主義VS絶対主義」「原子論VSイデア論」「唯名論VS実在論」「経験主義VS合理主義」など様々である。

しかし著者によれば、これらの対立はすべて同じ形式であり、

善や正義は「枠の外側」にあるのか「枠の内側」にあるのかという論争

にすぎないという。

「直観主義」が「理屈を超えたところに『正義』が存在する」と主張するのと同じように、哲学史における対立を、「それは『枠組み』の外側にあるのか内側にあるのかで揉めている」と捉えるのだ。つまり、「人間に捉えられるものか否か」という議論なのである。これは非常にシンプルで分かりやすいと感じた。

しかしそんな哲学史において、「神殺しのニーチェ」が登場する。ニーチェの主張を非常に簡略化すれば、「『枠の外側』にあるもののことなんか考えているから人間はダメになった」となるそうだ。そして著者いわく、ニーチェのこの主張以降、「善や正義が『枠の外側』にある」という考え方は出ていないという。

このように、普通には捉えがたい哲学史を、シンプルな視点で簡略化してみせてくれる著者の力量は見事だ。

一方本書には、ドストエフスキーの考え方も登場する。それは、「『神』の存在を想定しなければ、物事に『善悪』は生じない」というものだ。「神」とは要するに「枠の外側にあるもの」なのだから、この主張はニーチェと真っ向から反発することになる。

本書を読んでいると、ニーチェとドストエフスキーどちらの考えも納得感のあるもので、やはり哲学というのは一筋縄ではいかないと感じさせられた。

本書ではこのように、「正義論」を主軸としながら様々な話が展開されていく。知的好奇心をバシバシと刺激される良書である

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