【教養】美術を「感じたまま鑑賞する」のは難しい。必要な予備知識をインストールするための1冊:『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』(秋元雄史)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:秋元 雄史
¥1,760 (2021/12/08 06:17時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • なぜ日本人だけが「美術は感性のまま観るもの」と捉えるようになってしまったのか?
  • 「現代アート」は本書の著者でさえ「よくわからない」と感じることがある
  • 「ルネサンス」から「ポップアート」までの西洋美術の流れをざっと追う

本書を読んでから美術展に行けば、それまでとは全然違う美術鑑賞ができるのではないかと思います

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「感性」では美術を鑑賞できない。知識がなければ、いくら見たって分からない

美術の鑑賞に、何故「知識」が必要なのか

私は意識的に、時々美術館に行くようにしている。せっかく東京に住んでいるのだし、やはり「教養」として、美術を知っておくことはなんとなく大事だと思っているからだ。

しかし、観ても大体よく分からない

もちろん、見て「あぁこれは好きだなぁ」と感じるような美術作品に出会うこともある。私にとって非常に印象的だったのは、白髪一雄というアーティストの作品だ。正直、何に凄いと感じたのかまったく説明できないのだが、これまで美術展で観たどの作品よりも衝撃的で、「凄いものを観た」という印象だった。

確かに、そういうことは時々ある。しかしだからと言って、そういう「感性に任せた鑑賞」が正しいというわけではない。著者はこんな風に書いている。

絵画の鑑賞法として、よく「感じたままに感性で観ればいい」という人がいます。もちろん、何の予備知識もなく偶然出合った絵に、心を打たれるような体験をする人もいるでしょうが、多くの場合、何の予備知識もなければ「何を感じて良いかもわからない」状態になるはずです。
そのような事態を避けるためにも予備知識は必須なのです。

こういうことをちゃんと教えてくれる大人にもっと早く出会いたかったものだ

私が面白いと感じたのは、「なぜ日本では、『感性のまま観る』という鑑賞法が定着したのか」の説明である。

「感性のおもむくまま観る」といった鑑賞の仕方は日本特有のもので、日本美術の歴史とも深く関わっています。一般の日本人が西洋美術に触れたのは、明治の文明開化以降のことでした。その頃の西洋美術は、「印象派」全盛の時代でした。印象派の作品は、理屈抜きで純粋に目の娯楽として楽しめます。
神話や古典を基盤とした従来のアカデミスム絵画は、鑑賞するにあたって高度な教養が求められていましたが、印象派の絵を見る際に、専門的な知識・教養はさほど必要ではありません。
多くの人は幸か不幸か、印象派の作品が西洋絵画を代表するものとすり込まれてしまいました。以来「アートは感じたままに観ればいい」となってしまい、本来知識や教養が必要とされるはずの西洋美術に馴染めなくなってしまったようです

なるほど、私たち日本人は、「西洋美術」との出会い方が、少しばかりまずかったようだ。著者の説明は非常に分かりやすいと感じるし、「やはり美術の鑑賞には知識が必要なのだ」という理解にも繋がるだろう。

アメリカでは、「美術は勉強するもの」というのが常識だそうだ。

ニューヨークの社交界では、ニューヨーク近代美術館(以下MoMA)のボードメンバーかどうかが非常に重要視されます。どんなにお金を持っていようが、芸術の話題を出せないようでは、まったくもって話になりません。
つまり、美術鑑賞という行為は、品格のある者に求められる教養である、という共通認識があるのです。
そのため、地位も名誉も資産も勝ち取った初老のセレブリティや富豪たちが、こぞってMoMAの主宰する講習会に参加し、ボードメンバーになるべく勉強するのです

本書に書かれているわけではないが、欧米ではお金持ちになったら寄付をするのが当たり前だ、という話を聞いたことがある。正確には覚えていないが、キリスト教圏では「富を持つことは罪だ」というような発想があるようで、だから寄付文化が根づいているという説明だったと思う。

日本では、「お金を持っていること=偉い・羨ましい」という発想に陥りがちだが、欧米では、美術の教養や寄付行為などがなければ、いくらお金があっても認められないというわけだ。このような「社会的豊かさ」があるのとないのとでは、国全体の文化的資本も大きく変わってくるだろうと感じる。日本でも、教養のない金持ちは評価されない、という風になってほしいものだと思う。

さてで西洋美術館鑑賞のためには、どんなことを学ぶべきなのだろうか。具体的には是非本書を読んでほしいが、著者が挙げているものの1つに「人間の描き方」がある。

西洋において、人間は全知全能の神が自らに似せて創ったものとされます。ですから、人間を徹底的に観察することで、神や宇宙を知ろうと考えました。
(中略)
そのため、キリスト教絵画では、自然を描く風景画は、格が低いものとみなされ、産業革命を経て写実派が登場する以前、西洋では風景画はほとんど描かれてきませんでした。

やはり美術の鑑賞には、キリスト教の素養は不可欠だと言っていいだろう。それもまた、我々日本人が西洋美術を学ぶ上でのハードルだと言える。しかしこの違いは反対に、驚きを与えることにもなったという。

一方、日本では太陽や月、風や雨、動植物も人間もみんな神様です。人間もあくまで自然の一部でした。そうした視点で自然を描いた日本の浮世絵などに19世紀のヨーロッパの画家たちが衝撃を受けたことも、日本と西洋の文化的な違いを知っていれば、理解できることでしょう

東洋人が西洋の美術に触れることは、文化や価値観のギャップを知る機会でもあるし、逆もまた然りというわけである。だからこそ、美術の理解のためには、その前提となる文化や価値観を知っておく必要があるのだ。

「現代アートは分からない」のが当たり前

本書の著者は、東京芸術大学美術館と練馬区立美術館の館長を務める人物だが、そんな人がこんなことを言っている。

よく現代アートを「わからない」という人がいますが、マネやマティス、ピカソやゴッホも当時からすれば今でいう現代アートの扱いでした。彼らも当時は「よくわからない」と批評されたのです。正直にいうと、専門家でも「よくわからない」という状況はよくありますし、それは今も昔も変わりません

まず、こんな風に言ってもらえると、芸術のド素人としては安心できる。専門家でさえ「よくわからない」なら、我々に分かるはずがない

例えば、ピカソは現在でこそ誰もが知るほど有名で高く評価された芸術家だが、

しかし、この時代にピカソと交流していたモンマルトルの仲間たちですら、この作品を初めて観たときは「ピカソは気が狂ったのではないか」と本気で心配したといいます。それほどこの作品は当時の常識からかけ離れていたのです

と本書には書かれている。どの時代でもアートの最先端というのは、最前線を突き抜けた者にしか理解できないということだろう。

また本書には、デュシャンの「泉」という作品についての言及がある。私は、この作品の存在とその評価について知った時は驚愕した。

まず、この「泉」という作品の評価について触れておこう。

2004年に、世界の芸術をリードする500人に「最もインパクトのある現代美術の作品」を5点選んでもらったアンケート調査でも、あのピカソの<アヴィニョンの娘たち>を抑えて1位となりました。多くの人が現代アートの出発点と考えているのが、デュシャンの<泉>なのです

この記述で、どれほど高く評価されているか理解できるだろう。しかしこの「泉」、「美術作品」と言われてピンと来るものでは到底ない。是非ネットで画像検索でもしてみてほしいが、「男性用小便器に偽名でサインを書いたもの」なのだ。

なんだってこんなものが評価されているのだろうか?

当然と言えば当然だが、この「泉」にしても最初から評価されていたわけでは決してない

アンデパンダン展でも実行委員から「こんなものはアートではない」と展示を拒否されています

まあそうだろう。その存在はシンプルに意味が分からない。展示拒否という扱いも仕方ないだろう。

では現在は何故評価されているのか。その理由は、

「ただ一つだけのハンドメイドにこそ価値があり、美こそ善である」といった、美術界の既成概念を打ち破るためでした

という点にある。

そして、何故「泉」が評価されているのかというその理由は、現代アートを捉える際の1つの軸足となる。つまり、「既成概念を打ち破ること」に価値がある、というわけだ。

「泉」の登場以前は、「芸術家が自ら作り上げた美しい一点物」ばかりが評価されていた。「美しい」の価値基準は人それぞれとはいえ、やはり総じて「美しい」と評したくなるようなものが芸術として残ってきたのだろう。

しかしデュシャンの「泉」は、「既製品の男性用小便器」を使うことで「美しいこと」も「一点物であること」も否定した。つまり、美術の価値判断において誰も疑問に思わなかった当然の事柄に、「泉」が疑問を投げかけたというわけだ。

「泉」の価値はこの点にある

<泉>を見た人は「芸術とは何か」を自らに問わざるを得なくなりました

この作品によって、これ以降の芸術家は「デュシャン以降、何が芸術なのか」という問いに応えるような、新たな発想で作品をつくるようになりました。それこそ、デュシャンが現代アートの生みの親とされ、高く評価される理由なのです

まさにこの「泉」も、芸術の理解に知識が必要だと認識させてくれる実例だろう。何も知らなければ、ただの便器でしかない。しかしそこに上述のような知識が加わることで、「現代美術の1位作品」としての価値が立ち上がってくる、というわけだ。

そもそも「現代アート」に触れるべき理由は何か?

しかしそもそも、わざわざ勉強してまで西洋美術や現代アートを理解する必要はあるのだろうか? その理由を本書ではこう書いている。

あなたも今はまだ、これまでに見たこともない現代アートに遭遇したら、違和感を覚えるかもしれません。
しかし、その違和感こそが新たな目が開かれるチャンスでもあるのです。美術鑑賞は、自分がそれまでに知らなかった価値観があることに気づいたり、「むむっ、私はこういうものに対して、こんなふうに考えていたのか」といったことに気づいたりできる絶好の機会なのです。
現代アートを楽しむことは、知的なゲームのようなもの。あふれかえる情報で凝り固まった頭のストレッチにもなります。文脈を把握してみると、自分が今、どういう時代に生きているのかもわかります。
つまり時代が読めるようになるのです。そこにビジネスのヒントも隠されているかもしれません

この記事の流れでは少し唐突かもしれないが、上の引用中に「ビジネスのヒント」などという単語が出てくるのは、本書の冒頭で、

欧米では今、ビジネスシーンでアートが注目されています

と書かれていることにも関係する。本書は、単なる美術鑑賞指南本ではなく、「ビジネスに活かすための教養」という観点からも読める作品に仕上がっているのだ。

アートとビジネスの関係性については、「Soup Stock Tokyo」で知られる「スマイルズ」の遠山正道氏や「ZOZOTOWN」の前澤友作氏の話を引き合いに出しながらこんな風に書かれている。

まだ世の中にないもの、自分自身でも何かわからないものを徐々に言語化して表現していくことが、遠山氏にとってのビジネスだといいます。
実際、テクノロジーの急激な変化で、さまざまな分野がボーダレスとなっている時代に、遠山氏や前澤氏らは、異質なものを結びつけながら新たな価値観を創造して、社会的な成功を収めました。それが創造プロセスとそっくりだというのです

確かにこのように考えれば、「アートを理解すること」と「新たなビジネスを生み出すこと」は表裏一体だと言えるだろう。資産運用的な意味合いもあるだろうが、経営者などは美術作品にお金を使っている印象がある。趣味と実益を兼ねている、ということかもしれない。

本書では、ビジネスとの関わりについての記述はそこまで多くないが、「西洋美術」や「現代アート」を理解することがビジネスに繋がるというスタンスは貫かれている。日本国内に留まり続けるのであればともかく、欧米と何らかの形で関わるのであれば、最低限必要となる知識が詰まっていると言えると思うので、入門書として手にとってみるのがいいだろう。

西洋美術のざっとした流れ

それでは最後に、本書で触れられている「西洋美術の流れ」について、ざっと紹介していこうと思う。

まず、名前はよく知られているだろう「ルネサンス」から変化が始まる。それまで絵画と言えば「宗教画」のことを指していた。しかし、教会の権威が揺らぎ始めたことで、「見る聖書」としての役割を担っていた宗教画に代わって、人間を描く絵画が生まれるようになる。

それから「バロック」が生まれた。この背景には、「宗教画の禁止」がある。教会の権威が失墜しプロテスタントが誕生するのだが、旧約聖書では偶像崇拝が禁じられていることもあり、プロテスタントでは「宗教画」が認められなくなっていくのだ。それによって、フェルメールのような「日常を描く絵」が裕福な市民の邸宅を飾るという変化が起こる。

しかし、急速な近代化によって様々な「陰」が生まれるようにもなっていった。そしてそんな社会変化や人間の戸惑いを描き出すために、より客観的な絵画が誕生する。「写実主義」だ。しかしその「目に見えるものしか描かない」というスタンスがあまりにも強かったため、反動として「印象派」が生まれることになる。

「印象派」は、当時の美術界を牛耳っていた「サロン」に背を向け、独自の表現を目指すようになる。その最大の特徴は「色はモノに固定されているのではなく、光の加減で変わる。だからこそ、光による一瞬の変化を切り取る」というスタンスだ。

このような表現が実現した背景には、「チューブ入りの絵の具」と「写真」という2つの発明が関係している。光の変化を描くためには外で絵を描く必要があり、「チューブ入りの絵の具」はそれを可能にした。また「写真」が登場したことで、それまで勢力を誇っていた「写実的に描く肖像画家」が仕事を失い、衰退していったことも影響している。

「印象派」と言えばセザンヌだが、セザンヌの存在は後の美術界に大きな影響を及ぼした

まずセザンヌは「現代アートの父」と呼ばれているという。それは、

絵画は、現実に存在している物体の模倣ではなく、それ自体で本物の価値に匹敵する一つの創造物

絵画は堅固で自立的な再構築物であるべきだ

という彼の考え方が、その後のアートの主流として受け入れられるようになっていったからだ。

またセザンヌは、ピカソのものとして有名な「キュビズム」に繋がる手法を試みてもいる。既に「多視点で捉えた構図を画面内で再構築する」という、まさに「キュビズム」として花開くことになる手法を実践しているのだそうだ。なかなか凄い人物である。

さてその後「フォービズム」という時代がやってくるが、ここにもセザンヌの影がある。「フォービズム」とは「色」の革命なのだが、そもそも彼が

絵画とは「色と形」の芸術である

という新解釈を探求し続けたことで、20世紀の画家たちは「色」と「形」の表現を突き詰めることになったのだ。

「フォービズム」という、現実の色を描くのではなく色によって感情を描き出すという手法を取り入れたことで、

「どんな色で対象物を描いても構わない」という自由を与えたことは、20世紀の絵画史で最大の革命といえます

と著者が評価するほどの進化をもたらすこととなった。

さて、もう一方の「形」の革命はと言うと、前述した「キュビズム」である。セザンヌが試した「多視点」をさらに突き詰めることで、ピカソが新たな領域を切り開くことになったというわけだ。

さて「フォービズム」と「キュビズム」によって、「色」と「形」の革命は起こった。次はどのような展開を見せるのだろうか?

すでにフォービスムにおいてはリアルな感情を反映した絵画になり、キュビズムにおいては絵画を見る視点も自由になりました。また、ともに対象物をリアルに表現することをすでに放棄しています。それを突き詰めていった先にあるのが抽象画です

「フォービズム」「キュビズム」という、元の対象物を「再現」しないスタンスが探求されたことで、さらにそれを推し進めた「抽象画」が現れることになったというわけだ。そしてその究極として、デュシャンの「泉」に代表される「ダダイズム」が登場する。先ほど説明した通り、既成概念を打ち破る、という思想を強く持った芸術活動だ。

そして本書で最後に辿りつくのは「ポップアート」である。ポップアートを代表するアンディ・ウォーホルについて著者はこんな風に書いている。

そうした批判の声にウォーホルは、こう反論しました。
「人が美術作品として買うなら、それは美術作品だ」
つまり芸術かどうかは、鑑賞する側が決めることだと彼は言うのです。デュシャンは既存の芸術を否定しましたが、ウォーホルは、芸術品とそうでないものの境界を破壊してしまいました。そもそもアートとは何なのか、ウォーホルはこの作品でデュシャン同様、私たちに問いを投げかけたのです

このような流れを知ることで、捉えがたい「芸術作品」を理解する手助けになるだろう

著:秋元 雄史
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最後に

どんなものにも、それが生まれた背景や経緯がある。どれほど「意味不明」「理解不能」に思える現代アートであっても、正しい知識と豊富な経験によって、その作品が何故創作されるに至ったのか理解できるようになるだろう。

それこそが「美術の鑑賞」の本質なのだろうし、そのためにはどうしても「知識」が必要になる、というわけだ。

感覚的に捉えて衝撃を受ける、という体験ももちろん良いが、それでは読み解けない作品もたくさんある。本書を入門書として、正しい知識を持って美術の鑑賞をしてみてはいかがだろうか?

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