【加虐】メディアの役割とは?森達也『A』が提示した「事実を報じる限界」と「思考停止社会」

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • オウム真理教の内部にカメラを持ち込みながら、オウム真理教を撮っているわけではない?
  • マスコミによる報道は、誰に何を伝えているのか?
  • カメラで切り取ることができるのは「主観的な真実」だけだ

森達也自身の葛藤までもドキュメンタリーとして取り込んでいくスタンスは好ましく感じられます

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

オウム真理教を通して、我々の「思考停止」を理解する

どんな作品か?

まずは、この衝撃的な作品の内容を紹介しよう。

森達也の『A』は、元々ドキュメンタリー映画だ。そして本書『A』は、その撮影過程の記録集といった内容である。

このドキュメンタリー映画で、森達也は度肝を抜くことになる。何故なら、地下鉄サリン事件を起こした直後のオウム真理教を、その内部から撮影しているからである。

森達也は、上祐史浩に代わってオウム真理教の広報担当となった荒木浩にアプローチする。そして彼に、教団内部にカメラを入れてドキュメンタリー映画を撮らせてほしいと依頼するのだ。森達也は、「モザイクは一切使わない」という、かなり厳しい条件をつけた。その理由を、

モザイクは対象となる人や場所の固有性を隠すという本来の機能よりも、「負の要素を持つ人」という一つの記号としての意味を持ち始めた。

と書いている。確かにその通りだが、教団側とすればかなりのハードルだ。しかし森達也はなんとか説得に成功する。そして、「オウム真理教の内部から、オウム真理教の報道に加熱する報道陣や社会を撮る」というドキュメンタリー映画の撮影がスタートすることとなった。

本書は、その撮影の際の状況説明や森達也自身の心情を記録したものである。

他のメディアとは異なる森達也の視点

撮影初日、荒木浩は

でも、ドキュメンタリーって依頼は、森さんが初めてですよ

と話している。

確かに、森達也が教団内部からの撮影に成功した後となっては、「オウム真理教にそういう依頼をしたのが森達也しかいなかった」ことは不思議に思えるかもしれない。しかしやはり、普通に考えて、「そんなことできるはずがない」と誰もが感じてしまうだろう

なにせ当時は、地下鉄サリン事件の直後であり、オウム真理教に関する報道は加熱する一方だったのだ。子どもながらに、当時のニュース映像は記憶に残っている。凄まじい台数のカメラが信者や幹部を追いかけ、修行の様子や工場などを撮り、その異様さを報じ合っていた。

マスコミの基本的な理屈は、「報道で使える素材が手に入ればいい」という感じだろう。メディア側には、「こういう情報を流したい」という思惑がある。そしてそれを報じるのに都合の良い素材を撮りに行く。基本的にはこういう発想でニュースというのは作られていくはずだ。

地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教という集団は、とにかくヤバいところだ。だから、その異様さが伝わるような素材ならなんでもいいからとにかく集めてこい。恐らく当時のメディアに課せられていたのは、こういうことだと思う。

森達也の視点は、それとはまったく異なっていた

『A』を撮り始めた当時、森達也はテレビ制作会社に勤めていた一介のディレクターにすぎなかった。それもあって彼は当初、最終的にはテレビで放送することを目標に教団の内部にカメラを持ち込んだ。しかし制作会社からは、協力できないと通達されてしまう。そこで彼は、どこに発表するあてもないまま、たった一人で撮り続ける決意をする

カメラを回し始めた当初は、自分が何を撮ろうとしているのかさえ分かっていなかった。もちろん彼は、信者や集団生活の様子などにカメラを向けている。しかし次第に、自分が撮っているのは「オウム真理教」そのものではない、ということに気づき始める。

……ずっと考えていた。撮影対象であるオウムについてではない。自分についてだ。「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている。

そして、「オウム真理教の内部」から「世の中」を観察することで、彼は、「思考停止している社会」を発見することになる。

考えることを止めた社会

森達也が『A』を撮り始めた動機の一つに、「なぜ信者はオウム真理教を止めないのか?」という疑問があった。

しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。その思いは僕にこのドキュメンタリーを発想させた動機の一つだ。そして今、理由はおぼろげながら見え始めている。彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。

オウム真理教に限らないが、組織が大きな事件を起こした後でさえ、その組織に留まり続ける者がいる。確かにそこには複雑な要因が絡まり合っていることだろう。自分が組織を離れてしまえば、この組織を信じた過去の自分が「間違い」だったことになってしまう。そのことを恐れている、なんていうのもありそうな理由だろう。

森達也は、地下鉄サリン事件を起こした後のオウム真理教の内部から世の中を見ることによって、信者が教団に留まる理由の一端を理解することになる。それは、「日本人の思考停止」である。

子供が虫や小動物を無邪気に殺せるように、自覚を失った社会は止めどなく加虐的になる。自覚がないから、昏倒した信者を見下ろして大笑いができる。自覚がないから事実を隠し、作り上げた虚構を公正中立だと思い込んで報道することができる。自覚がないから不当な逮捕をくりかえすことができる。自覚がないから、社会正義という巨大な共同幻想を、これほどに強く信じることができる。

つまり、「集団で思考停止した社会は、無自覚のまま加虐的になり、非常に危険だ」と森達也は主張している。そして、オウム真理教の外の社会がそんな危険地帯だからこそ、信者は”留まらざるを得ない”のだ、と。

なるほど、この指摘は非常に重要だ。

今でこそ「報道被害」という言葉が使われるようになり、事件の加害者家族や被害者への取材の抑制が少しずつ浸透しているだろうと思う。しかし一昔前は、そんなこととは無縁だった。それが加害者家族だろうが被害者だろうが関係なしにカメラは押しかけ、相手の都合などお構いなしにマイクを向け、「報道の自由」という言葉を伝家の宝刀のように使いながら好き勝手やっていた印象がある。

また、これは現代の方がより酷くなっているだろうが、加害者家族や被害者への中傷などは昔からあった。「こいつは叩いても自分は非難されない」というターゲットを見つけては、まるで自分が正義を執行しているかのような気分で他人を悪し様に言う状況は、ネット社会になってからより悪化していることだろう。

『A』を撮ることで森達也は、「オウム真理教の内部」から「世の中」を眺めることになり、「”自分たちは正しい”という盲信に陥っていることに気づいていない思考停止状態」を捉えることになった。

この点こそ、オウム真理教内部にカメラを持ち込んだことによる大きな発見なのだ。

「事実を報じる」ことなどできるのか?

森達也が抱くマスコミへの違和感

森達也は、オウム真理教の内部という対岸から、オウム真理教を目がけて大挙するるマスコミの姿を捉えることで、「マスコミ」のあり方への違和感をたびたび表明することになる。

例えば、あるマスコミ関係者が荒木浩に対して「報道の自由」という言葉を使って非難した場面でのこと。

「報道の自由」という主張は本来なら、報道を妨害する権力や圧力に対して拮抗すべきフレーズのはずだ。少なくとも、「正式な返答をいただくまでは取材はお断りします」と、撮影を拒絶する一個人に向かって発するべき言葉ではない。

なるほど、非常に真っ当な意見に感じられる。確かに本来的には、「報道の自由」という言葉は「強者」に対して使われるべきだろう。報道よりもさらに強い力を持つ存在に対し、それでも報道が屈せずに真実を明らかにするために必要な権利である。

しかしこのマスコミ関係者は、その言葉を「弱者」に対して向けている。つまりそれは、「報道である我々は、あなたより強い立場にいるのですよ」という、ある意味で脅しのような使い方だと言えるだろう。それに対して森達也は、違和感を覚えるのだ。

また、こんな感覚を抱く場面もある。

カメラが回りだしたその瞬間、彼らと自分との共通言語の欠落に気づいた彼女は、少なくともメディアの常套句でその断絶を補填することは選択しなかった。曖昧な言葉を放り出して無理矢理引きずりだした信者の言葉を、編集で当初の意図通りに紡ぐという常套手法を選択しなかった。その意味では僕は彼女の誠実さを称えたい。

マスコミの中にも、真っ当な感覚を持つ者はいる、ということだ。しかし、敢えてこの場面に「誠実さ」という言葉を使っていることに、森達也の期待値の低さを感じ取る。「事実を報じようという意思」を持つ者であればしないだろうことを、ただしなかったというだけの人物に「誠実さ」を感じるとすれば、それは、最初からほとんど期待していないということの現れだろう。

『A』は期せずして、「マスコミは一体何をしているのか?」「マスコミとはどうあるべきか?」について突きつける作品にもなっている、ということだ。

とはいえ森達也は、自らの主張を「マスコミそのものの批判」だと考えてはいない。もっと構造的な、大きな問題だと捉えているのだ。

今のメディアにもし責められるべき点があるのだとしたら、視聴率や購買部数が体現する営利追求組織としての思惑と、社会の公器であるという曖昧で表層的な公共性の双方におもねって、取材者一人ひとりが自分が感知した事実を、安易に削除したり歪曲する作業に埋没していることに、すっかり鈍感に、無自覚になってしまっていることだと思う。

そしてこのようなマスコミのあり方を踏まえつつ、森達也は、「事実を切り取ることなどできるのだろうか?」という疑問を呈するのだ。

事実と報道は乖離して当然

事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日この撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの思考や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。

森達也は、『A』の撮影を通じて、このような感覚を抱く。またもっと短く、

ドキュメンタリーの仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。

とも表現している。そして森達也は、このことを強く自覚しながら、ドキュメンタリーと向き合っているのだ。

カメラで撮ったものが事実なわけではない。事実の捉え方は人それぞれ違うからだ。客観的な事実など存在しない。まずその地点に立つことでやっと、主観的な真実を切り取ることができるのだ。

「カメラが存在する」ということがすでに「当たり前のこと」ではない。カメラの存在は、事実に干渉し歪めてしまう。その中で、どうすれば最大限に真実を掴み取れるのか。森達也はそのことを意識している。

そしてそんな、「客観的な事実」と「主観的な真実」の間で思考する森達也は、オウム真理教にカメラを向けることでこのように感じるようになる。

世の中のほとんどの現象は、「わかる」ものだという前提を僕らは持っていた。そしてこの思いこみが、僕らの日常を成り立たせてきた。曖昧に「わかる」ことで、僕らは平穏な日々を送ることができた。
オウムは、この思い込みを、曖昧さによって成立してきた日常を、抉りとって目の前に突きつける。

私たちは、「客観的な事実」と「主観的な真実」をさほど区別せずに生きている。個人レベルでは大体、それで特に不都合は起こらない。これらを区別しない振る舞いを、森達也は「曖昧に『わかる』」と表現しているのだと思う。

しかしオウム真理教は、「曖昧に『わかる』」では掴み取れないものがあることを明確に示した。そして、その曖昧さに依拠していた我々の日常が侵食されかかっているということなのだ。森達也は、こんな風に現実を認識する。

公平中立なものは作れない。
断言できる。主観の選択が結実したものがドキュメンタリーなのだ。事実だけを描いた公正中立な映像作品など存在しない。

森達也は、そんな風に悩みながら、オウム真理教にカメラを向け続ける。

森達也自身の葛藤さえも「真実」に含める

森達也にとってドキュメンタリーというのは、「主観的な真実」である。だからこそ彼は、撮影中の葛藤や悩みさえも、ドキュメンタリーとして切り取っていく

オウム真理教と対峙するというのは、「常識の外側」に向き合うことだ。そしてその過程で森達也は、「常識」の正しさは結局、「曖昧に『わかる』」や「思考停止」によって成り立っていることを感得するようになる。

「世間の常識」と「オウム真理教の常識」が対立する時、「世間の常識」の方が正しい根拠などどこにもない。しかし、「オウム真理教は間違っている」という思考で止まってしまえば、自分たちの正しさを疑う発想などどこからも生まれはしない。

森達也は、オウム真理教の内部にカメラを向けることで、「自分の常識」と「オウム真理教の常識」の接点を常に意識させられる。そしてその中で、「自分の常識」の正しさに対して疑問を突きつける。そうやって迷い、不安に陥り、正しさを見失っていく。

その過程が、「主観的な真実」として切り取られていくのだ。そのスタンスに、私は好感を抱く。

「自分はただの観察者である」という立ち位置がドキュメンタリーには求められがちだと感じるが、結局のところそれは、「自分は相手の領域には踏み込まない」という宣言でしかない、とも感じる。

どうせ、事実を客観的に切り取ることなどできないのだ。だったら、価値観の合わない相手の領域に踏み込んだ時の違和を取り込んでいく方が、より現実を抉り取っていることになるのではないか

そんな風にして森達也は、オウム真理教と対峙しながら自己を見つめ直し、それまでとは違う視点で社会を捉えることになる。その過程を知ることで、我々自身も、自分がどんな枠組みに囚われているのかに気づけるのではないかと思う。

最後に

大人になってノンフィクションを結構読むようになったが、その中でもこの作品は強い印象を残すものだった。自分が一方的なものの見方をしていないか、相手には相手なりの事実があるはずだということを忘れていないか、そういうことを一旦立ち止まって考えさせてくれる作品ではないかと思う。

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