【論争】サイモン・シンが宇宙を語る。古代ギリシャからビッグバンモデルの誕生までの歴史を網羅:『宇宙創成』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:サイモン・シン, 翻訳:青木薫
¥663 (2021/09/28 06:17時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「宇宙の始まり」は科学では扱えないと考えられていた
  • アインシュタインの「相対性理論」が宇宙観を大きく変化させた
  • 「ビッグバンモデル」は批判され続けながらも生き残った”異端”の仮説だった

「宇宙」をテーマに、これほどまでに広範な知識を盛り込んだ作品は、そうそう無いでしょう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

サイモン・シン『宇宙創成』は、数十世紀に及ぶ「宇宙の捉えられ方」を描き出す一冊

これほどのスケールで「宇宙論」を描く作品は読んだことがない

本書は「宇宙」をテーマにした作品だ。そして「宇宙」というのは、あまりにも広すぎるテーマである。

例えば本書では最終的に、「ビッグバン」という現在正しいと信じられている「宇宙の始まり」の理論に行き着く。そしてこの「ビッグバン」だけを取り上げても、様々な科学者による様々な議論があり、驚くような発見があり、反対派が多かったところから少しずつ支持を集めていったというなかなかにドラマティックな話だ。

また古代から人類は、「宇宙」を様々な形で捉えてきた。古くは「亀の上に地球が載っている」と思われていたこともある。「それでも地球は回っている」というガリレオの言葉もある。「宇宙には始まりも終わりもない、永遠に変わらない存在だ」と考えられていた時代もある。

このように、どの時代を切り取るかによって「宇宙の捉えられ方」はまったく変わってくるし、人類が思い描いてきた「宇宙像」は多岐に渡る。普通は、それぞれの時代ごとの宇宙観だけを切り取って1冊にまとめるか、あるいは全体を網羅するにしても、雑学本のような個々の記述が薄い内容になってしまうだろう。

しかし本書でサイモン・シンは、古代から現代に至るまでの人類の宇宙観の変遷を可能な限り濃密に描くという、かなりチャレンジングなことを行っている。そしてその点が、本書の凄まじさだと思う。

「人類が宇宙をどんな風に捉えてきたのか」について、基本となる知識をあまり持っていないという方は、まずこの1冊を読んでみるといいだろう。本書の記述だけでも十分満足できるくらいに深く描かれているし、さらに関心を深めたい領域が見つかれば、それに特化した作品を読めばいい。

本書は、科学書でもあり歴史書でもあり、そして「宇宙」という鏡に映し出された人類の物語でもあるというわけだ。

「宇宙の始まりは科学の領域ではない」と考えられていた

現在科学者は、「宇宙がどう始まったのか」を科学の力で解き明かせると考えている。実際に、量子力学の知見を駆使して、「まったく何もないところから、こんな風に宇宙が始まったのだろう」という仮説と、その仮説に至るまでの科学者の奮闘を読んだことがあり、研究の最前線に驚かされた。

しかしかつて科学者は、「宇宙の始まりは科学の領域ではない」と考えていた。恐らく中には、キリスト教の創世記など宗教的なものと結びつけることで「科学の領域ではない」と考える科学者もいただろう(特に、時代を遡れば遡るほどそういう科学者は増えるはずだ)。しかし、そういう宗教的なものと結びつけなくとも、「科学では辿り着けない」と感じてしまう気持ちは、なんとなく理解できる気がする。

一方で科学の歴史というのは、不可能を覆してきた歴史でもある

例えば、「宇宙」について知ろうとする過程で、科学者がこんな風に考えていた時代もある

人間は、星の成分やその性質を知ることはできない

これも、普通に考えれば「そうだよな」と感じてしまう事柄だろう。星や天体について理解しようと思えば、実際にそこまで行って物質を採取し観察しなければならない、と考えるのは当たり前だと思う。しかし我々は、「ブラックホール」という、そもそも近くまでたどり着くことさえ不可能な天体についてさえ、それがどんなものであるのか理解している。人類は、「光」について研究を積み重ねることで、自分ではたどり着けない領域の事柄でも理解できるようになったのだ。

さらに、こんな風に考えられていた時代もある。地上と天上(要するに「宇宙」のこと)は、違う物理法則で成り立っているのだ、と。地上には地上の、天上には天上のルールがあり、我々は天上のルールを知ることができないのだ、と考えられている時代さえあったのだ。

しかしその考えを、ニュートンが打ち砕いた。「万有引力」という考え方を提示し、地上と天上の物理法則が同じであることを示して見せたのだ

このように、科学は常に不可能を乗り越えてきた。だから「宇宙の始まり」についても、現在の仮説が「正しい」と証明される日が来るだろうと思っている。

しかしそうだとしても、「宇宙が始まる前」を科学で扱うのはやはり困難かもしれない、とも考えられている。

たとえ特異点を物理学的に扱えたとしても、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問題は、論理的に矛盾しているがゆえに答えることは不可能だと考える宇宙論研究者は多い。なにしろビッグバン・モデルによれば、ビッグバンのときには物質と放射が生じただけでなく、空間と時間も生じたはずだからだ。もしも時間がビッグバンで創造されたのなら、ビッグバン以前には時間は存在しなかったことになり、「ビッグバン以前」という言葉は意味を失う。これを理解するために、「北」という言葉を考えてみよう。北という言葉は、「ロンドンの北はどうなっているか?」とか、「エディンバラの北はどうなっているか?」という問いには使えるが、「北極の北はどうなっているか?」という文脈では意味を失うのである。

確かに、「ビッグバン」によって時間(と空間)が生まれたのだから、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問いは論理矛盾だろう。「ビッグバン以前」には時間(も空間)も存在しないのだから。しかし、もしかしたら未来の科学は、この論理矛盾さえも乗り越えて、何か驚くべき仮説を生み出してくれるのではないか、と期待している。

古代から人々は「宇宙」をどう捉えてきたのか

本書では、人類の宇宙観の変遷が時系列で捉えられている。古代からの宇宙の捉えられ方がぎゅっとまとまっており、時代ごとの考え方に触れることができる。また、「古代の人々が地球の大きさをどう推定したか」や「ケプラーの三原則」など、科学的な側面からも宇宙に対してどのようなアプローチがなされてきたのかも描かれる。

本書を読むと、古代ギリシャの時代には既に、「地球が太陽の周りを回っている」という、現在と同様の認識をしていた哲学者がいたことが分かる。普通に宇宙を見ているだけでは、「自分(地球)は止まっていて、天体が動いている」と考えてしまうのが当たり前だと思うが、古代ギリシャ時代に「地球の方が動いているのだ」と考えていた人物が既にいたというのは凄いことだと思う。

しかしその後、キリスト教の力が大きくなり、科学も飲み込まれていく。ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったとするエピソードはあまりに有名だが、キリスト教は、「自分たちが宇宙の中心である」という信仰を貫くために、「地球が太陽の周りを回っている」という考え方を認めなかった。そして、いわゆる「天動説」と呼ばれる考え方が主流になっていく。

ただ、この天動説の広がりの背景には、当時まだ高度な観測技術が存在しなかったことも大きく影響しているだろう。そしてガリレオは、自ら望遠鏡を自作し、宇宙を観測した結果を元に、「地球が太陽の周りを回っている」という「地動説」を主張することになる。しかしその時には既に「天動説」の力が強くなりすぎていて、ガリレオは最終的に自説を曲げざるを得なかった、というわけだ。

しかし次第に、科学は宗教から距離を取るようになる。そして、観測データを元に事実が捉えられるようになり、ようやく「地動説」が認められるようになっていくというわけである。

宇宙観という意味で、この「天動説」と「地動説」の闘いは大きな事件だったといえるだろう。本書では、その変遷が丁寧に描かれていく。

宇宙論を一変させることになった、アインシュタインの「相対性理論」

次に宇宙観が揺さぶられたきっかけには、アインシュタインが大きく関係している。しかし、アインシュタインがどう関係しているのかを説明するためには、彼が生み出した「相対性理論」の説明をしなければならないので、まずその話から始めよう。

アインシュタインが「相対性理論」を発表する以前、科学界には大きな難問が横たわっていた。それは「光は何を伝わってきているのか?」だ

当時、「光」は「波」だと考えられていた(この辺りの詳細はこの記事では踏み込まないが、「光」には「波」と「粒子」の性質があるとされている。この点には科学の歴史の中でかなりの激論が交わされ、アインシュタインはそれにも絡んでいる。興味のある方は以下の記事を)。

さて、当たり前だが、「波」という物質が存在するわけではない。「波」は「現象」の名前であり、「何かが揺れ動くこと」で発生する。例えば「海の波」は「水」が動くことで、そして「音(波)」は「空気」が動くことで伝わる。このように「波」を伝える物質を「媒質」と呼ぶ

そして、「光の媒質は一体なんなのだろう?」というのが大きな問題だった。よく知られていることだろうが、仮に宇宙空間(宇宙船の中ではなく外)で音楽を流しても、聞こえない。「音」を伝える「空気」が存在しないからだ。しかしそんな宇宙空間も、「光」は通ってくることができる。「光」は「波」なのだから何か媒質が存在するはずだが、科学者はその正体を見極めることが出来ずにいたのだ。

そこで科学者は、「光」の媒質として「エーテル」という物質を想定した。宇宙空間(これは「宇宙船の外」というだけではなく、地球上も含む)には「エーテル」という物質が存在しており、「光」はそのエーテルを媒質として伝わるのだ、と。科学者は誰も「エーテル」を観測できずにいたが、「光が伝わるためには媒質は必要」というのは絶対条件と考えられていたので、「まだ見つかっていないが、いずれエーテルは観測されるだろう」と考えていた。

しかし、「マイケルソン・モーリーの実験」として知られる有名な実験によって、「エーテルなど存在しない」ことが明らかになった。この結果は科学者を驚愕させたという。そして、その実験結果を知ってか知らずか(本によって「知っていた」「知らなかった」と記述が分かれる)、アインシュタインが「特殊相対性理論」を発表し、エーテル問題に終止符を打ったのだ。

アインシュタインが主張したことは、「光が伝わるのにエーテルは不要」「光は『観測者に対して』秒速30万キロメートルで進む」というものだった。

エーテル問題と関連して、当時の科学者にはもう1つ理解できないことがあった。マクスウェル方程式と呼ばれる非常に有名な方程式があるのだが、この方程式から、「光の速度は秒速約30万キロメートル」と導かれる。しかし「何に対しての速度なのか」が分からなかったのだ。

「何に対しての速度なのか」という疑問の説明をしよう

片側2車線の真っ直ぐな道路を、2台の車がまったく同じ時速100キロで並走しているとする。この2台の車を「歩道に立っている人」が見ると、「車は時速100キロで走っている」となる。しかし、一方の車からもう一方の車を見る場合は、「車は時速0キロで走っている(つまり止まっている)」となるだろう。

このように、「速度」を考える時には、「どの立場から見ているのか(何に対してなのか)」を併せて考える必要があるのだ。

しかし、マクスウェル方程式を解いて導き出される「光速は時速約30万キロメートル」という解に関しては、「何に対してなのか」が分からなかった。そこで科学者は、「これはエーテルに対する速度だ」と考えることにしたのである。

しかしアインシュタインは、非常に有名な思考実験を元に考えを深めた結果、「エーテルに対する速度」という捉え方が誤りであることを見抜いた。その思考実験というのが、

目の前に鏡を置いたまま自分自身が光速で移動している時、鏡に自分の顔は映るだろうか?

というものである。この思考実験の説明をしていこう。

ここで、「鏡に何かが映る」という現象についてちょっとイメージをしてほしい。例えば、「顔の前に持ってきた手鏡に自分の顔が映る」という現象は、細かく考えると以下のようなステップで成り立っている。

  1. 自分の顔に光が当たる
  2. 「自分の顔に当たった光」が光速で鏡に向かってぶつかる
  3. 「鏡にぶつかった光」が光速で自分の目に戻ってくる
  4. 鏡に自分の顔が映っているのが見える

要するに、「光の反射を目が捉える」のが「見える」という現象であり、その光は光速で移動している、ということがイメージできていればよい。

さてここで、手鏡を顔の前に固定した状態で、手鏡と自分が共に光速で前進することを考えよう(このように、現実的には行えない実験を頭の中で考えてみることを「思考実験」と呼ぶ。アインシュタインはこの「思考実験」の天才だったと言われている)。

この場合、先のステップ①が終わった後、ステップ②が実行されるかどうかが問題となる。手鏡も自分も光速で動いているのだから、「自分の顔に当たった光」が光速で鏡に向かったとしても、その光は鏡まで届かないかもしれない、と理解できるだろうか?

イメージが難しければ、こう考えてみよう。2台の車が前後に1メートルの車間距離を空けて、共に時速100キロで走っているとする。この状態で、後ろの車からボールを時速100キロで投げた場合、前の車にそのボールは届くだろうか? どちらの車も時速100キロで進んでいるのだから、時速100キロで打ち出したボールは前の車まで届かないはずだ

同じように、手鏡も自分も光速で動いている時に、「自分の顔に当たった光」は鏡まで届かないかもしれない。そうなれば、鏡に自分の顔は映らない、ということになる

アインシュタインは、「それはおかしい」と感じた。仮に手鏡と自分が光速で動いていたとしても、鏡に自分の顔は映るはずだ、と考えたのである。

そしてアインシュタインは、この思考実験について考えを突き詰めた結果、「光は『観測者』に対して時速約30万キロメートルで進む」という結論に達した。しかしこれは実に奇妙な結論だ。その奇妙さを、先程の並走している2台の車で改めて説明してみよう。

時速100キロで並走している車の場合、「歩道から見れば時速100キロ」「一方の車から見れば時速0キロ」に見えた。ではこれを、2台の車が光速(秒速約30万キロメートル)で並走している、と条件を変えてみよう。この場合、「歩道から見ても秒速約30万キロ」「一方の車から見ても時速30万キロ」に見える、ということだ。

これが、「光は『観測者』に対して時速約30万キロメートルで進む」という意味なのだが、ちょっと信じがたい結論だろう。

アインシュタインは、「どんな観測者から見ても、光の速度は常に秒速約30万キロメートルだ」と主張した。そして、こんな奇妙な現象が実現するためには、エーテルなんてものが存在してはむしろ困る。もし「光が何らかの媒質を通ってくる」なら、「光は媒質に対して秒速30万キロメートル」ということになり、アインシュタインが主張する「光は『観測者』に対して時速約30万キロメートル」が実現されないからだ。

このようにしてアインシュタインは、「エーテルが存在する」という幻想をも打ち砕いたのである。

「相対性理論」の方程式が導き出した「宇宙の姿」

さて、「相対性理論」について長々と説明してしまったが、「宇宙」の話に戻そう

アインシュタインは、「光はどんな場合でも秒速約30万キロメートルで観測される」という「光速度不変の原理」をベースにして「特殊相対性理論」を導き出したが、その後、「特殊相対性理論」に「重力」を組み込んだ「一般相対性理論」を発表する。そしてこの「一般相対性理論」が、宇宙像を一変させることになるのだ。

なんと一般相対性理論は、アインシュタインが理想とする「宇宙の姿」を否定するのである。

アインシュタインが「一般相対性理論」の方程式を解いてみたところ、「宇宙は膨張している」という解が導き出された。この事実に、アインシュタインは驚愕する

アインシュタインが何故驚いたのかを理解するために、当時広く信じられていた宇宙観の説明をしよう

アインシュタインを含め、当時の科学者の多くは、「宇宙は過去から未来において変化せず、常に同じ状態で存在し続けてきた」という、「変化のない宇宙」を信じていた。これは、観測などによって裏付けられたものではなく、科学者たちの「願望」や「妄想」の類と言っていいものなのだが、当時の科学者にとってこの認識は「当然」「当たり前」のものだった。

だからこそアインシュタインは、自分が生み出した方程式から「宇宙が膨張している」という解が出てきたことに驚かされてしまったのだ。その解は「変化する宇宙」を示唆するため、アインシュタインは受け入れられなかった

そこで彼は、後に様々な意味で有名になる「宇宙項」と呼ばれる項目を方程式に付け足し、「一般相対性理論の方程式を解いたら、『宇宙は静止している』という解が導かれる」ように微調整を施したのだ。正直この微調整は、科学的な態度ではまったくなく、アインシュタインが自分の願望を実現するための小細工だと言っていい。しかしこの事実から、アインシュタインがどれだけ強く「変化のない宇宙」を望んでいたかということが理解できるだろう。

しかしアインシュタインがそんな小細工をしてからしばらくして、ハッブルという天文学者が科学者を驚愕させる観測を行うことになる。ハッブルは、「宇宙が膨張している」ことを天体望遠鏡の観測によって明らかにしたのだ。

アインシュタインはハッブルの発見を受け、その観測データを精査し、やがて「宇宙は膨張している」という事実を認めた。そして「宇宙項」という、方程式に施した小細工を撤回したのである。アインシュタインが「宇宙項」という小細工を施さず、方程式の解をそのまま受け止めていれば、「宇宙膨張を予言した人物」としても記憶されることになっただろう。

アインシュタインはこの「宇宙項」について「我が人生最大の過ち」と語った、という非常に有名なエピソードがある。しかし後の研究によって、おそらくこのエピソードはガモフという科学者の創作だろうと考えられているそうだ。

さてこの「宇宙項」、実はアインシュタインの死後復活することになる。この記事ではその詳細には触れないので、先程も紹介した以下の記事を読んでみてほしい。

「ビッグバンモデル」の誕生

アインシュタインとハッブルによって「宇宙が膨張している」という事実が明らかになったわけだが、ここからある仮説が容易に生まれる。「時間と共に宇宙が膨張している」とするならば、時間を巻き戻すと宇宙はどんどん小さくなっていくということだ。では、そのまま時間をどんどん巻き戻していけば、最終的に宇宙は「ある一点」に収束するのではないだろうか

このようにして、「宇宙に『始まり』があった」と考えられるようになっていくのだ。そして、そのアイデアには「ビッグバン」という名前がつけられることになる。

私たちは既に、「宇宙はビッグバンから始まった」ということを知っているし、そのことに違和感や拒否反応を抱くことはないだろうが、当初は違った。

「ビッグバンモデル」は、最終的にそれが正しいと証明されるまでは常に「異端」であり続け、ほとんどずっと賛同者が少数派であるような考え方だったのだ。

「ビッグバンモデル」に対抗していたのが「定常宇宙論」と呼ばれるアイデアだった。これは、アインシュタインが信じていた「始まりも終わりもない、ずっと変わらない宇宙」という考え方に理論的な肉付けを行ったものだと思えばいい。「宇宙は膨張している」という発見がなされた後も、「宇宙はずっと状態が変わらない」という考えが存在し、むしろこちらの方が長く主流派だったのである。

宇宙論は、「ビッグバンモデル」VS「定常宇宙論」という最後の大きな闘いを迎えることになったのだ。

「ビッグバンモデル」が不人気だったのには理由がある。当時の常識からはあまりにも逸脱していると思われるような主張ばかりしていたからだ。この記事ではその詳細には触れないが、科学者が「そんなことが起こったはずがない」と感じてしまうような理論だったのである。

しかしそれでも一定の支持者が存在していたのは、「ビッグバンモデルでなければ説明不可能な状況」があったからだ。つまり、「ビッグバンモデルはムチャクチャな主張をするが、それが起こったことを示唆する証拠も若干存在する理論」だったのである。

一方の「定常宇宙論」は、科学者をビックリさせるようなムチャクチャな主張はしなかったが、証拠も一切無いという理論だった

いずれにせよ、「ビッグバンモデル」と「定常宇宙論」の議論が盛んに行われていた当時の観測技術には様々な限界があったため、分からないことも多かった。そしてどちらのモデルも、その時点で判明している事実とは大きく矛盾しないという意味では五十歩百歩だったのである。

しかしようやく観測技術が追いついた。そして、「ビッグバンモデル」だけが予測した現象が捉えられ、これが決定的な証拠となって、現在では「ビッグバンモデル」が正しいと認められるようになった、という流れである。

「ビッグバンモデル」と「定常宇宙論」のバトルには、「人間の醜い争い」から「偶然の発見でノーベル賞受賞」まで刺激的なドラマが詰まっている。理論の中身があまり上手く理解できなかったとしても、その人間ドラマには興奮させられるはずだ。本書ではそれらが余すところなく描かれているので、是非読んでほしいと思う。

著:サイモン シン, 原著:Singh,Simon, 翻訳:薫, 青木
¥781 (2022/01/29 21:30時点 | Amazon調べ)

最後に

サイモン・シンの著作についてはこれまで、『フェルマーの最終定理』と『暗号解読』を紹介してきた。

どれでもいいが、読んでみたら、サイモン・シンという作家の「分かりやすく記述する能力」が実感できることだろう。いずれも、科学・数学に関心を持っているが苦手意識もあるという方にオススメできる作品だ。

本書もまた、「宇宙」という壮大なテーマに臆することなく立ち向かい、執筆時点で理解されていた事柄をこれでもかと詰め込んだ、贅沢な一冊である。

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