【危機】教員のセクハラは何故無くならない?資質だけではない、学校の構造的な問題も指摘する:『スクールセクハラ』(池谷孝司)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「自分に権力があるなんてまったく想像もしなかった」と語る教師の無自覚さを、あなたも有しているかもしれない
  • 「スクールセクハラ」という問題の大きさと、取材の困難さ
  • 個人の資質だけではなく、学校という組織を含めた問題を指摘する

誰もが陥り得る「権力への無自覚」と、社会全体で解決すべき「スクールセクハラ」の実態を理解する

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「スクールセクハラ」は何故絶えないのか?個人と組織の問題に斬り込むノンフィクション

「自分に権力がある」と気づけない教師たち

本書は、教育現場での教師による性暴力・性犯罪などを扱った作品だ。共同通信の記者である著者が、被害者にも加害者にもアプローチし、その本質を抉り出している。

本書の記述で最も驚かされたのは、「自分は生徒に対して『権力』を持つ存在だ」という認識ができていない教師が多い、ということだ。

教師の仕事は好きでした。でも、根本的なところで間違っていました。自分が権力を持っているなんて考えもしませんでした

こう述懐するのは、小学4年生の生徒へのセクハラで執行猶予付きの判決を下された元教師だ。この教師は、自分に「権力」があるとは思っていなかったため、生徒の返答をすべて言葉通りに受け取り、「相手は自分のことが好きなのだ」と勘違いした。この教師は、純粋に「恋愛」のつもりだったと語っている。

そもそも小学生と「恋愛」が成立するという発想そのものが危険なのだが、一旦それは置いておこう。何故なら、そこに焦点を当ててしまうと、「教師の頭がおかしいだけ」と思考がストップしてしまうからだ。

本書はそうではなく、「自分も他人に対して意識せず『権力』を行使してしまっているのかもしれない」と自身を見つめ直す気持ちで読む方がいいと思う。

「私は生徒の目線に立って指導しています」と言う先生は多い。「でも、あなたに権力があるのは歴然としている」と私は指摘します。進学のための内申書を付け、部活動の選手を選ぶのだから、と。そう言われて初めて自分の権力に気付く人が多いんです

これは、本書に登場する、スクールセクハラの解決に専門的に取り組んでいるNPO代表の亀井さんの言葉だ。この指摘は当たり前のことだと感じるが、言われなければ気づかない教師が多いというのは驚きだ。

上述の小学4年生は恐らく、先生に対して「怖い」「逆らえない」と感じていて、当然のことながら「嫌だけど仕方ない」という気持ちで教師と対峙していたはずだ。しかし教師はそのことに気づかず、生徒が自分に好意を抱いていると錯覚していた

相手が小学生だから相当異様な話に聞こえるが、これに類する話は、日常の様々な場面で起こっているだろう

というか私は、女性からそういう話を多数聞く機会があった

私がよく目にしていたのはこんな場面。職場の上司的な立場の異性に対して女性スタッフが、裏ではボロクソにけなしながら、本人のいるところではそんな素振りをまったく見せず、むしろポジティブな感情を持っていると受け取られるような振る舞いをするというもの。女性には女性なりの処世術がある。やはりまだまだ男性優位になってしまっている社会の中で、ある程度穏やかな立ち位置を得るために、自分の気持ちをグッと押し殺し、嫌いな素振りを一切見せずに振る舞っているのだ。そしてその鬱憤を、本人のいないところで悪口を言って晴らすというわけである。

私はありがたくも、私以外のメンバーは全員女性というような飲み会に呼んでもらえることが多い。そういう場で「女性が職場の上司をボロクソに言う振る舞い」を目にしてきたので、女性がどういう場面でどんな感覚を抱くのかについて、一般的な男よりは知識があると思う。

そして、女性から様々な話を聞いて感じることは、「男は自分に『権力』があるなどと思っていない」ということだ。女性は「NO」と言えないから仕方なく「YES」と言っているだけなのに、男はそのことをまったく理解しない。その感覚の食い違いを何度も実感させられた。

裁判で鈴木が一番ショックだったのは「教師の権力を使って教え子を思い通りにした」と言われたことだという。学校で教師が権力を持つ存在だという意識はまるでなかった

※人物名は仮名

女性からは信じがたい話だろうし、私としても理解し難いのだが、「教師」という職に就いていながら、生徒に対して「権力」を有していない、と男は当たり前に思い込めるだ。

二十五年の教師生活で誰も教えてくれませんでした。他の教師はみんな分かっているのかというと、そんなことはないと思います

この点に関しては、男は自覚してもし過ぎることはないというぐらい注意した方がいいと思う。

セクハラ・パワハラなども基本的に、この認識の食い違いから起こると考えていいだろう。セクハラについては、特に中年男性が「女性が嫌だと感じたらセクハラになるんだから、どうしたらいいか分かんないよ」みたいな発言をするが、その理解は正しくない。「男である」というだけで「女性に対して『権力』を有する存在なのだ」ということをまずは理解しなければならないのである。そして、その理解を微塵も感じさせない人は、何をやってもセクハラ・パワハラだと受け取られてしまう、ということなのだ。

私が何を言っているのか分からないという方は、是非本書を読もう。本書に登場するセクハラ教師たちの言い分に違和感を覚えなければあなたは相当ヤバいし、違和感を覚えるのであればそこから改善していけばいい。そういう試金石として手にとってみるのもいいだろう。

スクールセクハラを取り上げることの難しさ

先述した通り、本書の著者は共同通信の記者である。彼は「スクールセクハラ」について取材を行い、「届かない悲鳴――学校だから起きたこと」というタイトルで全国の新聞社に連載企画を配信した。その連載に大幅に加筆修正し書籍化したのが本書だ。

こんなデータが載っている。

文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中学校の教師はわずか3人だった。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の119人に達している。(中略)急に教師の質が落ちるはずはなく、見過ごされてきたのが厳しく処分されるようになっただけだ

もちろん、懲戒免職となった119人にしたって氷山の一角だろう。実際には加害教師はもっとたくさんいるはずだ。著者は、「魂の殺人」とも呼ばれる性暴力を絶対に許さないという強い使命感を持って取材に当たっている

しかし、スクールセクハラの取材は容易ではない

学生に限る話ではないが、そもそも性犯罪の被害者は表に出たがらない。当然だろう。被害者は親にもその事実を話せていない者が多い。また、スクールセクハラを訴えても学校側が隠蔽することも多く、そこでもまた深く傷つくことになる。

そういう様々な傷を抱えた未成年の被害女性に、男性の著者がアプローチするのだ。相当な困難だと想像できるだろう。それでも本書には、勇気を持って自らの体験を打ち明けてくれる被害者の声が詰まっている。本当に、悲痛の叫びと言っていいだろう。

そしてさらに困難なのが加害者の取材だ。著者はその重要性をこう書いている。

高校時代の教師の性被害に遭った横山智子さんの取材を進めながら、教師から教え子へのわいせつ問題を考える時、どうしても加害者への深い取材が必要だと私は考えるようになっていった。被害者の声を聞くことはなにより大切だ。耳を傾けることで被害者の心が癒される場合もある。ただ、最終的に問題解決や再発防止を考えるには、加害者側の状況を知る必要があった

※人物名は仮名

被害の実態を理解することはもちろん大事なことで、被害者の声を丁寧に聞くことは様々な事件取材の基本だろう。話を聞くことで被害者の心が和らぐこともあるのだと著者は言う。そしてその上で、被害者の声を世間に届ける最大の動機は、再発防止だろう

再発防止を本気で目指すのであれば、加害者の理屈も知らなければならない。「性犯罪である」ということ自体が非常に重いのだが、さらにそれが教育現場で行われているということも非常に重い事実だ。そんな卑劣な行為を行えてしまう人間の声も、やはり知らなければならない。

そして著者がその非常に難しい取材に取り組んだからこそ、「自分に『権力』があると自覚できていない」という問題が浮き彫りにされたのだ。この点はスクールセクハラに限らず、特に男が意識して気をつけなければならないことである。

スクールセクハラは組織の問題でもある

冒頭で触れた通り、スクールセクハラは教師個人の資質の問題だ

しかし、スクールセクハラが表沙汰にならないのは、学校という組織の体質に問題がある

教師から教え子へのわいせつ行為に、教育関係者はよく「一部の不心得者が」と口にする。「大半の先生は真面目なのに」というわけだ。だが、亀井さんは「学校の構造的な問題」だと考えている

スクールセクハラでは性被害だけでなく、学校側の対応による「二次被害」を受けることも多い。本書を読むと、その信じがたい現実が浮き彫りになる。

例えば、セクハラをした教師は自分たちの前から消えてほしいと切実に訴える女子生徒たちに、校長がこんな言葉を掛けたという事例がある。

先生にも奥さんや子どもがいる。辞めさせられたら、家族はどうする

何を言っているんだ、という感じだろう。女子生徒たちはこの校長の言葉に、「それは私たちには関係ないことです」と叫んだというが、まさにその通りだろう。それは被害者にはまったく関係のないことだ

またこんな例もあるそうだ。

全国大会に出たような学校の指導者が問題を起こすと、保護者が応援団になってかばうケースは多い。「恩をあだで返すのか」「輝かしい実績に泥を塗るのか」。親たちは繰り返した。

セクハラの被害に遭ってない生徒の親が教師をかばう、という構図だ。これもまた歪んだ現実だと感じるし、学校という組織を超える問題だからこそ余計に始末が悪い。

何度か名前を出している亀井さんは、

「あってはならないこと」だから「ない方がいい」。それが「なかったことにしよう」になってしまう。

と解説している。証拠が存在せず、加害教師が「やってない」と否定した場合、「なかったことにしよう」という心理から生徒が嘘をついたことにされてしまう。そしてスクールセクハラは表沙汰にならずに闇に葬られてしまう。

コロナ禍ではオンライン授業に切り替わるなどして、直接関わる形の「スクールセクハラ」はさすがに減っていることだろう。しかし、例えばLINE等のやりとりを通した被害が出ているかもしれない。あるいは、コロナ禍で他人との関わりが薄れているが故に、距離感が上手く掴めず被害に遭ってしまうケースも考えられるだろう。

性被害に苦しむのは決して子供たちだけではないが、やはり、教育現場での性被害は根絶されなければならない。そしてそれは、私たち大人の責任である。

最後に

本書には、こんな文章がある。

国連で1989年に採択された「子どもの権利条約」が、日本ではなかなか批准されなかった歴史がある。94年までずれ込み、日本は158番目の批准国になった。その背景を亀井さんが説明する。
「学校や大人に『子どもの権利』を守る意識が乏しいんです。権利ばかり主張して義務を果たさない人間になると困る、という本音が背景にあります」

女性の権利や報道の自由など様々な領域で、日本は世界と比べて遅れているはずだ。そういう事実を知る度に、正直、日本人であることが恥ずかしく感じられる

いずれにせよ、セクハラをする側が常に悪い。しかし、セクハラをする側は変わりはしないし、そもそも自分の行為を自覚すら出来ていない場合さえある。

だからこそ、それを前提に、子供たちをどう守るかを考えなければならないのだ。

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