【伝説】映画『ミスター・ムーンライト』が描くビートルズ武道館公演までの軌跡と日本音楽への影響

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「ミスター・ムーンライト~1996 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢~」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • ザ・ビートルズがアメリカで人気を博すきっかけとなった14歳少女によるラジオリクエストと、日本ではまったく誰からも相手にされなかった現実
  • ザ・ビートルズ以前と以後では、日本音楽は一体どのように変わったのか?
  • 武道館公演実現に至るまでの「通説」の否定と、「武道館使用」に関する驚くべき裏話

ザ・ビートルズの凄さはもちろん知っているつもりだったが、リアルタイムでその凄さを体感した人たちの話は実に興味深かった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

伝説となった武道館公演に至るまでのザ・ビートルズの軌跡と、彼らが日本音楽に与えた凄まじい影響を描き出す映画『ミスター・ムーンライト』

映画『ミスター・ムーンライト』においてメインで描かれるのは、1966年6月30日から7月2日にかけて行われた、ザ・ビートルズの武道館公演の話だ。本作には多数の著名人が出演しているのだが、その多くがこの武道館公演と何らかの関わりを持っている。財津和夫、黒柳徹子、松本隆は、その伝説の公演を観た人物として、加山雄三はホテルでザ・ビートルズと会った人物として、そして尾藤イサオは前座を務めた人物として映画に登場するのだ。また他にも、奥田民生、峯田和伸、井口理、浦沢直樹など、直接的にザ・ビートルズと関わりがあったわけではない人たちも登場し、どんな影響を受けたのかなどについて語っていく。実に豪華な作品だと言っていいだろう。

その中でも、個人的にとても興味深かったのは、小説家の高橋克彦の話である。ザ・ビートルズとはなんの関係も無さそうに思えるだろうが、実は彼は「ザ・ビートルズに初めて会った日本人」として映画に登場するのだ。何がどうなってそんなことになったのかは是非映画を観てほしいが、かつて書店員をやっていて、実は高橋克彦にも会ったことがある私としては、非常に驚きのエピソードだった。

ただ、「高橋克彦がザ・ビートルズに会った初めての日本人である」という話、実は証明出来てはいない。というのも彼は、イギリスで痛飲したせいで、ザ・ビートルズのメンバーと撮った写真が収まったカメラをどこかに置き忘れてしまったのである。それもあって彼は帰国後、「ザ・ビートルズに会った」と言っても「嘘つき」と散々言われまくったそうだ。「そのことを証明したい、みたいな気持ちがあって今のような仕事に就いたのかもしれませんね」と語っていたので、もし彼がカメラを忘れていなかったら、小説家にはなっていなかったかもしれない。人生何があるか分からないものである。

さて、全体としては武道館公演そのものに焦点が当てられるのだが、私としてはむしろその前段、つまり「ザ・ビートルズを日本に広めた、あるいは武道館公演を企画・実現した者たち」の話がとにかく面白かった

ザ・ビートルズは当初、さほど人気ではなかった

ザ・ビートルズは1962年にデビューするや、すぐにイギリスのチャートを席巻し、一躍トップスターとなっていった。しかしその人気はイギリス以外には広まっていなかったそうだ。確かにインターネットも無い時代であり、「そもそも存在を知らなかった」というのが正しいのだろう。そのような中、まずアメリカで人気に火がつくことになるのだが、そのきっかけが興味深かった。なんと、ケネディ暗殺が関係しているというのだ。

1963年、ケネディ大統領が暗殺された。このため当時のアメリカは、非常に重く暗い気分に沈んでいたのだという。そんな時、ある14歳の女の子が地元ラジオ局に、「こんな時はザ・ビートルズじゃない?」という手紙を送った。その手紙を受けてラジオ局はその少女をラジオ局に呼んだそうだ。恐らくだが、ザ・ビートルズの音源がラジオ局に無かったので、少女が持っていた何かを使ってザ・ビートルズの音楽をラジオで流したのだと思う。

するとそのラジオを聞いた人から、ザ・ビートルズの曲のリクエストが多数入るようになったのだそうだ。こうして、イギリスでは既にトップスターだったザ・ビートルズがアメリカで知られるようになり、最終的にはその年、ザ・ビートルズはNYで1位を獲得することになる。1人の少女のリクエストからザ・ビートルズの人気が広まっていったというのは、かなり意外な話だと思う。

さて、当然だが日本でも、「ザ・ビートルズの人気は無い」という状況にあった。1963年頃まで、「洋楽」と言えば「アメリカ音楽」のことを指していたため、ザ・ビートルズの音楽こそ日本に入ってきてはいたものの、それを聞いた洋楽ファンは「よく分からない」という反応を示したのだという。

この辺りの話については、かつて東芝音楽工業にいた高嶋弘之が大いに語っていた。映画冒頭から度々登場するのだが、彼こそが「ザ・ビートルズを日本で広めた人物」であり、まさに「ザ・ビートルズの人気に火がつく以前の状況」について語るのにうってつけの人物と言っていいだろう。ちなみに、バイオリニスト・高嶋ちさ子の父親でもある。彼はある時ザ・ビートルズの存在を知り、自分が知っているあらゆる人に片っ端から売り込みを掛けたのだが、誰も乗ってこなかったそうだ。それが1963年のことである。

その後も地道なプロモーションを続けていたところ、当時「東京放送」と呼んでいたラジオ局(今はTBSホールディングスになっているらしい)の女性ディレクターが、「私はこれが好き」と言ってくれたという。この時高嶋弘之は、

男は理屈で「聞いたことがないからダメだ」と判断するが、女性は感性で判断する。

と感じ、その後ザ・ビートルズのプロモーションは「若い女性」をターゲットにすることに決めたそうだ。

彼はプロモーションのためにとにかく様々な「ヤラセ」をしたそうで、その中の1つとして面白かったのが、「学生だった頃、嘘のリクエスト電話を掛けるアルバイトをしたことがある」と作詞家・松本隆が話していたこと。逆に言えば、それぐらいしなければならないほど、まったく誰も関心を抱かなかったということなのだろう。高嶋弘之はそんな状況下でも、「やれることは何でもやった」と言うほどザ・ビートルズのプロモーションに専念したのだそうだ。やはり彼らに対して、何か感じるものがあったのだろう。

日本でもザ・ビートルズが絶大な人気を博していく

その後ザ・ビートルズは日本でも徐々に知られるようになっていくその熱狂ぶりを伝えるエピソードとしては、雑誌「ミュージック・ライフ」の元編集長・星加ルミ子の話が面白いだろう。高嶋弘之が初めて彼女にザ・ビートルズの話をした時には「体よく断られた」というほどまったく関心を持っていなかったそうだが、次第に「音楽専門誌なんだから、ザ・ビートルズも取り上げないとマズイかしら」ぐらいの気持ちで特集を組んでみたそうだ。するとその後、書店から電話が殺到することになる。初めは「売れまくったから注文の電話が来たのだろうか」と思っていたそうだが、そうではなかった。なんと「表紙が破られている」という苦情の電話だったのだ。若いファンが雑誌を買わず、表紙だけ破って盗んでいったというのである。それぐらい若い世代には、熱狂的に受け入れられるようになっていったのだろう。

そんなザ・ビートルズが日本でも広く知られるようになったきっかけが、『Hard Day’s Night』という映画である。元々はザ・ビートルズの楽曲のタイトルなのだが、その後同名の映画が作られたようだ。しかし、この邦題がなかなか酷い『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』という、恐ろしくダサい名前なのである。まあ、日本ではまださほど知られていなかったバンドの映画を上映するというのだから、こういうタイトルにせざるを得なかったことは理解できる。ある意味では、「いかにザ・ビートルズがその名を知られていなかったのか」を示すエピソードだと言えるだろう。

ともかく、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』という映画によってザ・ビートルズが日本でも広く知られるようになったのだが、この映画については財津和夫がこんなエピソードを語っていた

彼は友人から、「ザ・ビートルズの映画が公開されるから観に行こう」と誘われたのだが、一度は断ったという。しかしさらに「女の子ばかりだぞ」と言われ、まあそれなら行くかぐらいの気持ちで観に行ったのだそうだ。そんな感じだったから、もちろん財津和夫はそれまでザ・ビートルズの音楽を聴いたことがなかった。しかし映画でその音楽を聴き、衝撃を受けたという。彼は、

みんながキャーキャー言っているものからは遠ざかっておこうと思っていたのに、そんなこと関係ないと思えるぐらいに溺れてしまった。

と、そのあまりの衝撃について語っていた。やはりその音楽性は、革新的だったようだ。

彼が感じた衝撃を私たちが追体験することはほぼ不可能だろう。私たちは既に「ザ・ビートルズ以後の音楽」に馴染んでいるからだ。しかし映画では、その衝撃を少しでも理解してもらおうという意図だろう、「ザ・ビートルズ以前の日本の音楽」についても触れられている

「ザ・ビートルズ以前の日本の音楽」と、「ザ・ビートルズの音楽の凄さ」

日本の音楽史において欠かせない人物といえば、永六輔と中村八大の2人なのだそうだ。この2人、有楽町の日劇の前でばったり邂逅するという形で出会うのだが、この2人のコンビが後の日本音楽に絶大な影響を与えたことを考えると、その出会いのエピソードには驚かされるだろう。というのも、この時中村八大は、前からやってきた永六輔をその場で口説き、自身が作曲した曲に歌詞を書いてもらえることになったのだが、なんとこの時点で永六輔には作詞の経験がなかったというのだ。なかなか凄まじいオファーの仕方だろう。

その後彼らは、伝説の名曲『上を向いて歩こう』を生み出す。坂本九が歌い、全米チャートで1位を獲得した曲である。そしてなんと、その半年後に、ザ・ビートルズが全米チャート1位になったのだそうだ。

映画の中である人物は、

もし、永六輔と中村八大が偶然出会わなかったら、日本の音楽はどうなっていたんだろうか。

と語っていた。

また、中村八大の息子は、教会で偶然出会ったポール・マッカートニーとジョン・レノンのエピソードを引き合いに出し、

出会うべき2人が、出会うべきタイミングで、出会うべくして出会ったのだと思いたい。

みたいに言っている。ザ・ビートルズと直接の関係はないのだが、「ザ・ビートルズ以前の日本音楽」における「68コンビ」あるいは「689トリオ」(彼らの名前に含まれる数字からこう呼ばれることがある)のエピソードは、実に興味深かった

さて、私は決して音楽的な知識・経験があるわけではないので、ザ・ビートルズの曲を聴いて「良いな」と感じることはあっても、何がどう凄いのかちゃんとは捉えきれない。映画では、色んな人がその凄さについて語っていたのだが、なるほどと感じたのが「自作自演の凄さ」についてだ。「自作自演」という言葉、今ではどうも「悪い意味」の響きしか持っていないように思えるが、確かに字面だけ捉えれば「自ら作り、自ら演じる」という意味になる。そして、ザ・ビートルズ以前にはそのようなスタイルは存在しなかったそうなのだ。この点について多くの人が衝撃的だったと語っている

特に日本の場合は、「作詞」「作曲」「歌唱」は分業制が当たり前であり、「大先生が作詞作曲した曲を新人が歌う」というスタイルが当然のものとして存在していた。その常識をザ・ビートルズは鮮やかにぶち壊したのだ。作中で誰かが、

「自分で作っちゃえばいいんだよ」みたいなメッセージを感じた。

と言っていたのが印象的だった。今でこそ、「自ら曲を作る」なんてのは当たり前のことだが、それが全然当たり前ではなかった時代に登場したザ・ビートルズは、当然凄まじい衝撃を与えたのだろうと思う。そしてそこから、日本の音楽も劇的に変わっていくのである。その影響力は甚大だったと言っていいだろう。

日本はいかにしてザ・ビートルズを呼んだのか

このようにザ・ビートルズの遍歴などに触れながら、話は次第に武道館公演へと収斂していく。その中でもやはり、「いかに武道館公演を実現させたか」という話が興味深かった

私は以前、『ビートルズを呼んだ男』(野地秩嘉/小学館)という本を読んだことがある。その内容を詳しく覚えていたわけではないが、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司という、業界では伝説的な人物が関わっていたという話はなんとなく記憶にあった。

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さて、「ザ・ビートルズの日本公演」が決まった背景については一般的に、次のような「通説」が知られているという。それは、「公演の3ヶ月前にプロモーターが永島達司に連絡を取り話が進んでいった」というものだ。しかしこの「通説」は誤りなのだという。そう指摘したのが、5年間毎週土曜日に国会図書館に籠もり、あらゆる新聞・雑誌に隅から隅まで目を通してザ・ビートルズ関連の記事を探しまくったという、趣味でザ・ビートルズを研究している人物だ。いくらザ・ビートルズが好きだとはいえ、なかなかの異常者だと言っていいだろう。

さてそれでは、そんな彼の調査によって何が明らかになっていったのかを見ていくことにしよう。

元々は、東芝音楽工業の石坂範一郎という人物が、ザ・ビートルズを日本に招致しようというアクションをかなり早い段階で起こしていた。実際に、日本公演の話がほぼ決まりかけたそうだが、しかし、「ザ・ビートルズ側のスケジュールの都合」で頓挫してしまう。

どんなスケジュールの都合だったのかについては記事では具体的に触れられていなかったのだが、考え得る仮説があるという。ザ・ビートルズは1965年10月にイギリスで勲章を授与されている。そして石坂範一郎が当初、1965年10月で招致を計画していたことが分かっているので、恐らくこの勲章の授与の話が出たことで日本公演の話が流れてしまったのではないかと推測していた。

日本側としては残念な状況だっただろう。しかし意外なことに、この「勲章の授与」こそが後に、日本公演を実現する上での最大の鍵となるのである。

その後、石坂範一郎は懇意にしていた永島達司にザ・ビートルズの招致を引き継いだそうだ。永島達司はとにかく海外で抜群の知名度を誇る人物だったようで、誰もが「タツの英語は素晴らしい」と絶賛していたという。またザ・ビートルズにも、「俺たちのことを騙さなかったのは、タツ、お前だけだ」と口にしたというエピソードがある。招致にはうってつけだったと言っていいだろう。

こうしてザ・ビートルズ招致は永島達司にバトンタッチされ、彼はその期待に応える形で、武道館公演の実現に尽力したというわけだ。

「武道館」を使用する上での大問題と、来日時のエピソード

さて、ザ・ビートルズを招致するにあたって最大の問題となったのが「武道館の使用」である。今でこそ「武道館コンサート」は当たり前に行われているが、その当時はまだ、武道館でアーティストが公演を行った事例は皆無だった。元々江戸城があった場所だからだろうか、「神聖な場所」という印象が強かったようで、「そんな神聖な場所で歌を歌うなんて」という拒絶感情がそもそも強く存在していたようである。さらにそこを使おうとしていたのが、「あんな音楽を聴いたら不良になる」と喧伝されていたようなアーティストだったのだ。そのため、「ザ・ビートルズの公演のために武道館を使用する」ことは困難に思われた。

そもそも、ザ・ビートルズの公演を何故武道館で行おうと考えたのかは分からないが、「海外のアーティストを呼ぶのに相応しい場所が無かった」みたいなことなのかもしれない。まあその理由はともかく、本作には当時の武道館職員も出演し、ザ・ビートルズ公演以前の状況について語っていた。元々柔道場として建設された武道館は、普段ほとんど使われる機会がなく、閑古鳥が鳴いていたそうだ。だからその職員は、「ザ・ビートルズの公演が成功したら、武道館を使いたいという人が増えるはずだ」と考えていたという。実際にその通りになったわけだが、「武道館コンサート」の走りがザ・ビートルズだったという事実さえ知らなかったので、その点も興味深かった。

日本公演に関わったザ・ビートルズ側の人物(マネージャーかもしれない)は、当時日本側から、

武道館での公演は、セント・ポール大聖堂で歌うようなものだ。

神聖な場所での公演に反対するデモが起こるかもしれない。

という話を聞いていたと明かしている。割と緊迫した状況が想定されていたようだ。

しかし、その状況を大きく改善するきっかけとなったのが、「勲章の授与」だったのである。「ザ・ビートルズは、イギリスから勲章を与えられた人物だ」という事実が、「武道館という神聖な場所を使う名目」として成立し、反対の声を抑えることが出来たと語っていた。ホント、何が影響するか分からないものである。

さてこのようにして、ザ・ビートルズの日本公演が行われることは決定した。しかしそれからも、様々なドタバタが続いていく。個人的に興味深いと感じたのは、日本航空の客室乗務員が語っていたエピソードだ。彼女は、ザ・ビートルズが日本航空の飛行機で日本にやってくると知り、「絶対に搭乗したい」と志願したという。すると関係者から、「是非やってもらいたいミッションがあるのだが、頼めるか?」と打診される。それが、「ザ・ビートルズにハッピを着せる」だったのだ。飛行機から下りてきたザ・ビートルズのメンバーがハッピを着ていた光景は、私でも知っているぐらい有名なものだが、あの演出にはこのような裏話があったのである。

こうして、無事武道館公演が開幕した全11曲、僅か35分で終了したそうだが、しかしこの公演こそが日本音楽史における大転換となったのである。ある人物は、「ザ・ビートルズの日本公演を境に、人生のすべてが変わった」とさえ語っていた。数多くの人たちに多大な影響を与えた伝説は、こうして生まれたのである。

最後に

ザ・ビートルズが凄いことはもちろん知っていたつもりだ。しかしやはり、「現代の視点」からザ・ビートルズを捉えるのと、「武道館公演以前を知る人物の視点」で捉えるのとでは、見え方がまったく異なるだろう。その時その場にいた人間にしか体感出来ない感覚はとても興味深かったし、私自身も今、それと同じような「何か」に出会えたらいいなと感じたりもした。

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