【問い】「学ぶとはどういうことか」が学べる1冊。勉強や研究の指針に悩む人を導いてくれる物語:『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 子どもの頃、私は勉強するのは好きだったが、決して純粋な動機からではなかった
  • 大人になるほど、「学び」からますます遠ざかってしまう
  • 問題さえ見つければ、解くことなど誰にだってできる

子どもの頃に、この小説で描かれるような発想を少しでも教えてほしかったなと感じました

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

学生時代には理解できていなかった「学ぶ」ことの本質と、「学ぶ」ためにすべきこと

大人になると「学ぶ」ことから一層遠ざかってしまう

この記事では、「学びとは何か?」という本質的な部分の話を展開していくのだが、しばらくの間、「学び」=「お勉強」のようなイメージで受け取ってほしい。つまり、「知識を得る行為」というわけだ。実際には、「学びとはお勉強のことではない」と示すのがこの記事の本来の目的なのだが、当面は一般的なイメージで「学び」という言葉を使う。

大人になるとそもそも、「学ぶという行為」をしなくなってしまう。仕事に必要な資格の勉強をしたり、スキルアップや転職のためにTOEIC・プログラミングを学んだりすることはあるかもしれない。しかしそれらは、「働く上で必要だから」という理由であって、「何かを知る・理解する」という目的ではないことの方がほとんどだろう。

大人になるほど、「学び」から遠ざかってしまうというわけだ。

確かに、様々な理由から「仕事」に軸足を置くことになっていくので、「学び」のための時間を確保するのが難しくなるだろう。しかしそれだけではなく、「学び」のための「好奇心」が無いということも大きいと思う。

では、学生時代はどうだったか

もちろん、勉強が嫌いだったという人もたくさんいるだろうし、そういう人からすれば、学生時代からずっと「学び」の動機なんかなかった、という感じだろうと思う。しかし中には、勉強するのが好きだった人、あるいは好きとまではいかないけど決して嫌いではなかった人もいるはずだ。

私も、割とそっちのタイプである。勉強するのが、結構好きだった。

夏休みの宿題を夏休み前に終わらせ、夏休み中ずっと勉強している」ような子どもだったと書けば、どのぐらい好きだったのか伝わるだろうか。子どもの頃は自分の部屋がなく、「『勉強する人だけが使える部屋』にずっといたかった」という環境的な要因もあったのだが、勉強するのが好きだったことも確かである。

ただ、子どもの頃のことを振り返ると、もう少しちゃんとした動機で勉強していれば良かったと後悔してしまう

「知らなかったことを知れる」とか「難しい計算が解ける」など、勉強そのものに対する楽しさも確かに感じていた。しかしその一方で、「友達を作ること」も私が勉強を熱心にしていた大きな理由の1つだったのだ。

私は、今でもそうなのだが、自分から話しかけて他人とコミュニケーションを始めるのが得意ではない。話しかけられれば誰とでも話せるし仲良くなれる自信は割とあるのだが、自分から関わるのが苦手なのだ。

だから学生時代はずっと、「勉強を教える人」というキャラクターのみで乗り切っていたと言っていい。

私がそこそこ以上に勉強ができることは知られており、また結果的に誰かに何かを教えることも得意だったので、「勉強を教えてほしいと思っている人」が話しかけてくれた。大学に入るまでの私は、すべての人間関係をそれ一本で乗り切っていた記憶がある。そして、いつ「勉強を教えてほしい」と言われても正しく対応できるように常に勉強を欠かさない、というのが、私が勉強に勤しんでいた大きな理由の1つだったと言っていい。

だからこそ大学入学以降は、それまで持っていたような熱心さでは勉強ができなくなってしまった。大学ではどうも、「勉強を教えること」がコミュニケーション上の利点にはならないと気づいたからだ。もちろん、自分の成績を維持する程度の勉強はしていたが、ずっと勉強し続けていた高校時代までの熱量みたいなものは、大学に入ってから消えてしまった。

もう少し「学び」のための動機を探し求めておくべきだったと思う。

今でも、ノンフィクション本を読んだり、ドキュメンタリー映画を観たりして、自分が知らない世界や知識について知りたいと思っているし、そういう事柄への関心は強く持っている。「学び」と言えば学びかもしれない。

しかし、この小説を読んで、「既存の知識を知ることは『学び』ではない」と理解した。「学び」の本質はそこにはない。だから結局、ノンフィクション本を読んでいようが、ドキュメンタリー映画を観ていようが、私がしていることは「学び」ではないということになる。

では、「学び」とは一体なんだろうか

「問題を解くこと」は「学び」ではない

この小説は、普通にエンターテインメントとして楽しめる作品なのだが、一方で、「学び」とは何なのかを理解させてくれる作品でもある

既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない

この作品では研究者が主人公であり、その視点で物語が展開するので、「研究とは何か」がテーマとなる。しかしこれは決して研究者だけに関わる話ではない。「何かを学ぼうとするすべての人」に対して、「学びとは何か」を示唆する発想とも言える。

そしてその要点こそが、「今はないものを知ること」というわけだ。

そういう意味では、数学の問題を解くことは、極めて昆虫的だった。あれは考えているというよりは、おびき寄せられていただけなのだ。

問題を解くことも、既存の知識を知ることも、「学び」の本質ではないのだ

そういう意味で、学校の勉強というのはすべて「学び」ではないと言える。

これは、すべてのことにいえると思う。小学校から高校、そして大学の三年生まで、とにかく、課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには、気づかなかったけれど、それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。

もちろん、学校の勉強が無駄というわけでは決してない。それは、「スタートラインに立つ」という行為なのである。「今はないものを知る」ためには、「今どこまで分かっているのか」を知らなければならない。学校の勉強では、その作業をしていると言っていい。

そうやって調べることで、何を研究すれば良いのか、ということがわかるだけだ。本や資料に書かれていることは、誰かが考えたことで、それを知ることで、人間の知恵が及んだ限界点が見える。そこが、つまり研究のスタートラインだ。文献を調べ尽くすことで、やっとスタートラインに立てる。問題は、そこから自分の力で、どこへ進むのかだ。

教師なり親なりがどこかの時点でこの事実を教えてくれたら良かったのに、と大人になった今振り返ってみて感じる。もちろん、そう言われたところで理解できたかどうかは分からないが、少なくとも、自分の内側からは出てこないだろう発想に触れることはできたはずだ。

もしそういう考えに触れて「学ぶこと」の捉え方が変わっていたら、今とは少し違う人生を歩んでいた、かもしれない

もちろん「何かを学ぶ」という意味では、今からだって全然遅くはない。自由に学びたいことを学べばいいだけだ。しかし、「学び」の本質をもし学生時代に理解できていたら、仕事や生き方にも影響があったかもしれないと思うと、やはりその点は少し悔やまれる。

最も重要なことは、「問題を見つけること」

最近、「今日は答えがほしくて」「答えを持ったらそこで終わり。問いを持ったらそこが始まり」と尾野真千子が言っているCMを見かける。そしてそのCMを見る度に、あぁそうだよなぁと思う。

本書にも、こんなセリフがある。

問題さえ見つければ、もうあとは解決するだけだ。そんなことは誰にだってできる

学生時代は問題を解くことが楽しかったのでそればかりに目がいってしまっていた。しかし学校で出される問題には必ず「答え」があるわけで、つまり「既に誰かがたどり着いている知見」でしかない、ということになる。それを理解することももちろん大事だが、しかし「問題を解く」という行為は結局、誰かが歩いた道を後追いしているだけに過ぎない。

より重要なことは、「問題を見つけること」だ

研究者が一番頭を使って考えるのは、自分に相応しい問題だ。自分にしか解けないような素敵な問題をいつも探している。不思議なことはないか、解決すべき問題はないか、という研究テーマを決めるまでが、最も大変な作業で、ここまでが山でいったら、上り坂になる。結局のところこれは、山を登りながら山を作っているようなもの。滑り台の階段を駆け上がるときのように、そのあとに待っている爽快感のために、とにかく高く登りたい、長く速く滑りたい、そんな夢を抱いて、どんどん山を高く作って、そこへ登っていくのだ。

少し「学び」そのものから外れた話をするが、私は20代の頃、パズルを作るのにハマっていたことがある。イメージとしては「ナンプレ(数独)」のようなものだ。自分でオリジナルのルールを設定し、それを元にしたパズルをいくつも作っていた。

オリジナルのルールを自分で決めているので、そもそも「そのパズルを完成させられるかどうか」から分からない。自分が設定したルールでパズルを作り出せる保証などないということだ。さらに先例がないので、「このようなルールのパズルがあったら、どんな風に解いていくだろう」と解く人の思考を想像し、それを踏まえながらヒントを配置しなければならない。

そしてこれは、パズルを解くことよりも圧倒的に面白い、と感じた。

パズルを解くのは、「誰かの思考をトレースしていく」ようなものだ。もちろんそれも面白い。とんでもない発想の展開に驚かされることもあるし、解き終わった後に「なるほど。ここでこうなるから、あそこであのヒントが必要だったのか」とカタルシスを得られたりもする。

しかしやはり、自分が作る側の方がより楽しい。まったく何もないキャンバスに自分で足跡をつけていくこと、誰の何の思考も存在しないステージに自分の発想力だけで何かの形を生み出していくことには、解くのとは全然違う快感がある

学問もそれと同じなのだろうなと思う。いかにして問題を見つけるかが「学び」の本質であり、それこそが最も難しいことなのだ。

また、「問題を解くこと」は、「別の問題を発見するためのステップ」でしかない

「この問題が解決したら、どうなるんですか?」
「もう少しむずかしい問題が把握できる」

こんなことは、研究者であれば当たり前のように理解しているのだろうが、「学び」に足を踏み入れる小中高時代に、その一端でも感じさせてほしかったとも思う。

主人公は「学びの本質」を早々と理解していた

本書の主人公である橋場は、子どもの頃からこの「学びの本質」を鋭く理解していた

小さかった僕は、それを神様のご褒美だと考えた。つまり、考えて考えて考え抜いたことに対して、神様が褒めてくれる、そのプレゼントが「閃き」というものなのだと信じた。

幼い頃から図書館で様々な本を読み、本を通じて知らなかった世界と出会い、子どもながらに思索に耽っていた橋場にとっては、「学ぶこと」はファンタスティックな経験だった。

しかし学校では、そんな感動を得られない。自分で考えて何かを見出すのではなく、既に知られていることをただ理解するだけの行為でしかないからだ。

学校で学ぶのは、本を読めば誰だって知ることができることばかり。大学に入りさえすればと期待したが、大学にしたところで専門課程に進むまでは似たようなものだ。

そんな橋場はようやく、奇跡的な出会いを果たすことになる。大学に、喜嶋先生がいたのだ。この出会いがなければ橋場は、その能力を持て余したまま絶望し、研究者としての道を進むこともなかっただろう。

喜嶋先生は、教授でも准教授でもなく助手という立場に過ぎなかったが、世界的な研究者として学内でも一目置かれる存在だった。助手であるが故に、正式な研究室は持てない身分ではあるのだが、橋場は実質的に「喜嶋研」と呼んでいい環境の中で、充実した研究生活を過ごすことになる。

本書は、そんな橋場を描く物語だ。橋場の葛藤や熱意を通じて、研究者ではない人間にも「学びの本質」を体感させてくれる作品である

そして橋場の人生を通じて読者は、「自分はどんな方程式の解なのか」という問いについても考えさせられることだろう。

例えば棋士の藤井聡太は「将棋」という方程式を見つけた。つまり、「『藤井聡太の人生』は『将棋という方程式』の解なのだ」と自ら見出したということだ。

このように、「自分の人生は、一体どんな方程式の解なのだろうか」という問いに答えを出せる人生は素敵だ。しかし、すべての人がそんな風に生きられるわけではない。

この小説には、「大学院生の自殺率が高い」という記述が出てくる。実際のところどうなのか、具体的な事実は知らないが、恐らくその通りなのだろうと思う。そしてそれは、「研究者の道こそ自分が属すべき方程式だ」と思い定めて飛び込んだものの、正しい理解ではなかったということかもしれない。

「学び」において「問題を見つけること」は大事だが、それは人生においても同じと言っていいだろう。自分がどんな方程式の解として生まれたのかを見定められれば、良い人生を歩める可能性は高い。しかしそれが分からない、あるいは見誤ってしまい、適切ではない人生を歩まざるを得ない人もいるだろう。

別に「人にはそれぞれ定められた方程式があり、そこから外れた生き方は不正解だ」などと言いたいわけではない。どんな人生を歩んだって自由だ。しかし、「この人は神から祝福されているのか」と感じるほど何かの才能に恵まれる人もいる一方で、中には何をやっても上手くいかないという実感しか残らないという人もいるだろう。そういう時にこの、「自分はどんな方程式の解なのか」という考え方は有効だと思うし、人生をまた違った形で捉えるきっかけにもなるとも思う。

つまり、学問も人生そのものも、「問題を解く」という発想から一度抜け出した方がいい、ということだろう。

ハッとさせられる思考の数々

この記事では、この小説で描かれる「学びの本質」に焦点を当てたが、本書にはそれに留まらず、多様な事柄に関する思いがけない思考が様々に繰り広げられるのでその点も興味深い。

たとえば、こんな言葉はどうだろう。

良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。

森博嗣の作品はどれもそういう傾向があるが、私たちが当たり前のように考えあまり疑問を抱かない事柄について、ハッとさせられる考えが提示される。私たちが触れている「社会」や「人間関係」が、実に曖昧模糊としたもので出来上がっているのだということを実感させてくれる思索が多い。

普通の人間は、言葉の内容なんかそっちのけで、言葉に現れる感情を読み取ろうとする。社会ではそれが常識みたいだ。そうそう、犬がそうだよ。犬は、人の言葉の意味を理解しているんじゃない。その人が好意を持っているか敵意を持っているかを読み取る。それと同じだね。特に日本の社会は、言葉よりも態度を重んじる傾向が強い。心が籠っていない、なんて言うだろう? 何だろうね、心の籠った言葉っていうのは

私もどちらかと言えば、「態度」より「言葉」の方を重視する傾向があるので、この意見には賛同できてしまう。出来れば発した「言葉」で判断してほしいのだけど、どうもそうではない要素が重視され、「言葉」の通りには主張が通らないことも多い。もちろん私は、そんな社会にもそれなりに溶け込んでいると思うし、そこまでの不都合を感じるわけではないが、本質的には喜嶋先生の感覚に近い。

そしてそのような、人間社会の不可思議さについて、総じてこんな言い方をしている

なにかの本で読んで、人間ならばそうするべきだ、というルールを学んだのかもしれないけれど、残念ながら、物理法則のように普遍的なものではない。同様のことは、宗教や哲学や、とにかく人間が作ったこの世の大多数のものにいえる。ようするに、ここから世界が築かれるという根拠に位置する基本法則がないのだ。ただなんとなく、そっちの方が良いかな、という程度の判断の積み重ねだけで、この世のすべてのルールが出来上がっているように思える

最近ではあまり無くなったが、子どもの頃や若い頃は特に、「今この場におけるルールがイマイチ理解できない」と感じることはよくあった。それでいて、その場にいる他の人には、その場を支配するルールが理解できているようなのだ。すごく不思議な感覚だった。みんなは一体いつ、この場のルールについての認識を統一したのだろうか? と思わされてしまう。

「暗黙の了解」「阿吽の呼吸」など、明文化されないルールをみんなが瞬時に読み取って自分の言動に反映させるのだろうが、そういう現実への納得のいかなさとか不合理さみたいなものを感じてしまうことは結構あるし、同感だという方もいるだろう。

読む人によって引っかかるポイントは様々に違うだろうが、そんな風に「普段あまり意識は向かないが、言われてみれば確かにそうだと感じるような思考」が詰まっている。当たり前だと感じていた前提がスルッと覆るような感覚になるという点でも楽しめる作品だ。

そういう意味で、本書で展開される「清水スピカと橋場との会話」は非常に面白い。お互いが寄って立つ前提条件が違いすぎるが故に会話がまったく噛み合わず、相手に届けようと思ってお互いに真剣に投げているボールが、まったく明後日の方向に飛んでいくのだ。この会話はまさに、私たちが「曖昧な前提」をいかに「共有した気になっている」かを自覚させてくれるものであり、面白おかしくそのことを実感させてくれる。

最後に

森博嗣の作品は、それが小説であってもエッセイであっても、「当たり前」とか「普通」みたいなものを軽々と飛び越える思索が展開されることが多く、いつも大いに刺激を受ける。様々な作品があり、好みは分かれると思うが、是非いくつか手にとってみて、「普段考えないような思考領域」へ連れ去られる感覚を楽しんでみてほしいと思う。

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