【社会】学生が勉強しないのは、若者が働かないのは何故か?教育現場からの悲鳴と知見を内田樹が解説:『下流志向』(内田樹)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

講談社
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 日本の子どもは、世界的に見ても圧倒的に学ばない
  • 「学ばないために努力している」としか判断しようがない振る舞い
  • 「教育」を「等価交換」で捉えようとする子どもたちと、その不合理さを指摘する内田樹

若者の行動すべてを「等価交換」で説明するのは無理だろうが、様々な場面で応用できると感じられる考え方だと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

『下流志向』をどんな人に読んでほしいか

本書では、特に若い世代の人たちが「学びや労働を拒絶する」理由について考察していく。つまり、若い世代と関わる人たちは読んでおいた方がいいということになるだろう。

具体的に言えば、教師上司などだろうか。

「若者の◯◯離れ」や「将来への希望の持てなさ」など、若者について語る言説は様々に存在するが、本書のキーワードとなる「等価交換」という捉え方は、非常に本質をついているのではないか、と感じる。元々は、元高校教師である諏訪哲二氏の考察だったようだが、諏訪氏の考えを受けて、同じく教育者としての側面を持つ内田樹が、自分なりの考えを深堀りしていく。

もちろん、「等価交換」という捉え方が正解なのかの確証はないし、若者のすべてをこの理屈で説明できるわけでもないだろう。また、本書は親本が2005年、文庫版が2009年の発売なので、執筆時とは状況が変わっているかもしれない。

それでも、この「等価交換」という捉え方には意味があると思う。それは、問題の原因を「若者自身」だけに求めないものだからだ。

本書では、「子どもたちは『等価交換』というスタンスをどこで身につけたのか?」という問題提起もなされる。先に答えを書けば「家庭」ということになるのだが、これはつまり、家庭で親がどんな振る舞いをするかで「等価交換」という発想を食い止めることができるかもしれない、ということだ。

若者自身の性格や世代の雰囲気などを原因と捉えてしまえば、結局「解決できない」という結論になってしまう。しかし「等価交換」が原因だと考えれば、打つ手が見つかる可能性がある。

そういう観点からも、この「等価交換」という考え方に触れてみてほしい

子どもが「学ばない」「働かない」理由を「等価交換」で説明する画期的な捉え方

教育現場において、子どもたちはどんな振る舞いを見せるのか

「等価交換」の説明をする前にまず、学校で子どもたちがどんな振る舞いをしているのか、そしてそれを教師がどのように捉えているのかという現状を確認しておこう。前述の通り、本書執筆時点での状況ということになるが、大きく変わっているとは思えない。

学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています

間違いなく、今の日本の子どもたちは全世界的な水準から見て、もっとも勉強しない集団なのです。

子どもたちは、とにかく勉強をしない。そして、ただ勉強をしないだけではなく、「勉強をしないことが、自己評価の高さに結びつく」という、普通には考えがたい状況になっている、というのだ。

親や教師は納得感を抱くのではないかと思うが、子ども世代と直接関わりのない人には状況が上手く捉えきれないかもしれない。本書には様々に具体例が提示されているので是非読んでほしいが、「勉強しない」という選択が「ポジティブなもの」として捉えられている、というぐらいに受け取ってもらえればいいだろう。

つまり、「勉強は嫌いだからやりたくない」とか「勉強についていけない」というのとは根本的に異なる状況というわけだ。

また、文章の読解能力についても、こんな指摘がなされている。

自分たちのいちばん身近にある活字媒体の中の文章さえ平気でスキップしていくということは、これはもう「能力」と言ってよいと思うのです。
つまり、この方たちは意味がわからないことにストレスを感じないということです。

これは、女子学生に女性誌のあるページを渡し、「その中に意味が分からない単語があったらマーカーで塗ってくれ」と指示したところマーカーだらけになった、という著者の経験を元にした発言だ。普段読んでいる雑誌の中にさえ意味の分からない単語が山ほどあり、しかしそのことに何のストレスも感じない、というわけである。

若い人たちにとっては、世界そのものが意味の穴だらけなのです。チーズみたいに。そこらじゅうにぼこぼこ意味の空白がある。世界そのものが穴だらけだから、そこにまた一つ「意味のわからないもの」が出現しても、チーズの穴が一個増えただけのことですから、軽くスキップできる。たぶん、どこかの段階で、「意味のわからないもの」が彼らの世界で意味を失ってしまったのです

これでは、学びのための動機を獲得する機会はないと言っていいだろう。

このようにして著者は、「学生が勉強しないこと」「勉強をしていないことによる不都合を感じていないらしいこと」を確認していく。

この現状を「学力低下」と捉えるだけでいいのだろうか?

著者は、「この状況を、単なる『学力低下』と判断していていいのだろうか?」と考える。そのきっかけの1つが、著者の勤める大学の学生が、内田樹の学生時代当時と比較すると「中学2年生程度の英語力しかない」という話を耳にしたことだ。その大学は英語教育で有名だったこともあり、著者はなおのこと驚かされる。

中学高校と六年間英語をやってきて、中学二年生程度の英語力しかないというのは、怠惰とか注意力不足というのとはちょっと違うのではないかとその時に思いました。変な言い方ですけれど、かなり努力しないとそこまで学力を低く維持するのはむずかしいと思うからです。

このことをきっかけに内田樹は、「若者は『学ばない努力をしている』のではないか」と考えるようになった。ここには、「うっかり学んでしまわないように努力している」というニュアンスが込められている。「学習」という領域に思いがけず足を踏み入れてしまうなんてことがないように努力して回避している、ということだ。確かにそうとでも考えなければ、合理的な説明ができそうにない。

では、何故「学ばない努力をする」などという選択をするのか。その説明として本書の核となるのが「等価交換」だ。つまり、

子どもたちが、「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉え始めている

というわけである。しかしこの文章ではよく理解できないだろう。もう少し具体的に書かれている文章を引用しよう。

「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に支払っている。だから、それに対して、どのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているわけです。「僕らはこれだけ払うんだけど、それに対して先生は何をくれるの?」と子どもたちは訊いている。

著者の主張をまとめるとこうなる。子どもたちは、「授業というつまらない時間を耐える苦痛・忍耐」という支払いを行う。だからその支払いに対して、同じだけの価値がある「何か」がもらえる必要がある、と考えるのだ。しかし子どもたちは、教育が与えようとする「何か」を無価値と判断する。子どもたちにとっては価値のないものしか手に入らないのだから、支払いである「苦痛・忍耐」も行うべきではない。「等価交換」の原則に従えば、対価のないものに支払いをすべきではないのは当然だろう

だからこそ子どもたちは、「苦痛・忍耐」という支払いを拒絶する。つまり「授業を聞かない」「勉強をしない」という振る舞いになる、というわけだ。

そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか?それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します

この「等価交換する子どもたち」という捉え方が、本書の本質的な主張である。

「教育」を「等価交換」で判断するのは誤り

これ以降は、子どもたちが「等価交換」という原理原則で「学びを拒絶している」という前提に立って考察が進められていくことになる。

そして著者は、「教育」は「等価交換」というシステムに向かない、と指摘する。「等価交換」という形で「教育」を提供することは原理的に不可能だ、と言うのだ。

確かに本書の説明を読めば、そのことは納得できるだろう。なぜなら「教育」は、提供するその時点では価値が分からないことが大前提だからだ。というか、提供する時点では価値が分からない、という点にこそ「教育」の本質的な価値がある、と言い換えてもいい。

何かを買う場合、購入者は買おうとするモノに何らかの期待をするはずだ。美味しいだろう、楽しいだろう、将来的に価値が高まるだろう、などである。購入後に購入時とはまったく違う部分に価値を見出す、などということも起こりうるが、それでも「購入時の期待」に対して「お金を支払う」という構図は変わらない。

つまり「等価交換」が成り立つためには、「支払い時点で、手に入れようとするモノの価値が分かっている」必要があるのだ。そして「教育」は原理的に、手に入れた時点ではその価値が分かるものではない。だからこそ「等価交換」には適さないというわけである。

消費主体は、自分の前に差し出されたものを何よりもまず「商品」としてとらえる。そして、それが約束するサービスや機能が支払う代価に対して適切かどうかを判断し、取引として適切であると思えば金を出して商品を手に入れる。
消費主体にとって、「自分にその価値や有用性が理解できない商品」というのは、存在しないのです

この矛盾が教育現場で顕現しているのではないか、という考察が展開されていく。

消費主体にとって、『自分にその価値や有用性が理解できない商品』というのは、存在しない」という事実は当然、

そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品を当然「買う価値がない」と判断します

という状況を引き起こすことになる。このような理屈から、「『教育』に目に見える価値を見いだせない子どもたち」は、「『忍耐・苦痛』という支払いをしてまで学ぼうとはしない」というわけだ。これは非常に納得感のある理屈だった。

またこの「等価交換」という判断は、別の問題も引き起こす

ここまで書いてきたように、子どもたちにとっては、

彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている。
ですから、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となるわけです

という認識になる。つまり、子どもたちは「等価交換」を望んでおり、かつ、提供される「教育サービス」にまったく価値を感じられないというわけだ。

では、彼らにとって無価値でしかない「教育」に対応する適切な「等価交換的振る舞い」とは何だろうか。それは「今私は不快である」とアピールをすることだ。「不快をアピールせずに我慢すること」が「支払い」となるのだから、「支払いをしない」ためには「不快をアピールする」しかない、というわけである。

この考えを基に、著者は子どもたちの行動をこう分析する。

せっかく十円に値切って買うことにした商品に二十円を差し出すことは許されません。それは商取引のルールに悖るからです。ですから、いったん「この授業は十分程度の価値しかない」と判断したあとは、残り四十分を「授業を聞かない」ということに全力を傾注しなければならない。私語をするのは「したいからしている」というより、「しなければならないからしている」のです。

理解できるだろうか? つまり彼らは、「等価交換」という原理原則から考えれば非常に真っ当な行動を取っているというわけだ。ほとんど価値がないと判断した「教育」に対して「等価」以上の支払いをすることは、消費主体として許されない。つまり子どもたちは、「あなたの授業は聞いていません」というアピールを全力でしなければならない、ということになる。

この辺りの理屈は、天邪鬼な私にはかなり理解できてしまうのだが、皆さんはいかがだろうか? この話は決して学校の授業に限らないだろう。例えば他人の言動に対して、「その価値を少しでも認めた」と受け取られないために必要以上に悪い反応をする、という振る舞いは誰でもイメージできるはずだ。これもまた、「等価交換を適正に行う」というスタンスによるものと言える。

ここまでの話をまとめよう。子どもたちは「消費者マインド」で学校教育と向き合っている。つまり、「『教育』に対して自分が感じる価値」と「等価」な支払いしかすべきでない、と考えているというわけだ。そして、価値に見合わない過剰な支払いだと見なされないように、「不快の表明」や「授業の放棄」などの振る舞いをしているのである。

これが「学ばない努力をする」という振る舞いを説明する理屈であり、私には非常に筋が通ったものに感じられた。すべての子どもの行動原理を「等価交換」で説明するわけにはいかないだろうが、大部分はこれで納得できてしまう、というのが私の感想だ。

子どもたちはどこで「等価交換」を学んだのか?

内田樹は、

おそらく、この等価交換のやり方を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないか

と、この消費主体の振る舞いの原因を「家庭」に求めている。その理屈を追っていこう。

著者はまず、社会と触れる入り口が「労働」なのか「消費」なのかという問題を取り上げる。一昔前であれば、働かなければお小遣いがもらえなかったり、お金があっても子どもだけでは買い物が難しかったりと、比重としては明らかに「消費」よりもまず「労働」と関わることが多かったと言える。しかし現代では逆だろう。「労働」的な行為をせずとも「消費」のためのお金を手に出来る子どもが多いだろうし、チェーン店の増加やネット環境の充実により、子どもだけでも買い物できる状況が整っている。

ところが、今はそうではない。今の子どもたちは、労働主体というかたちで社会的な承認を得て、自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。

そしてそういう社会では当然、「消費者」としての立場が強く意識されてしまう

ですから、社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。このような全能感は僕たちの時代の子どもがおそらくまったく経験したことのなかった質のものだと思います

当たり前だが、「労働」より「消費」の方が楽だし、社会的立場の低い子どもでも「支払いさえできれば大人と同等に扱われる」と知ってしまえば当然、常に「消費」側に回ろうとするはずだ。

だからこそ、次のような状況に陥ることになる。

幼い子どもがこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします

「教育」に触れる以前から「消費者」としての立場を知ってしまえば、「教育」に対しても消費マインドで関わろうとするのは当然だと言える。このような理由で「等価交換する子どもたち」が生まれるのではないか、というのが本書の考察だ。

また、子どもが大人の振る舞いを真似している、という見方もできるだろう。我々の生きている世界でも、この「等価交換」の原理は強く働いており、私たちの判断に影響を与えている。

ノーベル賞の話題が取り上げられる際、「日本は基礎研究にお金を出さなくなり、『すぐに役立つ/成果が出る研究』にしか予算が下りなくなった」という話が毎年のように報じられる。日本は数多くのノーベル賞受賞者を輩出しているが、彼らは主に基礎研究をベースにしていることが多い。今の日本では応用ばかりに予算が振り分けられるが、基礎研究をないがしろにすることに対して警鐘が鳴らされている。

少し前に、スマートフォンやノートパソコンに使われる「リチウムイオン電池」の開発で旭化成の吉野彰氏がノーベル賞を受賞したが、彼はその際のインタビューで、「開発当時は何に使えるのかさっぱり分からなかった」と語っていた。このように、社会を変えるような発明でも、開発時点で有用性が認識されるとも限らないのだ。

「すぐに役立つかどうか」という観点で研究を行うことで、「いつか役立つもの」を生み出せなくなるかもしれないというわけである。

研究に限らないが、世の中では、ビジネス書にしてもダイエット法にしても「即効性のある、やってすぐ結果が出るもの」しか注目されなくなっている。InstagramやYouTubeなどの動画がどんどん短くなり、2時間の映画が敬遠されるのも同じ理由だろう。

このような振る舞いはまさに、「支払いに対してすぐに価値がほしい」という「等価交換」の発想と同じと言える。

大人がこんな風に振る舞っていれば、子どもも同じスタンスで社会に向き合おうとするだろうし、子どもが最初に社会に触れるのが学校なのだから、学校教育の場面で消費マインドが顕現されるのは当然と言えるだろう。だからこそこれは、子どもたちの問題というだけではなく、我々の問題でもあるのだ。

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最後に

この記事は、「等価交換」という本書の核となる主張に絞ったが、実際にはもっと多様な話題に分岐していく。内田樹の論旨展開にはどれも納得させられてしまうし、考えたことなどなかった思考も盛りだくさんで非常に興味深い。

「日本社会の現状」という観点から様々な主張を行っている作品なので、教育や若者のあり方などに関心がないという方にも面白く読んでもらえるのではないかと思う。

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