【実話】正論を振りかざす人が”強い”社会は窮屈だ。『すばらしき世界』が描く「正解の曖昧さ」

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:役所広司, 出演:仲野太賀, 出演:六角精児, 出演:北村有起哉, 出演:白竜, 出演:キムラ緑子, 出演:長澤まさみ, 出演:安田成美, 出演:梶芽衣子, 出演:橋爪功, 監督:西川美和, プロデュース:西川朝子, プロデュース:伊藤太一, プロデュース:北原栄治, Writer:西川美和
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 「間違い」や「不正解」はどんどん受け入れられなくなっていく
  • 正論を言い合っている世の中は窮屈でしかない
  • レールから外れないようにしているだけの人生に、幸福はない

「善100」か「悪100」の2択しかない社会は辛いし、「ダメなこと」がもっと曖昧に許容されてほしいと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

正論ばかりがまかり通る世の中は窮屈だ

正解以外はすべて認められない世の中

ここ最近、ずっとこのことを考えている。正解以外はすべて認められなくなってしまったなぁ、と。嫌な世の中だ。

私はもっと、「不正解」とか「間違い」が許容されてもいいと思っている。世の中の全員が良い人でいなきゃいけないとは思わないし、「迷惑だなぁ」と感じる人がいたってまあしょうがない。

もちろん、「悪意を持って他人に危害を加える」とか「他人に対して多大な迷惑となっているのに自覚がない」など、さすがにそれは止めてほしいというタイプの人もいるし、すべての「不正解」「間違い」を許容できるわけではないが、それにしても、「正解」以外が認められない世の中だと感じる

理由はたぶん、SNSだと思う

誰でも発信者になれることは素晴らしい。しかし一方で、SNSを使えば使うほど「炎上」に対する恐怖は増すだろう(敢えて炎上に飛び込んでいく輩は除く)。となれば、「どうしたら炎上を回避できるか」という発想になりがちだし、そうなると「正論を言うのが一番楽」という結論になってしまう。

また、他人の非をあげつらって優越感を得ようとする者も、SNSには多くいるだろう。そういう者たちが徒党を組み、自分たちに正義があると勘違いして誰かを追い込み、自分がまるで社会のために良いことをしたかのような感覚を得るのだと思う(偏見かもしれないが)。そういう者たちは当然、「誰も否定できないような正論で相手を追い詰める」のが得意だろうし、これまた正論がはびこる要因と言える。

だから、SNSが悪いのだと私は思っている。

恐らくほとんどの人が、望んで正論を口にしているわけではないはずだ。そしてトラブルに巻き込まれないようにするために、「正論の範疇に収まる安全なこと」しか言えなくなっていることに皆、嫌気が指しているだろうと思う。

つまり、言う側も言われる側もほとんど誰も望んでいない「正論」が、こんな風に力を持つ時代になってしまっているということだ。

正論ばかりの社会は窮屈でしかない

正論が強い世の中は、息苦しくなっていく

私はよく、「◯◯ハラスメント」という言葉について考える。私はほとんどの場合、この言葉が嫌いだ。

私の理解では、「◯◯ハラスメント」という言葉は、「男女」や「立場の違い」など、「何らかの形で格差が存在する者同士」にしか使えないと考えている。「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」など、「◯◯ハラスメント」という言葉は当初、そういう意味で使われていたはずだ。

しかし次第に「ハラスメント」という言葉は、使用領域が広がっていく。「キメハラ(「鬼滅の刃」ハラスメント)」や「マヨハラ(マヨネーズハラスメント)」などのように使われるようになった。しかしこれらは、私の定義にはそぐわない。なぜなら、「何らかの形で格差が存在する者同士」の間に発生するものではないからだ。

私の印象では、ほとんどの「◯◯ハラスメント」は、「『私はそれが嫌です』と言いにくいだけ」の話だ。セクハラ・パワハラなどの場合は「言えない」のだが、そうではない「◯◯ハラ」は「言えなくもないが言いにくい」という状況でしかない。

もちろん、その感覚は私も理解できる。私自身も、誰かに「それは嫌です」と言いにくい性格だからだ。ただ、だからと言って「ハラスメント」という言葉を使うのが正しいとは思えない。セクハラ・パワハラなどの本来的な意味が、矮小化されてしまうと感じるからだ。

では、なぜこのような「ハラスメント」の使い方が広まっているのか。そこにはやはり、「正論」が関係していると私は考えている。

「私は嫌です」は正論ではない。だから、「そんなの知らねーよ」と言われてしまえばおしまいだ。しかし、「◯◯ハラスメント」と名前をつけると、非常に「正論っぽい」。決して正論ではないのだが、セクハラ・パワハラのイメージが広く浸透しているので、「正論っぽいことを言っている風」になる。そしてさらに、「私がだけじゃなくて、世間でも『◯◯ハラ』って言われてる」と、「これは自分の意見ではありません、世の中の総意なんです」という風に相手に伝えられる(と、話者は考えている)。

だから、「◯◯ハラスメント」という話法が増殖するのだ。

めんどくせーなと思う。

そして、「正論」だけではなくて、「正論っぽい話法」が増殖することで、世の中の分断は激しくなっていく。「正論」や「正論っぽい話法」に賛同する人ももちろん出てくるし、逆に反対する人も出てくる。多様な考えが存在するという状況そのものは非常に健全だと思うが、問題は、「その意見の分断に本来的な意味などない」ということだ。

そもそも存在する必要のない「正論」に対して分断しても仕方ない。「正論を受け入れるか、反対するか」なんていうどうでもいい争いで分裂してしまうことに無意味さを感じてしまう

そして、そんな分断や争いが続くことで、世の中はどんどんと不寛容になってしまうだろう。正論を主張する人も、正論に反対する人も、そして何も言わない人も、結局等しく損している、と私は感じる。

実にめんどくさい。

誰もが「レールから外れること」を恐れている

この映画の中で、TVプロデューサー(長澤まさみ)が、出番が少ない割に非常に印象的なことを言う。

今ほどレールを外れた人間に厳しい社会はないと思う。レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていないから、なおさらレールを外れたくないし、レールを外れた人間を許容しない

あぁ、本当にその通りだなと思う。

「正解」や「正論」しか許容されないということは、「レールを外れたらおしまい」ということでもある。私たちはいつの間にか「レールの上だけ」歩かされていて、そこから外れるとダメだと感じさせらている。だから必死でレールの上にしがみつこうとするが、別にレールの上にいることが楽しいわけじゃない。

レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていない」とは、まさにその通りだと感じる。

この映画では、「善悪」の境界線がどんどんと曖昧になっていく。「正しい」「間違い」が分かりやすくない。「明らかに間違っている人間が正しい」と思えたり、「客観的に正しいはずの人間が間違っている」ように見えたりする。

私たちの日常は本来こういうものであって、「善100」や「悪100」なんていう状況はほとんどない。しかし「正論」の圧力が、目の前の状況を「善100」か「悪100」のどちらかに振り切ろうとする。曖昧さが許容されない。

私たちは改めて、「善悪がはっきりしない曖昧な感じ」を取り戻すべきではないかと、この映画を観て強く実感した。

映画の内容紹介

実在の人物をモデルにした映画である。

著:佐木隆三
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私生児として生まれ、幼くして母親と離れ離れになった三上正夫は、少年院に入ったり出たりを繰り返しながら、平成16年に起こした殺人事件で懲役13年を求刑された。旭川刑務所で刑期を満了した彼は、身元引受人になってくれた弁護士を頼りに東京に出てきて、安いアパートでの生活をスタートさせる。

しかし、13年も刑務所にいた三上にとって、世の中の変化は大きすぎた。市役所では「反社の人には例外なく生活保護は下りません」とにべもなく言われ、失効した免許証の再取得のために13年ぶりに運転するも覚束ない。しかし、そんな厳しい状況でも、「今度ばかりはカタギぞぉ」とやり直しを決意している。

そんな三上は、ある人物に「身分帳」という大量のノートを送っていた。これは、刑務所に入るすべての人間が受ける記録で、刑務所での様子が事細かに記されている。もちろん通常、受刑者本人の目に触れることはない代物だ。しかし三上は、受刑者には知る権利があると主張し、この身分帳をすべて書き写す権利を勝ち取っていたのである。

膨大なノートを受け取ったのは、テレビの制作会社を辞めて小説を書いている津乃田。彼は、関わりのあるTVプロデューサーから三上という男を取材しないかと持ちかけられ、身分帳を受け取ったのだ。津乃田は、バリバリ入れ墨が入った元殺人犯などテレビで扱える素材じゃないと難色を示すが、プロデューサーは、だから面白いと焚きつける。

そんな三上と津乃田が出会うところから物語は始まっていく。

三上は再出発を誓っているのだが、しかし一方で、真っ直ぐすぎる性格ゆえに正義感が強く、マズいことにその正義感は「暴力」という形で出てしまう。更生のためには警察沙汰などもってのほかだが、許しがたい状況に対してどうしても立ち向かおうとしてしまう。密着を始める津乃田は、血の気の多い三上を、やはり取材対象として難ありと感じるが、何か惹かれる部分もあり細々と取材を続けていき……。

映画の感想

先程も書いた通り、善悪の判断が非常に揺れ動く映画だ。どうしても今の時代、「分かりやすい物語」が好まれる傾向にあると感じるが、そういう中にあって、多くの人に観られるだろうメジャーな作品で、このような「どっちつかずの曖昧さ」が描かれるのは、非常に望ましいことだと感じる。

誰に肩入れしたいとなるのかという気分が、映画を観る中できっとコロコロ変わるだろう。最初はたぶん、元殺人犯の三上には共感したくない気持ちが強いだろうし、真っ当な側にいるように見える津乃田視点で物語を捉えるだろう。しかし徐々に、その基準が揺らいでいく。本当に三上は「正しくない」と言えるのか? 津乃田のスタンスは「正しい」と言えるのか? 

私は、「暴力を振るうこと=100%間違い」だと思っていない。98%ぐらいは間違いだと思っているが、世の中には残念ながら、暴力でしかなんともならない状況も存在すると思っている。だから、確かに三上は短絡的すぎるが、しかし彼のスタンスを「間違い」とは言い切れない。

この三上の暴力と対になるのが、予告で長澤まさみが、

あんたみたいなのが一番なんにも救わないのよ

と激昂する津乃田の振る舞いだろう。私は、津乃田が間違っているとは決して思わないが、正解でもないだろうと感じるし、じゃあだったら何が正解なんだ? と考えると、袋小路に入り込んでしまう。

「正論」が強すぎると、「暴力は100%間違い」となってしまう。私は、「実際に暴力を振るうかどうかはともかく、状況次第では暴力も辞さないと示す態度さえ取れない」としたら、対処できなくなってしまう状況は多く存在すると思う。そういう意味でも「正論が強すぎる社会」には問題があると感じる。

映画はフィクションだが、「もし三上のような人間が自分の近くで生活していたら」と考えると、一層難しい問いに変わるだろう。映画では、地域住民と三上の関わりも描かれる。フィクションでよく描かれるような「分かりやすい拒絶」みたいな描写はあまりなく、三上は割とすんなり地域に溶け込む(ように見える)。しかしやはり、要所要所でヒヤヒヤする場面がある。そういう点も、この物語をリアルに感じさせていると思う。

そんな風に、「善悪の曖昧さ」を、エンターテインメントの中で感じさせてくれる作品だ。

出演:役所広司, 出演:仲野太賀, 出演:六角精児, 出演:北村有起哉, 出演:白竜, 出演:キムラ緑子, 出演:長澤まさみ, 出演:安田成美, 出演:梶芽衣子, 出演:橋爪功, 監督:西川美和, プロデュース:西川朝子, プロデュース:伊藤太一, プロデュース:北原栄治, Writer:西川美和
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最後に

私は、今の社会の状況を、「全員で手を取り合って地獄に落ちようとしている」という風に感じている。誰も望んでいないのに、結果的に「みんなで地獄行き」という、考えうる最悪の選択肢を取ろうとしているように思えてしまうのだ。

それを回避するためには、全員が一度立ち止まり、勇気を持って正論を手放すしかないのではないか。私はそんな風に考えている。

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