【感想】是枝裕和監督映画『怪物』(坂元裕二脚本)が抉る、「『何もしないこと』が生む加害性」

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はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:安藤サクラ, 出演:永山瑛太, 出演:田中裕子, 出演:黒川想矢, 出演:柊木陽太, 出演:高畑充希, 出演:角田晃広, 出演:中村獅童, Writer:坂元裕二, 監督:是枝裕和

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 自分が受けた「被害」にはすぐに気付けるが、自身が与えた「加害」は簡単には意識出来ない
  • 「何もしないこと」が「加害性」を生み出してしまうこともある
  • 思いがけず描かれる「あるテーマ」もまた、別の意味での「加害性」を浮き彫りにする

「日常感」溢れる物語が、観客に向かって「お前の話だぞ」と突きつける展開になっていく構成が見事だと感じた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「自覚できない加害性」を描き出す映画『怪物』(是枝裕和監督)は、どの視点に立つかによって万華鏡のように変転する世界を描き出す

とても良い映画だった。「1つの状況を複数の視点から多面的に描き出し、その差によって複雑な物語を現出させる」という構成は、よくあると言えばよくある構成だろう。しかし、そのよくある型を使って、実に見事に物語を展開していくのである。坂元裕二の脚本の妙なのだろうし、役者たちの演技も素晴らしかったと思う。

『怪物』の予告映像は映画館で散々目にしたが、やはり「怪物だーれだ」というフレーズが特に耳に残った。本作は、まさにこのフレーズがピッタリ来る作品だ。まるで万華鏡でも見ているかのように、同じ景色のはずなのにまったく異なる見え方になる物語にぐっと惹き込まれた

脚本家・坂元裕二が語った「加害性」、そして映画で描かれる「加害性」

映画の内容に触れる前にまず、カンヌ国際映画祭を受賞した際の坂元裕二の記者会見の話をしたいと思う。

私は、映画『怪物』の予告編を映画館で初めて目にした時点で、この映画を観ることは決めていた。しかし、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したことで、一層興味が湧いたと言っていい。それは決して「脚本賞を獲ったから」ではなく、その後で行われた脚本家・坂元裕二の記者会見の内容が興味深かったからだ

彼は会見の中で、「いつも思い出してしまうことがある」と前置きして、あるエピソードについて語った。それは、次のような話である。

昔、車で信号待ちをしていた時のことです。信号が青に変わったのに、前の車が動き出さないので、クラクションを鳴らしました。しかししばらくして、横断歩道を車椅子の人が渡っている途中だったことが分かったのです。
その時以来僕は、「あの時、どうしてクラクションを鳴らしてしまったのだろう」という思いを消せないでいます。

そしてこの話に続けて坂元裕二は、「私たちは、自分が受けた『被害』のことはよく覚えているが、自分が与えた『加害』についてはなかなか認識できない」と語っていた。この話が、とても印象的だったのだ。

私もよく、「加害性」については色々と考えてしまう。以前観た映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』でも、決してそれがメインテーマというわけではないのだが、「男性性として生きることそのものが有する加害性」が描かれる場面がある。これは私が普段から考えていることそのものなのだが、表立って言及される機会が少ない話だとも思うので、それがエンタメ作品の中で描かれていることに驚かされた

自身の「加害性」を認識することはとても難しい。もちろん、自分がした行為が、何らかの法律に抵触したり、そうでなかったとしても社会通念上明らかに誤りであるならば、自覚しやすいだろう。しかし、日常生活の中で生まれ得る「加害性」というのは、ほとんどがそのような類のものではない「相手の受け取り方次第で、それが『加害性』を持つかどうか決まる」というタイプのものばかりだと私は考えている。

だから中には、「『嫌だ』って言ってくれないと分かんない」という形で、自身の「加害性」を「存在しないもの」として扱おうとする者もいるはずだ。一面では、そのようなスタンスは決して間違いだとは言えないと思う。ただ私は、そういうスタンスが嫌いだ。私の勝手な想像に過ぎないが、「『嫌だ』って言ってくれないと分かんない」と口に出して言える人間は、恐らく、「自身が被害を受けた時に『嫌だ』と言える」のだろうと思う。ただ、それが出来る人間ばかりではない。というか、「『私は今被害を受けています』と訴え出ることが出来ないが故に、『被害者』という立場に甘んじざるを得ない」と感じてしまう人は実は多いのではないかと思う。

だからこそ私は、「加害性を有する側」がその加害性に自ら気づき、思考・行動を改めなければならないと考えている。坂元裕二の後悔は、まさにこの立場に立つものだと言えるだろう。多くの人がそういうスタンスで生きれば、世の中はもう少し生きやすくなるはずだし、私自身はそういう方向に社会が動いてくれることを強く願っている

「何もしないこと」が生む加害性

坂元裕二の会見を見たことで、私は映画『怪物』について、「何らかの『加害性を持つ行為』を行っているが、本人はそれを自覚できていない」というストーリーが展開されるのだろうと想像していた

しかし、実際に映画を観ていく中で、その捉え方は少し違うようだと気づく。どちらかと言えばこの映画では、「何もしないことによる『加害性』」が描かれているのだと感じたのだ。

ここで、映画の設定・構成に少し触れておくことにしよう。物語の中心にいるのは、小学5年生の麦野湊とその母親の早織、そして湊の担任教師である保利道敏の3人だ。最初に「麦野早織」視点で物語が展開され、その後ほぼ同じ期間の物語が、「保利道敏」視点、「麦野湊」視点で描かれるという、3部構成の物語である。

そして広い意味で捉えた場合、「麦野早織・保利道敏・麦野湊の3人は『何もしていない』」と言えると私は思う。「何もしていない」の意味は、それぞれの登場人物ごとに異なる。その点について詳しく触れるとネタバレになるので、この記事では深掘りはしないが、程度も意味も異なる「何もしていない」を3人それぞれが体現していくというわけだ。

そして、私のこの捉え方が間違っていなければ、映画『怪物』においては「何もしないことによる『加害性』」こそがテーマなのだと考えていいと思う。つまり本作は、「私たち一人ひとりも、『何もしない』ことによって、どこかの誰かに『加害性』を発揮しているかもしれない」と突きつける作品でもあるというわけだ。だからこそ私たち観客も、「ただ観ているだけ」というわけにはいかず、作品の世界に否応なしに引きずり込まれていくのである。

先ほど私は、「自身の『加害性』には自分で気づくべきだ」と書いたが、しかし、「『何もしていない』のであれば、それに気づくことなど出来ないのではないか」と感じる人もいるとは思う。確かにそういうこともあるだろう。ただ一方で、「何もしないことによる『加害性』」の分かりやすい例も、誰もが頭に思い浮かべられるはずだ。例えば「目の前で行われているいじめを見て見ぬふりすること」。まさに、「何もしていない」ことが結果として「加害性」をもたらす例と言えるだろう。

しかし、映画『怪物』で描かれているのは、そういうものとは少し異なるような気がした。作中のすべての状況に当てはまるわけではないだろうが、彼らは「誰かのためを想って、『何もしない』ことを積極的に選択している」ように私には感じられたのである。そしてそうだとすれば、「自覚できない」なんてことはないはずだ。そういう意味でもやはり、「観客を引きずり込んで自覚を促す作品」と考えていいと思う。

もちろん、「積極的に『何もしない』ことを選択している」というのは、「『何もしないこと』をしている」と解釈することも可能だし、だから「『何もしない』ことによる加害性ではない」と捉えることも出来るだろう。正直、その辺りのことはどちらでもいいのだが、いずれにせよ、「その存在を認識しにくいタイプの『加害性』」が描かれていることは確かだと思う。

そしてそのような物語を、「実際にこういうことが起こってもおかしくない」と感じさせる「日常的な世界」の中で描き出していることもまた、とても見事だと感じさせられた。

作中に溢れる「日常感」と、「怪物だーれだ」に対する私なりの解釈

映画を最後まで観ると、「日常」なんて言葉を忘れてしまうような地平に辿り着くのだが、映画は基本的に「日常」の中で展開される冒頭こそ「火事」という非日常から始まりはするものの、それ以降は、日本に住んでいる誰もが過ごし得るような、当たり前でどこにでもありそうな生活が描かれていくのだ。確かに、「第1部」の「麦野早織」視点の物語において、彼女は息子・湊の周辺に漂う様々な「違和感」に気がつく。しかし母親はそれらに対して、特段何をするでもないのである。別に彼女を責めているわけではない。それらは確かに「違和感」なのだが、1つ1つを取り出してみれば「大したことではない」と感じさせるものと言えるのだ。

私たち観客は、「映画として切り取られている断片」を観ているからこそ、それらの「違和感」に何か意味があるのだと気づける。しかし、湊の母親・麦野早織として生活していたとしたら、それらの「違和感」を「些細なこと」としてスルーしてしまっても不思議ではないだろう。映画ではこのような小さな小さな断片が丁寧に積み上げられていく。そして、坂道を転がる雪玉がいつのまに巨大になっているようにして大きな展開へと進んでいくことになり、いつの間にか手に負えない事態になっているというわけだ。

積み上げられる要素はとにかく「日常感」に溢れており、だから、画面全体も基本的に「日常感」で満たされていると言っていいだろう。だから私たち観客は、「こういうこと、普通にありそうだよね」という視点で物語を捉えていくことになる。しかし、さながら宮沢賢治の『注文の多い料理店』のように、些細な違和感をスルーしていくことで、最終的に想像もしなかった状況に陥ってしまっていることに気付かされるのだ。その展開が、本当に上手いと感じた。

さてそんな「想像もしなかった状況」を想起させるという意味でも、「怪物だーれだ」というフレーズは実によく機能していたと言えるだろう。この問いに対する答えは、作中では明確には描かれない。また映画では、「この人物が『怪物』なのかもしれない」という様々なミスリードを展開しつつ物語が進んでいくことになるので、私なりの解釈を具体的に書くことはしない方がいいだろう。ただ映画を観れば、多くの人の答えは2人のどちらかに集約されるのではないかと考えている。

その2人はどちらも、決してメインとは言えない登場人物だ。そして、映画で描かれる状況を直接的に生み出したのは「男性」の方であり、私には彼が最も「怪物」であるように感じられた。しかし、映画で描かれる状況を悪化させたのは「女性」の方であり、彼女の方をより「怪物」と捉える人もいるだろうと思う。

そして、「怪物だーれだ」の答えがこの2人に集約されるのだとすれば、その事実は同時に、「『怪物っぽい人』はむしろ『怪物』ではないのかもしれない」と示唆してもいると捉えられるだろう。例えば、「フランケンシュタイン」と聞くと怪物の姿が思い浮かぶだろうが、実は「フランケンシュタイン」は人造人間を生み出した博士の名前だと知っているだろうか? そのような勘違いを、私たちもしてしまっているのかもしれないのだ。まさに「怪物だーれだ」と常に問い続けていないと、状況の捉え方を誤ってしまうかもしれないのである。

思いがけず描かれる「あるテーマ」について

さて映画では、後半以降の展開において思いがけず「あるテーマ」が浮かび上がる構成になっている。この点については実のところ、ある意味ではオープンになっていると言っていい。しかしその状況は、制作側の意図するところとは違っていたはずだそのような趣旨のコメントが発表されていたのを何かの報道で目にした記憶もある。なので焼け石に水とは思いつつも、この記事ではその「あるテーマ」が何なのかについて具体的に触れずにおこうと思う。

そのテーマは、後半に入ってから少しずつ明らかにされていく。しかも、「そうである」とハッキリ描かれるわけではなく、随所でさりげなく仄めかされる程度なのだ。しかし、そのテーマが浮かび上がることによってようやく、様々な場面で謎のまま残されていた色んな要素の意味が理解できるようにもなるのである。映画全体の機能で言うならば、「伏線回収」的な役割も担っていると言っていいかもしれない。

そして、そのテーマが浮かび上がることで、「何もしないことによる『加害性』」とはまた異なる「加害性」が描かれていたことに、観客は気付かされることになるのである。

そのテーマはある意味で、映画で描かれる状況における「すべての原因」と言えるようなものだろう。そしてだからこそ、映画の冒頭からそれを示唆するような場面は確かに存在した。後から振り返ってみれば、「あのシーンはそういうことだったのか」と得心出来たりもするだろう。しかし、私もそうだったし多くの観客がそうだと思うのだが、ほとんどの人が後半に入るまで、そのようなテーマが内包されていることに気づかなかったはずだ

そして、「映画を観ながら、そのことに気づかなかった」という事実は、ある意味で、「この社会に生きていながら、そのことに気づいていない」という指摘へと容易にスライドしていくことになる。そして、「あるテーマ」が何なのか分からないと実感しにくいとは思うが、その「気づいていない」という事実こそが、まさに「加害性」を発揮している状況そのものだと言えるのだ。

先ほども書いた通り、「言ってくれなきゃ分からない」「知らなかったんだから仕方ない」という感覚を持つ人も多くいるとは思う。しかし、後半から描かれるようになる「あるテーマ」に関して言えば、そのような主張はなかなか許容されにくいだろう。少なくとも、現時点では間違いなくそうだと言える。何故なら、「言いやすいような雰囲気」が社会の中にないからだ。だから大体それは、「隠さなければならないこと」と認識されていると言っていいと思う。

私たちは安易に、「言ってくれなきゃ分からない」「知らなかったんだから仕方ない」みたいに発言したり考えたりする。しかし、映画『怪物』は、「本当にそれで済ませていいのか?」という問いを観客に突きつけていると言えるだろう。少なくとも、私はそのように受け取った

そしてだからこそ私たちは、「ただ当たり前に生きているだけで、誰かに『加害性』を発揮してしまっているかもしれない」と意識すべきなのだ。多くの人がこのような視点を持って社会で生きていけば、もう少し穏やかな世の中が実現されるはずだと私は信じている。鈍感なだけの人間が「知らなかった」と言って堂々と歩いているような社会に、私は生きていたくないのだ

映画の内容紹介

この記事では、「第1部」の「麦野早織」視点の物語にだけざっくりと触れておこうと思う。

シングルマザーである麦野早織は、クリーニング店で働きながら、一人息子・湊と2人で、平凡ながら穏やかな日々を過ごしている。早織は、一般的な「母親」のイメージとは少し外れるかもしれない。それは、近所で火事が起こった際の反応からも理解できるだろう。彼女は、彼らが住むマンションのベランダから、消火活動にあたっている消防団員に「頑張れー!」と大声を張り上げるのだ。母親というよりは、姉弟のようなフラットさで息子と接しているようにさえ見える。

そんな早織はある時から、毎日少しずつ、湊の周りに「違和感」を感じ取っていく片方しかないスニーカー脱衣所に散乱していた髪の毛水筒から出てきた泥のようなもの。間違いなく、何かがおかしい。しかし湊が何も言ってこないため、彼女は行動を起こしあぐねている。そうかと思えば、「人間の脳を豚の脳に入れ替えたら、それは人間なの?」などと聞いてくることもあった。湊に何が起こっているんだろう?

そしてある夜、湊は遅くなっても帰って来なかった。早織は知っている息子の友人に連絡を取り、その情報を元に、廃線となった電車の車両が置かれた場所へと続く廃トンネルの中で湊を見つける。駆け寄って湊を抱きしめた。しかし彼は、その帰り道に突然……。

映画の感想

この記事ではここまで、映画全体のテーマと言える「加害性」を中心にして、作品の中核を成すだろう部分には結構触れてきたつもりだ。なのでここからは、物語の本筋とはあまり関係はないが、印象に残った細部に触れていきたいと思う。

全体的にとにかく、会話や描写がとても上手かった。私は坂元裕二脚本の作品にそこまで触れているわけではないが、繊細な描写に定評があることは知識として知っていたし、是枝監督の描き方もまた非常に繊細なものだと感じてきたので、何でもないような場面でさえもハッとさせられることの多い作品に仕上がっているのも納得である。

例えば、保利道敏が付き合っている彼女とするこんな会話もとても印象的だった。彼女の服をまさに脱がそうとしている保利に対して「コンドーム無いんでしょ」と指摘した時に、保利は「大丈夫」と答える。これに対して彼女が、

女の「また今度」と、男の「大丈夫」は信用しちゃいけないって、学校で教えてないの?

と返す場面があるのだ。保利が学校の先生であることを観客にそれとなく意識させつつ、男のダメさをやんわりと突きつけ、それでいて、そういうことがお互いに言えてしまう仲の良い関係性までも、この短いセリフに凝縮して詰め込んでいるという点が、まず見事だと感じた。しかしそれだけではない。このセリフ、作中でもう一度絡んでくるのだ。その「再利用」の仕方も含めて、「上手いなぁ」と感じさせる場面だった。

このように、何でもないような場面でさえも鋭さと繊細さに満ちた描写が詰まった作品であり、脚本と演出がずば抜けて良かったなと思う。

また、誰がいつどこでという具体性は排して書くが、「そんなのしょうもない」と口にしたある人物が、その後に続けて言った言葉も非常に良かった。その人物は恐らく、目の前にいる相手が抱える問題の「本質」を理解してはいなかったはずだ。しかし、「そんなのしょうもない」に続く言葉は、それを受け取った人物に強く突き刺さっただろうと思う。その言葉は「平凡な言葉の組み合わせ」でしかないのだが、それによって「確かにそうだよなぁ」と感じさせる強さと普遍性を持たせてしまう手腕は、やはりさすがである。

あるいは映画を観ながら、湊にも彼の友人に対しても、「どうにか生き延びろよ」という祈りにも似た気持ちをずっと抱き続けてしまった。正直なところ私は、「生きていれば良いことがある」なんて思うタイプの人間ではないし、「死んじゃった方が楽な状況もある」とさえ考えていたりもする。だから、生き延びた方が幸せなのかについてはなんとも言えないのだが、それでも、「どうにか生き延びろよ」と感じてしまったのだ。

特に友人に対しては、「他人から押し付けられたものなんかに負けないでほしい」という気持ちを強く抱かされてしまった。湊の場合は、「他人から押し付けられたものではない」という苦しさがあり、それはそれでもちろん大変なのだが、友人の方は単に「意味不明なものを無理やり押し付けられているだけ」なのだ。本当に、そんなクソどうでもいいことなんかにやられないで欲しいと願わずにはいられなかった。

友人の方は、どんな状況に置かれても終始平然と、まるで何も起こっていないかのように振る舞っている。そしてそのこともまた、逆説的ではあるが、彼が抱えているものの大きさが示唆されているように感じられてしまった。きっと世の中には、この友人のような状況に置かれている人たちがたくさんいるだろうと思う。ホント、誰かを殺したり不可逆的な傷を負わせなければ何をしてもいいから、どうにか生き延びてほしいなと願っている。

撮影的なことで言うなら、台風のシーンをどのように撮ったのかは気になった。「撮影日がたまたま台風だった」なんてことは恐らくなく、大雨・強風の日を狙って撮影をしたんじゃないかと思う。しかし、どうしたって天気には影響を与えようがないわけで、実際問題、どんな風に準備してあのシーンを撮ったのかはとても気になる。まあそれは、かなり特異な気象条件の元で撮影している他の映像作品についても感じることではあるけれども。

あと、台風時の廃トンネルの奥での場面も、どんな風に撮影しているのか気になった。私はあれを、実際に屋外で撮影していると思っているのだが、実はCGだったりするのだろうか実際に屋外で撮影しているとしたら、あの廃トンネルの奥の状況を整えるのにもかなり苦労したんじゃないかと思う。

まあ、どう撮ったにせよ、なかなか迫力のあるシーンで、物語の後半の展開としてとても良かった。細部まで含め、全体的にとても素敵な映画だったと思う。

出演:安藤サクラ, 出演:永山瑛太, 出演:田中裕子, 出演:黒川想矢, 出演:柊木陽太, 出演:高畑充希, 出演:角田晃広, 出演:中村獅童, Writer:坂元裕二, 監督:是枝裕和

最後に

既に触れた通り、この映画は、スクリーンを隔てた観客に対して「お前の話だぞ」と突きつけているような圧迫感を有する作品である。少なくとも私は、そのような作品だと受け取った

しかし、本来的には、「『お前の話だぞ』と突きつけられていることに気づかない人」こそ、この映画で描かれていることを理解すべきだと私は思う。そしてそのためには、突きつけられていることに気づくかどうかはともかくとして、まずは映画を観てもらうしかない

そういう意味で、「是枝裕和」「坂元裕二」「坂本龍一」というビッグネームが揃ったこと、さらに「カンヌ国際映画祭脚本賞受賞」という栄冠に大きな意味があると言えるだろう。そういう「外側の情報」をきっかけにして、まずは映画を観てもらい、その後なんらかの機会に、「『お前の話だぞ』と突きつけられていたこと」に気づいてくれたらいいと願うばかりだ。

そうやって気づいて、自身の行動を変えてくれる人が増えれば、世の中も少しずつ良くなっていくんじゃないかと私は考えているのである。

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