【自由】詩人が語る詩の読み方。「作者の言いたいこと」は無視。「分からないけど格好いい」で十分:『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「詩は分からないからこそ価値がある」と著者は断言する

犀川後藤

詩をどう解釈してもいいし、分からなければ分からないまま受け取っておけばいい

この記事の3つの要点

  • 「解釈に正解がある」という国語の授業のスタンスは、読書嫌いの要因の1つではないかとさえ感じている
  • 「『作者の伝えたかったこと』などない」と言ってくれる安心感
  • 「種」を見て「この花は嫌い」と断言するようなスタンスは好きになれない
犀川後藤

「好き」「嫌い」だけではなく「分からない」というフォルダも用意しておくと、物事の捉え方がより自由になる

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

国語の授業が大嫌いだった私をホッとさせてくれた、「好きに解釈すればいい」という詩人の主張

子どもの頃、国語の授業が嫌いで仕方なかった

私は小学生の頃から本を読んでいたし、本を読むことそのものは今でもとても好きです。その一方で、国語の授業に対しては、それこそ小学生ぐらいから嫌悪感しか抱けませんでした

その最大の理由は、「言葉・文章・段落などの『解釈』を決めつけられること」です。子どもの頃から私は、この点に尋常ではなく苛立ちを覚えてしまいました。今でもその感覚は変わりません。

犀川後藤

国語の授業のせいで「本を読むこと」が嫌いになる人って、間違いなくいると思う

いか

「評価をつけなければならない」という制約があるとすれば仕方ないけど、それにしても異常だと思う

私が国語の授業から受け取ったメッセージは、以下の1点のみです。

「物語や評論の解釈」には「正解」が存在し、その「正解」に辿り着けない人間は「国語力がない」と判断される

なんて恐ろしい主張なのだろう、と感じさせられます。

もちろん世の中には、「書いた人間の意図通りに受け取ることが必要な文章」も存在するでしょう。分かりやすい例としては説明書や契約書などです。解釈の余地が存在すべきではないし、ある一定範囲内の受け取り方が「正解」だと断言できるでしょう。そのような「解釈に正解が存在する文章」もあると私はもちろん理解しています。

しかし当然ですが、そんな文章ばかりではありません。その最たる例が「小説」です。小説は、作者が何をどう考えて執筆したかに関係なく、読者が自由に解釈し受け取ればいい、と私は考えています。基本的には多くの人がこの意見に賛同してくれるのではないでしょうか。

しかし国語の授業では、小説であっても「解釈の正解」が存在し、その範囲内の受け取り方をしなければ「間違っている」という烙印を押されてしまいます

マジで意味が分かりませんでした

犀川後藤

本当に、今思い出してもイライラしてしまうくらい理解不能

いか

色んな要因があるとはいえ、「そりゃあ読書離れも起こるでしょう」って感じるよね

私は詳しく知りませんが、国語の授業や試験にもちゃんと何か教育的な目的があり、教師はその目的達成のために努力しているのだとは思います。しかし、本来的な目的がどうあれ、私が国語の授業から感じたような「正解の解釈以外は不正解」という感覚を抱いてしまう人はいるだろうし、そう感じれば感じるほど「読書」という行為から遠ざかってしまうでしょう。

しかしそれ以上に恐ろしいと感じるのは、「正解の解釈以外は不正解」と捉えることで、物事を多角的に見れなくなってしまうことです。今は「多様性」が重視される時代ですが、「多様性」を理解するためには、「世の中には、同じ物事でも様々な捉え方をする人がいる」という事実を知っている必要があります。しかし国語の授業は、そのような理解を遠ざけてしまうのではないか、と私は感じるのです。

私が学生だったのは20年以上も前のことであり、以前とは国語も変わっているかもしれません。しかし、「試験を行い、評価する」という大前提が存在する以上、根底の部分は大きく変わってはいないでしょう。

国語の授業が好きだったという方には申し訳ありませんが、私には「害」にしか感じられなかった国語の授業は、一刻も早く変わるべきだと感じます。

詩人である著者の主張の根幹

本書で著者はこんな風に書いています。

もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書のなかだ。はじめての体験、あたらしい魅力、感じ取るべきことが身のまわりにみちあふれ、詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、それが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。それがおわれば理解度をテストされる。
こんな出会いで詩が好きになるわけないな、と思う。こどもの大好きなマンガだって、こんなこちこちのやり方でテクニックを解説され、「解釈」をさだめられ、学期末のテストで「作者の伝えたかったこと」を書かされたら、みんなうんざりするにちがいない。詩を読む時の心理的ハードルは、こうして高くなるのだ。
人がなにかを突然好きになり、その魅力にひきずりこまれるとき、その対象の「意味」や「価値」を考えたりはしないものである。意味などわからないまま、ただもう格好いい、かわいい、おもしろい、目がはなせない、と思うのがあたりまえである。
詩とはそのように出会ってほしい。

この文章を読んで私は、「同じようなことを考えている人がいて救われた」と感じました。

私は長いこと書店で働いていたこともあり、本を読む人と関わる機会が多くありました。しかし、そういう人たちにこの「国語の授業への嫌悪感」を伝えても、正直、あまり理解してもらえた経験がありません。私にとっては不思議で仕方ありませんでしたが、多くの人は私が感じたような「嫌悪感」を抱いていないようなのです。

だからこそ本書を読んで、ホッとさせられました同じように考えている人がいる、しかも「詩人」という、まさに創作を行う側の人から発信されたということが、凄く嬉しかったのです。

犀川後藤

ホントに、子どもの頃にこんな風に言ってくれる大人に出会いたかったなぁって思う

いか

そうすればまだ、「国語の授業は、『無意味だが仕方ないもの』として受け入れよう」ぐらいには思えてたかもしれないしね

本書は全体的に「詩」に関する内容ですが、著者のこのようなスタンスは決して「詩」だけに言及されるものではないと理解できるでしょう。音楽・マンガ・絵画などなんでもいいですが、「解釈の余地が多様に存在するもの」は世の中に溢れています。しかし一方で、国語の授業のような「解釈を制約する主張」はどんな領域においても存在するでしょう。

「◯◯を観てないなんて映画を語る資格ない」「あのマンガは聖書を下敷きにしてるから、聖書を理解しないと正しく評価できない」「あの曲はライブで映えるから、ライブ会場で聞かないと本当にはその良さが分からない」など、世の中には物事の評価に対してあれこれ言いたい人が山ほど存在します。しかし、はっきり言ってそんなことはどうでもいいはずです。

もちろん、批評家として仕事をするのであれば、そのような観点も必要だとは思います。ただ、普通の人が個人的に楽しむ分には、「好き!」「面白い!」「ワクワクする!」「なんか凄い!」という感覚の方が大事なはずです

本書はそんな、当たり前だけど忘れがちなスタンスについて思い出させてくれる作品だと言えるでしょう。

教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。
そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこころのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく解読することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた。

本当に、私がずっと感じていたことを問題視してくれる作品で、嬉しくなってしまいました。

「作者の伝えたいこと」を「解釈」する必要なんてない

現代詩は、世の中にすでに存在していてみんながよく知っている「もの」や「こと」を、わざわざことば数をふやし、凝った言い方で表現しようとするものではない。まして人生訓をふくんだ寓話のようなものではない。
そのように詩を読むことは、詩のもっている力のほとんどの部分を使わず捨ててしまうようなもったいない読み方だと思った。

犀川後藤

こんな風に言ってくれると、詩を読むハードルが下がっていいよね

いか

詩を読んでも大体「よく分かんない」で終わるけど、とりあえずはそれで問題ないってことだからね

この文章は、「解釈」という行為の矛盾について言及しているように私には感じられます。そもそも文章を「解釈する」必要などあるのでしょうか

契約書や説明書などの文章は、基本的には誰かがさらなる解釈をしてあげる必要はありません。もちろん、契約書や説明書の文章は堅苦しい言葉で書いてあることが多いので、補助の説明が必要になるかもしれませんが、それは「解釈」ではないでしょう。契約書などは、解釈の余地が残っている方が誤りであり、だからこそ「解釈」という行為は不要と言います。

一方詩はどうでしょうか? 恐らく一般的には、「普通に読んでもよく分からないから『解釈』が必要」と考えられていると思います。そしてそのような考えのもと、「作者の言いたいこと」を読み解き、その詩がどんな主張をしているのかを”正しく”捉えることが大事だ、と国語の授業で示されるわけです。

しかしそのような「解釈が必要とされる作品」こそ、「解釈」しない方がいいのではないでしょうか。著者もこんな風に書いています。

「解釈」ということを、いったん忘れてみてはどうだろう。
詩を読んでそのよさを味わえるということは、解釈や価値判断ができるということではない。もちろん、高度な「読み」の技術を身につけたらそれはそれはすてきなことだが、みんながみんなそんな専門的な読者である必要はないはずだ。もっと素朴に一字一句ありさまをじっとながめて、気にいったところをくりかえし読めばいいと思う。わたしはふだん自分のたのしみのために詩を読むときは、そのように読んでいる。

著者が言うように、「高度に読めればより素晴らしい」のでしょうが、そんな読みができなくても別に問題はないわけです。だからこそ著者は、

「作者の伝えたかったこと」なんて、ここにはないのだ!
なくていいのだ!

とさえ叫びます。まさに「作者(詩人)」である人物からこんな発言が出てきたので、とてもホッとさせられました

それではどんな風に読めばいいのでしょうか。著者の主張を要約すれば、「どうぞお好きなように」となるでしょう。

そういうちょっとした魅力のとっかかりは、無数にある。それはあくまでも「自分にとって」魅力があればいいので、誰にも賛同してもらえなくても、自分だけが発見したその魅力点について考えつめているうちに、もっと普遍的な「読み」に合流していく可能性がひらけている(もちろん合流しなくたっていい。これまでのどんな説ともちがう斬新な読みをうちたてて人を説得できたら最高だ。渾身の「読み」は、ときに詩を書いた本人による解釈をも更新する)

自分にとって魅力があればいい」と言われて、思い出した作品があります。

私は一時期、短歌にハマっていました。ただそれは、自分で作るのが楽しかっただけで、正直、誰かの短歌を読んでも「あんまり良く分からないな」と感じることが多かったのです。短歌の素養ゼロの状態から適当に作り始めただけなので、「短歌を”正しく”理解する」だけの知識が無かったということでしょう。

しかしそんな私でも、一読して衝撃を受けた作品があります。それが、

問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい

https://kyoudai-tanka.com/review/127

です。この短歌をツイッターか何かで目にした瞬間、「うわっ! 凄っ!」と感じたことを覚えています。

いか

「京大短歌」に掲載されたものみたいだね

犀川後藤

どうやらツイッターでバズったみたいで、だから私も知ってるんだと思う

ただ正直、この短歌のどこに衝撃を受けたのか、まったく説明できません。私は理系の人間なので、数学の試験問題風のスタイルや「微分」という単語、物理の試験問題にありがちな「◯◯は無視してもよい」という定型文に反応したということはあるでしょう。それら、非常に理系的な要素が、短歌という非常に文系的な要素にとても収まりよく並んでいて面白いし、さらに口に出して読んでも気持ちいいと感じもします。

ただし、「分析して解釈しろ」と言われても、これ以上は無理です。作者の言いたいことも分からないし、批評もできません。

でも、やっぱり何回触れても、この作品は「好きだ!」となってしまうし、未だにパッと思い出せる短歌はこれしかないほど、強く印象に残った作品です

また私は、全然詳しくないのに美術展に足を運ぶようにしているのですが、白髪一雄という抽象画家の作品に衝撃を受けたことも思い出します。どんな作品なのかは、以下のリンク先からご覧ください。

私は仕事や趣味で、芸術や創作に関わっているわけでもなく、美術や音楽などをきちんと学んだこともありません。ただなんとなく「触れておいた方がいいかな」という程度の気持ちで美術館に行っています。好きなアーティストがいるというわけでもなく、なんとなく気になった美術展に足を運んでいるだけです。

そして大体毎回、「よく分からないなぁ」か「確かに凄いなぁ」ぐらいのざっくりした感想を抱いて帰ってくることになります。

白髪一雄にしても事前にその名前を知っていたわけではなく、もちろんどんな作風なのかも知りませんでしたが、作品を観て衝撃を受けました。「うわっ、凄っ!」という感覚を終始抱かされたのです。美術展でこんな感覚になることはほとんどないので、衝撃を受けている自分にも驚きました。

しかも、何に凄さを感じているのかを自分では理解も説明もまったくできないのです。芸術作品を観て「凄っ!」と感じる場合、言語化はできないにしても、どういうポイントに自分が反応したのかぐらい何となく分かることが多いのですが、白髪一雄に関しては、何に凄さを感じているのか、自分でも皆目見当がつきませんでした。それなのに、今でも機会があれば観たいと感じるほど印象に残っています

犀川後藤

写真撮影OKだったから、後日飲みの席でその写真を知り合いに見せたけど、「何が凄いのか分かんない」って言われたのも覚えてる

いか

会場で迫力あるサイズで観るとまた違うってのもあるだろうしね

私が素養もないのに美術展に足を運んでしまうのは、まさにこのような経験をしたことがあるからです。自分自身で理解も説明もできないけれど、どうしても惹きつけられてしまうものが世の中に存在する、と実感できたことは、私にとっては非常に重要なことでした。今でも、白髪一雄の作品を観た時のような衝撃を味わいたくて、色んな美術展に足を運んでいる気がします。

「分からないからいい」と思えるようになることが大事

著者は詩人だと自己紹介すると、決まって「詩のことはよく分かりません」と言われるといいます。

詩人ですと名のり初対面のあいさつをして名刺を交換して、そしてかけられる第一声が「わたしは詩はよくわかりません」。そういうことが、しばしばある。文芸雑誌の編集者にすら、そう言われたことが何度もある。そのことばは、オマエハヨソモノダと言っているようにきこえる。
それを言う人は、べつに悪意で言っているわけではないのだ。彼らの言いたいことはなんとなくわかる。
あなたの仕事が詩を書くことならば、それについてなにか言ってあげたいけれど、日ごろ詩や詩人は「遠巻きに見ている」程度なので、自分のなかに評価基準がない。たまさか一篇の詩を読んでみたところで、なんとなく好きだとかおもしろくないとか、幼児の感想みたいなことしか言えないと思うし、それは自分の知性を疑われそうでいやだ。だから、詩はよく知らない、自分の守備範囲ではないということで押しとおしてしまいたい。
たぶん彼らはそうやって身をまもっているだけなのだ。

私も昔は同じようなタイプだったと思います。何かを知らないこと、何かができないことを「恥ずかしい」と感じていたし、「こんなことも分からない/できないなんてダメだ」という烙印が押されることを怖がっていました。

しかしこれは、まさに国語の授業の呪縛というか、「正しく解釈できなければダメ」という思い込みによるものでしょう

わからないことをうけとめて肯定すればいいのに、「作者の感情なり意見なりがかならず詩のなかにかくされていて、それを発見するのがゴールだ」という考え方にとらわれていると、わからないことがゆるせない。 そういう気持ちでこの詩を読むと、「正解に到達できないのは自分の読解力がないからだ」という劣等感か、その裏返しである「こんなわかりにくい書き方をした詩人が悪い」というさかうらみにしか行き着けない。

私は、「問十二~」の短歌や白髪一雄の作品に触れたことで、「何に良さを感じているのかまったく理解できないが、とにかく好きだと感じられるもの」があるのだと理解できたし、だからこそ「よく分かんないけど好きなんだ」と主張することに抵抗がありません。しかし中には、「お前には語る資格なんかない」系の意見にさらされることが怖くて、あるいは、「理解できない自分はダメなんだ」という思い込みが強くて、自分の心をグッと掴むものに出会い損ねているなんて人も多いのではないかと感じています。

詩人である著者は、「詩は分からないからいいのだ」と主張します。

試験問題をつくったときに万人の納得する「正解」を用意できるように選ばれた詩は、われわれに迷子になる自由をあたえてくれはしないし、「正解」が用意されているのにそれを見つけそこなったとき、われわれは自分自身に落第点をつけ、その科目に自分は向いていないと思い込んでしまう。
このわなに落ちこまず、わからないことを否定的にとらえないですんだ人は幸運である。わたしも幸運だったひとりだ。

すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。そして国語教科書の詩の単元は、この権利をわたしからうばうものだった。「わからない状態のたいせつさ」という考えは、このころに芽ばえ、いつのまにかわたしの生涯のテーマになったように思う。

迷子になる自由」「わからないでいる権利」という言葉は、凄く素敵で大事な概念だと感じました。現代ではますます、これらの自由・権利を獲得することは難しくなったと言えるでしょう。

ちょっと話はズレるかもしれませんが、私はそれが何であれ、先に「評価」を調べないようにしています。今の時代、飲食店でも本でも映画でも何でも、様々な人の評価が星の数で表示されるサービスが多数存在しており、皆当たり前のように、「評価を確認してから経験する」という行動を取っているでしょう。

でも私は、可能な限りそうしないように意識しています。もちろん私も、人生の中でほとんど経験する機会がないこと、つまり「家を買う」「結婚する」「子どもが生まれる」みたいな出来事に直面することがあれば、何らかの評価に頼るかもしれません。しかし、日常的に触れる機会があるものについては、それが可能な状況なら評価を先に見ないようにしています

評価を先に知ろうとすれば、「失敗する自由」が失われてしまうと考えているからです。

私は、「自分にとってダメなもの、良くないと感じられるもの」に出会い、「それを受け入れられない理由は何か」を考えることで、より一層「自分が良いと感じるものの良さ」が理解できると考えています。良いと感じるもの”だけ”に触れていたら、自分がなぜそれを良いと感じるのかを上手く捉えきれないだろうと感じているのです。

犀川後藤

だから、「つまらなかった」と感じた場合には、どうしてそれをつまらないと感じたのか考えるようにしてる

いか

そうすることで、「自分はどういうものを好きなのか」ってよりはっきり理解できたりするしね

「迷子になる自由」や「わからないでいる権利」は、「良い悪いを判断する」以外の選択肢だと言っていいでしょう。

「分からない」という選択肢を用意しておかないと、物事の判断が「良い」か「悪い」かの2択になってしまいます。そして恐らく、「分からない」と感じた時点で自動的に「悪い」のフォルダに振り分けられてしまうでしょう。

しかし本来的には、「分からない」と「悪い」はまったくの別物です。ただ単に「分からない」というフォルダを用意してあげればいいだけのはずなのに、様々な要因からそれができない人が多いのだと思います。

わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩はなぞの種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。

「分からない」というフォルダに入れたものは、「種」のようなものというわけです。しかも、すぐに芽が出るかも分かりません。「分からないもの」を「悪い」と判断してしまうのは、「種」だけを見て「この花は嫌い」と言っているようなものでしょう。専門家なら「種」だけを見てどんな花を咲かせるか分かるのでしょうが、大体の人は専門家ではないし、だからこそ「種」のまま内側に取り込んでおくという姿勢が大事になるわけです。

いま人間にできることは、謙虚になれるきっかけとしての詩に接することだ。
理解しようとしてどうしても理解しきれない余白、説明しようとしてどうしても説明しきれない余白の存在を認めること。
そのとき、自分の思いえがく「自分像」は、かぎりなく白紙に近づく。閉ざされていた自分がひらかれる。いまの自分がまだ気づくことのできない美しい法則が、世界のどこかにかくされてあることを意識するようになる。
詩に役割があるとしたら、それだけでいいのだと思う。

説明しようとしてどうしても説明しきれない余白」というのは私にも分かる気がしました。このブログで書いている文章もそうですが、私は普段から自分が考えていること、感じていることを日々言語化しています。そして言語化することの最大のポイントは、「自分の内側にある『言語化できないもの』を見つけること」だと思っているのです。

言語化できた事柄というのは「残骸」でしかありません。むしろ、言語化しようとしてしきれなかった自分の感覚の方が大事でしょう。そしてそれに気づくために日々こうやって文章を書いている、というのが、「私が文章を書いている理由」として一番しっくりくる説明です。

「何を分かっていないのか」を知ることはとても難しいでしょう。でも、詩のような「分からないもの」と出会ったり、私のような意識で文章を書いたりすることで、その一端に触れると著者は示唆してくれるのです。

「分からない」という状態の価値を再認識させてくれる作品でした

最後に

この記事では、「解釈などしなくていい」「分からないものは分からないままでいい」という部分だけをクローズアップして取り上げましたが、本書にはそれだけではなく、「日本語の特殊さや、それが日本語詩に与える影響」「著者による詩の感想」など、詩そのものについても様々に触れられます。

しかし決して、「よくある詩の紹介書」ではありません

この本は、これまでに書かれた詩の紹介書とは性質がちがう。
引用した詩の解読をめざしていない。その詩を、大きな詩の潮流のどこかに位置づけることもめざしていない(だから、現代詩の「これまでのあらすじ」を知りたい人は、べつの本をさがしてください)。
ここには、そもそもわたし自身がよくわかっていない詩ばかりを引用した。わかったと思う部分については気をよくしておおいに書いたが、来年の自分がおなじように読むかどうかはわからない。これはあくまでも中間報告だ。
むしろ、わからなかったこと、読み取れなかったこと、読みまちがえたことを書きおとさないように、自分の人生のおりおりに詩がどうかかわってきたかを書いた。

本書は「今の自分には理解不能なものといかに関わるか」という非常に広い視野を持たせてくれる作品であり、評価や共感が優先されてしまう現代だからこそ一層重要性が増すのではないかと感じました。

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