はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドに記事を書いていくようだよ
この記事の3つの要点
- 「ペアノの公理」や「カントールの対角線論法」など、様々な話が展開される
- ヒルベルトが目指した「形式的体系」とは何か?
- ゲーデルはどのようにしてヒルベルトの大目標を粉砕する証明を行ったのか?



「ゲーデルの不完全性定理」の証明の中身が詳細に説明されている一般向けの数学書はほとんど無いと思うので、そういう意味でも貴重です
自己紹介記事





どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください
「数学ガール」では、どのようなステップを踏んで「ゲーデルの不完全性定理」にたどり着くのか?
「数学ガール」シリーズの設定
本書は、「数学ガール」シリーズの第3弾です。どのシリーズから読んでも基本的には問題ありませんが、数学の説明が小説仕立てで展開される作品で、登場人物の関係性や成長などは順番通りに読んだ方が良いと感じる人もいると思います







数学の説明も最高だけど、登場人物もいいんだよなぁ



違うタイプの女性がそれぞれの形で数学に取り組んでる感じがいいよね
というわけで、まずは登場人物の紹介から。


主人公は「僕」。高校2年生で、数学が趣味。学校の勉強だけではなく、自分なりの興味に従って様々な数学の研究を自ら行っている。
ミルカさんは、「僕」の同級生。数学の才媛で、数学に関してずば抜けた能力を持つ。「僕」を中心に数学について語らう様々なメンバーを、予想もつかない高みへといつも連れて行ってくれる。ピアノの腕前もかなりのもの。常に冷静沈着でクールなのだが、高所恐怖症だと判明した。
一学年下のテトラちゃん。英語は大得意だが、数学は大の苦手で、それを克服するために、数学が得意だと噂されている先輩(「僕」のこと)に教わろうと決意。勇気を出して話しかけて以来、数学について語る間柄になっている。理解は決して早いとは言えないが、理解するまで決して諦めない粘り強さと、理解が追いついてからの定着度は素晴らしいものがある。そして時々「僕」をハッとさせるような質問をする。
従姉妹のユーリ。「~にゃ」と猫っぽく喋る中学生で、よく「僕」の家に入り浸っている。お兄ちゃん(「僕」のこと)から数学を教わるのが好き。中学生なので数学そのものの知識はさほどないのだが、論理的な話になると滅法強い。



この3人は、なんだかんだ「僕」のことが好きなんだよね



そういう恋愛っぽい設定も若干ありながら、数学の話が展開されていきます


小説仕立てということに加えてもう1つ、このシリーズの特徴を挙げておきましょう。
シリーズ第1作を除いてすべて、このシリーズには副題がついており、本書では「ゲーデルの不完全性定理」です。そしてこの副題が、それぞれのシリーズの「最終到達地点」ということになります。
冒頭からしばらくの間は、「これがどんな風に最終到達地点に関係するのだろうか?」と感じるような話が展開されます。しかし読んでいくと、「なるほど、最終到達地点にたどり着くためにこのような順番になっているのか」と理解できる、という流れになるわけです。


どのシリーズにおいても、「最終到達地点」が近づくにつれて説明はかなり高度で難しくなり、相当の数学力を持つ人でなければ読み解けないだろうと思います(私も、「最終到達地点」については、何が書いてあるのかほとんど理解できないことが多いです)。ただし、「最終到達地点」に近づくまでは、数学初心者でも結構ついていける内容ですし、説明の流れに乗って行けば、自力ではまず到達できない高みまでたどり着くことは間違いないと思っています。
この記事にしても、「最終到達地点」である「ゲーデルの不完全性定理」についてはほぼ説明しません。私が他人に説明できるほど理解できていないからです。なのでこの記事では、「どのようなステップを踏んでゲーデルの不完全性定理に辿り着こうとしているのか」について触れていこうと思います。



一般向けの数学書で、難易度を安易に落とさずに、それでいてこれほど面白い作品ってなかなかないよね



ホントに、革命的な数学書だって思ったわ
「ペアノの公理」とは何か?
このシリーズには、メインキャラクターではありませんが、村木先生という数学教師も登場します。主人公やテトラちゃんに、数学をより深く理解するための問題を出してくれる人物です。
本書では、細々した話が冒頭で展開された後、最初に出てくる大きな話が村木先生が出してくれた「ペアノの公理」になります。「ペアノの公理」とは一体なんでしょうか? まずはその定義を書き出してみます。
① 1は自然数である
② どんな自然数nに対しても、後続数n’は自然数である
③ どんな自然数nに対しても、n’≠1が成り立つ
④ どんな自然数m,nに対しても、m’=n’ならばm=nである
⑤ 自然数nに関する述語P(n)で、(a)と(b)が成り立つとする。
(a) P(1)である
(b) どんな自然数kに対しても、P(k)ならばP(k’)である
このとき、どんな自然数nに対しても、P(n)が成り立つ
仰々しく書かれたこの「ペアノの公理」は、「自然数を定義する」ために必要なものです。



「自然数」って、「1,2,3,4…」でしょ? 定義するも何も無くない?



いや、まあ確かにそうなんだけど
大事なことは、「自然数がどういうものなのか『知らないフリ』をする」ということです。私たちは「自然数」がどんなものなのか知っているので、それを「定義する」なんて意味があるように思えません。ただ、「知っているから定義しなくていい」というのも、数学的な態度ではないとも言えます。
だから、当たり前の存在でしかない「自然数」とは何なのかについてとりあえず一旦「知らないフリ」をして、「自然数」をどのようにきちんと定義した上で作り出すか、という話が展開されます。
しかし、「1,2,3,4…」を定義するために、これだけ複雑そうに見えるルールが必要なんだなぁ、と思うと、なんとなく不思議な感じがしてきます。


「0.999999…=1」について
それから話は「無限」に移っていきます。「無限」の話は数学の世界の中でも結構ややこしく、不思議な話がたくさんあるのです。そんな「無限」の不思議について議論が展開されることになります。


「無限」の話で興味深いと感じたのが、「0.999999…=1」です。「0.999999…」と「1」が同じ数だ、ということは昔から知っていたのですが、その解釈について面白いことが書かれていました。
まず、私が元から知っていた話を書きましょう。なぜ「0.999999…=1」になるのかについての説明です。
① x=0.999999…と置く
② 10倍する 10x=9.999999…
③ 各辺を引く (10x-x)=(9.99999…)-(0.99999…)
④ 計算をする 9x=9 ⇒ x=1
⑤ ①と④から、0.99999…=1となる



なんか騙されてる気がする



まあ、そう見えるかもしれないけど、別に騙してないし、数学的にはこれで合ってるのよ
計算的な理解は元々していましたが、「0.999999…=1」というのが一体どういう意味なのかについては、本書を読むまできちんと理解していませんでした。
その点に関しては、ユーリの発言を引用することにしましょう。
この、「0.999…」という書き方が犯人だ。これ紛らわしいっ!
…あのね、数列を書くときってさ、
0.9、0.99、0.999、…
みたいに、最後にテンテン(…)付けて書くじゃん。だから、0.9、0.99、0.999、と続けた先に、「0.999…」もいつか出てくるって、思ってたんだよ。でも、そうじゃないんだね。0.9、0.99、0.999の先に、0.999…は出てこない。0.999…なんて書くからまぎらわしいんだよ、まったく! ♡とか書いてくれればいのにさ。●0.9、0.99、0.999、…は、♡に限りなく近づく。
●そして、♡は1に等しい。こんなふうに言ってくれれば、何も混乱しないのに
ここで重要なポイントは、「0.9、0.99、0.999の先に、0.999…は出てこない」という部分です。
私もなんとなく、いつか「0.999…」が出てくるという風に思っていたんです。でもそうじゃないと。ユーリは「♡」と表記していますが、要するに数学では、
0.9、0.99、0.999と進んでいくと、その数字の列は『ある数♡』に近づく
とまず考え、その上で、
その『ある数♡』は、0.9、0.99、0.999と進んでいった先には出てこない。その出てこない『ある数♡』を、とりあえず0.999…と表記することに決めた
というわけです。さらに、
0.9、0.99、0.999と進んでいくことでこの数字の列が近づいていく『ある数♡』とは1である
というのも当然の話です、だからこそ、
0.999999…=1という結論になる
ということになります。



なんかややこしい話だなぁ



でも、さっきの計算よりは、騙されてる感はないでしょ?
0.999999…は、見た目は「1よりちょっと小さい数」っぽいですが、そうではなく「1」と同じ数だ、ということが理解できるのではないでしょうか。
カントールの対角線論法と極限
「無限」の流れからさらに、「カントールの対角線論法」の話が続きます。
私はこの「カントールの対角線論法」が、数学の証明の中で一番好きです。ちゃんと理屈を追っていけば文系の人でも全然理解できる証明なのですが、「よくこんな手法思いついたな」と感じると共に、「そもそもよくこんなことを証明しようと考えたな」という驚きがあります。
ただ、図を使わずに説明するのが困難なので、この記事では「カントールの対角線論法」そのものの説明はしません。本書を読むか、以下のリンク先に飛ぶかしてください(ネットで探して、分かりやすいと思った記事です)。


「カントールの対角線論法」そのものの説明はしませんが、「カントールの対角線論法」によってカントールが何を証明したのかについては触れておきましょう。


これは、「自然数と実数はどちらの方が多いか」という問題と関係します。「多い」という表現は正確ではなくて、「濃度が高い」と表記すべきなのですが、ここでは「多い」と書きます。
「自然数と実数」の話の前に、まず「自然数」と「正の偶数」について考えましょう。つまり、「自然数と正の偶数はどっちの方が多いか」という話です。



そもそも、何が問われているんだかよく分かんないよね



ホントそう。だから、「カントールはよくもまあこんなことを考えたもんだよなぁ」って思うんだよね
自然数というのは「1,2,3,4…」であり、正の偶数は「2,4,6,8…」となっていくのだから、なんとなくイメージとしては「自然数の方が正の偶数より多い」と考えてしまうかもしれません。確かに、「100までの自然数」と「100までの正の偶数」なら、明らかに「100までの自然数」の方が多いと言えます。
しかしこの話のポイントは、どちらも無限について考えているという点です。「無限の自然数」と「無限の正の偶数」ならどちらが多いかという話になると、何をどう説明をすればいいか分からなくなるでしょう。
そこでカントールは、「一対一の対応」という基準を考えました。そして、「一対一の対応が付くものは同じだけ存在する(濃度が同じ)」と考えたわけです。
具体的に見ていきましょう。
自然数:1 2 3 4 5 6 …
正の偶数:2 4 6 8 10 12 …
上記のように、ある自然数を1つ選べば、それに対応する正の偶数を必ず1つ対応させることができます。これは、自然数がどれほど大きくなっても変わりません。どんな自然数に対しても、それに対応する正の偶数を指定できると分かるでしょう。
このように、「一対一の対応が付くものは同じだけ存在する」と考えたわけです。
さて、その後カントールは、同じ議論を「自然数」と「実数」で行おうとします。つまり、自然数と実数に一対一の対応が付くのか? ということです。
そして、この証明に使われたものこそ「カントールの対角線論法」であり、カントールは、「自然数と実数に一対一の対応は付かない」と証明しました。


「実数」というのは、小数や無理数まで含めたありとあらゆる数のことです。もちろん、自然数も実数に含まれています。普通に考えれば当然、「自然数より実数の方が多い」となるでしょう。しかし先程「自然数と正の偶数」で考えた時も、イメージと異なる結果が出ました。数学においては、厳密な議論を行わずにイメージで捉えると間違えてしまう状況は多々あります。


そこで厳密な議論をカントールが行い、そのハイパーテクニカルな手法によって、「一対一の対応は付かない」、つまり「自然数よりも実数の方が多い」と証明できたというわけです。
そしてこれは、「無限にも大きさがある」という事実を示してもいます。自然数も無限に存在するのですが、「自然数の無限」よりも「実数の無限」の方が大きい、というわけです。同じ無限でも、「一方の無限の方がより大きい」と示したのですね。
ホント、よくもまあこんなことを考えたもんだと思います。



「無限に大きさがある」なんて、意味不明な話だもんなぁ



数学者が考えることはぶっ飛んでるよね
さらにそこから、極限の話も展開されます。理系の人間なら必ず行う「lim」の計算ですね。
私は学生時代、この極限の話をうまく理解できませんでした。計算のやり方は覚えればいいし、試験などでさほど困ることはありませんでしたが、「極限について考えることな何を意味しているのか?」という点が全然分からなかったのです。
本書ではそんな「極限」について、定義からきちんと捉えなおそう、という話が展開されます。やはり定義の話は理解にてこずるわけですが、しかし、「極限とは一体何なのか?」について、なんとなく分かったような気になれる説明でした。
「形式的体系」について
さてそれから、「最終到達地点」である「ゲーデルの不完全性定理」に直接的に関係する話が出てきます。それが「形式的体系」です。
これも非常に説明しにくいものですが、頑張ってみます。
まず大雑把に歴史の話をしていきましょう。
「形式的体系」というのは、ヒルベルトという数学者が「数学を体系的に整理しよう」と考えたプロジェクトが関係しています。ヒルベルトは、「シアン・マゼンタ・イエロー(色の3原色)の3色ですべての色を作り出せるのと同じように、「限られた公理と推論規則から数学のすべての定理を証明できるはずだ」と考え、その大目標の実現のために動き出すのです。
しかし、そのヒルベルトプログラムを粉砕し、「あなたがやろうとしていることは不可能ですよ」と突きつけた人物がいます。それがゲーデルという数学者であり、ヒルベルトの野望を砕いた理論が「ゲーデルの不完全性定理」だというわけです。
というわけでこの「形式的体系」は、「ゲーデルの不完全性定理」が生まれたきっかけとして重要だということになります。



ヒルベルトさん、可哀想に



でも、「不可能だ」って早い段階で分かったことで、それ以上無駄な時間を過ごさずに済んだ、とも言えるかもよ
それでは、「形式的体系」について、私が理解した範囲のことに触れていきましょう。
そもそも「数学」という学問は、世界各地さまざまな時代の数学者による発見を組み合わせたものです。それはつまり、「設計図が存在し、順番に組み上げている」わけではない、ということを意味します。
たとえば家を建てる時には、まず設計図を作り、必要な材料を揃え、作業員と打ち合わせをし、スケジュールを決める、というようなステップを踏むでしょう。しかし数学はそうではなく、家造りに喩えるなら、「誰かが浴室を作る」「別の人がリビングの床を敷く」「支える柱が足りないのに屋根が先に完成する」など、てんでばらばらの流れの中で作られていったというわけです。
当然、そんなやり方をしていたら、「謎の空間ができた」「何も支えていない柱がある」など、「家」を組み上げていくのに支障が出てくるでしょう。実際に数学においても、「あれ? なんかここでおかしなことが起こりそうだ」「ここになんか矛盾が発生するぞ」というような状況が出るようになってしまいました。
そこでヒルベルトが、「家を建てる時のように、正しい順番で『数学』を組み上げていこう」と考えるわけです。
このようにして、「限られた公理と推論規則から数学の定理を証明する」というヒルベルトプログラムがスタートします。


これはある意味で、「釘を使わない宮大工」のようなイメージでいいかもしれません。「木材と瓦という限られた材料」と「木を組み合わせる継手・仕口」だけで家を建てるように、「限られた公理」と「証明済みの定理を含む公理をどう組み合わせるかの推論規則」だけを使って、既に知られているすべての定理を証明しようというのがヒルベルトプログラムの根幹であり、このようにして整えられた数学の体系を「形式的体系」と呼ぶわけです。



なんか出来そうな気がするけどなぁ



壮大なプロジェクトで時間は掛かりそうだけど、確かに、やれそうな気はするよね
しかしヒルベルトの野望はゲーデルによって打ち砕かれてしまうのでした。


「ゲーデルの不完全性定理」についてざっくりと
本書では、ラストに畳み掛けるようにして「ゲーデルの不完全性定理」の話が展開されますが、やはりこれは非常に難しいと感じました。もちろん、字面を追うことで、なんとなく分かったような気分にはなれるのですが、誰かに説明できるほど理解はできていません。


というわけでこの記事では、「ゲーデルの不完全性定理」についてはざっくりと書くに留めます。
さて、「ゲーデルの不完全性定理」はヒルベルトの計画を打ち砕いたわけですが、どのように打ち砕いたのでしょうか? その説明をするために、ヒルベルトが構築しようとしていた「形式的体系」についてもう少し説明をする必要があります。
ヒルベルトは「形式的体系」において、数学の「完全性」と「無矛盾性」を示そうとしていました。これは、より具体的には以下のようになります。
完全性:真である命題は必ず証明できる
無矛盾性:公理から推論規則を用いて議論すれば、矛盾は出てこない
「完全性」については何となく「当たり前だろう」と感じないでしょうか? これは「正しい主張は正しいと証明できる」ということで、数学はそういう学問だと思っている人も多いでしょう。また、「矛盾が生じるような現状に対処したい」という動機からヒルベルトプログラムが生まれたのですから、「無矛盾性」を期待するのも当然と言えます。
しかしゲーデルは「ゲーデルの不完全性定理」によって、ヒルベルトの期待を打ち砕く以下の2点を証明してしまいました。
・形式的体系が無矛盾なら、それは完全ではない
・形式的体系が無矛盾なら、その無矛盾性をその体系内からは導けない
つまりこういうことです。ヒルベルトは、
数学は「完全」かつ「無矛盾」で、それを証明することができる
と考えていたのですが、ゲーデルは、
数学がもし「無矛盾」なら「完全ではない」し、数学がもし「無矛盾」だとしても「その無矛盾性は証明できない」
と証明したわけです。


ゲーデルは、「我々が接している数学」が完全なのか、あるいは無矛盾なのかについては語っていないことに注意しましょう。そして彼は、「数学が無矛盾なら完全ではない」と示すことで、ヒルベルトの「数学は完全かつ無矛盾だ」という考えを打ち砕くことになります。さらに、「無矛盾性」についても、「もし数学が無矛盾だとしても、そのことを証明することはできない」と証明してしまったわけです。


ヒルベルトの大目標にとっては大きな打撃だということが分かるでしょう。





しかし、「証明できないことを証明する」なんて出来るの?



うーん、私には「ゲーデルの不完全性定理」の証明は難しくて理解できなかったけれど、出来たってことなんだろうね
こんなアクロバティックな証明をゲーデルがいかに行ったのかという流れが、本書にはかなり詳細に記されています。正直、一読しただけで理解できるような簡単なものではなく、私には難しすぎました。ただ、一般的な数学書では、「ゲーデルの不完全性定理はどういうものなのか」について語られることはあっても、その証明の詳細に触れられることはほぼないので、そういう意味ではかなり貴重な作品だと言えると思います。
本書を読んでいて、ゲーデルの発想の凄さに驚かされたのが「ゲーデル数」です。


ゲーデルは、「論理式」について深く考えることで「ゲーデルの不完全性定理」を導きました。「論理式」というのは、「命題を記号で表したもの」で、例えば「1+1=2」も論理式です。論理式には、「+」「>」などのお馴染みのものから、「!%」「&&」のように見慣れない記号まで出てきますが、いずれにしても何らかの「記号」が関係しています。
そしてゲーデルは、それぞれの「記号」に特殊な方法で「固有の数字」を対応させました。それが「ゲーデル数」です。
つまりゲーデルは、「論理式」を記号まで含めてすべて「数字」に変換することで議論を進めやすくし、それによって「ゲーデルの不完全性定理」を導いたわけです。
「記号を数字に変換する」という発想がまず凄いし、その実現のためにゲーデルが考えたことも見事だと感じます。「ゲーデルの不完全性定理」に関してはところどころしか理解できませんでしたが、この「ゲーデル数」にはとにかく驚かされました。


最後に
本書の「最終到達地点」である「ゲーデルの不完全性定理」は確かに超絶難しいのですが、難しい話ばかり載っているわけではなく、「数学ってこんな見方も出来るんだ」と感じられるような作品だと思います。数学が嫌いな人には勧めませんが、数学に興味はあるけれど難しいというイメージのせいでなかなか手を出せない、と感じている人には是非読んでほしい作品です。
また、数学部分だけではなく、登場人物たちのやり取りも魅力的だと思います。中でも私はミルカさんが好きなんですが、とにかく数学が頭から離れない彼女が主人公を励ます場面も、非常に数学的で面白いです。


きみには――すべての次元が見えているのかな
きみには、円周を回る点しか見えていない
きみには、螺旋が見えていない
3次元空間で見れば「螺旋」と分かるけれど、2次元空間で見るとそれは単なる「円周を回る点」でしかない、という話をすることで、「落ち込んでいるようだが、それは、見るべきものがちゃんと見えていないだけではないか」と示唆しているというわけです。「数学」が共通言語である2人だからこそ成立する励ましの言葉で、こういうやり取りもとてもいいなと感じます。
濃密な「数学体験」を是非。
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