【激変】天才・藤井聡太と将棋界について加藤一二三、渡辺明が語る。AIがもたらした変化の是非は?:『天才の考え方』

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はじめに

この記事で取り上げる本

著:加藤一二三, 著:渡辺明
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 藤井聡太も話題の1つとして取り上げられるが、決して作品のメインではない
  • AIの台頭がもたらした、「勝敗を決する決定的要因」の変化とは?
  • 「答えを知れるメリット」と「考える力が奪われるデメリット」のどちらを重視するか?

渡辺明の冷静な分析・指摘が光る、将棋初心者でも面白く読める一冊

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

長い伝統を持つ将棋界を、AIはどう変えたのか?トップランナーの加藤一二三、渡辺明の2人が語り尽くす

本書の、副題は「藤井聡太とは何者か?」だが、決して藤井聡太に関する本ではない。藤井聡太についても触れられはするが、あくまでも話題の一部という扱いだ。本書は共に「天才」として世間的にも知られているだろう2人の棋士、加藤一二三と渡辺明が、「将棋」をテーマに様々な話題について語り合う作品である。大雑把に言えば、加藤一二三が昔の将棋界を、渡辺明が現代将棋を語っていると考えればいいだろう。

話題は多岐に渡るが、その中でも「AIが将棋界にもたらした変化」に関する話に私は一番惹かれた。そこでこの記事では、その点に絞って内容に触れていきたいと思う。

AIによる変化を、渡辺明はどのように表現しているか?

AIによる変化を一番分かりやすく表現しているのは、渡辺明のこの発言だろう

大山十五世名人や加藤九段たちの時代、米長永世棋聖や中原十六世名人の時代、羽生世代と、将棋は変わってきている。ただし、これまでは、変化の幅がそれほど大きくはなかった。
たとえば1979年から1999年までの二十年の変化の幅と、1999年から2019年までの二十年の変化の幅は、くらべられないほど後者のほうが大きい。
1979年から1999年までを中心に戦ってきていた人はそんなことはないと言うかもしれないが、私の感覚でいえば、そういうことになる。(渡辺明)

将棋研究のレベルが大きく変わったと、渡辺明は実感しているそうだ。そしてそれらは、「戦法の流行」「新手への対策」などから感じ取れるという。

だが、現在の将棋界では、戦法の流行も一週間くらいの単位で変わっていくことが珍しくない。「先週まではこういう指し方が目立っていたのに今週は減ったよね」といった変化が頻繁になっているのだ。(渡辺明)

新手が生まれた日のうちに対策がとられるケースさえ珍しくはない。
そのため、新手の概念も変わってきた。
以前であれば、それまでの定跡とは異なった新手を思いつけば、その手は生き残っていくことが前提になっていた。しかしいまは、新手が生き残るなどとは誰も思っていない。
自分が編みだした新手に対して思い入れを持ちにくくなっているのは確かだ。(渡辺明)

特に「新手」に対するこの感覚は印象的だった

私自身、さほど将棋に詳しいわけではないのだが、私よりもさらに詳しくない方向けに、少し「新手」の説明をしておこうと思う。

将棋には「定跡」と呼ばれる、「このような状況ではこう指すべし」という指針となる教えが大昔から連綿と受け継がれている。しかし時に、その「定跡」を覆したり、あるいは誰も想像さえしなかったような展開がもたらされたりするような手が生まれることがあるのだ。これが「新手」である。

かつては、対局中に「新手」が登場すると、その対策を講じるのにかなり時間が掛かった。だから、「新手」は少なくとも一定期間はその強さを発揮でき、結果として「生き残る」ことになるというわけだ。

しかし現代では、「新手」が生み出されたとしても、AIによる解析がすぐに行われ、対策がすぐに見つかってしまう。寿命がもの凄く短くなっているのである。そして、そのような変化について渡辺明は指摘しているというわけだ。

これらの文章だけでも、AIがいかに将棋界を変えたのか理解できるだろう

「羽生世代」がタイトル戦に出られなくなっている理由

さて、AIによる変化に絡めて、本書では「羽生世代がタイトル戦に出られなくなっている」という話が展開される。「羽生世代」も、将棋ファンにはお馴染みの呼称だろうが、知らない人のために説明しておこう。

誰もが知っているだろう天才棋士・羽生善治を筆頭に、彼と同時代に活躍した棋士のことをまとめて「羽生世代」と呼ぶことがある。規格外に強かったからだ。私も決して詳しいわけではないが、佐藤康光・森内俊之・深浦康市などが「羽生世代」として名前が上がることが多いだろう。

私の知る限り、棋士をまとめて括る呼称として、「羽生世代」ほどよく知られたものは他に存在しないように思う。いかに「羽生世代」が別格の存在だったかが分かるだろう。

世代としてこれほど早く台頭してきた例は、それ以前にもそれ以後にもない。(渡辺明)

はじめてタイトルを手にすることによって注目される棋士もいなくはないが、有望な棋士は、それ以前の段階で「この人はいずれタイトルを取るのではないか」と注目される場合が多い。そういう棋士は世代ごとに現れてくるものであり、世代ごとの強さはフラットに近いといえる。AI世代になったからといって、手がつけられないほど強い人がいきなり何人も現れ、タイトル戦を席巻するわけではない。
その意味ではやはり羽生世代は特別だった。(渡辺明)

渡辺明もこのように、「世代のまとまりとして異次元の強さを誇っていた」と語っている。以前読んだ本には、「それまであまり行われていなかった序盤の研究を羽生世代が積極的に行い、序盤の研究をしていない先輩棋士たちを一気に引き離した」みたいなことが書かれていた。羽生以前・羽生以後と言っていいほどに、将棋研究のレベルが変わったということなのだろう。

さてそんな最強を誇った「羽生世代」の棋士たちが、タイトル戦に出られなくなっているという。

羽生九段に限らず、いわゆる「羽生世代」は長くタイトル戦を席巻してきたが、2019年には羽生世代の棋士はひとりもタイトル戦に出場できなかった。そうなったのは、羽生九段が初タイトルとして竜王位を獲得した1989年以来のことになる。こうした状況からいっても、将棋界は「新しい時代」を迎えつつあるといえるのかもしれない。(渡辺明)

そしてこの背景にAIの影響があると渡辺明は語る。より正確に表現すれば、「『事前の情報処理』の重要さ」が変化したことが大きいのだそうだ。

それだけ事前の情報処理能力に左右される部分が大きくなっているのだ。
もちろん、そうはいっても、いざ対局に臨めば、対人で発揮される本人の実力が問われるのは、昔も今も変わらない。
ただし、二つの力が持つ意味の比率は変わってきている。昭和はもちろん、平成の半ばくらいまでなら、対局場に入ってからの実力が八割、九割といった意味を持っていたのではないかと思う。事前の情報処理能力が持つ意味は、一割、二割程度だったということだ。それがいまは四割、五割といったところまできている。人によっては五割を超えたと言うかもしれない。
それだけ重要な事前の準備をおろそかにしていては、結果は望めなくなっている。事前準備の段階から勝負は始まっていて、その時点で勝敗が決してしまう場合もないとはいえない。(渡辺明)

先程触れた通り、「戦法の流行」や「新手への対策」がAIの登場によって驚くべきスピードで変化している。これはつまり、「知っているか否か」が大きく戦況を左右するとも言えるだろう。対局中に現れた新手に対して、「どのような対策が見つかったのか」という知識がなければ対応は出来ない。実力が無ければ勝てないことに変わりはないが、しかし、「いかに情報収集するか」も勝敗を大きく左右する時代になった、というわけだ。

そして渡辺明は、「昔から活躍してきた『羽生世代』にはやはり、『対局場での勝負』というスタイルへのこだわりがあるのではないか」と考えているのである。もちろん、情報収集を怠っているなんてことはないだろう。そうではなく、「向き合ってから勝負は始まる」というポリシーのようなものが、タイトル戦への出場機会減少という結果に繋がっている可能性について指摘しているのだ。

スポーツの分野でも、様々なテクノロジーの進化によって「データ分析」が欠かせなくなったはずだが、将棋も同じなのである。どんな世界でも当然「若い世代の台頭」は起こる。しかし将棋の場合、さらに「AI研究との親和性」という要素が加わってくるので、余計ややこしくなるというわけだ。

昭和の将棋は研究されなくなっている

AIが登場する以前の将棋研究と言えば、「過去の対局の棋譜を並べること」が主流だった。しかし今はもう、そのやり方が廃れてしまっているという。

私が十代の頃などは加藤一二三九段の対局をはじめ、昭和の将棋の棋譜を見て、それを盤上に再現しながら頭をひねっていたものだ。しかし、AI世代の棋士の多くは、昭和の将棋を研究したことなどないのではないかと想像される。個人差があることなので一概には言い切れないが、昭和の棋譜どころか、近年のものでもプロ同士の対局で残された棋譜を振り返ることも少ないのではないかと思う。いまは最新の戦術解析など、やることが多くなりすぎているので、復習のための時間がとれなくなっているからだ。
世代が異なれば、研究の方法が違ってくるのは当然といえる。私が十代の頃に優秀な将棋ソフトがあったなら、やはりそれを使って勉強していたはずだ。(渡辺明)

この点に関してはやはり、長く棋士を続けてきた加藤一二三の話が興味深く感じられるだろう。彼はまず、「棋譜を残せること」こそが将棋の醍醐味だと語っている。

棋譜を残せる、というのは将棋のすばらしさの一つだ。
いまの人たちは、将棋ソフトなどを使って最新の情報にこだわっているが、それだけで将棋は強くなれない。
これまでに私は、百年、二百年経っても色褪せない将棋を指してきた。その自負がある。
バッハやモーツァルト、ベートーベンらが残した曲がいまなお愛され、世界中で演奏されていることとも意味合いは変わらない。
過去があってこそ現在があり、未来がつくられる。
そのつながりは決して絶たれない。
そんな系譜の中で自分の足跡を残せるのが棋士である。
すばらしい仕事だ。(加藤一二三)

さて、これは割と「感傷的」と言っていい話だと思う。しかし、「昭和の棋譜を研究しないこと」に関する、こんな具体的なマイナス事例も紹介している。次の話は、2019年11月の王将戦リーグ最終局における藤井聡太の対局について語ったものだ

この対局で藤井七段は新しい型に持ち込んだつもりだったのかもしれないが、実際は過去に私も指したことがある型だった。
あまり出ない型でもあり、藤井七段はそういう展開になったときの棋譜を見たことがなかったのだろう。いくら意識的に過去の棋譜を見ているといっても、すべての棋譜を見渡すのは不可能なので仕方がない。しかし、この対局以前に私が闘っていた棋譜を見ていたならどうだっただろうか……。(加藤一二三)

「たられば」の話をしても仕方ないが、藤井聡太の敗戦で終わったこの対局で、もし勝っていれば、「史上最年少でのタイトル挑戦権獲得」となっていたそうだ。加藤一二三の発言は、その残念さを滲ませたものだと受け取るべきだろう。ちなみに、この対局に勝っていた場合の次局の対戦相手は渡辺明だった。

さて、誤解を問いておく必要があるだろうが、「藤井聡太は過去の棋譜の研究を行うタイプの棋士だ」と加藤一二三は語っている。渡辺明も、

藤井七段の場合、年齢のわりにはAIの導入が比較的遅かったようだ。
聞いたところによれば、将棋ソフトを活用するようになったのはプロになる直前の三段リーグか、プロになってからだという。(渡辺明)

と言っている。基本的に過去の棋譜を研究しているという藤井聡太でさえ取りこぼしてしまうのが、「AI研究が当たり前になった現代将棋」の難しさなのだろう。

AIがもたらした「棋士」の変化

さてこのように、AIの台頭は将棋界を大きく変化させた。さらにここからは、「AIが棋士の内面をいかに変化させたか」について触れていきたいと思う。

AIで学ぶのとアナログで学ぶのとをくらべて、何が違うかといえば、そこに「解」があるかないかだ。その差はきわめて大きい。(渡辺明)

渡辺明はこのように主張している。これはかなり重要な指摘だと言えるだろう。というのも、AIが登場する以前の将棋研究では、「これが正解だ」と断言することなど誰にも出来なかったからだ。「これが正しいに違いない」というところまでたどり着いても、そのやり方が後々ひっくり返され、棋士たちは改めて思考を巡らせていく。そのようなやり方で「将棋」というものを発展させてきたはずだ。

この点を踏まえた上で渡辺明は、「考えることを放棄していいのか?」という問いを投げかける

AIが将棋に何をもたらしたかということについては、人によって考え方がまったく異なる部分であり、簡単に語るのは難しい。
進化と取る人もいるかもしれないが、「研究するのがラクになっただけ」と考える人も少なくないだろう。それがいいのか悪いのかも、個人の価値観次第だ。
我々棋士では簡単に答えを出せないようなことでもAIは解を出す。その解がすぐに出ることを良しとするかしないかだ。
これまでがそうだったように、AIが出す解に頼らず、自分で答えを見つけようとして、一日でも二日でも一週間でもそれを考え続けることに意義を感じる人もいるだろう。一方、AIが解を出してくれるのなら、悩む必要はなくなるので、勉強が進めやすいと考える人もいる。そこではやはり「考えることを放棄していいのか?」という最初の議論に戻ることになる。(渡辺明)

学校の勉強などにおいても同じことが言えるだろう。「答えを知ること」と「答えを思考によって導き出すこと」は、最終的な状態は同じだが、そこに至るまでの過程に大きな違いが存在する。そして、「考えなくても答えを知れる」ことに価値を見出すのか、「自分の頭で考えて答えに辿り着く」ことに価値を見出すかで、AI研究の捉え方はまったく変わってくる、というわけだ。

私は個人的に、「考える力を失ったら人間はおしまいだ」と思っているので、「考える過程」を大事にしたい。しかし棋士の場合は「勝敗」を無視できない。過程はどうあれ、勝てなければ意味がない世界で闘っているだ。つまり、渡辺明の問いは「勝つために、考えることを放棄していいのか?」「考えることを放棄し勝てるのか?」と捉えるべきなのである。

加藤一二三の有名な対局として、7時間も長考したものが知られている。1968年、第七期十段戦の第四局、彼は7時間考えた末に「4四銀」という手を指し勝利した。

渡辺明は「長考」について、

私個人は、長考するときは、いくつか思いついた手のどれを選ぶかに時間をかける場合が多くなりますね。(渡辺明)

と言うのだが、7時間の長考について問われた加藤一二三はこんな風に答えている

正確に言うと、あれは着手する二十分ぐらい前に見つけたんです。それまでは思い浮かべられなかったですね。どうしてそれだけ考えたかといえば、「何かいい手があるはずだ」というふうに思えていたからなんです。(加藤一二三)

時代が違うと言えばそれまでかもしれないが、加藤一二三のこの主張は、「自らの頭で考えること」の重要性を改めて指摘するものであるように感じられた。

「自分の頭で考える」ということに関して、渡辺明は様々な指摘を行っている

だがいまは、AIが勝負前から「序盤戦の解」を出している。
その解を知っていれば、相手が実績ではとてもかなわない先輩であっても臆することがない。そのためなのか、最近の若い棋士は、伸び伸びと戦っているような印象を受ける。序盤戦から長考するような棋士は減り、ある種、機械的に序盤を進めていくのだ。(渡辺明)

「知っているという状態」が、「強気で臨む」というメンタルに影響しているという指摘は非常に興味深いと感じた。それが良いことなのかどうか、私にはうまく判断できないが。

また、先程触れた話の繰り返しにもなるが、

いまの将棋と昭和の将棋をくらべたときにも、また違った部分はある。いまの将棋はAIによって出された解を記憶しておくことが大切になるが、昭和の将棋はそうではなかった。「その場で考える」ということが、より大きな意味を持っていた。(渡辺明)

とも書いている。

だからこそ渡辺明は、「『人間同士が対局する将棋』のレベル」は、以前の方がより高かったのではないかと言う。

十年ほど前に羽生世代の棋士たちとタイトルを争っていた頃には”知性と思考力で勝負をしていた感覚”が強かった。いまの勝負はやはり事前の準備にかかるウェイトが大きくなりすぎているというのが私の実感だ。
人間同士が行う将棋の技術としてどちらのレベルが高かったかといえば、私などは十年前だったのではないかと思うのだ。(渡辺明)

それでもやはり、十年ほど前のタイトル戦のほうが将棋のレベルが高く、満足度が高かったというのが、偽りのない感覚である。
だからこそ、AIが将棋を変化させたことは間違いがなくても、それが進化とは言い切れない面がある。(渡辺明)

AIは間違いなく将棋界を変えたが、それが「良い変化」と言えるものなのかは判断しかねるというわけだ。

しかし、面白いことに、

だが、皮肉なことに私には、どうやら現代の将棋に適性があるようだ。(渡辺明)

とも語っている。彼は一時期スランプに陥ったのだが、「情報収集を主体とした現代的な研究スタイル」を意識的に取り入れた結果、また勝率が上がるようになったそうだ。渡辺明はこれまで、スタイルを変えてうまくいったことがほとんどないそうで、そんなこともあり、彼は「現代将棋の方に適性がある」と自覚するに至ったのである。「将棋界全体」にとって「良い変化」だったかはなんとも言えないが、「渡辺明」という一個人にとっては「良い変化」だったというわけだ。

著:加藤一二三, 著:渡辺明
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最後に

AIがもたらした変化についてかなり大局的に考察を続けた渡辺明は、今後の展開についても冷静に指摘している

元々AIによる将棋ソフトは、「プロ棋士に勝つこと」を目標に開発が続けられてきた。そして、ソフトとプロ棋士の対局が何度か行われた結果、「ソフトはプロ棋士並の実力を持つ」ということが明らかになったのである。そしてそれを1つの区切りとして、ある時点からソフトとプロ棋士の対局は行われなくなった

今も将棋ソフト同士の優劣を競う選手権は開催されており、有志がその闘いに向けて開発を続けているのが現状だ。しかし、この選手権さえ開催されなくなれば、「将棋ソフトを開発する動機」が消えてしまい、新たなソフト開発が行われなくなるだろう、と渡辺明は考えている。

そしてそうなった時、将棋界がどのような変化を迎えるのかは誰にも分からない、と指摘するのだ。確かにその通りだろう。

AIによる研究は、ソフト開発の進歩を前提にしているそれが止まった時、AIを軸に研究してきた棋士の進歩も止まってしまいかねない。そしてそのような時代を迎えたとすれば、一昔前の棋士のような、「考える力」で闘いを挑んできた者たちがまた台頭してくる可能性もあるだろう。将棋の世界はまだまだ変化し得るだろうし、あまり詳しくはない私としても、その変化を楽しみにしたいと思う。

さて最後に、加藤一二三の変な話に触れて終わりにしよう。加藤一二三が「棋譜の研究などほとんどしなかった」と語ったことを受けて、渡辺明が「家でどのような研究をされていたんですか?」と問うのだが、それに対して加藤一二三はこんな風に答えるのである。

若い頃は、対局前には闘志を持続しなければいけないと思って、イギリスのウィンストン・チャーチルという人がノーベル文学賞を取った『第二次大戦回顧録』を買ってきて読むという習慣がありましたね。(加藤一二三)

もはや将棋とは関係ないとしか思えないが、彼としては真剣な回答なのだろう。やはり色んな意味で「異次元」の棋士なのだと改めて実感させられた。

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