【見方】日本の子どもの貧困は深刻だ。努力ではどうにもならない「見えない貧困」の現実と対策:『増補版 子どもと貧困』(朝日新聞取材班)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:朝日新聞取材班
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 私たちが抱く「貧困のイメージ」が極端であるが故に苦しめられる人々
  • 「貧困」は自己肯定感を低下させる
  • 「この地域に貧困の子どもなどいない」と言って「子ども食堂」の開設を拒否する区長

「子どもの貧困問題の解決」は決して他人事ではないのだと理解してもらえるだろうと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「子どもの貧困」に対して我々は何ができるか、どうあるべきかを『増補版 子どもと貧困』から考える

「子どもの貧困」は、決して他人事ではない

本書は、朝日新聞に連載された記事を再編集してまとめたものだ。子どもたちが置かれている厳しい現実が、色んなデータや様々な立場の人の声から理解することができるだろう。

さてこの記事では、「貧困の現実はこれほど厳しいのだ」という本書の記述をあまり取り上げないことにする。もちろん、現状認識は重要だ。しかし世の中の大半の人が、「具体的に詳しいことを知っているわけではないが、たくさんの子どもが貧困状態に置かれているのだろう」という認識をしていると思う。その上で、さらに具体的な現実を理解するべきだが、それについては是非本書を読んでほしい。

この記事では、「じゃあ我々には何ができるのか?」に焦点を当てようと思う。やはり「貧困問題の改善」こそが重要なのだし、そのためには、貧困状態にはない人の行動も重要だと思うからだ。

しかし、私たちに出来ることなどあるのだろうか。それを理解する上で重要な文章を引用したいと思う。

市議会も全会一致で予算案を可決したが、5年たった今も、「なぜ若い世代だけに税金をばらまくのか」といった声が根強くあるという

これは、幼稚園から中学校までの給食無償化に踏み切った兵庫県相生市での話だ。「子どもの貧困のための対策」が「若い世代へのバラマキ」という受け取られ方になっている。こんな見方が存在していれば、「子どもの貧困」の解決など程遠い。

このような批判が生まれる背景には、「子どもは各家庭で育てる」という日本独特の考え方があるのだろう。欧米の多くは、大学まで学費無料だったりするが、それは「子どもは社会全体で育てる」という共通理解が存在するからだとも聞いたことがある。日本は珍しく「子どものことは家の問題」と捉えるが故に、貧困に対して差し伸べられる手に対しても批判が起こってしまうのだ。

あくまでこれは一例に過ぎないが、要するに、私たちは「邪魔をしない」という形で貢献することも可能ということなのである。積極的に行動を起こせなくても、「子どもの貧困」を解決しようとしている人たちの邪魔をしない振る舞いは、すべての人が意識すべきだろう。

また、本書にはこんな文章も載っている。

社会的に自立できない人が増えると、みなさんの製品やサービスの顧客になるはずの人、あるいは勤勉な日本の労働者が減るかもしれない。「かわいそうな子ども」を助ける手段ではなく、未来への投資として子どもの貧困対策が重要なのです。
日本財団子どもの貧困対策チームは、子どもの貧困を放置した場合の社会的損失について、2015年12月に推計を発表しました。貧困世帯の子ども(15歳以下)の進学率や中退率が改善された場合に比べ、現状のまま放置された場合、生涯所得は約43兆円、財政収支は約16兆円少なくなる。非正規雇用や無職者の増加、税金や社会保険料の徴収現象、生活保護費などの公的支出の増加などから算出した結果です

シンプルに要約すれば、「子どもの貧困問題を放置すれば、社会全体が16兆円の損失を被る」ということだ。こう言われれば、「子どもの貧困は他人事ではない」と思えるだろう。「子どもの貧困」を解決するためにお金を使うことは、決して「バラマキ」などではなく社会全体を豊かにすることだと理解する必要があるのだ。

このように、「問題を少し違った角度から捉えることができる」という意味でも、本書は読む価値があると言えるだろう。

「貧困問題」を正しく捉える

現実の捉え方について、もう少し書いていこうと思う。

本書で取り上げられる、公益財団法人「あすのば」の学生理事を務める女性は、こんな風に語っている。

私がメディアに取り上げられた時、ネットに「私立大に行っている。それって貧困じゃない」と書かれ、ショックでした。極端な例だけが子どもの貧困だと思わないでほしい。取材でがっかりしたような顔をされたこともあります。かわいそうと思うかどうかで線引される。
生活保護は受けてないし、特別なドラマもない。苦しいけれど、声を出せない人の方が多いと思います。

これは、「貧困状態にない者が、貧困の現実をどう捉えるか」という、まさに私たちに関係する問題だと言える。

「貧困」に対しては、人それぞれ様々なイメージを持っているだろうが、一方で、自分が抱くそのイメージにハマらない状況は「貧困」だと思えないだろう。私たちの「貧困」のイメージは、ドラマや映画、あるいはニュース映像などによって形作られることが多いと思うが、どうしてもメディアで取り上げられる人は「特殊な事例」であることが多い

またメディアも、私たちが持っているイメージに合わせて「貧困」を伝えるはずだ。つまり、どうしても「分かりやすい貧困」ばかりが注目されることになる

私たちは、「かなり厳しい貧困状態」を「貧困の平均」だと勘違いして受け取ってしまっている可能性があるのだ。

このような捉え方のせいで、「平均的な貧困状態」にいる人が自分の窮状を訴えられなくなるのも当然と言えるだろう。つまり、辛くても苦しくても、世間の「貧困」のイメージに合致しないという理由で手を差し伸べてもらえない人が出てきてしまうというわけだ。

本書に書かれていたことではないが、最近はファストフードやファストファッション、ネットカフェ、コインランドリーなどが充実しているため、実質的にホームレス状態の人でも、見た目ではそうと分からない人も結構いるのだという。確かにそれはイメージできる話だ。

「私たちが『貧困』に対して過度なイメージを持つこと」は、結果として貧困状態にいる人を苦しめることになってしまうのだ

ただ、これはまだイメージしやすい話だろうと思う。もう少し気づきにくい、「善意」がベースになっているこんな「問題」も紹介しよう。

親の虐待から逃れるために中卒で家を出て派遣の仕事で生きてきた女性を番組で取り上げた時、「彼女を助けたい。寄付したい」という電話が相当数ありました。非正規雇用が拡大する社会のひずみを提起したつもりでしたが、目前の困り事だけ切り取られる。

これは、かつて民放のディレクターだった人物が話していたものだ。このような状態はイメージできるだろう。「社会全体の問題の一例」として提示したにも関わらず、「その一例に過剰に反応されてしまう」という状況は、根本に「善意」があるからこそ余計に難しい。

これも、私たちの受け取り方の問題だ。分かりやすいもの、目に見えるものばかりに反応していては、極小の問題は解決できても、大きな問題にはたどり着けない。もちろん、手を付けやすい小さなところから始めることは大事だが、それは実際に課題解決のために動いている人に対しての話だろう。私を含め、積極的に課題解決に動けない人間は、より視野を広く持って、問題を大きく捉えておくべきだと思う。

「貧困状態にある人」の「自己肯定感の低さ」を理解するべき

さて、問題の捉え方という意味でもう1点重要だと感じたのは、「貧困は自己肯定感を低下させる」ということだ。そしてこれは、「◯◯すれば状況は改善するのに、どうして◯◯しないんだ」という、部外者が抱く疑問を解消するポイントでもある。

「困ったらいつでも相談してほしい」と、私達はときどき言うかもしれない。しかし、特に虐待や貧困など長期にわたり困難にさらされると、自己肯定感が低くなる。「困っている」と告白することは「ダメな私」を披露することになり、「バカにされるのではないか」と恐れる。相談自体、ハードルが高い人がいる

これは、本書を執筆している何人かの記者の1人が書いた文章だ。この事実は、多くの人が理解しておくべきことではないかと思う。

私は、「貧困が自己肯定感を低下させる」ことを実感したことはないが、自己肯定感の低い人と多く関わってきたことがあるので、そういう人たちがどういう振る舞いをしてしまうかはそれなりに理解しているつもりだ。私自身も、そこまで自己肯定感が高い方ではないので、そういう意味でも実感しやすい話である。

私は自己肯定感の低い人から色んな相談を受けてきたが、多くの人が「他の人にこういうことは話せない」というようなことを言っていた。私は意識的に、「どんな話をしてもらっても大丈夫」という雰囲気を出しているつもりなのでたぶん話しやすいのだろうと思う。しかし他の人には、「自分の悩みを話したら、相手を困らせるかもしれない」「『なんでそんなことで悩んでるの?』みたいな反応をされるかもしれない」みたいな怖さを拭えず話せないという人が多かった。

強く生きられるタイプの人は、あまりこういう感覚を理解できないだろう。だからこそ、コミュニケーションに食い違いが生じてしまうことになる。

そしてこれは、「自己肯定感」だけの問題ではない

「支援策や機会もあるんだから、あとは本人次第じゃないの」という声もあるでしょう。でも、彼らは差し伸べられた手の握り返し方も分からないんです。できないんじゃなくて知らない。僕も給付型の奨学金を知っていれば、違う人生だったかもしれません。
自己責任を言う前に、援助や選択肢、生き方を十分伝えられているかを問うべきではないでしょうか。

貧困家庭であろうと、人の何倍も努力してチャンスをつかむべきだという意見があるかもしれない。ただ、生徒たちと日々向き合う高校教員らは「貧困状態の子どもは、他の人が当たり前と思うようなこともあきらめてきた結果、意欲や自尊心が低い場合が多い」と口にする。挑戦を促しても、「面倒くさそう」「どうせ自分なんて」という思いが強いのだという

貧困状態にあるすべての人がこういう性格というわけではないだろう。しかし、「貧しさを振り払ってのし上がった」みたいなエピソードの方がどうしても目立つから、そうではない人もいるという事実には目が向けられにくくなる。実際には、「貧困状態にある」という事実が努力や気力を奪い、「援助やサポートがあるという情報」を遠ざけてしまうのだろう。

「頼れない親」は確かにいます。その多くが、貧困の中で大人になり、虐待やDVを受けたり、障害などを抱えたりしています。子育て、家事、金銭管理、人付き合い……。苦手なことが多くあります。「常識」で判断すると「ダメ親」と思われてしまう人もいます。
ですが、よくよく関わっていくと、私たちと大きくは変わらない。ただ、大切にされた経験がなく、人間不信でSOSの出し方を知らないのです。家庭でも学校でも「問題児」という扱いを受け、社会的なチャンスを奪われ、ひどい場合は身体的、金銭的な搾取の中で育っています。善悪の区別を教えてもらった経験もない。自尊心が低く、極端に心を閉じるか、攻撃的になるか。振り幅が大きく、孤立しがちです

以前私は自分より年上の人から、「主張しない人間に権利はない」という意見を聞く機会があり、驚かされたことがある。私はその人に反論したが、相手の意見は変わらないままだった。このような「『主張できないという状況』を想像できない人」はやはり一定数いると思うし、「貧困」に限らず、セクハラ・パワハラなど様々な問題に共通するポイントだと思う。

「この人になら話しても大丈夫そうだ」という心理的安全性が確保されている場が増えることはとても大事だ。何故なら、特に女性の貧困の場合、「風俗店」がセーフティネットになってしまっているからである。

少女を食いものにする大人たちはSNSを駆使して悩みの相談に乗り、街でうざがられても声をかけ続け、とにかく接触を図っている

現実に、優しく相談に乗るフリをして夜の世界に足を引っ張ろうとする輩が多くいるというわけだ。彼女たちがそういう人間に捕まらずに済むためにも、私たちが「何を話してくれても大丈夫」という雰囲気をもっと示すことが大事なのだと思う。

「子ども食堂」という活動に立ちはだかる障害

本書では、個人レベルでも取り組める対策として「子ども食堂」が取り上げられている。多くの人が名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。基本的には「子どもたちが無料でご飯を食べられる場所」のことを指す。月1回だったり週1回だったり、完全無料だったり一部有料だったりと様々な形態があるが、地域の民生委員から地元の学生まで、様々な人が発起人となって「子ども食堂」を立ち上げ運営をしている現状が描かれる。

2016年5月では朝日新聞の独自の調査で全国に319ヶ所に過ぎなかった「子ども食堂」は、ある団体による2018年4月時点で調査では2286ヶ所となっている。急拡大していると言っていいだろう。

しかし、「子ども食堂」をただ立ち上げるだけでは状況の改善は難しい。そこにはこんな理由がある。

実は、「誰でも好きな時に来てよい」という子ども食堂に通えるのは、人と食事を楽しむ力が身についている子ども。困難を抱えた子はそうした機会に恵まれず、そこに行くことに不安を持ち、ハードルが高い。信頼できる人が一緒に参加して、楽しければまた行こうかなと思えます。その経験を重ね、新たなつながりができてきて初めて、ひとりでも行こうと思うようになります。段階を経る支援がないと「いつか来てくれたら」のいつかは遠い

先ほどの自己肯定感の低さの話とも関係する話だろうが、確かに「子ども食堂に行く」のがハードルに感じられる子もいるだろうと思う。昔は「地域の力」がまだ強く、共同体全体で子どもを育てるという雰囲気もあっただろうが、都市部であればあるほどそういう雰囲気は無くなってしまっている。そういう中で、「子ども食堂」という接点にさえたどり着けない子がいるという現状は正しく認識されるべきだ。

また、「子ども食堂」を開く段階でもこのような障害が存在するという。

一方、「貧困の子が行く場所」という認識が、ハードルになるケースもある。
東日本の山間部で2016年春、公民館で子ども食堂を開きたいと地区の区長に依頼に行った民間団体のメンバーは、問い詰められた。「なぜ、うちでやるのか。困窮者が集まる地域と思われる。どんな趣旨で開くのか」

九州でも2015年、公民館で開こうとして「貧困の子どもはいない」と区長に拒まれたケースがあった

私は本当に、こういう個人や地域の「メンツ」のために問題解決が遠のく現実に苛立ちを覚える。「特定の個人が気持ちよさを感じ続けるため」という碌でもない理由のために、多くの子どもたちの苦しみが放置されていると考えると、怒りしか感じない。

このような事例を知る度に、「正しい現実認識と、問題の共有こそが何よりも大事」だと実感させられる。結局のところ、問題の解決を阻んでいるのは、こういう「クソみたいにどうでもいいこと」だったりするのだ。

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最後に

本書は新聞連載を元にしているだけあって、日本や世界の様々なデータを取り上げながら、問題の根深さや諸外国の解決策など多様な視点で「貧困」という現実を描像する。出版から多少時間が経っているので、本書の記述から状況は変わっているだろうが、好転しているとは思えないので、より酷くなっているはずだと考えて読めばいいだろう

この記事では、具体的な行動を取れないとしても、「貧困問題」の捉え方や向き合うスタンスなどを考えることで間接的にプラスに働くだろう事柄を紹介したつもりだ。そもそも問題の解決は遠いだろうが、多くの人が「自分事」だと感じない限り、解決は程遠いだろうと思う。

「子どもの貧困」は、私たちの問題なのだ

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