【残念】日本の「難民受け入れ」の現実に衝撃。こんな「恥ずべき国」に生きているのだと絶望させられる映画:『東京クルド』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「東京クルド」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • 日本の難民認定率は、たったの0.5%
  • 日本人の若者より丁寧に日本語を喋るクルド人難民が、日本で働けずにいる
  • 入管管理局での難民への対応があまりにも酷すぎる

私たちがどれほど「恥ずかしい国」に住んでいるのかが理解できる、非常に”残念”な映画だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「日本における『難民』の現状」を私は何も知らなかったし、そのあまりの酷さに絶望した

2021年3月、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋市の入館施設で亡くなった事件は、まだまだ記憶に新しいだろう。あまりに衝撃的な事件だった。ウィシュマさんの事件そのものについてこの記事では詳しく触れない。しかし、そもそも私はこのニュースに触れた時点で、「ウィシュマさんがなぜ入館施設に収容されていたのか」さえ知らなかった。その後この映画を見て私は、日本における難民の実態に驚愕することになる。

映画『東京クルド』はまさに、このウィシュマさんの事件をきっかけに公開が早まったそうだ。トークショーで監督が、「異例のスピードで公開までの準備が進んだ」と話していた。映画自体は2021年4月に完成し、通常なら半年から1年掛けて公開までの準備をするそうだが、この映画は完成から3ヶ月ほどで公開に至ったという。ウィシュマさんの事件、そして入管法の改正が議論されようとしていたことを背景に、一刻も早く観てもらいたいと関係者が動いたそうだ。

映画の話もする、年下の20代の友人にこの映画を勧めたことがある。彼女は普段ドキュメンタリー映画を観るタイプではない。ただ、少しずつ社会問題に関心が出てきたそうで、既に公開館が減っていた時期だったが、電車で1時間以上掛かるだろう映画館まで足を運んで観てくれた。「この現実は知らなければいけないですよね」と言っていたので、彼女にもその衝撃が突き刺さったのだと思う

私たちは、こんな「恥ずかしい国」に生きている。本当に、全然知らなかった。「自国を『恥ずかしい』と感じずにいたい」みたいな利己的な動機でもいいから、私たちはこの現実に「NO」と声を上げるべきだと思う。

日本の難民の現状整理と、私の基本的なスタンス

私がこの映画を観る前に知っていたのは、「日本の難民受け入れ率は他の先進国と比べて圧倒的に低い」という事実だけだった

どのぐらい違うのか。2020年のデータを元にした記事を以下にリンクしておく。

この記事では「認定数」と「認定率」が示されている(棒グラフは、「認定数」を比較している)。ドイツ・カナダ・フランス・アメリカ・イギリスとの比較がなされており、日本は当然最下位だが、この6ヶ国中5位のイギリスと比べてもその違いは歴然だ。イギリスが「認定数:9108人 認定率:47.6%」なのに対し、日本は「認定数:47人 認定率0.5%」となっている。まともな比較が出来るレベルの数字ではない。

なぜ日本はの難民を受け入れないのか」については、様々な議論・意見があるだろう。しかしこの映画では、ほとんどその点には触れない。映画ではとにかく、「日本に住む難民が今どんな状況に置かれているのか」を客観的に切り取ることに専念するのだ。だからこの記事でも、「なぜ」には触れない。「なぜ」を理解することよりも、1人でも多くの人が「難民」の現実に関心を持ち、その無形の関心が有形の力に変わることの方が大事だと思うからだ。

さてもう1つ理解しておくべき点がある。先ほどウィシュマさんの話で少しこの疑問に触れたが、「なぜ日本の難民は入館施設に収容されるのか」だ。私はそもそもこの点をまったく理解していなかった。事実を知った今は、なんとなく自分の内側にずっと、そこはかとない怒りが滞留している感じがある。それほど信じがたい現実なのだ。

日本で難民申請を行っている者は、「仮釈放」という状態にある。しばらくこの「仮釈放」という言葉の意味がまったく分からなかったが、映画を観ていく内に徐々に理解できるようになった。

彼らは「難民」であり、「日本国内で生活する権利を持たない人」という扱いになる。だから本来は日本での生活が許されない。ただ、「日本で難民申請している者」を「日本での生活は許さない」と扱うのはさすがに理屈が通らないだろう。そこで「収容施設」の登場となる。「難民申請者は日本で生活する権利を持たないので、収容施設に留まってください」というわけだ。しかし当然、施設にも収容人数の限界があり、申請者全員を収容することはできない。つまり、「本来あなたは収容施設にいなければなりませんが、その状態から今は仮に釈放されていますよ」というのが「仮釈放」である

要するに、「難民申請を出していて、収容施設に留め置かれていない難民」は全員、「仮釈放」中ということになるわけだ。そんな事情をそもそもまったく知らなかったので驚かされた。

2019年のデータが映画で示されるが、全国の施設に1000人以上の難民が収容されているそうだ。収容期間に定めはなく、また長期化する傾向にもあるようで、中には申請が通らないまま7年以上も施設から出られずにいる者もいるとのことだった。

「仮釈放」の状態は、理由もなく終了してしまう。つまり、ある日突然収容施設入りが決定するのである。それを知って私は、適切な表現ではないかもしれないが、ホロコーストを連想してしまった。

もちろん、難民はその時点では日本国内で生活する権利を持たないのだから、「申請期間中に留まってもらう収容施設が存在すること」そのものは真っ当な仕組みだと思う。しかし日本の場合、難民認定率が0.5%と極端に低い。つまり必然的に、「難民申請をしてもほとんど受け入れられず、収容施設にひたすら長い間閉じ込められるだけ」になってしまうし、そのことは大きな問題だと感じる。そしてこのような現状だからこそ、ウィシュマさんのような痛ましい事件も起こってしまうのだ。

さらにこの「収容(仮釈放状態の解消)」は、「家族を引き裂く」という問題を生みもする。

映画では主に2人の若者に焦点が当てられるのだが、彼らは幼い頃に祖国を離れ、家族と共に日本へとやってきた日本の小中高を卒業しており、日本語はペラペラだ。日本で家族と共に暮らし、学業や仕事の基盤も日本にあるのである。

そして、そんな風に「既に日本で生活の基盤を築いている家族」もまた、容赦なく収容施設に入れられてしまう。つまり、妻や夫、子どもたちと離れ離れにさせられてしまうのだ。

正直、「とんでもないことをやっているな」と感じた。もちろんこれは、「法」に則った措置なのだと思う。現場の人たちも葛藤や苦悩を抱えながら仕事をしているのかもしれない。しかしそうだとしても、入管の行為はあまりに酷い

これが、「日本にいる難民申請者」を取り巻く状況だ。私と同じように、こんな基本的な情報さえ知らずにいる人が多いのではないかと思う。

さてもう1つ、先に書いておきたいことがある。それは、「人」ではなく「法」が悪いということだ。

私は、この映画で描かれる「日本の現状」に怒りを覚える。そしてうっかりすると、その怒りを「現場で働く人たち」に向けてしまいがちだ。しかし私はそれを自制する。現場の人がまったく悪くないわけではないとも思う。しかしその人たちも「入管という環境」でなければそんな酷い振る舞いをしないはずだと信じたい気持ちもある。「環境」こそが、「酷い振る舞い」を生んでいるという理解だ。

そして、そんな「環境」を生み出しているものこそ「法」である。現場の人たちは「法」に基づいて行動しているはずだし、「法」と自身の「倫理・道徳」が対立する場面も多々あるだろう。その中で、複雑な思いを抱きながら仕事に向かっているのだと思う。もちろん中には、「法に従っているとしてもあまりに酷い」と感じる振る舞いもあるし、個人に対して怒りを抱いてしまう場面もある。しかし結局のところ、現場の人に怒りをぶつけたところで現実は何も変わらない

そして、この点が何よりも重要なことだが、その「法」を直接間接に生み出しているのは、私たち自身なのだ。私たちは、「反対の声を上げない」という形で、様々な「法」に間接的に「賛成」している。「悪法」としか思えないルールが残っている責任の一端は我々にもあるのだ。

だから、この映画で突きつけられているのは、次のような問いだと理解すべきだろう。

あなたたちは、この「悪法」をこれからも放置するのですか?

「難民」と聞くと、自分ごととは感じられないかもしれないが、これは紛れもなく、私たちの問題なのである。

東京入国管理局に救急車が入れない

この映画には、まさに「衝撃」しかないと感じるほど、随所で信じがたい描写が多数登場するのだが、中でも驚かされたのが「家族が呼んだ救急車を、東京入国管理局が追い返した場面」だ。私は何となくしか覚えてなかったが、この事件は当時テレビのニュースなどでも報じられた。

そして、この時救急車に乗せてもらえてなかった人物こそ、この映画の主人公の1人であるラマザンの叔父・メメットなのだ。

状況はこうである。2019年3月12日、東京入国管理局に収容されていたクルド人難民のメメットさんの容態が悪化したため、家族が救急車を呼んだ。救急車は東京入国管理局の前までやってきたのだが、東京入国管理局の職員が追い返してしまう。救急車は2度呼ばれたが、2度ともそのまま帰らされてしまったのだ。映画を観ている限り、救急車は入れないとして、救急隊がメメットさんに会えたのかどうかさえ分からなかった。調べてみると、最終的に彼は、最初に救急車が呼ばれてから30時間後に病院に搬送されたそうだ。脱水症状だった。

この件について、東京入国管理局側がどのような声明を発表しているのか(あるいはしていないのか)、映画では語られていない。ネットで調べてみると、東京入国管理局は「メメットさんには適切な治療を行った」と嘘をつき救急車を追い返した疑惑があるそうだ。

この時何が起こっていて、双方の主張がどのように食い違うのかを知らないとしても、「救急車を2度も追い返す」という対応は常軌を逸していると感じないだろうか? 上の記事では、当時国会でも問題になったと書かれているので、恐らく当時の東京入国管理局の対応は「法に則っている」とは認められない可能性が高いのだと思う。しかし、仮に法に則った対応だったとしたら、「その法律は間違っている」と声を上げるべき事案だろう。

映画では、2021年5月時点の情報として、「日本では2007年以降、収容中に死亡した難民申請者は17名おり、その内の5名が自殺だった」と触れられていた。もちろん、これらの事案に対して収容施設側に非があるのかは分からない。しかし、メメットさんやウィシュマさんの事例から、他の死亡例についても、収容施設側の対応に許容し難い問題があったのではないかと考えることは妥当だと思う。

私たちはこのような現実を無視していていいのだろうか

難民を「人間扱いしない」日本

上映後のトークショーで監督が、

日本の入管法では、『難民には早期退去してもらう』という方針があり、入管(入国管理局)の人たちはその方針に基づいて働いている。

と語っていた。これは要するに、「入管で働く人が悪いわけではない」という監督のスタンスの表明である。実際に、「入管で働く人を『悪』として描く意図はない」とも断言していた。先述した通り、私もそのスタンスには賛同だ。どうしても個人に向けてしまいたくなる「怒り」を自制しながら映画を観た。

しかしやはり、「法に従っている」とはいえ、入管における難民の扱いは「酷い」の一言に尽きる

先ほど「仮釈放」について説明したが、仮釈放中の者たちは1~2ヶ月に1度入国管理局に出向き、面談を受けなければならない。映画の中では、オザンというもう1人の主人公がこの面談中の音声を録音したものが流される。

そのやり取りは、驚くべきものだった

面談の中ではまず、「仮釈放中の人は働いてはいけない」というやり取りが交わされる。このやり取りを聞いている時点で私は、まだ「仮釈放」の意味を理解していなかったので、この「働いてはいけない」という話が理解できなかった。要するに、「難民申請中は日本で生活する権利がないのだから、当然『勤労』も認められない」という意味である。

オザンは解体現場で働いており、彼はその事実を隠してはいない。入管の人も基本的に、「ルール上ダメだが黙認している」というスタンスのようだ。そして、オザンが働いていることを知った上で、「難民申請者は働いてはいけない」とお決まりのように口にしている、というやり取りのように思えた。

オザンとしてもいつもの会話だったはずだが、音声を録音している意識も働いたのだろう、入管の人に「仕事をしないでどうやって生きていくの?」と聞き返す。それに対する職員の返答が衝撃的だった

それは私たちにはどうにもできない。あなたたちでどうにかしてほしい。

あくまで私の印象に過ぎないが、職員はこれを「半笑い」で言っていたのだ。

もちろん「半笑い」になるのは、「これはお決まりのいつものやり取りだし、とりあえず自分の立場としても『仕事をしてはいけない』と言わないわけにはいかないんだよね」という気持ちの表れだろうとは思う。私も、この入管職員と同じ立場に立たされれば、「半笑い」で返答していたかもしれない。その立場に立ってみなければ分からないことはどんな状況だってあるものだ。だから、「半笑い」であることを殊更責め立てるつもりはない。ただやはり、聞こえ方の印象としてはとても悪いだろう。「難民」を軽んじ、「人間扱いしていない」というイメージが強くなる。

さて、オザンが隠し録りした音声はもう1種類別の場面で流れる。そして、そこでの入管職員とのやり取りが、この映画における最大の衝撃だった。

入管職員からオザンは「無理やり”帰される”ことも覚悟してください」と言われる。元々難民に対して厳しすぎる日本が、近年さらにその厳しさを増しているようなのだ。しかし繰り返しになるが、この映画で焦点が当てられる2人の若者は、幼い頃に家族と共に日本にやってきたのだ。彼らは人生のほとんどを日本で過ごしており、「帰る場所」などない。本当に「帰される」ことになれば、両親の祖国へと送還されるのだろうが、彼らからすれば「帰国」とは捉えられないだろう

だから当然オザンは、「帰れないんだよ」と職員に答える。するとそれを受けて職員が、

他の国行ってよ、他の国。

と発言するのだ。

この発言は、字面だけからも「投げやり感」が滲み出ると感じるだろう。実際に音声で聞くと、「こっちも仕事なんだよ。めんどくせーこと言うなよ」みたいな心の声が聞こえてくる感じがした。法に従っているのだとしても、その立場に立たなければ分からないことがあると自制していても、さすがにこの言葉には怒りを抑えられなかった

この発言は要するに、「あなたが『自分の国』に帰れないのなら、せめて他の国で難民申請してよ」という意味だろう。とにかく、「日本で難民申請しないでくれよ」という「面倒くささ」が如実に溢れた発言だった。何度でも繰り返すが、オザンは「日本で育ち、母国語と日本語しか話せない」のである。そんな人物が、「ドイツやカナダは難民を多く受け入れてくれるからそっちで難民申請しよう」などと考えるはずがない。友人も生活基盤もすべて日本にあるのだ。「他の国」なんて選択肢は存在しない。

「難民が直面している現実に向き合うべきだ」と入管職員を責めるのは酷だと思う。しかしせめて、「目の前にいる難民を、最低限『人間』として扱って接する」ぐらいのことはすべきだろう。入管の仕事も大変なのだろうと想像はするが、だからと言って、難民申請者に八つ当たりするような振る舞いが許されるはずがない。

非常に残念ながら、日本の現実はこれほど酷いのである。

トークショーで私がした質問と監督の答え

オザンが入管で面談の音声を隠し録りしたことに関して、私はトークショーで監督に質問をした。気になることがあったからだ。

質問は以下の2点である。

  1. 監督の印象で構わないが、難民申請者に対する入管職員の対応は、皆が音声の人物のような感じなのか?
  2. オザンの録音は当然、入管に無許可で行われていると思うが、そのことでオザンに何か問題が発生しないのか?

先ほど、「入管で働く人が悪いわけではない」という監督のスタンスについて触れたが、監督のこの発言は私の質問を受けてのものだ。監督は前者の問いに対して、要約すると「人による」という返答をした。

ラマザンやオザンから話を聞く限り、あの音声の職員よりもさらに酷い対応をされることもあるそうだ。それがどんな対応なのか、具体的には口にしなかったが、あれ以上があると考えると暗澹たる気持ちになる。映画の中で、ラマザンもオザンもほとんどいつも笑顔を絶やさずにいる姿が印象的だったので、酷い面談に定期的に出向かなければならない状況に同情しかない。一方でメメットさんが、自身の担当職員を「良くしてくれる人」と紹介してくれたことがあるそうだ。やはり、職員による差がかなり大きいということなのだろう。

後者の質問に移ろう。まず大前提として、オザンには映画で流す許可を当然取っている。本人も、リスクがあることは十分理解しているようだ。良い悪いは別にして、少なくともオザンは、「この件で何か不都合が生じても仕方ない」と考えているのだろう。

その理由の1つに、オザンが「タレント活動をしたい」という希望を持っていることも挙げられるかもしれない。

映画の中で、オザンが外国人のモデル・タレントが所属する事務所に応募する場面が出てくる。オザンはなかなかのイケメンで、割とトントン拍子に(という風に映画では見えた)テレビ出演の話まで決まりかけていた。しかし、オザン自身も半ば覚悟していたことだったが、難民申請中であることを告げると、話は立ち消えになってしまった

そしてそんなオザンだからこそ、リスクを恐れるよりも、人目に触れてチャンスが広がる可能性に期待したいと考えたのかもしれない。この映画は最初20分程度の短編として始まったそうで、WEBやテレビなどの媒体で流す機会があったという。その際にオザンに対して好意的な反応が寄せられたことも大きかったのではないか、と監督は話していた。

入国管理局は、「理由なく」難民申請者を施設に収容できる。報復的な意味でオザンが収容される可能性もなくはない。最悪の場合、「祖国」への強制送還という可能性だってあるだろう。とにかく、オザンには実害が及ばないことを願うばかりだ

日本人より日本人らしい彼らが入学や就労を認められない現実

既に触れたが、彼らは日本の小中高校を卒業している。日本語はペラペラだ。なんなら、言葉遣いの崩れた日本人の若者よりもずっと綺麗な日本語を話すかもしれない。彼らは「お陰さまで」「手が及ばない」みたいな言い回しを会話の中で当たり前のように使うのだ。

特にラマザンは、通訳になることを目指して猛勉強している。彼らが日本の小中高校を卒業していると説明されたのは映画の後半でだったので、ラマザンが漢字の書き取り練習をしている場面を見た時はもの凄く驚かされた。日本人に生まれるとなかなかイメージしにくいが、外国人が「漢字」を学ぶのは相当ハードルが高いだろう。はっきり言って、無限とも思える漢字が存在するわけで、自分が外国語として「漢字」を学ばなければならないとしたら、そのあまりのハードルの高さに諦めてしまうと思う。

ラマザンもオザンも正直、「ちょっと顔の濃い日本人」という感じで見てしまう。日本語がペラペラだからというだけではなく、振る舞いや考え方も日本人っぽいのだ。というかむしろ、「そうか、彼らは日本人ではないのか」と感じさせる場面が多くある、という感じだった。意識していないと、彼らが「クルド人」であることを忘れてしまいそうになる。

しかしそんな彼らは「難民申請者」であるために、就労できなかったり、希望する学校に入学できなかったりするのだ。

ラマザンは、通訳の専門学校に入学したいと考えている。恐らくだが、学力的にはまったく問題ないだろう。しかし、専門学校に問い合わせをしても、「難民申請者を受け入れる想定をしていない」という理由で門前払いされてしまう。またそもそも、日本ではこれまで難民認定されたクルド人が1人もいないそうだ。どれだけ勉強に勤しんだところで、難民認定を受けられなければ通訳として働けないし、これまで勉強したことがすべて無駄になってしまう。そんな状況でもまったく諦めず、自分が進むべき道を全力で突き進んでいく姿には眩しささえ感じる

私は、たまたま平和な日本に生まれ、命の危険が脅かされることも、何かの権利が制限されることもない環境で生きてきた。生きる気力があまりなく、適当にフラフラさまよっていただけの私よりも、ラマザンの方が圧倒的に社会に貢献できるだろう。そんな彼が、「日本国籍ではない」というだけの理由で、する必要のない苦労に直面せざるを得ない現状には、いち日本国民として申し訳無ささえ感じる。

しかし、そんなラマザンは、クルド人として生まれたことを後悔していないと断言していた。クルド人として生まれたことが恥なわけではないし、お母さんが産んでくれたことをありがたいと思う、と。なんと素晴らしい人格だろうか。

そんなラマザンでさえ、

働く資格をもらえないかもしれないのに、勉強してる意味なんかあるのか、って思っちゃうことはあります。たまんないですよ。時々、(勉強の)手が止まりますもん。

と語る場面があった。いつでも笑顔を絶やさないラマザンだが、彼なりに苦悩と闘っているのである。

ちなみに、トークショーの最後で2人の近況についても触れられていた。オザンは映画撮影時と大差ないそうだが、ラマザンには実は大きな変化があった在留特別許可が下りたのだ。私がこの映画を観たその日の毎日新聞の朝刊に記事が出たそうである。

「在留特別許可」は「難民認定」とは異なるものであり、ラマザンの理想にはまだ遠い。しかし少なくとも、日本での生活は「不法滞在」という扱いではなくなるし、当然「日本で働く権利」も得られたことになる。監督によると、現在就職活動中だそうだ。ホッとした。

同じようにオザンにも何か良いことがあってほしい

映画の中で彼は、

ダニ以下ですよ。虫より低い。価値がないんですかね、あんまり。必要とされてもいないし。

と語っていた。彼の発言を「難民」の問題だと受け取ってしまうとどうしても他人事になってしまうが、彼のような感覚に共感できる人もいるはずだ。「ダニ以下」かどうかはともかく、日常の中で「必要とされていない」「認められていない」と感じてしまう人は増えているように思う。どちらかと言えば私もそういうタイプである。「自分はマイノリティだ」と感じている人は思いの外多いはずだ

そして、そういう声に真摯に耳に傾けることで社会全体の変化に繋がることもあると私は思う。

以前、「駅にエレベーターが設置されるようになったのは、車椅子の人たちが要望を出し続けたから」という話を聞いたことがある。マイノリティほど社会問題に直面する機会が多い。だから、マイノリティの意見を聞き、改善策を取ることで、結果的に社会全体が恩恵を受けることにも繋がっていくというわけだ。そのような視点を持てば、「自分には関係ない話だ」とは捉えられなくなるだろう。

私と同じく、日本の難民が置かれた現実を知らない人は多いはずだ。この映画を観て、まずは「知る」ことから始めよう。

入管法の改正案について

最後に、映画では取り上げられていないが、2021年に国会で審議されていた入管法の改正案について触れておくことにしよう。ウィシュマさんの事件を受けて野党が反発、結果として改正は先送りとされたが、いずれ政府がさらなる改正案を国会に提出するかもしれない。注視する必要がある。

改正のポイントはいくつかあるそうだが、中でも問題なのが「回数制限」だ。改正案では、「難民申請の回数が3回以上となったら強制送還の対象にする」とされているのである。

現在のルールでは、難民申請中は強制送還されない。しかし入国管理局は、「強制送還を逃れるために難民申請を繰り返す者が多く、収容施設での長期滞在に繋がっている」という点を問題視しているようだ。どの口が何を言っているんだという感じもするが、世界には確かに、この改正案同様に複数回申請を行った者を送還の対象に含める国もあるという。

しかし冒頭で触れた通り、日本の場合は難民認定率が異常に低い。たったの0.5%だ。問題の本質は明らかに「難民認定率の低さ」にあるのに、政府はそれを「複数回申請をすること」にすり替えているのだ

私がこの入管法改正のニュースを耳にしたのは、ミャンマーでのクーデーターの報道と併せてのことだ。もしこの改正案が成立してしまえば、2度申請して難民認定を受けられなかった日本のミャンマー人難民は、クーデーターが起こった祖国ミャンマーに強制送還されてしまう。テレビで取材に応じた難民は、「帰ったら恐らく殺される」と語っていた。そうだろうと思う。

日本の難民認定率は限りなく0に近いのだから、ほぼすべての難民申請者が強制送還の対象になる。祖国を捨てた理由は様々だろうが、「戻れないから」こそ日本にきているという点を失念してはいけない。他の国の場合は、ある程度以上難民として受け入れた上で、「何らかの理由により難民とは認められない」とされた人に対して回数制限の規定を設けているのだろう。しかし日本では、ほとんど難民として受け入れないのに回数制限だけ設け、「3回以上申請したら祖国に帰ってもらいます」というルールに変えようとしているのだ。

さすがに酷すぎるだろう

冒頭で「『なぜ日本の難民受け入れは少ないのか』には触れない」と書いたが、やはりその疑問はずっと拭えずにいる。私はその背景を知らないが、偉い人には偉い人なりの理屈があるのだとは思う。難民を受け入れることで、私たちの生活に何かマイナスが引き起こされる可能性があり、国はそれを阻止しようとしているのかもしれない。理由も知らずに、「何故国は難民を受け入れないんだ」と声を上げるのは正しくないと考えてもいる。

しかし、難民の受け入れができないのだとしても、せめてもう少し「人道的な対応」ができないものだろうかと思う。難民を受け入れている他の国との比較でなくとも、日本があまりにも恥ずべき国に感じられてしまう

そして、自分が生きているのがこんなサイテーな国だったと気づかなかったこと自体にも、恥ずかしさを感じてしまった

最後に

残念なことではあるが、現実問題として、「困っているすべての人を救うこと」は不可能だ。また、何らかの”基準”を定めれば、どうしてもそこからあぶれてしまう人が出てくることも理解している。つまり、「困っている人がいるんだから何とかしろ」という主張は、あまりに全体を見ていない、非現実的なものでしかない場合もあるということだ。

しかし日本における「難民」の問題はそんなレベルの話ではない。認定率を高める余地はまだあるはずだし、それが不可能なのだとしても、もっと人道的な配慮がなされるべきだと思うのだ。

「一事が万事」という言葉が頭に浮かぶ。確かにこれは「難民」の問題であり、多くの日本国民に直接は関係ないかもしれない。しかし、「日本が『難民』とどのように向き合っているか」というスタンスを知れば、他の問題への取り組み方についても疑問が出てくるかもしれない

私たちは、「とてもヤバい国」に住んでいる。そのことを改めて実感させられる、非常に”残念”な映画だった。

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