【感想】池田晶子『14歳からの哲学』で思考・自由・孤独の大事さを知る。孤独を感じることって大事だ

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:池田 晶子
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「何かを調べて知識を得ること」も「試験問題を解くこと」も、「考えること」には当てはまらない
  • 「誰もが『当たり前』だと感じていて疑問に思わない事柄」に気づくことが大事
  • 「孤独」な時間に「考えること」を深めることによって「自由」は生まれる

これからの生き方のかの参考になるだろう、「考えること」の本質を深める1冊

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

ネットで調べれば何でも分かる時代だからこそ「考える力」が必要とされるのだと、池田晶子『14歳からの哲学』を読んで改めて感じた

「考えること」については以前別の記事でも書いた。

「考えること」について考える機会などなかなかないだろう。誰もが「頭の中は何かでグルグルしている」かもしれないが、しかしそれは「考える」とは違うかもしれない。「知識を得ること」「問題を解くこと」を「考える」と勘違いしている人も多いだろう。

本書はそんな人にもオススメの1冊だ。「考えること」の本質や、「考えること」で何が得られるのかについて、著名な哲学者が分かりやすい言葉で子どもたちに伝えてくれる

「知ること」より「考えること」の方が大事

どのように考え、どのように生きるかは、やっぱりどこまでも君の自由だ。この本に書いてあることだって、君に何を教えているわけでもないんだよ。

そんなの当たり前だと誰だって感じるかもしれない。でも、「自由に考える」と言われてもどうしたらいいか悩んでしまわないだろうか。自分では色々と考えているつもりだが、実はそれが「考えること」ではないかもしれないのだ。

本書では、「考えるきっかけ」についてこんな風に書かれている。

人は、自分がわかっていると思っていたことが、じつはまるでわかっていなかったということに気がつくからこそ、わかろうとして考え始めるのであって、それ以外に人がものを考え始める理由はない。

つまりば、「分かっていなかったと気づき、それを分かろうとする時以外は考えていない」というわけだ。

ネットで何かを調べる時は、「分かろうとしている」が「分かっていなかったという気づき」は存在しない。そもそも知らなかったことについて調べているだけであり、「考えること」とは違う。あるいは、何か試験問題を解いているような時は、「分かろうとしている」わけではないので、これもまた「考えること」とは違うだろう。

自分の日常にこのような意味で「考える」機会があるのか振り返ってみてほしい。なかなか無いという人の方が多いのではないかと思う。

私はその理由の1つを、「共感が強すぎる世の中」にあると考えている。「共感」が重視される世の中では、「分かっている」という段階で留まることになり、「じつはまるで分かっていなかった」という感覚に辿り着くことができない。さらに、共感できない意見に対して「拒絶する」という反応が当たり前になってしまい、これもまた「じつはまるで分かっていなかった」という感覚に辿り着くことを阻む要因となるだろう。

まさかこの本を暗記して覚える人はいないと思うけど、ひと通り読んで、ハイそういう考え方もあると知りましたというのでは、何を知ったことにもならない。もし君が、この本に書いてあることを自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのなら、君の生き方考え方は、必ず変わる。変わるはずなんだ。本当に知る、「わかる」とは、つまり、そういうことなんだ。

著者の言う通り、「本を読むこと」にしても同じだ。本の内容を、「そういうことが書かれていた」と受け取るだけでは何も始まらない。読みながら、「自分が理解していたこととは違う」という感覚を抱き、「なぜ自分は違う風に理解していたのか」「この著者はどうしてこんな主張をしているのか」という意識になって初めて「考えること」の土俵に立てるのだ。

もちろん、「知識を得ること」を無視していいわけではない。人類はこれまで、先人が積み上げてきた様々な知識・知見を元に新たな発見をすることで、科学や社会を進歩させてきたからだ。時には、「これはこういうものなのだ」と知識を叩き込むことが必要な場面もあるだろう。しかし、常にそうでなければならないはずがない。

この本には、いかなる答えも書いていない。答えなんかないのだから、書くことはできない。もし君が、何か答えが書いてあると期待して読んだのなら、肩すかしをくらったと思うだろう。でも、もし肩すかしをくらったと思ったのなら、それこそが始まりなんだ。君は、わからないということが、わかったのだからだ。「読む」ということは、それ自体が、「考える」ということなんだ。字を読むことなら誰だってできるさ。でも、それこそ何もわからないだろ。字を読むのではなくて「本を読む」ということは、わからないことを共に考えてゆくということなんだ。

本書ではこのように、まず「考えること」のスタートラインを確認させてくれるのである。

「誰もが当たり前だと思っている前提」に気づくことが何よりも大事

でも、考えるということは、多くの人が当たり前だと思って認めている前提についてこそ考えることなのだと、君はそろそろわかってきているね。

「共感」の世界に生きていると、この感覚を持つことがとても難しいだろうと私は思う。SNSが広まったことで、趣味・価値観が合う人と容易に関われるようになった。そしてそういうコミュニティーの中では、「そもそもの当たり前」を確認・言語化する機会はなかなかないんじゃないだろうか。

例えば、「パンが好きな人」が集まっている場合、「どういうパンが好きなのか」「どのお店が今熱いのか」などについては語られるかもしれないが、「なぜパンが好きなのか」を語る機会はなかなか無いように思う。そのような話は、「パンが好きな人」が「パンがそこまで好きなわけではない人」と接触した時に、その魅力を伝えようとする形で現れることが多いだろう。「パンが好きな人」たちだけでいる場合には、「なぜパンが好きなのか」が語られることはあまりない気がする

別にパンの話であればそれでも構わないだが、仕事・お金・結婚・人間関係など、人生に深く関わる事柄についても同じようなスタンスでいるのはマズい。自分がどんな前提を持っているのかを知らないまま問題や悩みに向き合うことになってしまうからだ

考えるためには、何よりもまず当たり前なことに気がつくことだ。あれこれの知識を覚えるのも大事だけれど、一番大事なことは当たり前なことに気がつくことなんだ。

創作だと考えられているようだが、「リンゴが落ちるのを見て万有引力の法則をひらめいた」というアイザック・ニュートンの有名な逸話が知られている。リンゴに限らないが、私たちは「何かが落ちる」ことに対して疑問を抱くことなどないそれが「当たり前」だからだ。しかしニュートンは、「なぜリンゴは落ちるのだろう」と考えた。誰もがスルーする「当たり前」に気がついたのだ。そして、「地球がリンゴを引っ張っている。そして同じように、リンゴも地球を引っ張っているのだ」と思考し、革命的な理論を打ち立てたのである。

「当たり前」に気づくことは難しい。それは、魚にとっての水のようなものだからだ。クジラやイルカのような海で生活する哺乳類は、息継ぎのために時折海面から顔を出す。その度に「空気」の存在に触れるし、だからこそ「空気とは違う水という存在」にも気づいているはずだ。しかし水中にずっといる魚類の場合、「自分の周りに『水』が存在する」という事実に気づく機会はないだろう。彼らにとってはその存在が「当たり前」だからだ。

私たちは既に、「空気」という存在を知っている。しかしもし知らずにいれば、「自分が『空気』なんてものに囲まれている」ことに気づけはしないだろう

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「当たり前」に気づくことはとても難しい。しかしそれに気づかなければ、問題を見つけることも、何かを発見することも難しくなる。まずは「『当たり前』に気づかなければならない」という意識を持つところから始めることが大事だろう

「自由」は「考えること」から生まれる

自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。

「自由がない」と口にする時、その理由を自分以外の何かに求めてしまうことも多いはずだ。「お金がないから」「親がうるさいから」「休みがないから」「彼氏が厳しいから」などの理由をつけて、「自分が悪いわけじゃない」と考えがちだと思う。

しかしそんな風に考えていると、いつまで経っても「自由」は手に入らない

もちろん、物理的に自由を制約されているようなケースもある。誰かに監禁されている、あるいは病院のベッドで寝たきりになっているなど、「自分の身体を自由に動かすことができない状況」にいる場合はまた別だ

しかしそうではない場合、「自由」を阻んでいるもののほとんどは「自分の思い込み」である。

自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には、存在しない。

「不自由」や「自由がない状況」は、自分自身で生み出してしまっているというわけだ。つまり、「考える力」次第で「自由」を手にできることになる

YouTubeやTik tokで見聞きしたこと、友達が言っていたこと、ネットで調べたこと、そういったものを何も考えずただ取り込んで、それが当然なのだと思っていたら、自分を縛る「思い込み」になってしまうだけだ。

情報は知識ではない。ただの情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならないんだ。

まさにその通りだ。情報は知識ではないし、ましてや価値観でもない。世の中には色んな情報が反乱している。バイキングで料理を選ぶみたいに、そこから好きなものだけ取って自分の価値観にしているなら「自由」を感じられなくなって当然だし、苦しさばかりが募ってしまうことになるだろう。

「情報」は、適切に変換し「価値観」として自分の内側に取り込む必要がある。そしてその「適切に変換すること」こそが「考えること」なのだ。

人が信じるのは、考えていないからだ。きちんと考えることをしていないから、無理に信じる、盲信することになるんだ。

私は、理由はどうあれ「盲信」という状態が怖い。宗教でも占いでもファンでも、「何かを信じている」という状態を否定するつもりはまったくないが、「盲信」はどうしても許容できない。「盲信」状態にいる人自身は、そこになんらかの「自由」を感じているものなのかもしれないが、客観的に見て、「盲信」は「不自由」の最たるものだと私は感じてしまうのだ。

「考えること」が当たり前になっていれば、目の前に現れた情報に一旦立ち止まり、吟味してから取り込むはずなので、「盲信」という状態には陥りにくいと思う。しかし、「考えること」をしなければ、無批判に情報を受け入れ、それを信じる以外にはない、という感覚になってしまうはずだ。

私は人生の中で、悩み相談を受ける機会が結構ある。相談の際によく感じるのは、「自分で勝手に定めた範囲から出てはいけない」「自分で勝手に定めた範囲に入っていけない」と思い込んでいるが故の悩みが多いということだった。私が相談を受けた例ではないが、分かりやすい話でいえば、「『結婚しなければ人間として失格』と思い込んでいるが故の悩み」などが挙げられる。、「結婚しなければ人間として失格」という思い込みを捨てれば悩みは消えるわけだが、なかなかそうは考えられないようだ。

私たちは案外、自分の思考に縛られて生きている。その縛りから抜け出さなければならないのかはともかくとして、「自分がどんな思考に縛られているのか」についてまずは考えてみるのもいいだろう。それによって悩みの本質がどこにあるのかを見極めやすくなり、対処が必要になった時に動きやすくなるのと思う。

「孤独」は「考えること」を促す

現代日本では、若者から高齢者まで「孤独」が社会問題になっている。確かに「孤独」は辛いことも多いし、「孤独だと思われる」のは恥ずかしいと感じてしまいがちだ。なるべく避けたいと考える気持ちも分かる。

しかし、「孤独」は決して悪いことばかりではない

孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ。

引用中の「つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い」に、私はとても共感してしまった。私ももちろん「孤独」を感じることはあるが、しかしそれは「どんな人でもいいから誰かと一緒にいること」によっては解消されないとも分かっている。面白い、興味深いと感じられる人と関わるからこそ「孤独」が解消されるのだ。残念ながら、私の好みはとても偏っているが故に、そういう人と出会える機会は非常に少ない。だから、自分の「孤独」がそう簡単に解消されないことも充分理解している。

「どんな人でもいいから誰かと一緒にいられれば孤独から解放される」のなら、とにかく人の輪の中に積極的に入り込んでいけばいい。しかし私と同じように、「誰でもいいわけじゃない」という人も多いだろう。その場合、もちろん「合う人を探す」という試みには絶えず手を伸ばしつつも、「孤独の中に楽しみを見出す」という方向に進んでみるのもいいのではないかと思う。

そして「孤独を楽しむ」ために必要なのが「考える力」というわけだ

考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気がついたなら、君は、つまらない友だちとすごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。ただ友だちがほしいって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。
そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。

「そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい」とあるように、「考えること」は友だちを作る上でも大事になると私は思う。今の時代は写真や動画の力が強く、そういう視覚的な情報から合う合わないを判断して人間関係が始まることも多いだろう。しかしやはり誰かと関わる上では、「自分は何を考えているのか、どう感じているのか」をきちんと言葉にできる方が関係性をより深められるはずだ

言葉にする力は、どれだけ考える時間を確保してきたかに左右されるし、結局は「孤独な時間」をどれほど過ごしてきたかで決まると私は考えている。

私が興味を持てるタイプの人は大体、「あまり友だちがいない」「普段家から出ない」と口にする人が多いのだが、裏を返せばそれは、「一人の時間を確保して、何かを考えている」と言っていいと思う。私はよく「言葉の解像度」という表現を使うのだが、「友だちが少ない」という人の方が「言葉の解像度」が高く、話していて面白いと感じることが多い

人間関係において何を重視するかは人それぞれだが、「他人が考えていること、感じていること」に興味があり、その興味を満たせる人と関わりたいなら、自分も考える時間を確保し、「言葉の解像度」を高めることが大事だと思う

だからこそ、著者のこんな問いかけに、改めて真剣に向き合ってみてはどうだろうか。

友だちがいないことで悩んでいる君は、なぜそれが悩みなのかを考えたことがあるかしら。休み時間や行事の時など、友だちがいないと淋しいし、つまらない。なるほど、たぶんそれはつまらないことだけれども、でも、ちょっとここで想像してごらん。それは、つまらない友だちといることよりも、つまらないことかしら。つまらない友だちといることの方が、一人でいることよりも、つまらなくないことかしら。

著:池田 晶子
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最後に

「14歳からの」と銘打たれているが、当然大人が読んでもいい。どの年代の人であれ、本書に書かれているようなことを学ぶ機会はなかったはずだからだ。

大人になればなるほど、実際的な問題に対処しなければならなくなり、「考えること」から遠ざかってしまうだろう。しかし結局は、実際的な問題を解決する場合でも、本書で語られるような「考えること」は大事になってくるはずだ。むしろ、多くの人にその観点が無いからこそ、実際的な問題の解決が遠のいているなんて現実もあるかもしれない。

「衣食住」は生活に必須とされるが、ここに「考」を足してもいいのではないかと感じるくらい、人生に必要なことが語られていると思う。引用した文章を読めば分かる通り、内容は濃密だが子どもでも読めるような”口調”で書かれている。大人も子どもも、本書を読んで「考えること」の一歩を踏み出してみてはいかがだろうか

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