【あらすじ】蝦夷地の歴史と英雄・阿弖流為を描く高橋克彦の超大作小説『火怨』は全人類必読の超傑作

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

講談社
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 学校の授業で「歴史」が一番嫌いだった私でも大興奮させられてしまった1冊
  • 「蝦夷」という蔑称で呼ばれていた「陸奥」(今の東北地方)で無謀すぎる闘いに挑んだ者たちを描き出す物語
  • 英雄的なリーダー・阿弖流為と、天才策士・母礼のコンビが素敵すぎる

これほどの物語にはなかなか出会えないだろうと感じさせられる、珠玉の小説だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

死ぬまでに絶対に読んだ方がいいと断言できる、英雄・阿弖流為を描く高橋克彦の超傑作『火怨』の凄まじさ

なるべくこういう安易な表現は使わないようにしているのだが、この作品についてはこう言わざるを得ない。死ぬまでに絶対に読んだ方がいい1冊だと。これほどの物語に浸れる経験など、そうそう得られないだろう

先に書いておくと、私は「歴史小説」が得意ではない。元々理系の人間だということもあり、そもそも歴史の授業は何よりも一番嫌いだった。年号や人物名はほぼ覚えていないし、「普通の日本人ならこの程度の歴史の知識は持っているだろう」という最低限のレベルにさえ達していないはずだ。この「知識不足」は、歴史モノの小説を読む際にはかなりの障害となる。

さらに本書は、上下巻合わせて1000ページを超える、とんでもない大作なのだ。本書の存在は昔から知っていたし、傑作だという評判も聞いてはいたのだが、歴史に対する苦手意識と、物語の長大さに、なかなか手を伸ばせないでいたのである。

手に取るきっかけになったのは、短い期間ながら東北地方に移り住んだことだ。『火怨』の舞台となる「蝦夷地」は、今の東北・北海道のことである。著者の高橋克彦も東北出身であり、私が働いていた書店でも、地元作家として強く推し出していた。恐らくだが、東北に住むことがなければ、今も『火怨』を読んでいなかっただろうと思う。

読んでみて驚いた。本当に、とんでもない小説だったのだ。私はこれまでに、4000冊近くの本を読んできた。小説以外の本も多く読むので、半分が小説だとして2000冊だ。その中でも、間違いなくトップ10に入る作品だと言っていい。凄かった。歴史が嫌いで苦手だという人間をここまで震わせるのだ。当たり前のように歴史に関心を持てる人なら、もっと衝撃が強いのではないかと思う。大げさではなく、ページをめくる手を止めることができなかった

人生のどこかで是非、『火怨』と出会ってほしいと思う

酷い扱いにさらされ続けた蝦夷の民が置かれた状況と、彼らが挑んだ無謀な闘い

物語の舞台は西暦700年代、奈良時代である。710年に奈良に平城京が築かれて以降の東北地方の物語だ。

当時は「陸奥」と呼ばれていた地だったが、「蝦夷」という蔑称も存在した。都がある奈良からは、陸奥はあまりにも遠い。だからこそ当時の朝廷は、「陸奥に住む者は人間ではなく獣」だと考えて、その存在を蔑ろにしていたのである。

その事実は、「蝦夷」という蔑称で呼ばれた地に暮らす者たちにもプラスに働いていた。蔑まれていたからこそ関心が向けられることもなく、朝廷やら貴族やら政治やらと関わらずに平穏な日々を送ることが出来ていたからだ

しかし749年に状況は大きく変わる。多賀城に近い小田郡で黄金が見つかったのだ。この黄金を奪うために、朝廷は蝦夷を攻め落とそうとする。そして、そんな朝廷の侵略から土地を守る民たちの物語というわけだ。

蝦夷の者たちに突きつけられた現実は、あまりに厳しかった

蝦夷が勝つ策はたった一つ。一度たりとも敗けぬことです。それも十年やそこらではとても足りますまい。五十年、いや百年を敗けぬことで、朝廷も陸奥から手を引きましょう。

悲壮な覚悟を抱いて、彼らは目の前の現実に立ち向かった。実際のところ、蝦夷の者たちにとって「黄金」など何の価値もない。しかしだからと言って、闘いを諦めるわけにはいかなかった

黄金や土地を守るだけの戦さであるなら俺も首を横に振る。しかし、蝦夷の心を守る戦さとなればこの身を捧げてもいい。

朝廷から「獣」だと思われていようが、彼らにも彼らなりの矜持がある。黄金が出たから寄越しなさいと言われて「はいそうですか」と返せるはずもないだろう。これは、人間の尊厳の問題だからだ。蔑まれてきた者たちが、蔑まれ続けることを拒絶するために闘いに挑むのである

敵はほとんどが無理に徴収された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空のために戦っている。

私たちは、ロシアとウクライナが戦争の只中にある世界を生きている。そして、朝廷と蝦夷の民の闘いはまさに、ロシアとウクライナの闘いの構図を連想させるだろう。ロシアと朝廷は、一握りの人間しか闘う意志を持っていない。寄せ集めの兵に無理やり戦わせているだけだ。一方、ウクライナと蝦夷の民は、大切なものを守るという強い意思を共有する者たちが一丸となって立ち向かっている。その団結力は圧倒的だ。結局のところ、愚かな為政者のやることも、愚かな為政者に振り回される者たちの悲哀も、時代に依らず大差ないのである。

大事なことは、「蝦夷の民は、自分たちが何のために闘っているのかを明確に自覚している」ということだ。だからこそ、無用な殺生はしないし、可能な限り犠牲の少ない策を取る。彼ら自身が望む闘いではないからこそ、「なぜ闘うのか」を見失わない。見失ってはならないと言い聞かせている。

その中心にいるのが、阿弖流為だ

兵らはそなたとともに死ねるのを幸せとしているのだ。たとえだれに分かって貰えずとも満足して果てる。そうに違いない。

阿弖流為は、そう言わしめるほどの存在感を放つ。『火怨』は蝦夷の者たちの物語ではあるのだが、究極的には阿弖流為の物語だと言っていい。

この二十二年の永い戦さは、蝦夷のはじまりとなろう。終わりではない。阿弖流為という男を生むための戦さであった、と田村麻呂は思い至った。

阿弖流為がどのように蝦夷のリーダーとなり、いかにして蝦夷を守る戦いに臨み、最終的にいかなる決断に至ったのか。その物語は、読む者すべてを震わせるはずだ。

本の内容紹介

蝦夷の地で黄金が発掘されたことで、朝廷の関心は一気に蝦夷へと向く。蝦夷に住んでいるのは所詮「獣」――そう蔑んでいるからこそ、朝廷はなんの躊躇もせず出土した黄金を奪いに掛かる。

蝦夷の者たちは当初、朝廷に抵抗せずにいた。そもそも彼らにとって黄金など無用の長物でしかなかったし、さらに5千~1万もの朝廷軍に対抗できるほどの力を有していなかったからだ。

しかし朝廷は次第に、黄金を奪うだけではなく、蝦夷の地の支配も目論み始める。朝廷軍が多賀城周辺に長く留まり続け、その間に少しずつ朝廷側に寝返る者が出始めたのだ。寝返った者たちが権勢を振るうようになり、そんな彼らを巧みに利用して蝦夷を支配しようとする――そんな侮蔑的なやり方に、蝦夷の民は我慢ならなくなった

蝦夷の誇りを奪うようなやり方は許せない。それまで静観していた蝦夷の民は、朝廷軍を迎え撃つ。

780年、蝦夷での戦いに転機が訪れた。きっかけは、朝廷側に寝返った伊治公鮮麻呂が、胆沢の長である阿久斗の元へ使いを送ったこと。裏切り者だと思われていた鮮麻呂、その使者が口にした計画は驚くべきものだった。なんと、朝廷軍の要職に就く紀広純と道嶋大楯の2人を暗殺するというのだ。

鮮麻呂は朝廷軍に深く入り込んでおり、信頼も篤い。それゆえ、2人は、築城の検分にもごく僅かな兵のみを率いてやってくる。そこで胆沢の者には城攻めをして、注意を外へと向けてもらいたい。使者はこの伝言を伝えるべくやってきたのだ。鮮麻呂による暗殺計画は無事に成功した。こうして、蝦夷の民の闘いは、さらなる高みへと向かっていくことになる。

その過程で、阿久斗の息子・阿弖流為が、蝦夷の民を束ねるリーダーとして抜擢された。彼は、自身が持つ「人心を掌握する手腕」と、黒石の知恵者・母礼が組み立てる奇策を駆使して、数では圧倒的に不利な戦闘において、次々に勝利を収めていく

蝦夷が蝦夷であること。それだけだ。

「何を求めるのか?」と問われてそう答えた蝦夷の民による、高潔で峻烈な凄まじい闘いの物語

本の感想

本書の記述がどこまで「事実」に即しているのか分からないが、恐らくそのほとんどが創作だろうと思う。普通に考えて、当時の蝦夷の記録がそこまで残っているとは思えないからだ。『火怨』には、「続日本紀」からの引用も僅かにあるが、「続日本紀」はそもそも朝廷による歴史書である。当然、蔑んでいた蝦夷の地についての記載が多いとは思えない。つまり、本書の記述のほとんどは、著者・高橋克彦の類まれな想像力が生み出したものだと受け取るべきだろう。

しかし同時に、私はこうも感じた。当時蝦夷の地で闘いに挑んだ者たちがもし『火怨』を読んだとすれば、「俺たちはこんな風に闘ってきた」と感じるのではないか、と。そう思わせるくらい登場人物が魅力的に描かれるし、戦闘の様子についてもまるで見てきたかのように描写されるからだ。

物語全体の構成や展開は「典型的」と言っていいだろうと思う。阿弖流為は元々無名の存在だった。確かに、胆沢という一地域の長の息子ではあったが、蝦夷全体で知られていたわけではない。そんな人間が、様々なきっかけを経て少しずつ仲間を集め、無謀な闘いに挑んでいく。母礼という天才策士が次から次へと生み出す奇策を、阿弖流為の類まれなリーダーシップによって実現させ、普通なら勝てるはずのない相手に勝ち続ける。そんなマンガのような物語だ。

しかし、ベタな展開だからと言って侮ってはいけない。物語の骨子が王道中の王道だからこそ誰が読んでも馴染めるのだし、その上でさらに、とにかく登場人物が魅力的に描かれるのだ。

阿弖流為や母礼といった主役級の人間はもちろんのこと、決してメインとは言えない者たちにもきちんと見せ場が用意されている。「蝦夷のために」という想いで集まった者同士とはいえ、当然、全員が同じ考えを持っているわけではない。しかし、時に意見がぶつかりつつ、次第にそれぞれの想いが増幅し合い、それぞれが成すべき役割として結実していく。その描かれ方が見事だと思う。

そしてやはり何よりも、阿弖流為と母礼が素敵だ。彼らがそれぞれに持っている考え方も、2人の関わり方も素晴らしい。阿弖流為は、「自己犠牲も厭わない」という想いを強く持ちながらも、「リーダーとして少しでも長く生きて人々を率いなければならない」という考えの間で揺れる。そして母礼は、そんな阿弖流為を死なせないために、朝廷軍が攻めてくる度に極上の策を練り上げるのだ。このコンビはとにかく最高なのである。

戦闘シーンには、毎回圧倒されてしまった。そもそも、兵の規模がまったく違う戦いだ。朝廷軍は、数万単位で兵を繰り出すし、さらにそれを何年でも何十年でも続けることができる。一方蝦夷の民は、初めの頃などたった数千の兵で立ち向かわなければならなかった。普通に考えれば無謀すぎる闘いであり、なんとかなるはずがない

しかし、蝦夷には母礼がいる。母礼の策はとても鮮やかだ。川と山に囲まれた地の利を最大限に活かした闘い方、そして情報戦で相手を揺さぶる揺動。それらを見事に駆使して、不可能を可能にしていく毎回数だけでゴリ押ししてくる朝廷軍が蹴散らされる様に、読者のニヤニヤは止まらない

そして、私が本書を読む前に唯一名前を知っていた「坂上田村麻呂」が登場することで、戦いの様相は大きく変わっていく。坂上田村麻呂は最強の軍師である。しかし朝廷軍は、彼を上手く使いこなせずにいるのだ。坂上田村麻呂が全力を出せる環境を作れば間違いなく勝てるはずなのだが、様々な状況がそれを許さない。

面白いのは、蝦夷の民も坂上田村麻呂も、お互いに尊敬の念を抱いているということだろう。彼らは今、たまたま対立する立場にいるだけなのだと諒解している。人としてお互いを尊重する者同士の闘いはますます洗練され、礼を尽くしたものになっていく。闘う理由を見失わない蝦夷の民と、蝦夷の民の強さと賢さを誰よりも理解している坂上田村麻呂が相まみえるからこそ行き着いた見事な結末には、感動してしまうはずだ。

本当に素晴らしい物語だと思う

講談社
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最後に

人間が人間として生きていくのに必要なすべてのことが詰まった作品ではないかとさえ感じる作品だ。今の時代なかなか、「矜持」「信念」といった言葉は当たり前には通用しないだろうと思うが、そのような感覚が当たり前のように根付いていた時代を駆け抜けたカッコ良すぎる者たちによる「生きるための闘い」を是非読んでみてほしい

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