【悲劇】アメリカの暗黒の歴史である奴隷制度の現実を、元奴隷の黒人女性自ら赤裸々に語る衝撃:『ある奴隷少女に起こった出来事』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:ハリエット・アン・ジェイコブズ, 翻訳:堀越ゆき
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「私なら絶対にそんなことしない」と、「現代の常識」をベースに「奴隷制度」を断罪することの無意味さ
  • 日の入らない屋根裏部屋での壮絶な7年間を含めた、著者が自由を手にするまでのあまりに辛い20年間の奮闘
  • 愛する我が子に対し「死んだ方がマシ」と感じざるを得ないほどの絶望的な日々

小説だと思われていたのも仕方ないと感じられるほど酷い現実を、当事者が生々しく描き出す衝撃の実話

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

白人が書いた小説だと思われていた、元奴隷の黒人女性が著した「アメリカ奴隷制度の現実」

アメリカには、黒人を奴隷として使役していた時代がある」と聞くと、誰だって「酷い話だ」と感じるはずだ。そして、「どうしてそんな非人間的なことが出来たのか分からない」「私なら絶対にそんなことはしない」と考えるだろう。

しかし、その感覚はちょっと怖いと私は思う。というのもそれは、「奴隷制度に関わっていた人たちが異常だった」という捉え方でしかないからだ。皆がそんな風に考えてしまえば、社会から悲劇がなくなることはないと私は思っている。

「奴隷制度」は、当時のアメリカ南部では「常識」だった。「同時代の多くの人々が『当然』と考えていた仕組み」というわけだ。それは現代の日本で喩えるなら「死刑制度」に近いかもしれない。日本人の多くは、「死刑制度」に嫌悪感を抱いていないと思う。嫌悪感が高ければ、国民から声が上がり、廃止されるはずだからだ。日本人はたぶん、「極悪非道な犯罪者は、死を以って償うべきだ」という発想にさほど違和感を覚えないのだと思う。

しかし現在、世界中の多くの国で死刑制度が廃止されている。先進国で死刑が存在するのは、日本・アメリカ・韓国ぐらいであり、さらに韓国では長年執行されていない。「死刑制度」という常識は、世界全体で見るとかなり少数派だと言えるのだ。

あるいは、「鯨肉を食べること」も欧米からよく非難される。日常の食事に出てくるわけではないので、若い世代ほど鯨肉を食べたことはないと思うが、しかし「鯨肉を食べること」に抵抗を感じることも特にはないだろう。しかし、欧米人からすれば、それは許されないことであるようだ。この感覚も、なかなか日本人には理解できない。さらに、ロブスターやタコを「生きたまま調理すること」が違法になるかもしれないというイギリスのニュースを目にして驚いたこともある。「痛みを感じている」という証拠が集まってきたからだそうだ。実際、ロブスターについては既に、生きたままの調理を禁止している国がいくつかある。

どうだろうか。この辺りの感覚も、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものだろう。それもこれもすべて、「私たちにとっての常識」と「世界にとっての常識」が異なることによるものなのだ。

だから、「かつてのアメリカ南部の常識」に従って行動していた者たちを、「現代の常識に照らして『酷いことをした』と捉え、非難すること」はフェアではないと私は感じる。

では、「奴隷制度」を知ることは私たちに何をもたらすのだろうか。それは、「『100年後、200年後の人たちから非難されるような言動を、私たち自身も今まさにしてしまっているかもしれない』と想像してみること」である。「赤信号みんなで渡れば怖くない」というよく知られたジョークを使うと、私たちは、「赤信号だと気づかずに、みんなで赤信号を渡っている可能性」が常にあるのだ。

そしてそのような視点を持つために、本書は非常に有益だと言えるだろう。奴隷制度が存在していたアメリカ南部で、実際に奴隷として使役させられていた黒人女性本人が著した、「奴隷制度の現実」を生々しく描写する作品なのだから。

「近年発見された古典」という、特異な形で現れた作品

ハリエット・アン・ジェイコブズという無名の著者が、アメリカの古典名作ベストセラー・ランキングで、ディッケンズ、ドストエフスキー、ジェイン・オースティン、マーク・トウェインなどの大作家と、いま熾烈な順位争いを日々繰り広げている、と知ったら、皆さんはどう思われるだろうか。

訳者はこんな風に書いている。ディッケンズやドストエフスキーなどは誰もが知る古典作家だろうが、それら大作家の作品と並んで、ハリエット・アン・ジェイコブズという無名の作家が著した本が、古典作品として注目を集めているというのだ。

現代でも広く読まれている女性作家による女性主人公の名作「ジェイン・エア」(1847年)、「若草物語」(1868年)、「小公女(セーラ)」(1888年)と、本書はほぼ同年代(1861年)の作品である。

150年以上前に執筆された本書『ある奴隷少女に起こった出来事』はしかし、その後長い間その存在が知られることはなかった

本書は、本国アメリカでも、出版後一世紀以上、完全に忘れ去られていた。出版社の倒産により、結局は自費出版という形で世に出ることになった本書は、出版当時、関係者がまだ存命だったこと、並びに当時の時代背景から、「リンダ・ブレント」なるジェイコブズのペンネームで執筆された。

現在でこそ「古典作品」として注目を浴びる本作だが、執筆当時にはまったく評判にならず、歴史に埋もれてしまっていた。そして、後で触れるが、様々な経緯を経て、「奴隷だった黒人女性が執筆した作品」として再発見され、現在多くの読者を獲得しているのである。本書はその日本語訳というわけだ。

解説を担当した佐藤優は、本書を「ノンフィクション」ではなく「ノンフィクション・ノベル」と捉えている。「著者が晩年に、記憶を掘り起こしながら書いた」「著者の手記という形式で書かれているため、著者側の主張しかなく、悪く書かれている人物側の話を知ることができない」などの理由から、佐藤優は「ノンフィクション」と受け取るのは適切ではないと判断しているわけだ。

しかし一方で、「ノンフィクションではないというわけでもない」とも書いている。分類するとすれば「ノンフィクション・ノベル」だが、ほぼ「ノンフィクション」のようなものである、と言っているのだ。著者の記述で、客観的に調査が可能な事柄については、その後の研究でほぼ事実であることが証明されている。その上で彼女は、当時の心象風景まで可能な限り記述した。読者は基本的に、彼女の感情まで含めて「これが事実だった」と受け取っていいだろうと思う。

奴隷制度や奴隷を描く物語は多く存在する。しかしそれらはどうしても、「白人側の視点」「白人による想像」がベースとなってしまう。奴隷側の視点を、これほどリアルに、これほど的確に知れる機会は、これまで存在しなかったのではないだろうか。だからこそ欧米を中心にベストセラーとなっているのだと思う。

間違いなく「読むべき」と断言できる1冊だ

著者が本書の中で繰り返す「これは事実なのだ」という訴えと、「事実」だとは信じられていなかった理由

読者よ、わたしが語るこの物語は小説ではないことを、はっきりと言明いたします。わたしの人生に起きた非凡な出来事の中には、信じられないと思われても仕方がないものが存在することは理解しています。それでも、すべての出来事は完全な真実なのです。奴隷制によって引き起こされた悪を、わたしは大げさに書いたわけではありません。むしろ、この描写は事実のほんの断片でしかないのです。

「信じられないと思われても仕方がない」と著者が書くのも理解できる。「奴隷制度」と聞いて、私たちが漠然とイメージする状況を遥かに超える現実が描かれているからだ。「事実は小説よりも奇なり」とは言うものの、私たちはなかなかそんな現実に直面する機会がない。さらに描かれているのは、今から200年近くも前の話なのだ。「こんなことが起こったはずがない」と考えたくなるのも当然だろう

また著者は、こんな受け取られ方についても危惧している

わたしは注目を求めて、自分の経験を書いたのではありません。それはむしろ逆で、自分の過去について沈黙していられたならば、そのほうが心情的には楽であったでしょう。また、苦労話に同情してもらう意図もありません。しかし、わたしと同様に、いまだ南部で囚われの身である200万人の女性が置かれている状況について、北部の女性にご認識いただきたいと思います。その女性たちは、今もわたしと同様に苦しみ、ほとんどの者がわたしよりずっと大きな苦しみを背負っているのです。

「自分だけの問題だったら沈黙していた」という彼女の気持ちも分かるように思う。現代でも、性的被害を受けた人が、「自分が何をされたのか語ることに苦痛を感じる」という理由で訴えを起こせない状況は存在するが、彼女もまた同じような立場にあったというわけだ。過去の辛い出来事について、なるべく思い出さず、出来ることなら忘れてしまえた方が楽だったかもしれない。しかし彼女は、同じ苦しみの中にいる者たちのことを忘れることができなかった。自分の経験を語ることが、何かプラスに働くかもしれない。そうとでも考えなければ、これほど辛い記憶を呼び覚ますことなど出来なかっただろうと思う。

本書を読めば分かるが、とにかく、リンダ(ジェイコブズ)は「人間としての真っ当さ」に溢れている。「奴隷制度」という、鬼畜の所業としか言いようがない世界において、「正しく生きるための権利」を奪われ続けながら、それでも「真っ当さ」を手放すことはなかった。リンダは本書で、自らが犯した「不道徳な行い」についても触れている。しかしそれらは、「奴隷制度に抵抗する」という目的のためだけに行われたのである。

本書を読んで、「もし自分が同じ立場に置かれたとして、彼女と同じように高潔な生き方が出来ただろうか」と考えてしまった。「奴隷制度という大きなものに対して、何の力もなく、ただ権利を奪われ続けてきた黒人女性が、それでも真っ当であり続けようとした」というその姿勢を、私は凄まじいと感じる。私はきっと、彼女のようには生きられなかっただろう

本書『ある奴隷少女に起こった出来事』は執筆から120年間も忘れ去られていたのだが、その背景には様々な意味で「信じられない」という感覚がつきまとっていた。訳者はこんな風に書いている。

読み書きができないはずの奴隷が書いたとは思えない知的な文章、奴隷所有者による暴力、強姦の横行というショッキングな描写、七年間の屋根裏生活、そして現代日本の読者すらぎょっとする、不埒な医師ノーコム(ドクター・フリント)から逃れるために、十五歳の奴隷少女が下した決断――別の白人紳士の子どもを妊娠する――は、当時の読者にはかなりセンセーショナルであり、奴隷制の実情すら知らない、北部の読者の理解を超えていたため、本書は実話ではなく、「実話の体裁と取る作り話(フィクション)」だと受け止められた。

そもそも「奴隷に読み書きができるわけがない」と思われていたし、さらにその中身があまりに想像を絶するようなものだったために、長らく「白人が執筆した小説」だと受け取られていたというわけだ。そのせいでこの作品は、長く注目されることがなかった。

そんな本書に改めて光を当てるきっかけを作ったのが、J・F・イエリンという歴史学者である。イエリン教授は、奴隷解放運動家が遺した古い書簡を読んでいた時にたまたま、ジェイコブズの手紙が挟まれていることに気づいた。彼は元々、「著者不詳のフィクション」として本書を読んでおり、新たに見つかった手紙と文体が同じだと見抜いたのだという。そしてイエリン教授は、「手紙が存在するということは、フィクションだと思われていたこの作品の主人公も、実在した奴隷ではないか」と考えたのである。

これをきっかけに研究が進み、最終的に「ハリエット・アン・ジェイコブズという実在の女性が著した実際の出来事である」ということが1987年に証明された。これにより「再発見された古典作品」として注目が集まり、ベストセラーになったのである。

この再発見の過程もまた、凄まじいエピソードだと私は感じた

本書に記される「奴隷制度の酷さ」

この記事では、リンダ(ジェイコブズ)がどのような経緯を経て、最終的に「自由」を手にするに至ったのか、その詳細には触れない。その驚くべき真実は、是非本書を読んでほしいと思う。しかし、「彼女が『7年間も屋根裏部屋で生活した』という事実」には触れておくべきだろう。彼女は追っ手から身を隠すために、光のまったく差さない窮屈な屋根裏部屋で7年間という途方もない歳月を過ごすことになる。しかも、初めから「7年間で終わる」と分かっていたのならまだしも、彼女は「いつ終わるか分からない」という状況の中で屋根裏部屋での生活を続けなければならなかったのだ。その苦痛は想像に余りあるだろう。

6歳の時に「自分は奴隷なのだ」と認識させられた彼女は、奇跡的に幸運だったある短い期間を除いて、ほぼずっと辛い状況に置かれてきた。その人生は、フィクションだとしたら「リアリティが無い」と感じてしまうほど壮絶だ。強姦の強要とそこから逃れるための起死回生の一手、子どもたちを自由にするために自らを犠牲にする選択、そして追っ手から逃れ続ける日々。ほとんど気の休まらない人生を、それでも彼女は必死に駆け抜けていく。

そのような人生を語る中で彼女は、「奴隷制度」の酷さについて、様々に綴っている

だが、家畜として生まれたすべての人間に、いずれ必ず忍び寄る暗い影が、とうとうわたしに近づいてきたのだ。

奴隷が「家畜」程度の扱いしかされていなかったことが伝わる文章だ。ベジタリアンの人からすれば、私たちが牛や豚などの「家畜」を飼ったり食べたりする行為も酷く映るのかもしれないが、やはり私には、同じ人間の形をした存在を「家畜」扱いできる感覚が想像できずにいる。

もしも、わたしの子どもが、アメリカでいちばん恵まれた奴隷に生まれるのならば、お腹を空かせたアイルランドの貧民に生まれるほうが、一万倍ましに違いない。

ヨーロッパの貧民がいかに虐げられているかという話を、わたしはそれまでさんざん聞かされてきた。わたしがそこで出会った人々の大半が、その中でも最も貧しい人々であった。だが、茅葺きの彼らの家を訪ねてみて感じたことは、最もみすぼらしく、無知な者の状況も、アメリカで最も優遇された奴隷よりははるかに良い、ということだった。

これもなかなか凄い表現だ。「ヨーロッパで最もみすぼらしい者」が「アメリカで最も優遇された奴隷」よりも遥かにマシだというのだから。著者が描いた「奴隷制度の現実」が小説だと思われていたのも頷けるだろう。

わたしたちは、やっと奴隷制から逃げてきた。ここは、追手のいない、安全な地であろうこともわかっていた。でもこの世界で、わたしたちは孤独だった。愛するひとは、みんな故郷に置いてきた。悪魔のような奴隷制が、ひとの絆を、残酷に断ち切ってしまったのだ。

最終的に彼女は安住の地へとたどり着くのだが、そこでもまだ「奴隷制度の残酷さ」に囚われ続けてしまうというわけだ。20年以上に渡り、「絶望的」としか言いようのない闘いを繰り広げてきた彼女が、最終的に2人の子どもと再会できたことは、まさに「奇跡」としか言いようがない

あなたの心に正しいと思うものは、それが社会的にどうであれ、その代償がどうであれ、青春の最も楽しい時期の7年間、立つスペースもトイレすらない屋根裏に閉じ込められることになったとしても、つらぬく価値があると、奴隷少女のジェイコブズは証明してみせたのである。

訳者はそう書いている。そう、本書では、「奴隷制度の現実」が描かれているのだが、決して過去の歴史をなぞるだけの作品ではない。リンダの闘いから、「正しさを貫いて生きることの価値」を提示する作品でもあるのだ。

本書に書かれている具体的な内容で、最も心にグサグサ刺さるのは、やはり子どもに関する描写だろう。

子どものそばに横になるとき、この子がご主人に殴りつけられるのを見るよりも、息を引き取るのを見るほうが、わたしにはどんなに耐えやすいかと思った。

この女主人には七人の子がいたが、少女の母親にはたった一人しか子がなかった。そして、その子は永遠にまぶたを閉じようとしていたが、母親はそのとき、わが子をつらいこの世から連れて行ってくださる神に感謝しつづけていた。

母親が、子ども自身の幸せのために、子どもの死を切に願う」という状況がどれほど異常か、頭では理解できる。しかしやはり、その凄まじさを体感することは難しい。愛して止まない子どもの死を神に祈らざるを得ない状況はまさに地獄だ

そして、仮に願った通りに子どもが死を迎えたならば、当然それは、別の地獄へと続く道でしかない

子どもたち全員が連れ去られたあと、道で母親に出会った。そのときの狂ったような、ギラギラした目をした彼女の顔が、今でも目に浮かぶ。「いなくなった! 子どもはみんないなくなった! なのに生きろと神はあたしに言うの?」女は、怒りに身を震わせて大声で叫んでいた。わたしにはかける言葉がなかった。こういう出来事は、毎日、いや、毎時間のように起きていた。

また、奴隷雇入れの更新日は年明けと定められていたのだが、年越しを迎える母親のこんな心情についても綴られている。

奴隷の母親にとって、新年は特別な悲しみでいっぱいの季節である。母親は、小屋の冷たい床に座りこみ、翌朝には取り上げられてしまうかもしれない子どもたちの顔を、じっと眺める。夜明けが来る前に、いっそ皆で死んでしまったほうがいい、と何度も考える。奴隷の母親は、制度のために人間の格を下げられ、子ども時代から虐待を受け、愚かにしか見えない生き物かもしれない。けれど、奴隷にも母親の本能があり、母親にしか感じられない苦しみを感じる能力はあるのだ。

「家畜」でしかない奴隷の場合、産んだ子どもは売りに出され、離れ離れにさせられてしまう。自らの意志で子どもを手放すのであればともかく、強制的に自分の手から奪われてしまうのだ。その悲しみはどれほど大きなものだろうか。

しかし、奴隷を所有する白人については、次のように書かれている。

フリント婦人は、奴隷に感情が持てるとは、一度も考えたことがなかった。

本当にこの感覚は、私には理解しがたい。少し話はズレるが、以前テレビで害獣駆除がとり上げられていたのだが、その中である猟師が、「猿だけは撃つのに躊躇してしまう」と語っていた。仕草が人間に似ているので、どうしても躊躇いが生じるというのだ。なんとなく理解できる感覚ではないだろうか。

猿に対してさえそう感じてしまうのだから、同じ人間に対して、あたかも人間ではないかのような振る舞いを続けられる感覚は私には想像し難い。しかし一方で、「黒人には感情も思考力もない」と考えなければ、「奴隷制度」などという野蛮な仕組みは成立しなかっただろうとも感じる。いずれにせよ、人間の愚かさ・非道さを強く実感させる信じがたい現実であることに変わりはない。

それまで何度も死を願ってきたが、そのときは赤ちゃんが一緒に死なない限り、死にたくなかった。

この仕打ちは相当わたしの身にこたえた。だが、ドクターを呼ぼうと言う周囲に、このまま死なせてほしいと頼んだ。ドクターがそばにいることほど、恐怖を感じるものはなかった。わたしは何とか回復し、子どもたちのためには、死なないでよかった、と思った。十九歳だったが、子どもとわたしを結びつける絆がなければ、死によって自由になれるほうが、わたしにはうれしかった。

「奴隷として生きる」というのは、「当たり前のように死を請い願う」ということでもある。「死」こそが唯一の「自由」というわけだ。一方、ジェイコブズはこうも書いている。

鞭で打たれる痛みには耐えられる。でも人間を鞭で叩くという考えには耐えられない。

この指摘は非常に重要だと感じた。確かにその通りだ。まったく次元の違う話ではあるが、私も日常生活の中で似たような思考をする機会がある。相手の行為そのものよりも、「『その行為をしても良い』と考える思考そのもの」に対して強く嫌悪感を抱いてしまうことがあるのだ。そして、そういう感覚を持ち続けたからこそ、彼女は、

まっすぐな生き方がわたしは好きで、言い訳に逃げることは、いつでも気がすすまない。

という強さを発揮できたのかもしれないとも思う。客観的に捉えられる「見た目」の部分がどれほどみすぼらしくても、「せめて『中身』だけは高潔であろう」というスタンスこそが、悲惨すぎる現実に抵抗しつつ奇跡的な結末を迎えるという現実を引き寄せたのだと私は考えたい。

「奴隷制度」は当時の「常識」だった

この記事の冒頭で、「奴隷制度は当時の常識だった」という話に触れたが、ここではさらにその点を深めていきたいと思う。

訳者はこんな風に書いている。

本書の登場人物はすべて、現実に存在した私のような普通の人々である。いわゆるアッパーミドルクラス出身の私が、もし当時のアメリカ南部州に生まれていたら、両親も友人も、よろこんで私を「お天気ばかりが続く気候や、鼻をつけた蔦が、家庭の幸せを守ってくれる」(第六章)と信じて奴隷所有者のもとに嫁がせただろう。そして私はすぐにそれに付随する失望に気づき、自尊心の欠如のあまり、奴隷が私をだましているのではないかと猜疑心の虜になり、鍋につばを吐いて回り、嫉妬に狂い、奴隷を鞭打つフリント夫人のようであったかもしれない、と真剣に思う。

「その当時のアメリカ南部に生まれていたら、やはり『奴隷制度』に疑問を持つことは難しかったかもしれない」と指摘しているのだ。現代の常識で考えれば、「奴隷制度」に与していた白人は”明らかに”「悪」だと感じられる。しかしだとしても、リアルタイムでそのことに気づけるかはまた別の問題というわけだ。

だからこそ、本書で描かれる、黒人奴隷に対しても真摯で誠実な態度を取り続ける白人の存在に、ホッとさせられる思いがする。決して多くはなかっただろうが、そのような白人も存在したのだ。私も、「常識」が世論を押し流しているように感じられる状況において、安易にその流れに乗るのではなく、自分の判断で決断できる人間でありたいと感じさせられた。

また著者のジェイコブズは、読者に向けて、「『奴隷制度』を理解することの難しさ」について、こんな風に訴えている。

良識ある読者よ、わたしを憐れみ、許してください! あなたは奴隷がどんなものか、おわかりにならない。法律にも慣習にもまったく守られることがなく、法律はあなたを家財のひとつにおとしめ、他人の意思でのみ動かすのだ。あなたは、罠から逃れるため、憎い暴君の魔の手から逃げるために、苦心しきったことはない。主人の足音におびえ、その声に震えたこともない。わたしは間違ったことをした。そのことをわたし以上に理解しているひとはいない。つらく、恥ずかしい記憶は、死を迎えるその日まで、いつまでもわたしから離れないだろう。けれど、人生に起こった出来事を冷静にふりかえってみると、奴隷の女はほかの女と同じ基準で判断されるべきではないと、やはり思うのだ。

だからと言って、幸せな読者のお嬢さん方、憐れで孤独な奴隷少女を、どうぞあまりきびしく判断しないでください。あなたは子ども時代から、ずっと純血が庇護される環境に育ち、愛をむける対象を自由に選べ、「家庭」というものが法に守られているのですから。もしも奴隷制がとっくに廃止されていたなら、こんなわたしだって好きな男性と結婚できただろう。法に守られた家庭を持っていただろう。そして、これから物語るような、つらい告白をしなければならないこともなかっただろう。

本書を読んで、「そんなはずはないだろう」「もっと何か出来たはずだ」と感じる人もいるのかもしれない。個人の感想にケチをつけるつもりなどないのだが、しかし、やはりそれは「想像力の欠如」と言わざるを得ないだろう。

あまりにも信じがたいことが、実際に起こり得る。だからこそ、どれだけ想像の及ばない世界であっても、やはり私たちはその現実を理解しようとすべきだろう。人類はその後も、ホロコーストや9.11同時多発テロなど、本当に起こったとはとても信じられないような現実を経験している。これからもきっと、何度でも起こるだろう。

その時そこで何が起こったのか。私たちはそれをきちんと知り、想像し、その上で、「『常識』に流されるのではない『正しさ』」を生きる努力をすべきだと改めて感じさせられた。

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最後に

本書は、様々な受け取り方ができる作品だと思う。人間はどれほど残虐になれるのか、そして、どれだけ高潔さを保ち続けられるのか「常識」がいかに人々を過ちへと導くかを理解させてくれるし、正しい振る舞いがどれだけ人の心を打つのかを実感させてもくれる。

辛いだけの物語であれば決して勧めはしない。しかし、人が人として生きる上で忘れてはならない「大事な何か」が詰まった作品だと私は思う。

200年前の悲鳴を正しく捉え、「『正しくない常識』にNOを突きつけられる存在でありたい」と感じさせられる作品だ。

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