【異次元】『ハイパーハードボイルドグルメリポート』は本も読め。衝撃すぎるドキュメンタリーだぞ

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:上出 遼平
¥1,710 (2022/10/02 20:18時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 現地ガイドも近づかないゴミ集積場や、台湾マフィアとの会食など、画面越しにもヤバさが伝わる凄まじさ
  • 血中の鉛濃度が通常の35倍もある豚を平然と食す著者
  • 我々の日常とはあまりにかけ離れた地での「食」は、我々に「人生」について考えさせる

この著者にしか成立させられなかっただろう、激ヤバな狂気に満ちた”グルメ番組”にクラクラしてほしい

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

テレビ東京が放つ衝撃的すぎる番組「ハイパーハードボイルドグルメリポート」を書籍化。マジでヤバい

東北にも沖縄にも電波の届かぬ”東京ローカル局”にあって、この番組に限ってはありとあらゆる言語に翻訳され、世界中で観られている。

テレビを点けていたら、いきなりとんでもない番組が始まった。それが、本書の元となった「ハイパーハードボイルドグルメリポート」だ。

マジでヤバい番組だった放送して大丈夫なんだろうかと感じたほどに。

その番組のことを知っていたわけではない。ザッピングしていてたまたま見つけたのだ。そのたまたま見つけた番組を「見よう」と思った理由は、なんとなく覚えている。画面の隅に表示された番組タイトル中の「グルメ」という単語と、映し出されている映像とが、あまりにも乖離していたからだ。

そこは、ケニアのゴミ山だった。

私が見た「ケニアのゴミ山に住む少年」の回

このケニアの少年の話は、本書の最後に収録されている。まずは、著者がこのゴミ山について説明している箇所を抜き出してみよう。

僕たちが目指すのは、ナイロビ中のゴミが一挙に押し寄せる「ダンドラ・ゴミ集積場」だ。
犯罪都市として悪名高いナイロビの中でも、とりわけ危険と言われるエリアが三つある。ひとつは、銃の密輸入と転売で荒稼ぎするソマリア人居住区の「イースリーエリア」。もうひとつは”パンガニ6”なるギャングが権勢を振るう「パンガニエリア」。そして最後がこのゴミ集積場を擁する「ダンドラエリア」である。アフリカ屈指の危険都市ナイロビにあって、その地を踏むのがどれほど危険かは推して知るべしというところか。

とにかく、この番組のディレクターである本書の著者が立っているのは、ケニアの中でも有数の「ヤバい場所」なのだ。なんと現地ガイドでさえ、このゴミ山には近づかないようにしているというのだから、そのヤバさが理解できるだろう。

ゴミ山に近づく著者のリアルな感覚も描かれている。

しかし、ほどなくして、そこはかとなく車内に臭気が漂った。
もしかしてと、試しに窓を少し開ける。直後、暴悪な刺激が目鼻を突いた。目を開けてはならぬ、息をしてはいけない、五感がそう訴えかけてくる。それはあまりにも凶猛で、実際僕にはそのにおいの色が見えた。うっすらと黄土色をしたにおいの粒子がわずかに開けた窓の隙間からするりと入り込んで充満したのだ。
それほど、これまでの人生で経験したことがないほど、臭いのだ。

文章からも映像からも決して「臭い」は届かないのだか、この場所がどれほど臭いのかは数字でなんとなく理解できる。ゴミ集積場は25ヘクタールもあり、これは東京ドームに換算すると5個分ぐらいになるらしい。そこに1日850トンのゴミがやってくる。シロナガスクジラが大体150トンぐらいなので、シロナガスクジラ6頭分ぐらいのゴミというわけだ。

イメージできるかと言われればできないかもしれないが、とにかく「凄まじい」ということだけは伝わるだろう。そもそも危険な土地である上に、壮絶な悪臭が漂う世界というわけだ。

そんな場所で、著者は一体何をしているのだろうか

他の3つの舞台の紹介

その説明の前に、本書で扱われる他の3つの舞台についても紹介しておこう。

リベリアでは、「人食い少年兵」を探そうとする。血で血を洗う内戦が繰り広げられていたこの国では、両親を殺された少年が兵士として戦場に駆り出されていく。その中に「人を食った者がいる」という噂を聞きつけ、著者は探索に向かうのだ。

リベリアは、エボラ出血熱で多数の死者を出した国としても知られている。しかし、先進国に騙され続けてきたリベリアの人々は、そもそも「エボラ出血熱」という感染症の存在を信じていない。「エボラ出血熱など存在しない」「『エボラ出血熱を治す薬』を飲んでみんな死んだ」など、「先進国が嘘をついて『エボラ出血熱』の存在を信じさせようとしている」という陰謀論が当たり前のようにまかり通っているのだ。

著者は、元少年兵たちが共同で住んでいるという地域をいくつか回っていく。彼は少年たちに囲まれ、脅され、生命の危機感じるのだが、それでもめげずに「人食い少年兵」探しを続ける。ある場所では、「元政府軍兵士」と「元反乱軍兵士」が共同で暮らすという異常な状況が成り立っており、「元兵士」という理由で職に就けず極貧生活を強いられている者たちが、たくましく生きていた。

台湾では、マフィアに接触する。「裁判中だから映さないでくれ」と口にするほどの大物も同席する緊迫感溢れる状況だ。その中で著者は、「人を殺したことがあるんですか?」など、ギリギリを攻める質問を繰り出していく。著者は「表向きの取材理由」を伝えており、もちろんそれはそれで興味深いのだが、それとは全然関係ない、「台湾マフィアの複雑な関係性」や「彼らが行っているシノギ」などについても臆せず問いただす。

ロシアでは元々、ロシアで最も汚染された都市ノリリスクの取材を行う予定だった。ノリリスクは、ニッケルの精錬過程で生まれる有害物質によって、破滅的な環境破壊が引き起こされている。しかし様々な理由から、ノリリスクに辿り着く前に諦めざるを得なかった。

その後著者は、「カルト村」と呼ばれる場所へと目的地を変更する。そこは、シベリアの森の奥深くにある村で、ヴィッサリオン教を信奉する者が住民の大半を占めるという特殊な土地だ警察官を辞めた男が教祖となり1990年に生まれた新しい宗教団体で、信者は世界中に約5000人ほど存在する。その内の2000人がこの村に住んでいるのだ。

著者はどの取材においても、「普段は観ることができない『暗部』」を探ろうと奮闘する。しかしこの村で著者は思いがけない困難に直面した。非常に良くもてなしてくれるのだが、それらはすべて「嘘くさいほどにキレイ」なのだ。どう考えても「異様」なこの村で、「部外者に見せる用の美しい面」以外の何かを探れないかと、著者はあれこれ考える。

世界の激ヤバな地で、「そこに生きる人々の『食』を体感する」という激ヤバな著者

著者は、世界中の「激ヤバな地」へと足を運ぶのだが、では、一体そこで何をしているのだろうか? それは、番組作りにおいて著者が中核に据えたこんな考え方を知ると理解できるだろうと思う。

「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ?」

番組の掲げる旗印はたった一つ。普通は踏み込めないようなヤバい世界に突っ込んで、そこに生きる人々の飯を撮りに行く。いかにも粗暴、いかにも俗悪。

しかし、実際に見たヤバい奴らの食卓は、ヤバいくらいの美しさに満ちていた。

マジで常軌を逸している。普通そんなこと考えないし、思いついたところで実行もしないだろう。しかし著者は、平然とそれをやってのける。世界の狂気と著者の狂気がガチンコでぶつかり、その”ハーモニー”が番組を、そして本を「異常なもの」に仕立て上げているというわけだ。

著者がしていることはどれぐらいヤバいのか。私が実際に番組を見たケニアのゴミ山の回を例に説明しよう。

例えば、ゴミ山ではなんと家畜が飼育されている。ゴミ山には養分がたくさんあるだろうと、放牧のように連れてこられるのだ。しかしもちろん、ゴミ山で飼育された家畜が安全なはずもない。実際、このゴミ山で育てられた豚は、他の地域で飼育された豚と比較して、血中の鉛濃度が35倍も高かったという。人間にとって「鉛の摂取」はかなり危険なもので、脳を始めとした様々な器官に悪影響が及ぶことが知られている。

そして著者は、そのようなことをすべて理解した上で、この鉛まみれの豚を食べるのだ

この豚の血液が、鉛に侵されているのだ。
食ってみたい――。
鉛に侵された豚の味を確かめてみたい。

凄すぎる。頭のネジが何本か吹っ飛んでいるとしか思えない

こんな話は山ほどある。同じくゴミ山で著者は、「警察を同行させること」という取材のルールを無視していたのだ。

ゴミ山に踏み込む幾らか手前で、鈍く銀色に光る自動小銃を下げた男たちが我々を待ち受けていた。武装した警官と落ち合ったのだ。
それがここを取材する際のルールだとディボゴ(※現地ガイド)は言った。踏み入る前に隣接する警察署に申請し、話を通しておくこと。それ自体には大いに賛成だ。いざという時の助けがあるのは心強い。問題だったのは、彼らが我々の護衛について回ると言って聞かないことだ。警察官に言わせれば、今まで護衛なしでこのゴミ山に入ったメディアは存在していないのだからその通例に従えということだった。至極真っ当な話である。しかし僕はそれを断じて撥ね除けなければならなかった。仮にこのゴミ山の先でよき出会いがあったとする。その僕のうしろに四丁も五丁も自動小銃が構えられている中で、僕はどうしてその者と話ができようか。その人は僕に飯を一口恵んでくれるだろうか。くれたとしても、それはほとんど恐喝ではないか。そんな横柄づくでは何も撮れない。
だから僕は彼らの同行を断るために、情理を尽くして説得をした。

確かに、著者の主張は十分に理解できる。「銃を携行した警官がいる中での取材は、恐喝でしかない」という感覚はその通りだし、リアリティを追求するテレビマンの姿勢としては称賛されるべきだろう。しかしだからといって、警察の同行を断った著者の判断が正しいなどとは到底思えない。「真摯な取材が実現できるかどうか」以前に、「生きるか死ぬか」の問題なのだ。しかしそういう状況でも著者は、「映像の面白さ」の方を優先してしまう

私は、このケニアのゴミ山の映像をテレビで見た後、本書の存在を知って読んだ。その時点で、ゴミ山の回の記憶は大分薄れてしまっていたので、「映像の中で、警察の同行を拒むシーンが映っていたかどうか」は正直覚えていない。ただ、たぶんそんな場面はなかったんじゃないかと思う。そして、だからこそと言うべきだろうか、「そんな異常な環境の中、日本人が1人で分け入り、ゴミ山に住む少年の飯を分けてもらう」という映像のヤバさが、ビンビンに伝わってきた。恐らく、その「狂気」に引きずられるような形で、テレビを見続けてしまったのだと思う。

番組では、ゴミ山の少年やマフィアなどの「取材対象者」に焦点が当たるが、書籍の方ではそれに加えて、「取材者」である著者自身にも焦点が当てられる

台本をなぞるようなテレビとは決別して、今ここに我々が本来やるべきことがある。

並々ならぬ覚悟を持ってこの番組を制作している著者の、凄まじい覚悟と恐るべき狂気が、文章の合間合間から滲み出る。

この刃が僕たちの肉を切るのは時間の問題に思えた。
自分の生命が今脅かされている。しかし、その切迫した恐怖よりもこの瞬間の僕を苛んでいたのは、目の前の男たちにどうにか因果を含め、この場所を撮って帰らねばならぬという、ディレクターとしての責務の感覚だった。
カメラがなければ逃げ出していたかもしれないし、逃げようとすれば背を切られたかもしれない。

ロケはスポーツだ。瞬間の判断の積み重ねがVTRを紡いでいく。カメラのモニターは見ずとも思った画が撮れなければ単独のロケは難しい。僕がこの日カメラを持つのは実に1年ぶりだった。そのブランクは大きい。それで僕は本丸のゴミ山に行く前の肩慣らしとして、銃取引の中心地へと向かったのだ。

まさに、この著者にしか不可能な番組作りだろう。そして、ケニアのゴミ山の回だけだが、何の事前情報も知らずにこの番組に出会えたことの僥倖を改めて実感させられた。

「人間とは何か?」「人生とは何か?」と問いかけられる凄まじい作品

本書の帯には、King Gnuの井口理のコメントが載っている。

グルメリポートと銘打ちながら「生きるってなんだろう」「人間ってなんだろう」と問いかけてくる番組が今まであったでしょうか。貧しくても、罪人でも、女でも男でも、みんな等しく平等に食べて生きている。おれたちみんな血の通った人間なんだと教えてくれる。すげー。

短い文章で番組と書籍を端的に表現した、非常に見事なコメントだと思う。まさにその通りという感じだ。

著者も冒頭で、取材を通じての実感をこんな風にまとめている。

彼らの食卓に、我々は何を見るのか。世の中に黙殺されているヤバいものの蓋を剥ぎ取って、その中身を日本の食卓に投げつける。自分とは無関係の、裏の世界を見ているはずなのに、いつしかそこに自分自身の姿がたち現れる。そんな体験がここにはある。

本当にその通りだ。私たちの日常に「最も無縁」と断言していいだろう「世界の『激ヤバな地』で暮らす人々の『食卓』」を知ることは、何故か、「私は何故生きているのか?」という問いとなって我々に返ってくるのである。それは、本当に不思議な体験だと言っていい。

本書を読んで私は、番組を見た際に最も印象的だと感じた場面に再会した。

著者は行く先々で、取材に応じてくれた人たちに「ここでの生活は幸せ?」と問う。その返答は様々だが、ゴミ山の少年のそれは非常に印象的だった。

「ジョセフは今、幸せ?」
ジョセフはニコッと笑うと顎を上げてこちらを示して言った。
「あなたに会えたから幸せだよ――」

これは本当に凄いと思った。映像で見ている時も心を打たれたし、改めて本で読んでも泣きそうになる

彼は、とてもじゃないが「幸せ」だなんて言えるような境遇にはいない。というのも、ここまできちんと説明してこなかったが、少年はこのゴミ山に住んでいるのだ。壮絶な悪臭の中、ゴミとして捨てられるアスベストに肺を汚染されながら、彼はここで生活している。

彼は長男で、妹が2人、弟が3人いるという。そして、自分以外の妹弟は全員両親と一緒に暮らしているはずだ、と語っていた。家族の状況も分からないほど、長く会っていないのだろう。14歳までは学校に通っていて、地域のサッカークラブでMFとして活躍していた。しかし今は、ゴミに塗れた生活をしている

そんな彼が、「あなたに会えたから幸せだよ」と口にするのだ。その精神性の高さに度肝を抜かれた。それが本心であるかどうかなど、正直どうでもいい。「壮絶」という言葉を何乗しても足りないぐらい大変な環境で生きる少年が、「幸せ?」と問われて瞬時にそう返答できるという事実に、私は感動させられてしまった

書籍では「取材者である著者自身」も深掘りされる

先程も少し触れた通り、番組とは違い、本では「取材者である著者自身」についても言及される

ゴミ山に暮らす少年を取材する中で、著者はこんな想いがこみ上げてきたそうだ。

彼が頭からゴミを浴びるたび、その屈辱感を僕は痛いほど感じた。涙が出そうだった。
僕は取材をするときに、誰かを哀れむようなことだけはすまいと思っていた。実際、これまでのどんな取材でも、それは一度としてなかった。僕が僕自身と交わした牢固たる取り決めだった。しかしこの瞬間、僕は自分の中に憐憫の感情が湧き上がるのを抑えられなかった。

著者は、「同じモノを食わせてもらう」という形を取ることで、取材対象者と「同列」であろうとする。それが成立するためには、「哀れみ」は排除するしかない。相手を憐れむ立場にいながら、相手と同列であろうとすることは不可能だからだ。しかし、そのような「鉄則」を固く誓っていた著者でさえ、ゴミ山の少年の姿を見て「憐憫」を抑えきれなかったのである。あまりの壮絶さが伝わってくる場面と言えるだろう。

また、ある取材を終えた著者は、こんな感想を抱く

彼らをここに残して、僕はこうしてひとり安全圏に戻ろうとしている。
けれど僕はもう知っていた。
この国には命が燃える美しさがある。いつもすぐそこに死がある状況で、彼らは地を這うように生きている。自分の境遇と折り合いをつけた者も、いつまでも折り合いのつかない者もいる。それでも彼らは今日もどうにか生きながらえて、飯を食う。飯を燃料に、彼らの命は燃えている。食うものは多様だ。その状況も多様だ。しかしそのさきでめらめらと揺らめく命の炎はどれも一様に赤く激しく美しい。風が吹けば千切られ、雨が降れば衰え、砂を被せれば失われる。しかしその砂の中でチカチカと生きながらえるように、この国の命は燃えている。

まさに、壮絶な非日常の中に「食」という日常を見出そうとする「ハイパーハードボイルドグルメリポート」の取材を通じてしか実感し得ないだろう感覚だと思う。

エボラ出血熱から生還した少女に著者は、「何か変わりましたか?」と聞く。それに対して「何も変わらない」という返答が返ってきた時に、著者は「日本的な定型すぎる感覚」を反省させられる

命があれば幸せ。命さえあれば幸せ。何があっても命拾いしたからとても幸せ。
「不運+命拾い=幸せ」
日本ではそれが定型だ。
だから僕の「エボラから生還して何か変わった?」という質問には「はい。辛いことも悲しいこともたくさんあるけれど、でも生きているだけで幸せだって、改めて思っています」という答えが当然想定されていた。なぜならそれが日本の、もしくは日本のテレビをはじめとしたエンターテインメントの決まりごとだから。
しかし彼女は相変わらず不幸だった。生まれた時からずっと不幸だった。
自ら命を絶つこともなく、ずっと不幸だった。
彼女が経験している現実は、僕たちが期待した都合のいい答えなんか露ほども寄せつけない。それほどに不幸だった。

「カルト宗教」だとされている教団内部を取材中に、自身の価値観を揺さぶられるような経験をしたこともあった。

しかし、と彼は続けた。
「私はカルトが間違っていると言うつもりもありません。なぜなら、他人の正しさを私が判断するべきではないからです。あなたの正しさを私は判断すべきではないし、私の正しさをあなたが判断すべきでもない。それは大事なことなのです。」
人の正しさをあなたが判断するべきではない――。
なんだか、予期せぬ角度から真理を打たれたような気がして、軽く目眩がした。

確かにその主張は、「真正面から正しい」と言えるものだと思うが、それを「カルトだと思っている相手」から突きつけられることで、なんだか世界が歪むような感覚に陥ってしまったのだろう。

あるいは、著者がこんな感想を抱く場面もある。

初めから僕の中の「正しさ」は曖昧だった。
「正しさ」が移ろいゆくことこそ真理だと考えていた。
そんな曖昧模糊とした「正しさ」でさえも、僕の中で改めて瓦解を始めていた。

著者の当初のスタンスは、「ヤバい場所でヤバい飯を食う」というシンプルすぎるほどシンプルなものだった。しかし実際に取材を進めていく中で、一筋縄ではいかない様々な現実に直面する。そしてそれは間違いなく、著者の内側にある何かを大きく揺さぶっていったのだ。

日本にいて日本の常識に沿って判断している限りは到達できない地点に、著者は触れているように感じられる。それが何であるのか、視聴者であり読者である私には正確には捉えきれないが、しかし「著者がそれに触れているだろう」という凄まじい「予感」こそが、番組と書籍に触れる私を震わせるのだと思う。

また本書には、こんな文章もある。

取材は暴力である。
その前提を忘れてはいけない。
カメラは銃であり、ペンはナイフである。
幼稚に振り回せば簡単に人を傷つける。

カメラは万引きの瞬間を撮ることができるし、ペンは権力の不正を暴くことができる。
それがジャーナリズムの使命だと誰もが言うだろう。それはそうだ。

けれど、万引き犯も、権力者も、人間である。
僕らと同じ、人間である。

取材活動がどれだけ社会正義に即していようと、それが誰かの人生をねじ曲げるのであれば、それは暴力だと僕は思っている。どれだけの人を救おうが、その正しさは取材活動の免罪符にはなるけれど、暴力であることから逃してはくれない。

何も考えずに番組を見たら、あるいは本を読んだら、著者の取材は「あまりに暴力的」であるように感じられるだろう。他者の生活圏へと土足で分け入って、そこで、「生きることの根源」とでも言うべき「食べるという行為」を撮るのだ。これが「暴力」でなくて何だというのか。

しかし、ゴミ山の少年を取材する著者をテレビで見た私は、彼の振る舞いに「不快感」を抱くことはなかった。それは、彼がまさに「『取材という暴力』を行使している自覚」を持っていたからだろう。「暴力的であることを自覚していれば暴力が許される」なんて理屈が成り立つわけではない。ただ、「あまりにも立場が違うため、実際には不可能だが、可能な限り『同列』であろうとする」という著者のスタンスが、その「暴力性」を限りなく薄めていたと私には感じられた。

けれどひとつだけ、僕の行いが許された気持ちになる瞬間がある。

「また来てね」
「あなたに会えてよかった」

別れ際、そう言ってくれる人たちがいる。

様々な意味で「ギリギリ成立している」と言うしかない、狂気的な番組であり書籍だと感じた。

著:上出 遼平
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最後に

「ハイパーハードボイルドグルメリポート」は、有料だがYoutubeで見られるようだ。

https://www.youtube.com/show/SCfMfVlxU6KJXdKlPqVO5Kdg?season=1&sbp=CgEx

私はゴミ山の少年の回しか見ていないが、映像の衝撃は圧倒的だったし、本は本でまた別の衝撃をもたらすものに仕上がっている。普段の日常ではまず出会うことが不可能な「異次元の世界」を、是非体感してみてほしい

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