はじめに
この記事で取り上げる映画


この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ
今どこで観れるのか?
この記事で伝えたいこと
行動が伴っていなくても「誰かを助けたい」と言いやすい社会であってほしい



「誰かを助けること」が「カッコいい」と受け取られる世の中であることを願っている
この記事の3つの要点
- 私は、なかなか行動は伴わないが、「誰かを助けたい」という気持ちは持っている
- 「批判」することでマウントを取ろうとする行為はクソ喰らえだ
- 「誰かを助けたい」という気持ちが否定されない世界観だからこそ、『竜とそばかすの姫』は素敵に感じられる



ポジティブな言葉こそ”安易に”口にできるような社会に私は生きていたいと思います
自己紹介記事





どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください
記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
それでも「『誰かを助けたい』と言う側の人間」でありたいと私は思う
私はいつも、「誰かを助けたい」と思ってはいる


『竜とそばかすの姫』は、難しいことを考えずに楽しんで観ればいい映画でしょう。ただ私は、映画のかなり後半で、ある人物が「助ける助ける助ける……」と口にする場面からの、物語がガラッと変わっていく展開がとても好きで、いろいろと考えさせられました。なので、この記事ではまず、「『助ける』ということの難しさ」に触れることにしましょう。


私はたぶん、世の中の平均的な人よりも「『誰かを助けたい』という気持ち」を持っていると思っています。別に証明はできませんが、「見返りなんかなくなって、それが相手のためになるなら全然やる」という気持ちでいるし、周りの人と話をしたりネットであれこれ読んだりしても、「平均よりは上なんじゃないか」と感じるのです。
ただ、ここが大きな問題なのですが、じゃあ実際に行動をしているのかと言われたら何もしていません。時々思いついたように寄付をしてみるぐらいで、ボランティアに従事するといったような積極的な行動を取れてはいないのです。



ホントにいつも「まず自分を生き延びさせるので精一杯だ」って気持ちが強いんだよね



自分も助けられないような人間に、誰かを助けられる気はしないんだけど、言い訳だよなって自分でも思う
「気持ちはある」と言っても、行動に移していないなら、気持ちだって無いのと同じでしょう。そう判断されても仕方ないと私自身感じています。「高尚なことを言うならまず行動しろ」という批判はある意味で真っ当だと思うし、「同情するなら金をくれ」のように、実際に苦しんでいる人からすれば「気持ちなんか要らないよ」という感じでしょう。そういうことは、一通り理解しているつもりでいます。


ただその上で敢えて言うと、「それでも『誰かを助けたい』って口にできる社会」であってほしいと願ってしまうのです。実際には行動に移せていない人でも、「誰かを助けたい」という気持ちを持っていると表明することを「良し」とする世の中であってほしいなと思ってしまいます。
何故なら私は、人間の行動の多くが「それって『カッコ良い/カッコ悪い』よね」みたいな理屈で決まると考えているからです。





「いじめの解決法」も、最終的には「いじめってカッコ悪いよね」っていう雰囲気を作る以外にないと思ってる



個別のいじめの事案はともかく、いじめ全体の話だとすれば、そんな感じするよね
実際に行動できているかどうかに関係なく、「誰かを助けたい」という気持ちの発信が多数存在すれば、それは「カッコ良いこと」と認められるのではないかと期待しています。逆にアメリカなどでは、「富裕層になったら寄付ぐらいしないのはカッコ悪い」という風潮があるから寄付文化が根付いていると聞いたことがあるほどです。人間の行動はそういう「全体の雰囲気」で大分変わるでしょう。だからその第一歩として、「行動が伴っていなくても、『誰かを助けたい』と口にすること」が当たり前の社会になればいい、と私は考えているのです。


そういう意味で、『竜とそばかすの姫』のようなアニメ・マンガの世界は素敵だと感じる点があります。「誰かを助けたい」という気持ちが上滑りすることなく当たり前のように存在し得る世界が多いからです。アニメ・マンガがこれだけ人気なのだから、多くの人が実は「そういう世界」を望んでいるのではないか、とさえ感じています。



まあ、アニメ・マンガの世界も、主人公周辺の人たちだけがそういう感じなのであって、世界全部がそうとは限らないのかもだけどね



ってかそもそも、アニメもマンガもほとんど見ないからよく分かってないでしょ
大体すべて、SNSが悪い
ただ現実には、私たちは「『誰かを助けたい』と口にしにくい世界」に生きています。そしてその理由の大半は「SNS」にあると私は考えているのです。


私は基本的に、「批判」という行為があまり好きではありません。自分がするのもされるのも、という意味です。そもそも「100%完璧な人間」などどこにもいないのですから、どんな人・どんな場合でも「批判すべき点」を見つけられるでしょう。そして批判する側は「絶対に反論されない正論」で自説を固めておけば安全圏にいられます。


つまり、「どれほど能力がない人間でも、簡単に『相手より優位に立っている』と”錯覚できる”行為」が、私にとっての「批判」です。



たまにネットで炎上している状況をチラ見すると、あまりのアホさに驚かされる



「炎上させてる側」の主張には首を傾げちゃうことが多いよね
そして、この「批判」をあまりに容易に行えるようにしたのが「SNS」だと私は思っているのです。これまでは、「グリコ・森永事件」のような犯罪行為でもしない限り、一個人が社会に大きなインパクトを与えることなどできませんでしたが、SNSの登場で、個人の「批判」でも社会に一定の力を与えられるようになりました。これはもの凄く大きな変化だと思います。
「相手よりも優位に立てる手軽な手段」である「批判」を、それまでと比べ物にならないくらい容易に行えるようになってしまえば、「悪い批判」が増えていくのは当然と言えるでしょう。
もちろん世の中には、「状況を好転させる『良い批判』」も存在します。ただ、その違いが的確には理解されず、同じ「批判」と扱われてしまうことも多いでしょう。そしてそうなればなるほど「良い批判」を行おうとする人は減ってしまいます。だから結果として、ますます「悪い批判」ばかり増えていくという悪循環に陥ってしまうのです。


残念なことに、SNSのせいで「批判」が容易になってしまったことで、「誰かを助けたい」というポジティブな言葉を口にすることのハードルは上がってしまいます。恐らく、「口だけ」「偽善者」「やってから言え」みたいな批判が出るでしょうし、そうなることが容易に予想できてしまうからこそ、そういう発言をする人も減ってしまいます。



ホントにそういう風潮は好きになれない



メンタルが強い人じゃないとポジティブな言葉が言えなくなる世の中はちょっと怖いよね


もちろん、今苦しい立場にいる人が、「『助けたい』なんてどうせ口だけだろう」と批判する行為は受け入れるべきでしょう。真に救援を求めている人からの厳しい視線は受け止めなければならないと考えているのです。ただ、「仮に口だけだとしても発した方がいい言葉」はあるはずだと私は信じていますし、そういう言葉を口にしやすい世の中であってほしいとも願っています。


『竜とそばかすの姫』では、「批判」が優位になってしまうそんなクソみたいな風潮を、Belleの歌声が吹き飛ばしていく感じが爽快だと感じました。私の主張は「理想的だ」と感じられてしまうかもしれませんが、変わるために大金が必要なわけではないし、個人の努力の積み重ねで可能な範囲のはずです。それぐらいの「理想」は語ってもいいのではないかと思っています。


映画の内容紹介
自然豊かな田舎で、平凡な毎日を過ごしている女子高生のすずは、幼い頃に母親を事故で亡くしたことをきっかけに、大好きな歌を人前で歌えなくなってしまった。幼馴染で同級生のルカのように、明るくみんなに慕われる存在に憧れてはいるが、そうはなれないと諦めてひっそりと学生生活を過ごしている。同じく幼馴染のしのぶくんは、学校中の人気者で、いつの間にか遠い存在になってしまった。同級生のヒロちゃんだけが、唯一心を許せる親友だ。
事故以来、父親と2人暮らし。ほとんど会話らしい会話はない。学校生活もパッとせず、昨日と今日と明日の違いが分からないような日々である。
そんなある日、ヒロちゃんから「U」に誘われた。「U」は世界最大の仮想空間で、なんと50億ものアカウントが存在する。耳に装着したデバイスで生体情報を読み取り、その情報を元に「U」内での自分の分身「As(アズ)」が生成される。アカウントと生体情報が紐づいているので、1人1アカウントしか作ることができないのが特徴だ。


すずは「Belle」という名前で登録し、「U」の世界を試してみた。人前ではずっと歌えずにいたが、ここだったら歌えるかもしれない。そう思い立って試してみると、自分でもびっくりするぐらい気持ちよく声を出すことができた。すずは「歌えるじゃん」と満足し、「U」の世界から離脱して眠りにつく。
翌日。とんでもないことになっていた。「Belle」のフォロワーが急増しているのだ。登録初日に一度歌っただけなのに、その際の映像が拡散され、「Belle」は「U」内の超有名人になっていたのである。多くの人が「自分のために歌ってくれている気がする」と称賛、すずはすぐに「U」内で大規模なライブを開くまでになっていく。
しかしすずは、有名人になった高揚感など得られない。それどころか、現実とのギャップに困惑する日々で……。
映画の感想


賛否あるようですが、私はすごく好きな映画でした。あまりSNSもやらないし、仮想空間やらメタバースやらにも特に興味はないので、「U」の世界そのものには特に惹かれませんでしたが、「現実のような虚構」を用意することによって「すず/Belle」を掘り下げていく展開はとても良かったと思います。


この記事の冒頭で書いたように、やっぱり私は、この映画の「誰かを助けたい」という場面にグッときました。「誰かを助けたい」という気持ちが頭ごなしに否定されない世界の良さみたいなものを存分に生かしている感じがします。また、「現実的じゃない」という見方があることも理解した上でですが、「やはりこういう世界であってほしい」という自分の内側の願望が確認できもしました。



「それは理想論だ」って批判、基本的に好きになれないんだよね



実現可能かどうかはともかく、「理想を語ること」はどんな場合でも受け入れられてほしいって思う
また、「誰かを助けたい」という気持ちに関連して、すず(Belle)がある決断を胸に大勢の前で歌うシーンは特に良かったと感じました。すず自身が重い決断を下したことも勇敢だったと感じますが、さらに「立場が変わることで理解できたこと」が描かれる展開も良かったと思います。すずは、ある理由から「母親の死」に対して納得できない思いを抱いていたわけですが、否応なしに自分の立ち位置が変化したことで「母親の気持ち」が理解できるようになり、それによって母親を受け入れられるようになるわけです。そんな展開になるとは思っていなかったので、これも素敵な場面だと感じました。


すずの父親の「存在感」
私は、出番こそ少ないものの、すずの父親はとても重要な役割を担っていると感じました。先述した「すずが決意を胸に歌うシーン」で彼女が大きく変化したことが示唆されるわけですが、そこではあくまでも予感を抱かせる程度でしかありません。すずはあまり感情を表に出す人物ではないので、その変化を正しく捉えるのは難しいと思います。しかし、父親との場面で明白な変化を見せるのです。


冒頭からずっと、すずは父親につれない振る舞いをし続けます。父親は娘とコミュニケーションを取ろうとしますが、すずの方が閉ざしてしまっているという印象です。すずと父親の描写はとても少ないのであくまで想像にすぎませんが、恐らく、母親の死から10年ぐらい、すずと父親の関係はずっとこんな状態だったのだろうと私は感じました。
そう感じた理由の1つは、父親がすずに毎日同じ質問をすることです。そしてすずは、その質問にまともに返答しません。そんなやり取りが当たり前に描かれるので、この状態がずっと続いているのだろうと私は判断したわけです。



父親としても、質問を止めたら「止めたことに理由がある」って受け取られかねないしね



どう接すべきか、父親も悩んだだろうね
父親は恐らく、時間を掛けて解決するしかない、と覚悟していたのだと思います。すずが閉じてしまっている理由は「母親が死に至った際の行動」にあり、すずにはその行動がどうしても理解できません。その理解が伴わなければ何も変わらないだろうし、時間を掛けて付き合っていくしかないと父親は決めていたのでしょう。


その決意をなんとなく感じさせるのが、駅ですずと父親がやり取りをする場面です。ここで父親は、毎日すずにしている質問を投げかけますが、それに対してすずは、恐らく初めていつもとは異なる返答をします。しかし父親は、この時のすずの返答に驚く素振りを見せず、いつもと変わらない振る舞いをするのです。
私はここに父親の決意を感じました。



なんでもないっちゃなんでもない場面なんだけど、凄く良かったよね



出番の少ない父親との掛け合いだからこそ余計にグッと来る感じもあった
普通なら、それまでの10年間と違う返答が返ってきたら、咄嗟にいつもと違う反応をしてしまうはずです。しかし、そうしなかったということは、父親が「いつもと違う返答が返ってきても驚かない」と決めていたと考えるしかないでしょう。いつその瞬間が訪れてもいいように、父親はきっと普段から意識していたはずです。特別そんな風に描かれるわけではありませんし、私の勝手な深読みにすぎませんが、そんな風に考えて私は、映画全体の中でも、出番の少ないこの父親が印象的でした。


ヒロちゃんと友だちになりたい
映画全体の話とは全然関係ありませんが、私はヒロちゃんみたいな人が凄く好きです。メチャクチャ友だちになりたい。
ほどよく毒があって、ほどよく陰があって、考え方も行動もぶっ飛んでいて、でも人間としての節度はちゃんとある、みたいな感じにとても惹かれます。ヒロちゃんみたいな友だちができないかなぁ。


ヒロちゃんについては、エンドロールを見て驚きました。声優が、YOASOBIの幾田りらだったのです。



ただ、「幾田りらだったこと」に驚いたわけじゃないんだよね



そう、それは知ってたのよ
映画を観る前に、テレビのワイドショー番組かなにかで、「幾田りらが『竜とそばかすの姫』で声優に初挑戦」みたいな特集がされていました。だから私は、情報として「ヒロちゃんの声は幾田りら」ということは知っていたはずなのです。ただ、映画を観る頃にはそのことを忘れており、いざ映画を観ても、エンドロールを目にするまでそのことに気づきませんでした。そのことに私はとても驚かされたというわけです。
こんな言い方をすると失礼かもしれませんが、「声優初挑戦」だったらもう少し「違和感がある」「上手くないな」という感想になってもおかしくない気がします。ヒロちゃんは映画で結構出てくる場面が多いので、その分ボロが出る可能性も高いはずです。それでも、違和感をまったく抱かずに最後まで観れてしまったことにも驚かされました。
なんというのか、出来る人は何でも出来るもんだなぁ、と思わされます。羨ましい。




最後に
全体的にはとても好きな映画でしたが、「竜」に関する描写はもう少し必要だった気もします。「竜」に付随する様々な情報がちょっと説明不足だった気がしていて、個人的にはそれが「しっくりこない感」に繋がっているような気もしました。
繰り返しますが、たとえ「理想論」だと言われようとも、私は、「『誰かを助けたい』と主張する側」でいたいと改めて感じましたし、実際に「誰かを助ける行動」が取れる人間になりたいとも思いました。
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