【情報】日本の社会問題を”祈り”で捉える。市場原理の外にあるべき”歩哨”たる裁き・教育・医療:『日本霊性論』(内田樹、釈徹宗)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:内田 樹, 著:釈 徹宗
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「祈り」とは、「外部からやってくる未知の情報への感度を高める行為」である
  • 「裁き」「教育」「医療」はもともと、変化が遅くなるように設計されている
  • 集団に先立っていち早く危機を察知する「歩哨」の役割と、「歩哨」への敬意の低下がもたらす問題

現代社会の問題は、「感知できないはずのこと」に対する我々の情報感度の低さが原因なのです

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

この記事で、内田樹の主張をメインに取り上げる理由

本書は、内田樹と釈徹宗の共著だ。しかしこの記事では基本的に、内田樹の主張をメインに取り上げる。どちらの主張も興味深いのだが、「霊性」や「祈り」というキーワードからは思いもつかないような論旨を展開する内田樹の主張の方が、私個人としてはより強く関心を抱くからだ

釈徹宗は寺の住職などをしており、基本的には宗教的なものとど真ん中で関わっている立場の人だ。「霊性」というテーマに関しても、禅を欧米に広めたことで知られている鈴木大拙の「日本的霊性」を主要テキストとして、自身の主張を展開していく。

こちらも確かに興味深いのだが、やはり読んでいて、日常感覚から遠いと感じてしまった。禅や霊性などに元々関心を持っている人であれば、釈徹宗の主張の方により興味を抱けるのだろうが、そうではないという人にはとっつきにくい話である。

しかも、そもそも「霊性」というテーマが厄介だ。

「霊性」と聞いて、どんなものを思い浮かべるだろうか? 「霊性」をグーグル翻訳で検索すると、「Spirituality」と表示される。日本語だと「スピリチュアル的なもの」というイメージだと思う。そしてこの「スピリチュアル的なもの」に対しては、私もそうなのだが、どうしても「胡散臭い」という印象を抱いてしまう人が多いだろう。

だから、「霊性」をテーマにする際、「霊性」から語り始めることは危険だ、と感じる。

一方内田樹は、「霊性」を「裁き」「教育」「医療」をスタート地点にして語る。正直、今の時点では、「霊性」と「裁き」「教育」「医療」との間にどんな関係があるのか理解できないだろう。そしてだからこそ、興味を惹かれる。

内田樹は、難しい話を、基本的な知識さえ持たない人間に対しても非常に分かりやすく説明する天才だと思う。内田樹の著作はどれを読んでも、「なるほど、そんな視点/発想はしたことがなかった」と感じさせる論旨に出会える。この記事でも、そんな感覚を抱いてもらうために、内田樹の主張に絞って内容に触れていこうと思う。

内田樹は「霊性」をどのように語るのか?

まずは胡散臭い「祈り」のお話から

内田樹は、「裁き」「教育」「医療」の話の前にまず、橋口いくよという人物の「祈り」に関するこんなエピソードから語り始める。

橋口さんは、震災後の何日目か、二日目か、三日目かに、ふと思い立って、原発の方向に向かって手を合わせて、お祈りを始めた。原発に向かって。「東京から来た橋口だよ」って。原発相手に「ため口」というのが面白いんですけど(笑)。「お願いだから、そんなに怒らないで、熱くならないで。もっとクールダウンしてね」と、そうやって毎日お祈りしている。すると、原発が怒っていると自分の身体もだんだん熱くなってくる。原発が落ち着くと体温も下がる。原発と自分の身体が同期するようになったんだそうです。

さて、この文章を読んでどう感じるだろうか? 私は当然、「胡散臭い話だな」と感じた。私は理系の人間で、基本的には科学を信じている。つまり、科学的ではないものをあまり受け入れない。現在の科学では解明できない現象も存在する、と考えているので、非科学的なものすべてを否定するつもりはないが、それにしたってこの「祈り」の話はナシだろう。

しかし、本書を読み終えた後、このエピソードに対する印象が変わる。あぁ、なるほど、内田樹はこういう主張をするためにこの話を冒頭に持ってきたのか、と。そして、初見で抱いた印象は大分薄らぎ、「なるほど、確かに橋口いくよの『祈り』にも意味はあるのだなぁ」と感じられるようになった。

そしてまた、このエピソードを冒頭に持ってきた内田樹の話の展開の上手さも見事だと感じた。恐らく多くの人が私のように、このエピソードを「胡散臭い」と感じるだろう。しかし本書を最後まで読むと、その印象は大きく変わる。冒頭で「胡散臭い」という強い反応を引き出しているからこそ、その差が意識されるのだ。

「霊性」という捉えどころのないテーマを扱う上で、このような構成が大きな意味を持つと感じさせられた。

「祈り」とはどのような行為なのかざくっと説明

橋口いくよのエピソードを語った後しばらく、内田樹は「祈り」についてざくっとした説明しかしない。しかしそれは当然で、読者の準備がまだ整っていないからだ。四則演算ができない人に微分積分を教えるのはかなり困難だろう。同じように、「霊性」や「祈り」というものに「胡散臭い」という感覚しか抱けていない人間には、詳しい説明をしても頭に入っていかない。

そこで内田樹は「祈り」について、「人知の及ばないことについて天の助けを求めたり、そういう状況を想定してみること」ぐらいの説明に留めておくのだ

ここで大事になるのは、「感知できないはずのことを感知するために、自身のセンサー感度を高めておくこと」である。「人知の及ばないことに天の助けを求める」という行為をしたところで、天からの助けを感知できなければ意味がない。つまり「祈ること」は「受信感度を高めること」とイコールだ、ということである。

そしてその上で、「感知できないはずのことを感知する力」について具体的な例を挙げる。東郷平八郎の運の良さや、「今していることの意味は分からない」というスティーブ・ジョブズの考え方、あるいは、「こんな研究成果が出ます」と申請しなければ予算が下りない科学研究のおかしな現状などについて触れていく。

そしてこれらのエピソードを踏まえた上で、こんな風に語る。

情報というのは、僕たちが情報だと思っているよりもっと多くのものを含んでいる。そして、センサーの感度のよい人は実は情報そのものではなく、「情報についての情報」を同時に入力している。それが「情報リテラシー」と呼ばれるものです

こんな風に、胡散臭いはずの「祈り」の話と、「情報についての情報」を感知する「情報リテラシー」の話が重なる。「感知できないはずのことを感知する力」というのは要するに、「情報についての情報」を捉える「情報リテラシー力」だ、ということが示唆されるのだ。

この辺りから、話はより日常感のあるものに移っていく。

「裁き」「教育」「医療」を我々はどう扱うべきか?

この辺りからようやく「裁き」「教育」「医療」の話になっていく。本書では「裁き」「教育」「医療」は近い機能・性質を持つものとして扱われるので、以下では代表して「医療」の話に絞る

内田樹の主張はシンプルだ。それは、「医療は社会的資本なのだから、市場原理にさらされるべきではない」である。

(「教育」や「医療などは」)何かを創り出すものではありません。集団を定常的に保つのがその機能です。存続させることが最優先かつ唯一の課題であって、それ以外のことはとりあえずどうでもいいんです。でも、このような「集団を定常的に保つ働き」の重要性が今の社会では忘れられているように僕には思われます

確かに「医療」は、何か新しいものを生み出すわけではない。しかし絶対的に必要だ。どのように必要なのかといえば、「集団を定常的に保つ」ことである。この辺りの主張は理解しやすいだろう。そして、そういう性質を持つ社会的資本だからこそ、市場原理からは離れていなければならない、という話も、具体的に考えてみればイメージできると思う。

例えば病院というのは本来、サービスを提供する場ではない。必要な処置を行う場だ。しかし、医療が市場原理にさらされることで、「より快適なベッドを提供する」など、医療行為ではない部分での差別化が行われるようになる

「そうしなければ患者を獲得できない」と病院が考えるということは、病院が市場原理にさらされているという何よりの証左だろう。病院にとって来院する人は、ただの「患者」ではなく「お客さん」なのである

そしてこういう状況が当たり前になった社会においては、「病院は、社会の変化に対する対応が遅い」という非難が出るようになる。医療を市場原理で捉えている人からすれば、当然の行為だろう。病院というのはサービスを提供してくれる場だ、と考えてるのであれば、「サービスの提供に不満があるからすぐに改善しろ」と要求することは自然だからだ。

司法と医療と教育に対しては政治からも市場からも激しい攻撃が仕掛けられています。告発事由はそれぞれに違いますが、言い分は一緒です。「社会の変化に即応して制度が変化していない」です。これに関してはすべての論者が一致しています。

そして内田樹は、この状況に危機感を抱く。その理由はこうだ。

人間が共同的に生きていくためには「急激には変化しない方がよいもの」がたくさんあります。(中略)そういう大切なものは、入力変化に対する感応の遅い、惰性の強いシステムに委ねなければならない

「社会的共通資本は急激な変化から社会を守るためにわざわざ惰性的に制度設計してあるのだから、それに対して『変化が遅い』という批判を加えることは筋が違う」というかたちで制度防衛の論を立てる人を僕は見たことがありません

内田樹は、医療というのはそもそも「変化が遅くなるように設計されている」のだから、「変化が遅い」という批判は的外れだ、と主張するのである。

なるほど、こんな風に考えたことはなかった、と思わされる話だった。確かに私も本書を読むまでは、「なんで社会の変化にすぐ対応できないんだ」と考えていた。

今同じように感じている人もいるかもしれない。コロナウイルスの蔓延によって医療も教育も大きな変革を迫られたが、なかなか変わらない現状に多くの人が苛立ちを感じているだろうからだ。もちろん、政治などの問題もあるのかもしれないが、「変化が遅くなるように設計されている」という発想はまったくなかったので驚かされた。

さらに内田樹は、「裁き」「教育」「医療」に関する話をある程度展開した後で、再び「祈り」について触れる。先程よりさらに深く、「感知できないはずのことを感知する」という「祈り」の側面を、具体的に説明するのだ。

耳を澄ます。外部から自分に向かって到来し、切迫してくるものに耳を澄ます。外部から到来するというのは、それが「何だかわからないもの」だということです。名前がまだない。それが何であるかを言うことはできない。わかっているのは、「何かが自分の方に向かって切迫してきている」という実感だけです。それが彗星のように、たまたま自分の近くをすり抜けて、どこかに通りすぎていくものであれば、そんなものについてセンサーが発動することはない。真っ直ぐこっちに向かってくることがわかるから反応するわけです。何かがこちらにやってくる。それに身体が反応する。「切迫してくるもの」は危険なものかもしれないし、友好的なものであるかも知れない。僕を傷つけるものであるかもしれないし、僕を強めるものであるかも知れない。それはまだわからない。プラスであれマイナスであれ、未知のものが外部から到来してくる。センサーがそれに反応して、アラームが鳴動する。心身の能力が最大化して、何が起きても対処できるように、スタンバイする。宗教というのは、この「外部から到来するもの」に応接するための最も効果的な技法なのだと僕は思います

さてこれで準備は整った。内田樹がここまでで揃えた材料は、

  • 「裁き」「教育」「医療」は変化が遅くなるように設計されている
  • 「祈り」(宗教)とは、外部からくる未知のものに適切に反応するための技法

である。

サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から「歩哨」について考える

ここで内田樹は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』の主人公・ホールデンを例にして、「歩哨」の役割について触れる。

著:J.D. サリンジャー, 原著:Salinger,J.D., 翻訳:春樹, 村上
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私は未読なので本書の紹介をなぞるが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の中でホールデンが、「こういう存在になりたい」と語る場面があるという。大人が一人もいない、だだっ広いライ麦畑での崖っぷちに立ち、そこから落ちそうになる子供を片っ端からひっ捕まえる存在でいたい、と。

ホールデンが語るこの役割を、内田樹は「歩哨」と捉える。では、「歩哨」とは何か?

私たちが生きている世界は、「人間が生きていけるエリア」と「人間が入ってはいけないエリア」とに分かれている。そして「歩哨」は、その境界線上に立つ存在だ。「人間が入ってはいけないエリア」に誰も立ち入らないように見張る、まさにホールデンがなりたいと語るような存在である。

そして内田樹は、「裁く人」「教師」「医療者」「聖職者」こそ、その境界線上に立つ「歩哨」であると指摘する。

ですから、歩哨に立つ人はセンサーの感度をどこまでも上げられる人でなければならない。歩哨として自分が守っている同胞たちの痛みや悲しみをおのれ自身の痛みや悲しみとして感知できる人でなければならない。そのことを人類の黎明期に僕たちの祖先は何度も経験したのだと思います

そして、「歩哨」としての役割を担うために、「裁き」「教育」「医療」は変化に鈍く設計されている、という風に話が展開していくのである。

内田樹による「霊性」のまとめ

さて、このようにして、内田樹の主張は収斂する。ここまでの話をざっとまとめよう

まず、「裁き」「教育」「医療」が直面している現実的な問題(「変化への対応が遅いこと」への非難)を取り上げる。そして、それらは実は、敢えて変化に鈍く設計されているのだと説き、その理由を、彼らは境界線上にいる「歩哨」だからだ、と主張する。「歩哨」である彼らは、集団全体よりも先に大きな変化に敏感に気づく。そういう役割を担う存在がいるからこそ、集団というのは定常的に維持されていく。

そして「歩哨」には、「祈り」の話に通じる「感知できないはずのことを感知する力」が必要であり、「歩哨」が有しているそのような能力を「霊性」と内田樹は捉えるのだ。さらに、現代社会の様々な問題は、「霊性」に対する我々の感度が下がっているからこそ起こっているのだ、と主張する。

確かに考えてみると、一昔前の社会であれば、「裁く人」「教師」「医療者」「聖職者」というのは、普通の人とは少し違う、何か特別な存在として扱われていたのではないかと思う。我々は「霊性」に対する感度を持たないが、そういう力を持っているはずの聖職者らに対する敬意を抱くことで、「霊性」がもたらす機能が集団に上手く作用していた

しかし私を含めた現代人は、「霊性」という非科学的なものを蔑ろにし、そのせいで社会機能の低下が引き起こされている

原発のような人間の手持ちの技術では制御できないテクノロジーを扱う技術者は本来、政治にも市場にも配慮すべきではありません。原子力技術を「核カード」として外交の切り札に使いたいという政治家や、コストの安い発電で収益を上げたいと願うビジネスマンと、原発技術者は立っている場所が違う。それは「歩哨」の仕事です。

私たちは、本来市場原理に組み込まれていなかった「歩哨」という存在を、当然のように市場原理に押し込めてしまい、それによって社会が機能不全を起こしている。このような説明がなされれば、「霊性」というものを、より現実的で日常的なものとして捉えることができると感じる

橋口いくよが原発に対して祈っていたという冒頭のエピソードも、「霊性に対する感度が下がってしまった社会において、本来的には『歩哨』の役目にはない人間が、その役割を担う必要があると感じた」のだと捉えることができるだろう。そう考えれば、当初感じた「胡散臭い」という印象もだいぶ薄らぐと思う。

宛先のないメッセージとSNS

この後内田樹は、「外部からやってくる未知の情報が『自分宛て』だと分かる理由は何か」という議論を展開する。なるほど、確かにこの指摘は重要だと感じるが、その主張は本書で確認してほしい。内田樹は、「福音的なメッセージは、内容が理解できなくても自分宛てだと気づける」と主張した後で、「非福音的なメッセージ」について触れる。

発信者を匿名にしてあきらかにせず、かつ受信者も不特定多数であるようなメッセージは本質的に非福音的です。というのは、仮にそのメッセージが「政治的に正しいふるまい」を要求するものであっても、宛て先が不特定多数であるということは、「君は別に『イヤだ』と言ってもらっても構わない。君の代わりにそれをしてくれる人が他にもいくらでもいるのだから。君は別に僕のメッセージを理解しなくてもいい。君の代わりにそれを理解してくれる人が他にいくらでもいるのだから」というメッセージを言外に発信しているということを意味します。それは「君はいてもいなくても、私にとってはどちらでもいい人間だ」ということを暗に告げています。ですから、そういうメッセージに触れると僕達は深い疲労感を覚えるのです。それはこういう言葉がすでに「呪いの言葉」としいて活発に機能していることを表しています

さてこの文章を読んでどう感じるだろうか? まさにこれは、SNSのことを示唆する文章だと私は思う。「SNS疲れ」が話題になったこともあったが、まさにそれは、「自分宛てではないメッセージに日々大量に触れている」から、ということになるのかもしれない。

このように内田樹は、哲学的・思索的な思考を、我々が直面している現実的な問題と結びつけることが非常に上手く、そういう意味でも読んでて興味が沸き立てられる。

著:内田 樹, 著:釈 徹宗
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最後に

「霊性」というテーマに馴染みがないし、胡散臭さやとっつきにくささえ感じる。しかし内田樹は、「霊性」そのものから話を始めるのではなく、現実的な問題を立脚点として論旨を展開させ、最終的に「霊性は社会に必要なものなのだ」とまとめる。だからこそ、馴染みの薄さなどを感じずに読み進めることができる。

「霊性」を「人間が頭の中で考え出した思索」としてではなく、「人間社会が集団を存続させるために生み出した機能」として語り、現代社会の問題をまた違った捉え方で分析していく、非常に知的興奮に満ちた作品だ。

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