【生と死】不老不死をリアルに描く映画。「若い肉体のまま死なずに生き続けること」は本当に幸せか?:『Arc アーク』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:芳根京子, 出演:寺島しのぶ, 出演:岡田将生, 出演:清水くるみ, 出演:井之脇海, 出演:中川翼, 出演:中村ゆり, 出演:倍賞千恵子, 出演:風吹ジュン, 出演:小林薫, Writer:石川慶, Writer:澤井香織, 監督:石川慶, プロデュース:ケン・リュウ, プロデュース:川城和実, プロデュース:加倉井誠人, プロデュース:仲吉治人
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「不老不死」を望む気持ちが理解できないし、絶対に「不老不死」なんかにはなりたくない
  • 「不老不死」が当たり前に実現する社会では、人間の価値観もガラリと変わるだろう
  • 「終わりが存在しない世界」は、私には恐ろしいものに感じられる

「死が存在しない世界」について考えることで、自分が「生」に対して何を望んでいるのか意識するきっかけになるだろう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「不老不死」に憧れない私が考える「生と死」。「死なないこと」は生命にとって福音なのかを、映画『Arc アーク』から考える

この映画では、いわゆる「不老不死」が描かれる。「ある時点で肉体の時間を止める」という技術によるものだ。だから、この映画で描かれる「老化抑制技術」を施した時点から肉体的にも年を取らなくなり、理論上はそのままずっと生き続けられる

このような技術を「羨ましい」「待ち遠しい」と感じる人もいるだろう。しかし、私にはその感覚がまったく理解できない。元々「生きること」に対する気力がないからという理由は大きいのだが、それだけではない。シンプルに、「そんなに長く生きて何がしたいんだ?」と感じてしまうのである。

「不老不死」は望ましい状態なのか?

よく、「大昔の権力者は不老不死を望んでいた」と聞く。薬効が不明な謎の食べ物を口にした、あるいは神様的な存在と契約をしたものの上手く行かなかったなどなど、様々な逸話が残されている。

私は、「権力者が『自分だけ不老不死になる』ことを望む」という状況なら理解できる。ポイントは、「自分”だけ”」という点だ。「他のすべての人はいずれ死んでいくが、自分だけは永遠の命を有している」という状況に憧れる気持ちは、分からないではない。普通は、「自分だけが長生きする」という状況は寂しさも抱えうるが、権力者であればどうにでもなるだろう。「不老不死」の力を得て、権力の座につき続けたいと考えているのなら、まだ理解の範囲内だ。

一般的に「不老不死になりたい」と言っている人の主張が上述のようなこと、つまり「自分だけが不老不死になる」という状態を願っているのであれば、まだ理解できる。しかし、普通そんなことはあり得ない。私たちが生きている世界で、本当に「不老不死」が実現するとすれば、それは科学技術の成果であろうし、「金持ちしか行えない」などの制約はあったとしても、基本的には「自分だけが不老不死になる」という状況にはならないだろう

それなのに「不老不死」を望む気持ちが、私にはさっぱり分からない

以前書いた『だから仏教は面白い!』の記事の中で、「欲望充足に終わりはなく、どれだけ欲求を満たそうとしても、『満たされた』という状態に達することがない」という「苦(ドゥッカ)」について紹介している。

仏教では、そんな「苦(ドゥッカ)」から逃れるために修行をし、「欲望」から解放された生を生きることを目指しているのだと、その本では説明されていた。

確かに、「『満たされた』という状態に達することはできない」という感覚はとてもよく理解できる。もっと美味しいものを食べたい、もっと素敵な場所へ旅行に行きたい、もっと……と、今以上の何かを求める気持ちが無くなることはないだろう。人生がどれだけ長くなったところで、欲望を追い続ける人生を送っているとするなら、逆説的ではあるが、「満たされた」「満足した」という状態には行き着けないというわけだ

別に行き着けなくてもいい、欲望を満たしているその過程が延々と続くことこそが幸せなのだ」という主張もあるかもしれない。もちろんそれは個人の価値観だからとやかく言うことではないが、私にはイマイチ理解できない感覚だ

あるいは、私がまだ20代の頃、大学時代の友人との会話の中で、こんな話を聞いたことを未だに思い出す。彼は、「自分が死んだ後も世界が続いていくことが許せない」と言っていた。共感できる方はいるだろうか? 私は、この意見も、何を言っているのかさっぱり理解できずにいる。主張だけ切り取れば、いわゆる「セカイ系」のような感じだろう。自分の物語と世界全体の物語がリンクしており、自分の物語が終わる時に世界の物語も終わってほしい、と考えることは、なんか凄いなと感じた記憶がある。

映画の中では、「老化抑制技術」を開発した企業(研究機関)が記者会見を行う場面があり、そこで記者から、

死があるから、生が輝くのではないですか?

という質問が出た。手垢にまみれた価値観と言えばその通りだが、私としてはこちらの感覚の方に共感できる「いずれ死ぬ」と分かっているからこそ、「それまでの間どう過ごすべきか」という問いが生まれると私は思うのだ。そして、「人生の意味」みたいなものを特段見つけられなかったとしても、最終的には「死ぬまでの暇つぶしだ」と考えて前に進んでいくことができる。

もし自分の人生に「終わり」がないとすれば、「なぜ自分は生きているのか?」を考え続けなければならないだろう。「終わりのない人生」を進んでいくために、自分で何か指針なり目標なりを探し続けるしかない。もちろん、それが出来る人ならいい。しかし、500年も1000年も、そんなことを続けていけるだろうか?

さて、先の質問に開発リーダーはこんな答えを返す

死があるから生が輝くというのは、それしか選択肢がなかった人類が自分たちを慰めるために生み出したプロパガンダに過ぎません。

なるほどこの返答は興味深いと感じた。確かに人類は、「『死』からは逃れることができない」という価値観を当然のものとして受け入れてきたし、頑強にその枠組みの内側に閉じ込められてしまっている。その枠組みの内側でしか物事を捉えられないからこそ、「死があるから生が輝く」という主張が当然のものとして生まれる、というわけだ。

確かに、人類が「死」を克服したとすれば、そこに新たな「哲学」が生まれるだろうと思う。そして、「『死』から解放されたことで生が輝く」という思想も生まれ得るだろう。戦争やパンデミックが人々の考えを大きく改変するように、「『死』からの解放」もまた人間の感覚を大きく変えるに違いない。

実際にどう変わるのか、それはなってみなければ分からないが、この映画では1つ面白い示唆がなされる

「不老不死」は明らかに「出生率」を低下させる

映画の中で、ラジオの音声が流れる場面がある。ニュース番組だろうか、その音声は「全世界の出生率が0.2まで落ち込んだ」と報じていた。出生率というのは、非常にざっくり説明すると「1人の女性が一生の間に生む子どもの数」であり、「2未満」だと必然的に人口が減っていく2020年の日本の出生率は1.34であり、これでも相当低いとされているが、映画の中ではそれがなんと0.2だ。つまり、「5人女性がいれば、その内の1人は子どもを1人生んでいる」という感じだろう。

もし「不老不死」が実現するなら、当然このような未来になるはずだ。妊娠・出産が可能な年齢で「老化抑制手術」を受ければ、理論上はいつでも子どもを持つことができる。極端に言えば、「100年ぐらいは遊び倒して、それから子どもを生む」みたいなこともできてしまうわけだ。

もちろん、新たに子どもが生まれなくても、「老化抑制手術」を受けていれば基本的には死なないのだから、子どもが生まる限り人口も増え続けることになる。ただしこの映画では、すべての人間が「老化抑制手術」を受けるわけではないし、受けなかった人間はそのまま寿命で死んでいく。人口の増減については、「『老化抑制技術』を受けた人数」と「出生率」の兼ね合いによって決まるので、なんとも言えないところがある。

しかし確実に言えることは、子どもが生まれなければ「人類の遺伝子の多様性」は薄まるということだ。例えばパンデミックなど、外的な環境が急激に変化した場合に、遺伝子の多様性が低いとあっさり全滅してしまう可能性はあるだろう。この映画の「不老不死」は「肉体が老化しない」というだけなので、車に轢かれたり、重篤なウイルスに感染したりすれば命を落としてしまう。決して「不死身」というわけではないのだ。

恐らくだが、生き物に「生」と「死」のサイクルが内包されているのも、そのような理由が大きいはずだ。「古い遺伝子」がたくさん残っているより、「新しい遺伝子」がたくさん存在している方が、種全体としての生存確率は高まるだろう。そのためには、「古い遺伝子」が消え、「新しい遺伝子」が生まれる仕組みが存在してほしい。まさにそれが「死」と「生」なのだと思う。

もちろん、「自分さえ楽しければいい」という個人の主観から考えれば、人類という種全体の話などどうでもいいだろう。しかしこの話は、「自分が1000年も5000年も生き続けること」を前提にしている。寿命が100年程度であれば、「種全体のことなんかどうでもいい」という態度でも問題ないだろうが、1000年単位で生きるとなれば、「人類という種」がどういう趨勢を辿っていくのかは無視できないと思う。

不老不死になれば、「子どもを産もう」という気分は確実に減衰するし、それによって「人類という種全体の遺伝的多様性」は大きく失われてしまうはずだ。そしてそのことが、結局「人類という種」を衰退させることにも繋がるだろうと思う。

まあもちろん、「不老不死になりたい」と口にする時、誰もここまで真剣に考えたりはしないだろうし、「自分が考える『理想的な不老不死』」を望んでいるだけだということも理解しているつもりだ。真剣に反論するのは野暮だろう。

さて、個人的な感覚でしかないが、遠い未来において、科学が「不老不死」と呼べるような技術を生み出す可能性はあると私は思う。現に生物の中には、クラゲのように「死」という概念が存在しないものもいる。

「不老不死」の技術を生み出さなければならない切実な動機も存在する。人類はいずれ地球に住み続けられなくなるだろうし、そうなった場合に「遠くの居住可能な星」への移住を検討するしかない。しかし、「光の速度で進んでも数十年・数百年かかる」ような旅に出なければならないので、「不老不死」の技術が求められることになるだろう。

恐らく、私が生きている間にそんな技術が開発されることはないだろうし、仮に開発されたとしても私はその手術を受けるつもりはない。ただ、思考実験として、「本当に不老不死が実現したら、世界はどうなるのだろうか」と考えてみるのは面白いと思う。

映画『Arc アーク』の内容紹介

物語は、主人公のリナが17歳の時点から始まる。映画での彼女の最後の年齢は135歳だ

17歳で子どもを産んだリナは、その後息子とは離れ離れの生活をしている。住む家もなく、ダンサーとして日銭を稼ぎながらフラフラと生きているだけの彼女は、ある夜エマという女性と出会った。「ボディーワークス」と書かれた名刺を渡され、気が向いたらここまで来るように言われる。

「ボディーワークス」は、亡くなった人に「プラスティネーション」と呼ばれる処理を施すことで、生前と同じような状態を保つサービスを提供する会社だ。この会社が生み出した「プラスティネーション」は、血液や脂肪をプラスティックに置き換えることで腐敗を防ぐ技術であり、脳や内蔵をそのまま残した状態での保存が可能である。リナはここで見習いとして働き始めた。そして、「死」とは何か、そしてその「死」が形として残ることの意味は何なのかを考えるようになる。

やがてリナは、世間的にも名を知られる存在になった。彼女を見るために多くの人が「ボディーワークス」に見学にやってくるほどだ。しかし一方で、状況が大きく変わる予感も漂う。エマには天音という弟がおり、この2人は考え方に相違がある。「死」を受け入れた上で、その「死」をいかに形として留めるかを志向したエマと違い、天音は、同じ「プラスティネーション」の技術を使い、「死」を遠ざける方向へと歩みを進めていたのだ

長年準備を進めていた「老化抑制技術」をようやく厚労省に認可させることに成功し、天音の計画は大きく動いていくことになる。そして、天音に見初められたリナは、人類初となる「老化抑制手術」を受けることになるが……。

映画『Arc アーク』の感想

非常に面白い映画だった。私は、核となる「不老不死」そのものには興味が持てないが、「『不老不死』が実現した世界では何が起こるのか?」は非常に面白いテーマだと思う。様々なことを考えさせられた。また、「不老不死」に関わる部分だけではなく、「ボディーワークス」が抱く理念、「死」に対する姉弟の価値観の差異など、物語的にも興味深い部分が多い。

とても良いと感じたのは、各年齢でリナが何らかの「葛藤」を抱えている、という設定だ。そしてその「葛藤」が、「不老不死」という縦軸と共鳴し、物語全体を響かせていく感じがした。

映画冒頭のリナは、とにかく「生活すらままならない」という現状に苦しめられる。そもそも社会の中で生きていくのになかなか不適格な人物で、ほとんど喋らず、笑顔も見せず、猫背で首だけ曲げてお辞儀をするようなタイプだった。「生きる」という土俵に上手く乗れていない、という表現すればいいだろうか。

しかし、「ボディーワークス」で地位が確立されることで、「生きる」という最低限度の障害は乗り越えられるようになった。しかし今度は、天音との関係に思い悩んでしまう。「ボディーワークス」で「死」と向き合ってきたリナが、天音と共に「死」を乗り越える世界に踏み出すのか。誰も考えたことのない問いに直面せざるを得なくなってしまう

さらにその後も、具体的には触れないが、その時々で「『不老不死』が実現した世界ならではの『葛藤』」に囚われることになる。期せずして「人類のニュータイプ」となってしまったリナの葛藤は「非現実的なもの」ではあるが、リナの片足は私たちが生きる現実に接地している感じもあり、決して「自分には関係ない」と押し戻せるものではないと思う。

パンデミックの真っ只中に生きる私たちは、まさに「これまで誰も直面したことのない問い」に向き合う生活をしていると言っていいだろう。リナの「葛藤」と、それにどう向き合っていくのかという姿勢は、そんな世の中を生きる私たちにとって1つの指針となり得るのではないかとも感じた。

出演:芳根京子, 出演:寺島しのぶ, 出演:岡田将生, 出演:清水くるみ, 出演:井之脇海, 出演:中川翼, 出演:中村ゆり, 出演:倍賞千恵子, 出演:風吹ジュン, 出演:小林薫, Writer:石川慶, Writer:澤井香織, 監督:石川慶, プロデュース:ケン・リュウ, プロデュース:川城和実, プロデュース:加倉井誠人, プロデュース:仲吉治人
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最後に

やはり私は、それがどんな物事であれ、「終わり」があってほしいと考えてしまう。映画の中で、

死なないことは、死ぬことよりも人々の恐怖を掻き立てるようだ

というセリフが出てくるが、確かに「終わりがないこと」は私にとってある種の「恐怖」と言っていいかもしれない。

私は、「終わりがある世界」で、当たり前のように「終わり」を全うしようと思う。

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