【奇跡】鈴木敏夫が2人の天才、高畑勲と宮崎駿を語る。ジブリの誕生から驚きの創作秘話まで:『天才の思考』(鈴木敏夫)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:鈴木 敏夫
¥1,222 (2021/12/13 21:58時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 鈴木敏夫は、初対面で黙りこくった宮崎駿の隣に3日間居座り続けた
  • 『もののけ姫』は大勢の関係者から反対されていた
  • 『千と千尋の神隠し』の宣伝を「カオナシ」メインで行った理由とは?

この3人が奇跡の邂逅を果たさなければ、至高のジブリ作品は生まれなかっただろう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

鈴木敏夫が、天才・宮崎駿、高畑勲、そしてジブリとその作品の裏側を語り尽くす

本書は、「ジブリの教科書」シリーズの記述をまとめた作品だ。

文春文庫から出ている「ジブリの教科書」では、1冊でジブリ作品が1作品取り上げられ、様々な角度から語られる。その中には、鈴木敏夫が各作品についての分析や思い出を語るコーナーもあり、本書は、その鈴木敏夫のパートだけを抜き出して再構成した作品だ。

著者はあとがきで、

ゲラを読んで驚いた。自分が体験したことを語った内容なのに、話の細部のほとんどが記憶に無い

と語っている。

読みながら、歴史上の人物のやった出来事を読んでいる気分だった

とも書いており、私の印象としては、過去を振り返る余裕もなく突っ走ってきた鈴木敏夫の奮闘の証であるように感じられた。

鈴木敏夫はいかにしてジブリに関わることになったのか

よく知られている話かどうかは知らないが、鈴木敏夫は最初からジブリにいたわけではない。元々は、徳間書店という出版社で働いていた。

彼が入社した70年代半ばは、新聞記者や編集者が一般的には「生業」とは見なされておらず、「ヤクザな世界」だと思われていたそうだ。そんな時代に彼は、『週刊アサヒ芸能』の記者や『テレビランド』の編集など、雑誌と関わるようになっていく。

ジブリと関わる直接のきっかけとなったのは、雑誌『アニメージュ』だ

鈴木敏夫は元々、『アニメージュ』とはまったく関係なかった。しかし、その新しいアニメ雑誌の創刊準備をしている男から、「外部のプロダクションと喧嘩しちゃったら俺はもう出来ない。代わりに引き受けてくれないか?」と突然話が舞い込んできたのだ。

そもそもアニメのことなどまったく知らなかったが、緊急事態だということもあり引き受けざるを得なくなる。

しかし大問題があった。引き継いだ時点で校了まで2週間しかなかったのだ。普通に考えれば、118ページの創刊号を2週間で作り出すのは不可能である。しかしそんなこと言っていられない。どうにかしなければと試行錯誤している時に、元編集長から紹介されたアニメ好きの女子高生の「『太陽の王子 ホルスの大冒険』が面白い」という話を思い出す

創刊号はこれで行こう、と鈴木敏夫は決めた。そして、そんな流れから、制作者の宮崎駿・高畑勲と関わりが出来ていくことになる。

宮崎駿との最初の邂逅はなかなか痛快だ

片や宮さんのほうは『ルパン三世 カリオストロの城』を製作中でした。あとで宮崎駿はその時の僕を回想して「うさん臭いやつが来たと思った」と言うんですが、会った最初に言われたのが「アニメーション・ブームだからといって商売をする『アニメージュ』には好意を持っていない。そんな雑誌で話したら自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない」。

こう言われた鈴木敏夫はどうしたか。なんと、一心不乱に描き続ける宮崎駿の横に3日間居座り続けたのだという。それでやっと口を利いてもらえるようになった。しかし、創刊まで2週間しかないのに、その内の3日をただ「待つ」ことに使うというのだから、鈴木敏夫の胆力も凄まじいと感じさせられる。

そんな鈴木敏夫は、宮崎駿・高畑勲の仕事に触れることで、「アニメ」や「アニメーター」への印象が変わっていったという。

二人を見て、これほどまでに働くのか、今や”作家”はこんなところにいるのかと思ったんです。そのころ、僕の持つ作家のイメージを体現する人はもう吉行淳之介さんぐらいしかいなくて、想像していたとおりのストイックな作家性を持つ人間が、高畑・宮崎だったんです

こんな風にしてジブリと関わるようになる鈴木敏夫だが、彼はその後もしばらくずっと徳間書店の所属のままだった。それは、『もののけ姫』や『となりの山田くん』を制作している期間でさえも変わることはなく、

ジブリの母体である徳間グループの不良債権問題が本格化し、僕がその処理にあたる羽目に陥っていたのです。朝はメインバンクである住友銀行のある大手町、昼は徳間書店のある新橋、そして夜はジブリのある東小金井。三角地帯をぐるぐる回る毎日でした

と、ジブリに専念できるような日々ではなかったそうだ。というかそもそも鈴木敏夫は、ジブリにおいてはなんの肩書もなく、ただ面白いから好きで関わっているだけ、という立場にすぎなかった。そうこうしている内に、いつの間にかジブリのプロデューサーになってしまったというのだから、人生何が起こるか分からないものだと思う。

様々な作品における鈴木敏夫の関わり方

ジブリはこれまでに様々な作品を生み出し、それらはどれも名作として知られているが、その誕生の背景にはいろいろな苦労があった。鈴木敏夫がどのように関わってきたのかを軸にして、いくつかの作品の裏側を覗いてみよう

紅の豚』は元々、「JALの機内で流す15分程度のショートフィルム」という依頼があって作り始めたものだった。さっそく宮崎駿に絵コンテを描いてもらうのだが、それを見た鈴木敏夫は「これで終わり?」と感じたそうだ。当初宮崎駿が考えていたのは、現在の『紅の豚』の冒頭部分だけだったのである。

そこで鈴木敏夫は、「ここはどういう設定になっているんですか?」「こういう部分もみんな知りたいんじゃないですかね?」と宮崎駿に質問し続けた。そしてそうこうしている内に、93分という長編の物語になっていったのだという。

ハウルの動く城』の制作は、まず城の造形から始まった。映画公開後、この城の造形は絶賛されたようで、フランスのリベラシオン紙に「現代のピカソ」と評されるほどだった

手掛けたのはもちろん宮崎駿で、そのスケッチを鈴木敏夫に見せて、「これ城に見えるかな?」と確認を求めてきたことがあった。ここで鈴木敏夫はこんなやり取りをしたという。

正直にいえば、城には見えません。でも、そう言ったら、また制作はストップです。ぼくは「いいじゃないですか。見えますよ」と言いました。ともかく先に進むことが大切だと思ったんです

本書を読めば理解できるが、宮崎駿と高畑勲を動かすのはとにかく難しい。どちらも違ったタイプの職人気質で、こだわりや自らの理想などに従って感情的に行動することも多いため、様々な理由で制作が滞ってしまうという。

私が本書を読んで、これが最大のピンチだったのではないかと感じたのは、『平成狸合戦ぽんぽこ』制作中の出来事だ。高畑勲が手掛けていたこの映画をなんと宮崎駿が「制作中止にしよう」と真剣に言ってきたのだという。鈴木敏夫いわく「大変な修羅場だった」そうで、これまでも様々な危機を乗り越えてきた彼でもお手上げ、このままではジブリは終わってしまうかもしれない、というほどの状況だった。

そこで鈴木敏夫は一か八かの賭けに出る。「無断でジブリを休む」という強硬策を取ったのだ。結果的にはこれが効いたようで、ギリギリのところで2人の争いは終結、ジブリが空中分解することもなく制作を進められたという。

しかし本当に、毎日が「いつ勃発するか分からない綱渡りの連続」という感じで、気が休まることがなかっただろう。そういう業界に疎い私のような人間は、「プロデューサー」と呼ばれる人たちが何をしているのかイメージできないことも多いが、鈴木敏夫はとにかく「宮崎駿・高畑勲をきちんと制作に向かわせること」が最大の仕事だったと言っていい。

また、『ゲド戦記』に関するこんな話もある。元々鈴木敏夫は、監督を宮崎吾朗(宮崎駿の息子)にやってもらおうと考えていた。しかしこれまでの経験から、「宮崎吾朗」の名前を最初から出してしまえば宮崎駿に反対されることも明白だったという。だから、まずは2人、ダミーとして別の名前を出してから、「だったら吾朗くんはどうですか?」と切り出し、上手くいったのである。

「天才と仕事をする」というのはもちろん、刺激に満ちた面白い経験だと思うが、当然苦労も多いというわけだ

『もののけ姫』は関係各所から「反対」されていた

「監督のプロデュース」ではなく「作品のプロデュース」という意味で最も難しかったのは『もののけ姫』だったという。というのも、この作品は様々な人たちから「反対」されていたからだ。

二年かけて、いつもの倍の予算で作る――そう決めたものの、じつは関係各社が諸手を挙げて賛成したわけじゃなかったんですよ。長年協力関係を続けてきた日本テレビ、今回から出資者に加わった電通、そして配給の東宝、三社とも『もののけ姫』という企画には懐疑的でした。というのも、当時の日本映画界には「チャンバラものはもう終わり、興行的に成功しない」という雰囲気があったんです。「いくら宮崎駿が作るといっても、リスクが大きすぎる」。そうした意見が多勢でした。

鈴木敏夫は当時、先述した通り徳間書店の不良債権処理に明け暮れていてムシャクシャしていたこともあり、「冒険活劇でスカッとやりたかった」そうだが、「冒険活劇はもう古い」と反対の声を浴びていたのである。

しかし、反対するのも無理はないと感じるだろう。

制作費や宣伝費から計算すると、収支をトントンに持っていくためには、『南極物語』が持っている日本映画の最高記録、配給収入59億円を超えなきゃいけないことになる。本当にそんなことができるのか? 彼らは僕に事実を突きつけてくれたんです

確かにこの事実を考えると、「もう古いと思われている中で冒険活劇をやる」というチャレンジはなかなか無謀と言える。結果として『もののけ姫』は、当時の世界最高記録である『E.T.』の96億円も抜き去る興行収入を叩き出すわけだが、公開前にそこまで予想できた人はいないはずだし、どれだけ言葉を費やしたところで納得はさせられなかっただろう。

だからこそ鈴木敏夫は、映画が完成しても東宝には知らせなかったという。見せればあれこれ言われると分かっていたからだ。「完成が遅れている」ということにして、今からではもう状況をひっくり返すのは不可能、というギリギリのところまで待ってから試写をする、という作戦で通した。結果的には鈴木敏夫は賭けに勝ったわけだが、よくもまあここまで『もののけ姫』という作品を信じることが出来たものだと思う

この点について鈴木敏夫は次のように語っている。

映画にも哲学的なメッセージが必要な時代だと考えていた

この思想は、彼が考えた「生きろ。」という宣伝コピーにも表れている。このコピーに対しても「哲学的すぎる」と反対の声が上がるのだが、鈴木敏夫は押し切ったのだ。公開前の時点ではこのように様々な懸念が噴出していたわけだが、興行収入という結果がそれらすべてをなぎ倒したのである。

鈴木敏夫は『もののけ姫』という作品を、「宮崎アニメの集大成だとは思わない」と捉えているという。

世間では「宮崎アニメの集大成」という言われ方をしましたけど、僕はそう思いません。集大成というなら、空を飛ぶシーンを含め、得意技を満載にした映画を作るはずです。ところが、宮さんは得意技をすべて封じて、これまでやってこなかった表現に挑戦した。そのせいで、大きなテーマを掲げながら、それを具体化できないじれったさみたいなものが滲み出た映画になっています。だから、完成度という意味では必ずしも高くない。その代わり、『もののけ姫』という映画には、新人監督の作品のような、荒々しいまでの初々しさと勢いがありました

宮崎駿という人物を長く見続けてきたからこそ、「得意技を封じた作品」という見方が出来るのだろうし、「完成度は必ずしも高くない」とも言えるのだろう

『もののけ姫』は、ジブリが世界進出を果たすきっかけを生んだ作品でもあるが、最初からそれを狙っていたわけではない。発端は、ジブリ作品のビデオ販売を外部委託するという話だった。

様々な会社から申し出があったが、その中の1つに「ウォルト・ディズニー・ジャパン」があった。条件面で言えば最も悪かったが、鈴木敏夫は、先方の人柄を含め様々な情報を勘案してディズニーに決める

その際、鈴木敏夫は1つ条件を加えた。それが、「アメリカで『もののけ姫』を公開する」というものだ。そしてその公開をきっかけに、ジブリ作品が世界へと広がっていくことになるのである。

『千と千尋の神隠し』プロモーションにおける鈴木敏夫の葛藤

『千と千尋の神隠し』には当初「カオナシ」は登場しなかった、という話は意外ではないだろうか。

https://www.ghibli.jp/works/chihiro/#frame

いつものごとく宮崎駿が新しいアニメの内容について滔々と語るのだが、その物語に鈴木敏夫はピンと来なかった。しかし、「なんかピンと来ないですね」みたいな言い方をすると、制作は止まってしまう。そこで鈴木敏夫は、「それだと3時間ぐらいのストーリーになりますけど、いいでしょう、今回は思い切って長くしちゃいましょう」という言い方をした。宮崎駿が長い映画を作りたくないと知っているからこそであり、これもまた鈴木敏夫のプロデューサーとしての手腕だと言える。

さて、予想通り長い話を嫌がった宮崎駿が、じゃあ代わりにと言って描いたのがカオナシの原型となるキャラクターである。そしてそんな風に生まれたカオナシは、鈴木敏夫に葛藤を抱かせる存在となるのだ。

それはこのようなものである。

それを聞いて、僕の中に二律背反、二つの考えが浮かびました。
新しい案はたしかにおもしろい。ただ、カオナシの中に心の闇のようなものを見てしまう子もいるんじゃないか? 意識化でいつまでもこの映画を引きずり、人格形成に影響を受ける子も出てくるかもしれない。十歳の子どものために作ろうとしている映画で、そういうことをやるのは不健全じゃないだろうか……

悩んでいる鈴木敏夫は、宮崎駿から「どっちか決めてよ」と催促され、「カオナシで」と返答してしまう。こうして『千と千尋の神隠し』の制作がスタートすることになった。

しかしその後も、鈴木敏夫の葛藤は続く

でも、本当にそういう映画を作っていいものかどうか、僕はその後もずいぶん悩みました。正直なところ、ヒットするのはカオナシのほうだと思いました。『もののけ姫』のときから感じていたことですけど、単純な勧善懲悪の物語では、もうお客さんは呼べない時代になっていました。娯楽映画にも哲学が必要な時代になっていたのです

今でこそ、アニメは大人も見るものという認識だが、当時はまだ子どものためのものという印象も強くあったことだろう。まさに時代の転換点にいたと言っていい。ジブリというトップランナーがどういう決断をするかで時代の趨勢が決まるという側面もあったはずだ。そのような、単純に「ジブリという会社の経営」だけを考えてはいられないという状況の中で悩んだのだろうと思う。

また一方で、このような懸念もあった。

ご承知のとおり、『もののけ姫』は日本の映画興行史を塗り替える大ヒットを記録しました。社会現象にもなって、宮崎駿という名前は一人歩きするようになった。それがもういちど起きたら、宮さんという人はおかしくなっちゃうんじゃないか……そんな不安を感じたのです

身近で見ている人間がこういう心配を抱くのだから、何か徴候らしきものはあったのだろう。また、それほどまでに『もののけ姫』のヒットが、私たちが想像する以上にとんでもないものだったという証左でもあるのだろうと思う。

悩んだ鈴木敏夫は、息子である宮崎吾朗に相談する。その時のやり取りもなかなか凄まじい。

「『もののけ姫』の倍、ヒットさせてくださいよ」
「なんで? 宮さんがおかしくなって、家族がばらばらになっちゃうかもしれないよ」
「いや、ぼくは美術館を成功させたい」
僕は内心、すごいやつだな……と思いました。仕事のためには家族のことも顧みない。そういう点は宮さんの血を引いています

当時計画が進行していたジブリの美術館建造のために、資金は潤沢にあった方がいい、と趣旨の発言だ。確かに父が父なら息子も息子という感じだろう。

また鈴木敏夫は、様々な人と関わる中で、「『千と千尋の神隠し』も『もののけ姫』の半分ぐらいのヒットにはなるだろう」程度の期待しかされていないことも知る。もちろん、『もののけ姫』は空前の大ヒットを飛ばしたわけで、その半分であっても素晴らしい興行収入と言える。しかし、その程度の期待だと知った鈴木敏夫は奮起し、だったらめちゃくちゃヒットさせてやろうじゃないか、と考えるに至ったそうだ。

『千と千尋の神隠し』をフルパワーで大ヒットへと導こうと決めた鈴木敏夫は、カオナシを前面に押し出すプロモーションを準備する。しかしこれに、鈴木敏夫以外の誰もが怪訝な顔をしたという。そんな宣伝でヒットするのか? と。

中でも面白いのが宮崎駿の反応だった

質量ともに前代未聞の宣伝を展開する中、普段、宣伝に関心を示さない宮さんが珍しく僕の部屋へやってきて言いました。
「鈴木さん、なんでカオナシで宣伝してるの?」
「いや、だって、これ千尋とカオナシの話じゃないですか」
「えっ!?」
宮さんは衝撃を受けていました。「千尋とハクの話じゃないの……?」
その後しばらくして、映画がほぼ完成し、つながったラッシュを見た宮さんはしみじみ言いました。
「鈴木さん、分かったよ。これは千尋とカオナシの話だ」
宣伝関係者だけじゃなくて、監督自身も気づいてなかったんです。作っている当人も気づかない。それが作品というモノだと思いました

https://www.ghibli.jp/works/chihiro/#frame

これもまた凄まじい話だろう。作っている当の本人さえ「カオナシの話」だとは思っていなかったというのだから。当然、他の人もそうは思わないだろう。しかし鈴木敏夫だけがこの作品の本質を見抜き、カオナシを前面に押し出すと決めた

彼には確信があったそうだ

カオナシで売れば、この映画は当たる。いや、それどころか、お客さんが来すぎてしまうんじゃないか――そんな心配すらしました。不遜に聞こえるかもしれませんが、それぐらい深い確信があったんです

最終的に『千と千尋の神隠し』は、306億円という大ヒットを記録し、『劇場版 鬼滅の刃』が抜くまでは不動の記録だった。鈴木敏夫の確信は正しかったわけだが、よくもまあカオナシでそこまでの確信が持てたものだと思う。この1点だけでも、鈴木敏夫というプロデューサーの凄さを実感させられる。

さて、『千と千尋の神隠し』は別の意味でも映画界に大きな影響をもたらした。あまりにもメガヒットを記録したことで、同時期公開のヒットが予測されていた映画が軒並み割を食ってしまったのだ。そこで『千と千尋の神隠し』以降は、同じようなメガヒットを出さないようにしよう、という空気が生まれるようになったのだという。

そう考えると、「コロナ禍で映画業界が落ち込んでいた」というある意味で絶妙とも言えるタイミングに『劇場版 鬼滅の刃』が公開されたことで、あれだけのメガヒットが生まれた、と言うこともできるだろう。

宮崎駿に関するあれこれ

「ジブリ」という会社を立ち上げ、専属のアニメーターを雇うまで、宮崎駿らはアニメ制作を外部の制作会社に委託していた。しかし『風の谷のナウシカ』を制作する際に、誰もが口を揃えて同じことを言ったという。

宮崎さんが作るならいいものが作れるだろう。それはわかっている。でも、スタッフも会社もガタガタになるんだよ。今までがそうだった

それぐらい宮崎駿という人は、アニメーターに求めるものが厳しいという

というか鈴木敏夫の理解では、

宮崎駿がスタッフに求めているのは、その人の中にいいものを見つけて伸ばすというよりも、”自分の分身”なんですね。

となる。

一本の作品を完成させるためには、机を並べていた人に対して厳しいことを言わなければならないこともある。アニメーターの描いた芝居が自分の意図と違う方向に向かっていると「違う」と指示を出さなきゃならない。その一言ごとに、みんなが離れていく。宮さんは、この孤独に耐えられないと言うんですね

すべての絵を自分で描けるなら問題ないが、そんなこと出来るはずもない。だから別のアニメーターにも描いてもらうわけだが、宮崎駿が思う「芝居」ではない場合に指摘しなければならない。だから結局、「自分の分身」を求めてしまうことになるわけだ。

またジブリには、ジブリの社員なのに仕事を頼むと断られてしまうような「凄腕だが気難しいアニメーター」もたくさんいるという。そういう天才がゴロゴロいるからこそ、アニメ史に残るような名シーンが生まれもするのだが、宮崎駿は、

才能よりも作品に対する誠実さがほしい

とスタッフにこぼしたこともあるそうだ。宮崎駿ほどの天才でも、一人でものづくりをすることは出来ないわけだから、様々な苦労をすることになるのである。

一方、宮崎駿の「経営能力」も興味深い

『紅の豚』の制作を始めるにあたり、宮崎駿は、「重要な仕事はすべて女性に頼む」「背景は海と空を基本にする」という方針を打ち出した。ここにはこんな背景がある

当時、少し前まで『おもひでぽろぽろ』の制作が行われており、男性がメインとなる「エース級のスタッフ」は疲弊していた。だから、『紅の豚』では、早く作るためにもできるだけ制作の負担を減らしたい。つまり、「エースを休ませ、作業量を減らす」というのが喫緊の課題だった

しかしそれをそのまま伝えてしまえば士気が下がり軋轢も生まれるだろう。だから、「女性にお願いする」という言い方に変えたのである。天才と言われる職人肌の人は、人間関係に対する細やかさがあまりないという印象を持っているのだが、宮崎駿はその辺りのことは長けていたそうだ。

また変わった才能で言えば、新社屋の設計にも手腕を発揮したという。ただデザイン的に優れているというだけではなく、建材選びから自分で行い、安く仕上げたそうだ。

この点に関して、固定資産税評価のためにやってきた税務署職員によるこんな言葉が載っている。

私たちはこういう建築物を見て資産価値を計算するプロです。でも、ここまで創意工夫して安くできている建物は見たことがありません……。いったいどなたが設計なさったんですか?

お金のプロから見ても驚愕の設計だったそうだ。創作に留まらず実務でもその才能を発揮していたのである。

高畑勲に関するあれこれ

ジブリについて触れる際、どうしても宮崎駿の比重が多くなってしまう印象があるが、高畑勲もまたとんでもない人物だ。アニメ史における評価としては、こんな話には驚かされた。

1999年9月、アメリカで『もののけ姫』の英語版が公開されるのにあわせて、MoMA(ニューヨーク近代美術館)で、スタジオジブリ全作品の上映会が行われました。その最終日、すべての催しが終わった後、僕はMoMAの映画部門の責任者に呼ばれました。
「上映会への協力、本当にありがとうございました。私も全作品を見せてもらって、その中で一本、ものすごい作品に出会いました。『となりの山田くん』、この作品をMoMAのパーマネントコレクション(永久保存作品)に加えさせてもらえないでしょうか」

結局、『火垂るの墓』は、多くの映画賞を獲得し、特に海外での評価が非常に高く、フランスでは、約20年間、連日上映されるという快挙を成し遂げました

宮崎駿の評価はなんとなく知っていたが、正直、高畑勲がこれほど評価されているとは知らなかった。恥ずかしい限りである。

また宮崎駿は、

日本のセルアニメーションの技術の大半は高畑さんの発明だよ

と言っている。私たちが当たり前に見ているアニメの基礎を築いたのが高畑勲ということなのだろう。凄まじい人物だ。

しかしこの高畑勲も、なかなか厄介な人物のようである。彼の行動は「アニメの完成度を高めるため」のものなのだが、それは常軌を逸していると言っていいほどだ。

『火垂る』の現場で、最初のころ、僕が驚いたのは、B29が神戸の街に空襲にやってくる場面がありますよね。すると高畑さんは、当時、B29がどちらの方向からやってくるのかを調べた上で、清太の家の玄関と庭の方角を考慮して、清太が見上げる顔の向きを決める。焼夷弾がどう爆発するかについても、どこで手に入れたんだか、使えなくなった焼夷弾を一個、現場に持ち込んでいた記憶があります。とにかく何を描くにしても、自分で納得するまで徹底的に調べ上げる

挙句の果てには、取材した(紅花の)栽培法について「あれはすこし間違っているんじゃないでしょうか。僕の研究によると、米沢の人の作り方が正しい」と言って、もういちど取材に行くというんです。(中略)ちなみに、高畑さんが書いた研究ノートを見た方は、「この方はどなたなんでしょうか?」と驚いていたそうです

正直、近くにいたら「めんどくさ……」と感じてしまうタイプだろうが、こういう人がいるからこそ、「凄まじい」としか評価しようのない作品が生み出されるのだと思う。

著:鈴木 敏夫
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最後に

宮崎駿と高畑勲という“天才”が同じ場所で競い合い、そこに鈴木敏夫というプロデュースの“天才”が偶然のように組み込まれていったという軌跡が、あまりにも奇跡的だと感じさせられる

そして、そんな「ジブリ」という”奇跡”と同時代に生き、その作品にリアルタイムに触れることができるという”奇跡”をも実感できる作品だ。

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