【天才】映画音楽の発明家『モリコーネ』の生涯。「映画が恋した音楽家」はいかに名曲を生んだか

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:エンニオ・モリコーネ, 出演:クエンティン・タランティーノ, 出演:クリント・イーストウッド, 出演:ウォン・カーウァイ, 出演:オリバー・ストーン, 出演:ハンス・ジマー, 出演:ジョン・ウィリアムズ, 出演:ブルース・スプリングスティーン, 出演:クインシー・ジョーンズ, 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
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今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 88歳でアカデミー賞作曲賞を受賞したほど、死の間際まで圧倒的な創造性を発揮し続けた天才
  • 監督よりも作品に必要な曲を理解し、「まさにそれしかない」と感じさせる曲を生み出してしまう凄まじさ
  • 楽器を一切使わず、紙とペンだけで作曲を行う独自のスタイルに驚かされた

エンリオ・モリコーネがいなかったら間違いなく、「映画音楽」の世界は今ほど芳醇なものにはなっていなかっただろう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画音楽に、そして音楽そのものに革新をもたらし続けた天才作曲家モリコーネの創造力に満ちた生涯を描く映画『モリコーネ』

エンリオ・モリコーネという稀代の映画音楽作曲家に対する凄まじい評価

映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』は、数多くの名作映画に「これしかない」という曲をあてがい続けた天才作曲家エンリオ・モリコーネについて、様々な角度から語るドキュメンタリー映画である。私は彼の存在についてこの映画を観て初めて知ったが、とにかく凄まじい人物だったようだ。作中では、数多くの人たちが彼のことを多様な表現で評価していた

あらゆるルールにおける偉大なる例外。

私にとっての羅針盤。

音楽の未来を決めた。

伝説の人。

彼との仕事は勲章だ。

また、『殺人捜査』という映画について言及していた人物は、モリコーネのことをこんな風に語る。

「映画音楽」というフォーマットを生み出した。

「映画音楽」の発明者。

『映画音楽』というフォーマットを生み出した」というのは、凄まじい功績だと感じられた。

さて、私は、映画音楽の世界についてほとんど何も知らないものの、映画音楽の制作で有名な「ハンス・ジマー」の名前ぐらいは知っている。そして彼も映画に登場し、

彼のことを知らない作曲家は存在しない。

と言っていた。彼のこの評価だけでも、モリコーネの凄さが実感できるだろう。

驚異的なのは、モリコーネが「単に音楽を生み出す」だけではない才能を有していたことだ。映画に登場したある監督は、このように語っていた。

困ったことに、監督や編集者よりもずっと、その場面に相応しい音楽を直感的に理解してしまう。そして、音楽を聴くと、彼のものだと分かる。

映画については普通、監督がその全体像について最も把握しているはずだろう。しかしこと音楽に関して言えば、モリコーネは「そのシーンに必要な音楽を監督よりも深く理解し、それを的確に表現する音楽を生み出してしまう」のだ。単に「作るだけ」ではなく、「想像もしてみなかったけれど、嵌めてみると『それしかない!』と感じるような音楽を生み出し続けてきた」のである。

本作はそんな、とにかく「凄まじい」としか表現しようのない人物についてのドキュメンタリー映画というわけだ。

モリコーネが生み出した音楽のとてつもなさ

映画『モリコーネ』では、モリコーネが劇中音楽を担当した名作映画の実際の映像と共にその音楽が流れる。彼が生み出した曲は、ある意味で「現代映画のスタンダード」になっているわけで、その「新鮮さ」を感じ取るのは難しいかもしれないと想像していたのだが、まったくそんなことはなかった。例えば、映画『荒野の用心棒』の冒頭、それまでの西部劇の常識を覆した音楽などは、今聴いてもやはり「新しさ」と感じさせるものだったと思う。

その中でも、彼の凄まじさを最も感じさせられた場面がある。先ほど少し名前を出した、1970年公開の映画『殺人捜査』に関するものだ。映画で語られていた、『殺人捜査』の劇中音楽の作曲依頼に関する細かな状況はちょっと忘れてしまったのだが、この映画では監督は何故か、モリコーネに作曲を依頼しつつも、映画冒頭では既存の曲を使おうとしていたそうだ。しかし実際には、冒頭でもモリコーネ作曲のものが使われることになった。

というわけで映画『モリコーネ』では、当初の案だった既存曲バージョンと、モリコーネの作曲曲バージョンとで、同じ冒頭の場面を2パターン流すという演出がなされる。そして、まさにその差は「圧倒的」だったと言っていい。

音楽について言語化するのは得意ではないのだが、頑張ってみよう。既存曲バージョンの方からは、「単なる不穏さ」しか感じられなかった。一方、モリコーネ作曲曲の方は、「跳ねるような、どこか陽気さを感じさせるリズムの中に、どことなく不穏な空気が宿っている」みたいな雰囲気になる。これだけでも、これから映画が始まるという状況において、観客が抱く印象はまったく違ったものになるはずだと思う。

さらに凄かったのは、モリコーネの作曲曲の方がとにかく「キャッチー」なことだ。映画音楽なのだから、「あてがわれたシーンにピタッと嵌まっている」ことは当然だろうが、決してそれだけではなく、その曲単体で取り出してみても十分インパクトがあると感じたのである。もちろん、本来は「映画の効果を高めるための付属物」であり、それ自体が目立った存在感を持つべきものではない。実際、モリコーネの作曲曲は、冒頭のシーンと合わせた場合には、映像とバチッと合いながら決して主張しすぎないという絶妙な存在感を保っている。ただし、映像から切り離して曲だけを聴いた場合には圧倒的な存在感を放っており、曲単体でも十分に成立するだけの強さを有していたのだ。音楽についてはまったく詳しくないが、そんな私でも、これはかなり難易度の高いことではないかと感じさせられた。

さて、映画に登場する人物がこんなことを言う場面がある。

彼がいなかったら、21世紀の音楽はまったく違うものになっていたはずだ。

ここで注目すべきは「21世紀の音楽」という表現である。「21世紀の映画音楽」ではないことに注意してほしい。モリコーネは、ほぼ映画音楽の世界でそのキャリアを終えた人物であり、確かにそこで比類なき成果を残した。しかし彼は、映画音楽のみならず、音楽の世界にも多大なる影響を与えていたというのだ。映画の中では、「映画音楽」と対比させる形で「絶対音楽」という表現が使われていたが、そんな「絶対音楽」にも彼の功績が届いていたのである。

「そんなバカな」と感じる人もいるかもしれないが、本作を観れば納得できるんじゃないかと思う。音楽に詳しいわけではない私には、作中での説明が完璧に理解できたとは言えないが、どうやらモリコーネは、「映画音楽」だけではなく「絶対音楽」の「先駆者」でもあったのだそうだ。だから、1928年に生まれ、2020年に亡くなり、その生涯に渡って常に名曲を生み出し続けてきたエンリオ・モリコーネは、今も若いクリエーターを刺激し続けているのだという。映画に登場したある若いクリエーターは、

20年前よりも今の方が影響力が大きい。

とさえ言っていた。本当に、凄まじい功績を遺した人物なのである。

セルジオ・レオーネとの不可分のタッグ

確か、映画『ワンス・アポン・ア・タイムイン・アメリカ』についての話題だったと思うが、誰もが口を揃えて、「あの映画は、モリコーネの音楽が無ければ成立しない」と語っていたのが印象的だった。つまり、彼の音楽は単なる「サウンドトラック」ではなく、「映画表現の1つの要素」なのである。そして何にも増して重要なのは、「映画音楽にはそのような力があるのだ」と、そのキャリアにおいて証明し続けたことだろう。

そんな『ワンス・アポン・ア・タイムイン・アメリカ』を監督したセルジオ・レオーネは、生涯モリコーネと不可分のタッグを組んだのだそうだ。その出会いのエピソードがなかなかに興味深い。初めてレオーネがモリコーネに映画音楽制作を依頼した際、モリコーネは「どこかで見た顔だ」と感じたというのだ。そう、なんと彼らは、小学校時代の同級生だったのである。偶然にしては出来すぎと言えるだろう。そんな縁もあり、彼らは「映画監督」「映画音楽作曲家」として、その生涯を伴走するのである。映画に登場したレオーネの娘が、

父は彼の音楽に頼っていた。

とはっきり口にしていたのが印象的だった。

モリコーネはその生涯で様々な映画監督と仕事をしたのだが、やはりレオーネとのエピソードがとても興味深い。映画『ワンス・アポン・ア・タイムイン・アメリカ』の場合は、撮影が始まる何年も前から作曲を依頼されていたという。またレオーネはモリコーネに、「リジェクトされた曲も聴かせてくれ」とよく言っていたそうだ。いくらモリコーネといえども、常に1案のみで提案が通るわけではない。だから、他の映画用に作曲したものの、実際には使われなかった曲がたくさんあるのだ。そしてそれらが、レオーネの映画で復活することもあったという。

あるいは、レオーネは「映画の全編でパンフルートを使いたい」と相談したことがある。しかしモリコーネは、「適切な場面で使う」と、「全編で使いたい」というレオーネの提案を却下した。そして見事、パンフルートの存在感が際立つ印象的な場面を作り上げてみせたのだ。

そんなレオーネとのエピソードの中で一番印象的だったのが、「撮影現場でもモリコーネの曲を流す」という話。つまりこれは、「役者のセリフを現場では録らない」ことを意味する。今でこそこのようなやり方がされることも多いのかもしれないが、当時としては「クレイジー」な手法だったそうだ。しかし、現場にモリコーネの音楽を流すことで、「そこに既に『映画』が存在しているかのような雰囲気」が生み出され、それが映画制作に多大な影響を与えることになったという。ロバート・デ・ニーロは、現場での録音にこだわる役者として有名だそうだが、そんな彼でさえ、

モリコーネの音楽が演技の役に立った。

と、レオーネの手法を称賛していたというのだから凄い話である。

ただ、そんな盟友とえるレオーネとも、仕事をし始めた当初はなかなか上手くいかなかったそうだ。最初の何作かは思い通りに出来なかったと、その苦悩を語っていた。しかし最終的には強力なタッグになるわけで、それは音楽のセールスにも現れている。モリコーネは、レオーネの映画用に作曲した曲を収録したレコードで、2度もベストセールスを記録しているのだ。イタリアのレコード史において、これは異例の快挙であると紹介されていた。まさに完璧なコンビだったと言っていいと思う。

紙とペンだけで作曲するという異次元の作曲家

さて、少し突拍子もない話をしよう。私は映画を観ながら、インドの天才数学者ラマヌジャンのことを連想していた

彼は、その常軌を逸した様々なエピソードで知られた人物であり、数学に詳しくない人でも、もしかしたらどこかで彼の名前を耳にしたことがあるかもしれない。ラマヌジャンは、高等教育を受けたことがなく、当然数学についてもほとんど学んだことがない。にも拘らず、あまりにも難解で複雑怪奇な数式を数多残しているのである。それらは「ラマヌジャン 数式」で検索すれば色々と出てくるので眺めてみてほしい。

しかし、「数学を学んだことがないのに、どうしてそのような数式を生み出せたのか」と疑問に感じないだろうか? その理由はなんと、「夢の中に神様が出てきて、数式を教えてくれるから」なのである。夢で見た数式をひたすら紙に書き続けただけというわけだ。だから彼自身は、自ら書き写した数式の正しさを証明することが出来なかった。しかし、別の数学者がそれらに挑み、そのほとんどが正しいと証明されている

しかし何故ラマヌジャンを連想したのか。それはモリコーネの驚くべき作曲法にある。なんと彼は「五線譜」と「ペン」だけを使って作曲するというのだ。つまり、一切の楽器を使用しないのである。恐らく頭の中で音楽が鳴っており、それを書き写すようにして作曲しているのだと思う。

このスタイルだけでも、多くの作曲家にとっては信じがたいものだろう。さらにその上で音楽家を驚かせるのは、モリコーネの楽譜があまりにも整然として見やすいことだそうだ。恐らくだが、そんな楽譜を書き直しなしの一発書きで生み出せてしまうのだと思う。そしてそれが、まさに映画の各シーンに絶妙に嵌まるものになっているというわけだ。

本当に、天才としか言いようがないだろう。

しかしやはり、ラマヌジャンと同じというわけにはいかない。彼には、当然「夢で音楽を教えてくれるような神様」はいないからだ。映画のラストで、モリコーネは次のように語っていた。

音楽を書く前に、熟考しなくてはいけない。それが問題だ。
作曲家の前には、白紙の紙がある。何も考えずに書き始めれば行き詰まる。まず思考があり、それを展開させなければ。
では何を追求する? 分からない。

モリコーネは生涯に500曲以上も映画音楽を作曲した。そしてそれらはどれも、誰も考えつかなかったようなアイデアが盛り込まれ、聴く者を驚かせ、さらに聴けばモリコーネ作だと分かる曲なのだ。ウィキペディアによると、彼が最後に映画音楽を手掛けたのが2016年、88歳の時のことだ。さらにその前年には、映画『ヘイトフル・エイト』でアカデミー賞の作曲賞を受賞している。90歳近い年齢になっても、抜群のクリエイティビティを発揮したというわけだ。ちょっと想像を絶する凄まじさと言えるのではないだろうか。

映画音楽を作曲する上での様々な困難

モリコーネは、映画音楽を作曲する上での様々な苦悩についても語っている。その1つがこれだ。

映画音楽には、答えがいくつもある。これが作曲家の苦悩だ。

複数送った中で、自身が「クズ曲」だと思っていたものが採用されるなど、「自分が生み出した音楽のどこが評価されたのか」を判断するのが難しかったと彼は語っている。そんなこともあり、彼は途中から、まず妻のマリアに聴かせ、彼女が良いと言ったものを監督に聴かせるというやり方に変えたと言っていた。

しかしそれでも、予想外のことは起こる。例えば、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のある場面のために9曲作曲した際、彼は「6番目だけは選ばないでくれ。一番気に入っていないから」と書いて送ったそうだ。しかし最終的にはなんと、その6番目が選ばれたのだという。まさに「創作の難しさ」を実感させるエピソードと言えるだろう。

彼はずっと、映画音楽の世界から離れようと考えていたと話していた。やはり、あまりにハードな仕事なのだろう。そんな彼が、映画の終わりの方でこんな言い方をしていたのが印象的だった。

1961年、初めて映画音楽に関わった際、妻には「1970年には辞める」と伝えていた。
1970年には、「1980年には辞める」と、1980年には「1990年には辞める」と、1990年には「2000年には辞める」と言った。
もう言わない。

そして結局、亡くなる直前まで映画音楽を作り続けたのである。

さて先ほど、2015年にアカデミー賞の作曲賞を受賞したことに触れたが、実は6度目のノミネートでの受賞だった。受賞に至るまでには、こんなエピソードがある。彼は1986年に映画『ミッション』で2度目のノミネートとなったのだが、この時は誰もがモリコーネの受賞を疑わなかったため、別の人物の受賞が発表された際、なんと会場ではブーイングが起こったのだそうだ。3度目は映画『アンタッチャブル』でのノミネートだったが、この時受賞したのは坂本龍一だった。2006年には、それまでの映画音楽に対する功績に対して「名誉賞」が与えられたのだが、その後2015年に”改めて”作曲賞を受賞したというわけだ。

モリコーネの場合、権威ある賞を受賞したかどうかなど関係なく、多くの映画人から称賛を集めているわけで、その方が価値があると私は思う。しかし外野が、「モリコーネが正当に評価されないのはおかしい」という感覚を抱くのも理解できる。ただ恐らくモリコーネ自身は、賞などにはさほど関心はなかったのではないかと思う。とにかく、求められるままに創造性豊かな曲を作り続けただけというわけだ。

ちなみに映画では、スタンリー・キューブリックとのこんなエピソードにも触れられていた。モリコーネが、「逃して惜しいと感じたのはこの映画だけ」と語っていた話だ。

モリコーネの映画音楽を聴いたキューブリックが、映画『時計じかけのオレンジ』のために曲を作ってほしいと考えたことがある。そこでキューブリックは、映画監督のレオーネに連絡をした。モリコーネの盟友であることを知ってのことである。するとレオーネは、「モリコーネは今、私の作品の作曲中だから受けられない」と断った。それでキューブリックは作曲依頼を諦めたという。しかし実際には、作曲自体は既に終わっており、ミキシングをしていただけだったそうだ。作曲の余裕は十分あったのである。キューブリックにしてもモリコーネにしても、不運だったとしか言いようのないピソードだろう。

モリコーネは、いかにして作曲家になったのか

映画『モリコーネ』は、全体的にはとても興味深く展開される作品なのだが、冒頭の構成だけはちょっといただけなかった。というのも、映画が始まってすぐ、幼少期からの生い立ちの話が描かれるからだ。時系列順にエピソードを紡いでいくのは確かに常道ではあるのだが、やはりまずは「エンリオ・モリコーネという人物についての興味深いエピソード」から始めるべきではないかと思う。確かに、本国イタリアにおいては広く知られた存在なのだろうし、その功績についても誰もが知っているみたいな人物なのかもしれない。しかしそれにしたってやはり、幼少期の話から始めるのが正解だとは思えなかったし、冒頭からしばらくの間は、少し退屈に感じられてしまった。

モリコーネは元々、医者になりたかったそうだ。しかし父親がトランペット奏者だったこともあり、「トランペットをやれ」と音楽院に入学させられてしまう。なかなか強引な父親である。初めは楽譜も読めず、成績も平凡だったそうだが、副科として専攻していた和声のクラスで才能の片鱗が現れた既存のルールに囚われない作曲をしていたのだ。そこに目をつけた教師が、「作曲を学べ」とアドバイスした。このアドバイスが、その後のモリコーネの人生を決定づけるものとなったのである。

当時のイタリアには、ペトラッシという著名な作曲家がおり、モリコーネは彼を師と定めることに決めた。しかしそのペトラッシも、初めのうちはモリコーネを過小評価していたという。それほど、学生時代のモリコーネは目立たない存在だったというわけだ。しかしその後、RCAというレコード会社で編曲家として頭角を表すようになる。どう活躍したのかは分からないが、映画では「倒産寸前だったRCAを救った」みたいな説明がなされていたと思う。それまでまったく無名だったにも拘らず、その才能が一気に花開いたというわけだ。

編曲の仕事と言っても様々だと思うが、モリコーネに関して映画の中で紹介されていたのが、いわゆる「イントロ」である。とにかく、モリコーネが生み出すイントロは、どれも物凄くキャッチーで魅力的なのだ。現代では、サブスクが広まったことでイントロの無い曲が増えたが、だからこそなのだろう、若者の間では、昭和の曲のイントロに惹かれるという人が出てきているという。そういう人もきっと、モリコーネが作ったイントロを好きになるんじゃないかと思う現代でも十分通用するようなものばかりだと私は感じた。

また、編曲家時代に彼は、「別の音楽を引用する」という、今では割とよく使われているだろう手法も編み出したのだそうだ。本人も「編曲家時代には様々なチャレンジをした」と語っていた。モリコーネは「映画音楽を発明した」ことで名を残したわけだが、それ以前に「編曲を発明する」という挑戦にも携わっていたのである。本当に、生涯を通じて常にチャレンジし続けた、前のめりの人生だったと言っていいだろう。

しかし、今でこそ「編曲家」の名前は必ず表に出るはずだが、当時はそうではなかった。だから、RCAを立て直すほどの貢献をしながら、モリコーネの名前は広く知られてはいなかったのだ。しかしその後、小学校の同級生だったレオーネから映画音楽の依頼が舞い込んだことで、彼の新たなキャリアが始まっていく

稀代の映画音楽家は、このようにして生まれたのである。

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最後に

意外と言っていいと思うが、モリコーネは、

映画音楽を作ることを、当初は「屈辱」だと感じていた。

と語っている。とはいえ、この発言を「意外」に感じるということは、映画音楽の世界が今では高く評価されていることを意味するはずだ。そしてそれはつまるところ、モリコーネ自身の努力によるものと言えるだろう。「屈辱」と感じるほどに低い地位に甘んじていた映画音楽の世界を、たった1人で(とは言い過ぎかもしれないが)革新させ、その類まれな才能をフルに発揮してとんでもない高みにまで押し上げたのだ。モリコーネは今では、

映画音楽も本格的な音楽だと考え直すようになった。

と考えを改めている。

モリコーネのこの心境の変化は、同時代の他の作曲家の気持ちの変化とも比例していると言っていいだろう。というのも、前時代の作曲家たちは、「クラシックこそ偉大」という世界の中で生きてきたからだ。それ故にモリコーネは、「クラシック信者」とでも言うべき作曲家たちから、まったく才能が認められなかったという。

しかしモリコーネのあまりに創造的な仕事を長年目の当たりにして、彼らもついに頭を垂れた。モリコーネの作曲家としての才能を認めざるを得なくなったのである。

このようにモリコーネは、その凄まじい才能と努力によって、「映画音楽」というジャンルそのものを更新したと言っていいだろう。私たちが今、豊かな「映画音楽」の世界に触れられるのは、まさしく彼のお陰なのである。

ホントに、凄い人物がいたものだと思う。

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